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だい さんじゅうきゅう わ ~半妖~




「いいか? 遅出しはなしだぞ」

「分かってるわよ、しつこい」

「必死だなあ」

「……ふん」

「遅くだそうが早く出そうが、結果は変わらないと思うのだが……?」

「行くぞ? せーの!」


 バッ!


 H2S11 香川かがわ相良あらい

 総合621点 学年408位


 H2D08 隈武くまべ宇井うい

 総合756点 学年218位


 H2D13 駒野こまの明良あきら

 総合598点 学年 517位


 H2S21 藤原ふじわらきょう

 総合540点 学年678位


 H2S40 Hull(ハル)Seiren(セイレン)Rhein(ライン)

 総合984点 学年76位


「あ、私が一番か」

「うーん、やっぱハルが相手じゃ無理だったか……二ばーん」

「ふう、何とか三番」

「……四」

「安定のビリッケツだコンチクショウ!!」



       *  *  *



 話に脈絡がなくて申し訳ない限りではあるが、オレの家族を紹介しておこうと思う。

 父・駒野明彦(あきひこ)。ごくごく普通のサラリーマンで、体格は良いが()()()だけの真人間。オレ以上に寡黙で無表情だが、五十前のオッサンにしては愛嬌のある顔立ちで、会社ではそこそこ人気も人望もあるらしい。

 続いて、母・一恵かずえ。体格や性格を父親から受け継いだとすれば、オレの妖怪としての本質は、間違いなく母から来ている。ついでに目付きの悪さも遺伝してしまったようだが、それらと一緒に姦しさまでうつらなくて良かった、と今のオレは心の底からそう思う。

 さて。

 狭いながらも居心地のいい一軒家で安定した生活を送っているのは、オレを含めたこの三人である。

 しかしながらオレの家族は、血を分けた家族は、もう一人いる。

 それも、色々と質の悪い、兄が一人。

 テストのたびに順位結果で勝負を挑んでくる藤原をいつものように三人……いや、今回はこの春編入してきたハルを含めた四人で圧倒してやり、ビリのおごりのジュースを味わいながら帰宅。

「……ん?」

 と、玄関先で何かの違和感を覚えた。

 何だと思い、今朝家を出る直前を思い出して……ああ、と気付く。

 靴が一足多い。

 三十センチ以上はあろうかという巨大で真っ赤な悪趣味なローファー(ちなみにオレの靴のサイズは二十九だ)。

 アレが帰ってきているのか、と、オレは内心げんなりと溜息を吐いた。いっそのこと今すぐにでも回れ右をして玄関を飛び出し、今夜は藤原の家にでも避難させてもらおうかと本気で考えた矢先。

「お、あっくん帰ってきた」

 廊下の向こうの居間へと通じる引き戸がスライドし、大柄なオレから見ても明らかに小柄な体躯に妙に若い顔立ちの中年女性が顔を出した。

 この街の特性上、異種族間の混血化はごくごく一般的だ。それが原因かどうかはよく知らんが、実年齢に対して外見が若い、もしくは幼い者が人妖問わず多い。母が妖怪であることを差し引いても、今年で五十二になろうという立派な中年にしては、その外見は十分に若いと言ってもいいだろう。

 ともかく。

 今この瞬間は、母が耳も鼻も利く妖怪であることを恨んだ。

 気付かれてしまった今、藤原家に退散することはできなくなってしまったではないか。

「……ただいま」

「うん、おかえり」

「……帰ってきているのか」

「そそ。今一緒にお土産のお菓子食べてたところ。あっくんも食べる?」

「……………………」

 オレは返事もせずに母の横を通り過ぎ、自室の扉を開けて中に入った。わざわざ苦手な兄と一緒に甘味を味わう義理はない。藤原の家に避難できないのなら、引き篭ってやろう。

 ……と、思った矢先。


「ちょっとあっくん!? ママがせっかく一緒にお菓子食べようって誘ってるのに無視は酷いんじゃないの!?」


 バタンと近所迷惑レベルの音を立ててこじ開けられた自室の扉。そこに立っていたのは小柄な中年女性()()()()、友人の香川にも負けず劣らぬ巨体を誇る、()()()()

