だい さんじゅうさん わ ~死神~
俺はこの世のどこでもない、ズレた空間でその光景を見下ろしていた。
一人の男と歩く、偽りの肉体を与えられた女の霊を。
事前に聞かされていた彼女の情報を思い出す。
今から六年前。
とあるマンションの一室で、かつての恋人が企てた無理心中に巻き込まれ、死亡。
死因は首を強絞されたことによる窒息死。
その後恋人は事前に購入していた薬剤を大量に摂取して後を追おうとするも、死にきれずに運ばれた病院にて蘇生。
一人殺された彼女の魂は、恋人に殺されたという恐怖と、あることが未練となり、生前暮らしていたマンションの一室に縛られ、地縛霊となる。
その後六年間。
彼女は己の未練を晴らそうと、隣町の母校にまでは身を、魂を削りながら通い、その手の専門家にアドバイスを受け続けた。
だがそれは実を結ぶことはなかった。
しかし。
この春にやって来た一人の男と再会を果たし、心を通わせる。
その結果、あの部屋に自信を縛り付けていた恐怖の呪縛は払拭され、彼の守護霊となることである程度の自由な行動が可能となった。
地縛霊から守護霊への昇格。
それならば、まだいい。
前例がないでもない。
だが。
だが、である。
目の前で起きている事態は、許されざる行為そのものである。
本来ならばすぐにでもその魂を連行するところであるが、俺は鬼でも悪魔でもない。
彼女の背景を考えたならば、しばしの時間を与えてやるのもいい。
だから、目下の問題と言えば――偽りの肉体を完成させ、彼女に受け渡したあの少年錬金術師。あの年齢不相応な知識と技術には、何かがあると考えて間違いはないだろう。
間違いなく、処分対象者と考えていいだろう。
「面倒だ……」
だが面倒な仕事は、さっさと済ませるにこしたことはない。
俺はあの二人が出て行ったのとほぼ入れ替わりに、少年錬金術師の研究室に押し入った。
「はい~? どちらさ――きゃぁっ!?」
間延びした口調の白衣の女を軽く押しのける。たったそれだけで、彼女は壁に叩きつけられ力なく項