 ぴっちりとした豹柄のパンツに胸元を開けたサイケデリックなアロハシャツ。首からは金色に輝くネックレス、そして左手首にはこれまたクソ高級そうな金色の腕時計。まさに歩くド派手と言った風体の筋骨隆々な大男が、オレの部屋の入り口で腕組みをして仁王立ちしている。

「……よう。帰ってきたたのか」

「あら、鼻が効くアンタがアタシが帰ってきてるのに気づいてなかった風に言うのね」

 野太い声音に妙な色っぽさを意識している口調。

「……………………」

 ……これだ。

 これが、オレが兄を苦手とする最大の要因。

 駒野明志(あかし)

 二十五歳。

 血液型・AB型。

 職業・ファッションデザイナー。

 ハワイ在住。

 特徴。

 ド派手な服装にオネエ言葉。

「別に派手な服装はアタシの趣味じゃなくって、事務所の指示なのよー? 『ウチの事務所に所属しているのならば、地味な服装は見栄えがしないから控えるように!』ってね」

 その日の夕食の席にて、兄が放った言葉である。

「……………………」

 嘘吐け、とオレは心の底で毒づいた。

 そりゃ、事務所の意向もあるのだろうが、完全に趣味と実益が一致した結果じゃねえか。趣味じゃないのなら、帰国して実家に戻ってまでその恰好を貫いているのは理屈がおかしい。

 というか、誰だこいつに派手な衣装を強制した奴は。ぶっ飛ばすぞ。

「…………………………………………」

「あ、パパおかわり?」

「…………………………………………」

「はいはい、多めね、了解」

「…………………………………………」

 兄が帰ってきたと聞いて、いつもより早く帰宅した父。こうして珍しく家族四人が揃ったことで、母も夕飯はいつもより気合を入れて作ったようだが。

「……………………」

 正直、味が分からん。

 原因は間違いなく、オレの目の前でピンクの茶碗と箸を使って夕食に勤しむ兄のせいだ。苦手な奴と飯を食うと、こうも味っ気がなくなるというのは驚きの真実だった。

「…………………………………………」

「え、今回はいつまでこっちにいるのかって? そうねえ、別に休暇で来てるわけじゃないから、ゆっくりはできないけど、でもお盆まではいるつもりよ? 久々にお爺ちゃんにも会いたいしね」

「…………………………………………」

「え、ウソ!? お爺ちゃんもう転生したっぽい!? そっかー……もう本当に会えないのね……。でも、お爺ちゃんの新たな門出だもん、お祝いしてあげなきゃね」

「…………………………………………」

「仕事? うん、頑張ってるわよー。さっきも言ったけど、こっちには仕事で戻ってきてるのよ。ほら、デザイナーやってる秋晴あきばれ遊利ゆりちゃんって覚えてる?」

「…………………………………………」

「そう、昔よく一緒にお絵描きして遊んでた子。来シーズンに向けて彼女と共同デザインすることになって! 幼馴染とおんなじ仕事をやれるって、結構テンション上がっちゃって! いいわよねえ、こういうの!」

「…………………………………………」

「なんなら、お父さんのシャツもデザインしてあげようか? 世界に一枚だけのオリジナルよ? あら、照れちゃって、たまには親孝行させてよー」

 こちらの心情など知らずに、兄は父と談笑を続ける。とは言え、父は喋らずにうんうんと頷いたり微妙に眉を動かしているだけなので(それでもオレたち家族には父が何を言いたいのかが何となく分かるのだから不思議だ)、実質的に兄が一人で一方的に話しかけているように見える。

 その独り言同然の問答が、オレにはただただ耳障りで、苦痛でしかなかった。

「……………………」

 もう我慢の限界だ。

 茶碗と箸を置き、オレは席を立ちあがる。

「あれ、あっくん、もういいの?」

「……ああ」

 母がおかずの残った皿を見て訊ねてくる。

 悪いが、ろくに味わえないこの環境で食事をできるほどオレは図太くない。

「…………………………………………明良」

「……………………」

 低くて渋い声が唐突に耳に入る。

 ビビった。

 父か……いきなり話しかけるな、心臓に悪い。

「……なんだ」

「…………………………………………食事を残すのは…………………………………………良くない」

「……………………」

 ガタンと音を立てて席に戻り、残ったおかずと飯を無理やり口に詰め、味わうことなくお茶で胃に流し込む。

「……………………」

「…………………………………………挨拶」

「……………………」

「…………………………………………挨拶は…………………………………………重要だ」

「……ご馳走様」

「はいはい、お粗末様」

 今度こそ席を離れ、オレは自室にこもった。



       *  *  *



 その後、兄を見かけたのは一週間ほど経ってからだった。

 その間にも学園は夏休みに突入し、よほど何かがない限り自室にこもって宿題の一掃に勤しんでいたため(夏休みの宿題は七月中に終わらせる派だ)、奴が本当に忙しいということは何となく察していた。

 何と言ったって、オレとは逆に、ほとんど家にいないのだからすぐに分かる。

 どうやら例の秋晴とか言うデザイナー(ガキの頃に何度か会った気がする。確か車椅子に乗っていた)との仕事が本格的に始まったらしく、泊まり込みで作業しているらしい。帰ってきた気配もないから、おおよそそんな感じなのだろう。

 で。

 まあ何というか、夏だから仕方がなかったとは言え、油断した。

 暑かったため、部屋の扉を開けっ放しで宿題をしていたのだが。

「お! あっくん見ーっけ」

「……………………」

 暑いからか、オレンジのタンクトップに極彩色な迷彩柄のハーフパンツという、何だか色々な意味で目が悪くなりそうな格好で部屋の前に立っていた。タンクトップの生地を押し上げる無駄にハリのある大胸筋が暑苦しいことこの上ない。

「……何か用か」

「九日十日」

「……………………」

「ウソウソ、ジョーダン! 無視しないでってばぁ!」

 古典的というかもはや古典レベルなギャグをスルーするも、兄はくねくねと体をよじりながらオレの部屋に入って来た。

 こっちくんな。

「ね、ね、今暇?」

「……今課題をやっているように見えないのだとしたら眼科に行け」

 むしろ精神病棟とかに入院してくれ。

「そう言えば昔から宿題は早めに終わらせるタイプだったわよねー。意外に真面目なんだから!」

「……………………」

 ウザい。

「あ、それでね! 今アタシ暇なんだけど!」

「……オレの話を聞いていたか?」

「ようやくお仕事にめどがついてね!」

「……おい」

「ここんとこ、ずっっっっっと遊利のアトリエに篭りっぱなしだったから、久しぶりに体動かしたくってね!」

「……………………」

 もう知らん。

 オレは机に向き直ってシャーペンを握り直す。

 その間にも、兄は後ろで喋りつづけている。

「これでも健康には気を使ってるからね!」

「……………………」

「きちんと栄養のある物を食べて、規則正しい生活……は、最近忙しくてできてなかったケド」

「……………………」

「で、あとは適度な運動が大事だと思うのよ!」

「……………………」

「で、で! あっくん! 久々に、どう?」

「……………………」


「兼山道場行かない?」


「……………………」

 オレは。

 シャーペンを止めて、後ろを振り返った。

 仁王立ちしたまま、巨躯に似合わない澄んだ瞳でこちらを見つめている。

 ハワイで日に焼けて黒くなった肌。そう言えばこいつは日本にいた頃は肌の手入れに隙がなく、病的という程ではないにしろ体格に似合わず色白だった。それが今はすっかり色黒と呼べるほど焼けている。

 肌の手入れを怠ってしまう程、ここ数年は忙しかったということか。

「……………………」

 オレは小さく溜息を吐いて、机に向き直った。

「……まったく」

 シャーペンと消しゴムを筆入れに戻し、夏休み課題のワークを閉じる。

「……道場に行くための口実に、オレを使うな」

「あ、ばれちゃった?」

「……道着」

「向こうで借りればいいんじゃない?」

「……アレは相当臭うぞ」

「ま、ま。あとでシャワー借りれば問題ないんじゃない?」 

 椅子から立ち上がり、衣装タンスの奥深くに眠っていた道着を引っ張り出す。ずっと表に出てこなかったためか、心なしか布地が硬くなっているような気がする。

「……なあ」

「ん?」

 部屋の入り口に戻って待機していた兄に声をかける。

「……忙しいのは分かるが、せっかく帰ってきてるんだ。会いに行けばいいだろう」

「そうなんだけどねぇ。ちょっと複雑って言うか……」

「……………………」

 道着を帯で縛り直し、肩に担いでオレは部屋を出た。

 夏の日差しが容赦なく降り注ぐ中、特に何かを話すということもなく、徒歩でおよそ十分の目的地へと向かう。

 運の悪いことに、兼山道場は閉まっていた。

 いや、閉まっていたというと語弊があるか。道場主にして八百刀流『兼山』現当主である兼山かねやま美郷みさとさんが門下生一同を連れてジョギングに出ていたために、道場はもぬけの殻だったのだ。

 というか、このクソ暑い日に外走ってんのか。

 幸い、顔馴染だった兼山家の使用人が中に入れてくれたが、ジョギング前に窓を開けて行ったおかげか、換気されて染みついた汗臭さも若干緩和された道場に、オレと兄は二人で立っていた。

「……………………」

「……気にするな。そのうち帰ってくる」

「いーんだけどねぇ……」

 無駄にデカい図体で落ち込むな、鬱陶しい。

 オレはがっくりと肩を落とす兄を残し、道場内の物置に入る。かつては毎日のように通っていた道場だ。勝手知ったる他人の家、貸し出し用の道着の中から特別デカい物を引っ張り出して兄に投げつけた。

「……体動かしに来たんだろ。着替えろ」

「ここで?」

「……更衣室なら鍵閉まってるぞ」

 門下生の貴重品とかが入ってるからな。鍵は美郷さんが管理している。

「まあ……いっかな」

 不承不承と言った体で、周囲をキョロキョロしながら着替え始める兄。別にそんなガッチムチの野郎の着替えなんて好き好んで覗くやつなんていねえよ。

 オレも道着に着替え(久しぶり過ぎて帯の結び方を間違えた)、畳に礼をしてから上がる。遅れて、兄も着替えを終わらせて畳の上に上がってくる。

「それじゃ、何やる? 組手?」

「……準備運動が始めだ、阿呆」

 久しぶりに体動かす奴がいきなり組手とか勘弁してくれ。

 入念な準備体操の後、軽く受け身の練習をしておく。畳の上に上がるのはだいぶ久しぶりだったが、体に覚え込ませた習慣というのは完全に忘れるということはないらしい。何度か畳に体を転がしているうちに、通っていた時の感覚が呼び起こされてきた。

 この調子なら大丈夫か。

 それに向こうは最近の仕事詰めで体が鈍っている。少しくらいハンデがある方が良いだろう。

 良い感じに体が解れたところで、オレは兄に向き直り、互いに礼をした。

「……………………」

「よろしくー」

 ここで一応、兼山道場の流派、というか流儀を確認しておこうと思う。

 そもそもが、八百刀流『瀧宮』――肉体という武器庫に数多の刃を仕舞い込んでいる、史上最も血の気の多い、荒っぽい陰陽師一族から派生した一族。それが『兼山』である。

 八百刀流の中でも刃を捨て、己の肉体を唯一の武器として「闘う」よう特化した一族。派生元がアレなだけに、その流派の質は、相手を、とりわけ妖怪を殺すことにのみ秀でている。

 つまりは、徒手空拳による殺人術である。

 が、しかし、この『兼山』の体術は誰にでも扱えるわけではない。

純粋な『兼山』の術者は術式の施された刺青を全身に刻んだ状態で生まれてくる。この刺青に体の内側に渦巻く力を注ぐことで身体能力を強化し、それでようやく完成する、とは、現当主の美郷さんのセリフ。

 ようするに、血筋以外の者には型を真似ることすら不可能なのだ。

 では、多くの門下生を抱えているこの道場では、一体何を教えているのか?

 答えは簡単――「色々教えている」だ。

 早い話が、『兼山』の術者は自分たちの流派以外にも、体術系の武道にも精通しているのだ。オレが知っているだけでも、美郷さん一人で柔道・空手道・合気道の指導をしていたし、彼女自身もそれぞれの道の有段者だった(最近は軍隊式格闘術にも手を出し始めたそうだ)。何という埒外な存在である。

 で、まあ、オレも兄も、昔はここで柔道を教わっていたのだが。


 ――ダンッ!!


「はーい、一本」

「……っ!?」

 気付いたら、オレは畳に叩き付けられ、天井を仰いでいた。

「あっくん、本当に最近来てないのねぇ」

「……………………」

「昔の方が強くて素敵だったわよぉ?」

「……抜かせ!」

 忘れていた。

 と言えば、さっきの一本の言い訳にはなるだろうか。

 忘れていた。

 オレがこの道場に通っていた頃、当時の同年代の門下生の中では、オレも体格は優れていたから負けなしだったのだが、まだまだガキで、今以上に兄との体格差は離れていた。だからオレは兄との組手では毎回のように負けていたし、兄は毎回のように勝っていた。

 言ってしまえば、兄に対して、負け癖がついていたと言ってもいい。

 これが、オレが兄を苦手とする所以の一つでもあったりするのだが。

 体格差が縮んだ今、もう少しは勝負になると思っていたのだが……これは、相当だな。

「……………………」

「はいはい、お願いしまーす」

 立ち上がり、再び礼をしてから組む。

 が。

「はいっと」

「……っ!」

 一瞬の浮遊感。

 直後に走る背中の痛み。

「……クソ!」

 これだから。

 これだから苦手なんだ。

「はい、一本」

 兄は父の血を濃く受け継いで人間として生まれてきた。

 人間。

 人間のはずなのに。

 この、藤原や香川といった鬼どもを相手にしている時に感じる膂力は、本当に苦手だ。



       *  *  *



「半妖」

 兄は肩を回して調子を見ながら口にした。

「『妖』しくて『怪』しい妖怪と、真っ当な人間の間に生まれた生き物のこと。有名どころだと雪女伝説や天女伝説、妖狐伝説において人間との混血が扱われてるわよね。ほら、陰陽師の安倍清明も半妖じゃなかった?」

 半妖。

 兄は正確に言うと人間ではない。

 人間と妖怪の間に生まれた、半妖である。

 ……とは言ったものの、異種族間の混血が一般的なこの街において、純潔の人間も妖怪も、もはやほとんどいないのではないかとすら言われている。

 しかし、記録の上では、例外を除いて、という枕詞がつくとは言え、明確に人妖は区分されている。

 学園の養護教諭主任である白沢しらさわ曰く、人間と妖怪では根本の部分の体構造が微妙に違うのだそうだ。それではなぜ異種族間で混血が可能かと言えば、妖怪が人間の方に合わせているから、だそうだが。

 もっとも、そんな難しい話はオレにとっては理解できないことだが。

 とにかく、肉体的には人妖で区別できるらしいのだが、さっきも言った通り、何事にも例外というのが発生するのだ。

 その例外の一人が、兄である明志というだけの話だ。

 体構造的には間違いなく人間である。

 だがしかし、その内に秘められた力は、間違いなく妖怪のモノ。

 もちろん逆もある。

 妖怪としての本性を人の姿に化けて隠しつつ、しかしその力は人間の異能に酷似している。

 人間の体に人間の力。

 妖怪の体に妖怪の力。

 それが常であり、この世の理であるはずなのに、中身がそっくり入れ替わってしまったような存在――半妖。八百刀流『大峰』のように、呪いの如き高確率で血筋が全員半妖という、例外中の例外も存在するのだが、ともかく。

兄は人間の肉体に、母の、人狼としての膂力を受け継いで生まれてきたのだ。その屈強な体躯は、力をつけるために鍛えたのではなく、むしろ逆で、秘められた力を制御する、力を力で押さえつけるために鍛えた結果である。

そんな兄を追いかけるように、オレもまたこの道場に通っていたのだが。それはとうに昔の話。

「どう? もう一勝負」

「……望むところだ」

 あの頃は、ただただ兄を追いかけるだけだった。

 人間でありながら、道場で誰よりも強い兄を追いかけるだけだった。

 オレなんかが遠く及ばない背中。

 その背中が、あの日のオレには誇りだった。

「よろしくお願いします」

「……よろしくお願いします」

 互いに礼をし、組み手を取る。

 そして一瞬、全身を持ち上げられるような強い力が足元から感じられた。

 相変わらず、勝負は一瞬でつけるタイプか。

「……くっ」

「お、お?」

 だがさすがに、こっちも鈍っているとは言え、三連続五秒以内に一本というわけにはいかない。というかさすがに学習する。

 重心を下半身に移し、兄の強烈な投げ技を踏ん張って凌ぐ。そしてそのまま、投げ技が不発して若干の隙が生まれた兄を逆に投げようと両腕に力を籠める。

 が。

「よっ……と!」

 綺麗に背負い投げたつもりが、綺麗に受け身……というか、なんというか、空中で一回転されて綺麗に着地されてしまった。

 デカい図体でなんつー器用な真似を……。

「今のって技あり扱いになるのかしらね?」

「……審判も判断に困るだろうな」

 こんな埒外な試合も、月波市ならではと言える。

「んじゃ、改めて……って、ちょっとちょっと、あっくん!?」

「……なんだ」

「顔! オオカミ出てきてるって!」

「……………………」

 顔に手を当ててみる。

 いや、顔に手を当てるまでもなく、手その物が褐色の剛毛で覆われた異形のソレになっていた。体躯も一回り大きくなっているようで、視線も兄と同じくらいか見下ろす程になっていた。

 オレらしくもなくテンションが上がったのか、気付かぬうちに獣化してしまったらしい。

 獣化を止めて元に戻そうとした矢先、オレの脳裏を珍しく悪戯心が過る。

「……面白い」

「え?」

「……この状態で闘ったら、面白そうじゃないか?」

「……………………」

 一瞬だけ呆れたように顔を顰め、兄は肩を回して入念にチェックを始めた。

 どうやら本気になったらしい。

 今までのは準備体操のような物だったか。

「んじゃ、行くよ。アタシも本気で行くから」

「……望むとこ――!?」

 一瞬だった。

 気付いたらオレは宙を舞っていた。

 視界の端に映る、()()の構えで投げ飛ばした後の兄の背中。

 ……やられた。

 正面から、正々堂々と、不意打たれた。

 そう言えばこいつの交友関係には、「立てば暴君、座れば詐欺師、歩く姿はテロリスト」とまで言われた、全盛期も全盛期、最悪の権化たる瀧宮たつみや羽黒はくろがいたっけか。

「……ぐっ」

 やけに長い滞空時間、一周回って落ち着いた気分でそう考えていたら、受け身に失敗して背中からもろに畳に打ち付けられた。

 獣化して頑丈になってなかったら悶絶していたろうな。

「ふっ……決まったわ」

「……決まった、じゃない。いくらなんでも卑怯だろう」

「なーに言ってんのよ。半妖とはいえ人間相手に獣化して挑んできたくせに」

「……………………」

 そう言われたら何も返せないではないか。

 まあ頭に血が上っていたが、非があるのはどちらかというとオレか。

「ほい。あっくんもまだまだねぇ」

「……ふん」

 起き上がるオレに手を差し伸べる兄。断る理由もないので、鋭く伸びた爪で傷つけないように握り返して起き上がった。

 獣の毛の上からでも分かる、硬く、逞しい手だった。

 その時。


「たっだいまー!!」

『『『ただ今帰りましたー!!』』』


 道場の入り口から、小柄な女性を先頭にドヤドヤと道着を着たガキどもが入って来た。

 美郷さん率いるジョギングチームが戻って来たらしい。

「……って。何をやってるんだ」

「うぅ……」

 振り返れば、なぜか兄はオレの背に隠れていた。いくらオレが獣化してさらに体躯がデカくなっているとは言え、兄の巨躯は隠しきれない。

「あれ? あれ? 珍しいお客さん!」

「……お久しぶりです。こんな格好で失礼します」

 小さい美郷さんに、小さく頭を下げる。

 門下生をシャワー室に案内してから、美郷さんがこちらに近付いてきた。

「うちの使用人がさっきお客が来てるって言ってたけど、まさかあっくんとはねー! こりゃまた珍しい! 最近めっきり来ないからウチのこらも寂しがってたよ」

「……機会があれば、また来ます」

「うんうん、是非ともそうしてもらい――ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

「っ!!」

 ビクッと、背後の兄が震えた。

 が、見つかってしまってはもう隠れる必要はない。というか端から無駄な行為だったのだ。

「あっちゃん!! あっちゃんじゃん!! あっちゃんだあっちゃんだー!!」

「ひ、久しぶり、みったん……」

「もー! ほんと久しぶり!! 帰って来てるって聞いてたけど、全然会いに来てくれないからみったん悲しかったぞー!」

「ご、ごめんなさい! でもお仕事忙しくって……」

「うん、知ってるー。知ってたからウチも無理に会いに行かなかったんだけど、あっちゃんから会いに来てくれるなんて感激ー!!」

 感極まってか。

 美郷さんはオレを押し退ける勢いで兄に抱き付き、その色黒の頬に何度も何度もキスをした。

「……………………」

 それを横目にしつつも、オレはなるべく見ないようにしながら溜息を吐く。

 これが、オレが兄を苦手とする一番の理由なんだろうな。

 オレがこの道場に通っていたのは、兄に影響されたからというのももちろんあるのだろうが、当時花も恥じらう女子高生だった美郷さんが、オレの初恋相手だったという、何ともベタすぎる理由からだったりする。

 それが、実は兄と付き合っていると知ったのが、兄が高等部を卒業してデザイン系の東京の専門学校に通い始めた辺り。当時十歳くらいだったオレは実に三年近く、知らずに美郷さんに恋し続けていたのだから、お笑いものだ。

 というか当時からオネエのケがあった兄に、まさか異性の恋人がいるとは誰が思うか。

 もっとも、実の兄に本当に男色趣味があったら、オレはもっとグレていた自信があるが。

 それにしても、もうオレも初恋がどうとか、そういうことを言うにはアレな歳になってしまい、どうこう言うつもりはないが、やはり実の兄と初恋相手がこうして人目もはばからずにいちゃついているというのは複雑な気分だ。

 そもそも兄がオレを道場に誘ったのは、体を動かしたいというのももちろんあったのだろうが、恋人との久しぶり過ぎる再会が気恥ずかしかったのだろう。見え透いている。

「おーおー。あっくんまたフラれちゃったねー」

「……………………」

「てか、あっくん、なんで獣化してんの?」

「……………………どっから湧いた、隈武。というかその呼び名、やめろ」

「うーん?」

 いくらなんでも唐突過ぎる。

 さっきの門下生に紛れていたのか、いつの間にか顔見知りのもう一人の八百刀流が隣に座ってニヤニヤと腹が立つほど可笑しそうに笑っていた。

 いや本当にどっから湧いてきた。

「いやあ、明志さんが来てると聞いて、ついつい」

「……嘘を吐くな」

「まあ嘘なんだけど。というか明良の獣化形態久しぶりに見たー。モフらせろー」

「……………………」

 こいつは……。

 勝手にオレの頭に手を置いてポンポンと叩きだした。正直鬱陶しいことこの上ないが、こいつは何を言っても聞く耳を持たんのは、幼馴染の仲ゆえに分かりきっている。

「で、フラれて五年経ったのに未だに初恋を引き摺ってる明良くんや」

「……やめろ」

「そんな君にささやかながらこの夏の思い出をプレゼントしよう」

「……?」

 言って、隈武が渡してきたのは、一枚のA4サイズのプリントだった。

 そこには、『月波学園学習合宿』の文字が。

「……なんで夏の思い出に学習合宿なんだ」

 ふざけるな。

「いやいや明良。よく見てみ」

「……………………」

 隈武が指さす所を見ると『主催:月波学園高等部生徒会』、そしてそのままプリントをなぞるように指先を這わせ、止まった先には『ところ:九十九海岸海の家』とあった。

「……海の家で学習合宿?」

「そう! さっき部活帰りに白銀しろがね先輩と会ったんだけどさ。何でも、企画が夏休み前ギリギリにようやく決定して、参加者が少ないんだって。で、知り合いに声をかけて参加者集めるの手伝ってー、って」

「……………………」

「それで、明良探してたんだ。ケータイに出ないし、家に行ってもいないし」

「……ケータイは電源切ってある」

「だよねー。知ってる。稽古中じゃ仕方ない」

「……この学習合宿、他に誰が行くんだ」

「さあ? アズアズも結構声掛けてるっぽいから、わたしは明良を含めたいつもの面々に声かけてきた。みんな即OKだったよー」

「……………………」

 ハルと香川はともかく、藤原が即決了解? どういう説明をしたんだ。

「……まあいい」

 期間はお盆前の一週間か。兄はお盆まではこっちにいるって言っていたし、それまでは美郷さんと水入らず、ということにしておいてやろう。

 ふむ……。


「……いいだろう。参加だ」

「お、やったね!」

「……どうせやることはないしな」

「じゃあ明良の傷心旅行も兼ねて――」

「……やめろ」

 本当に勘弁してくれ、そういうのは。




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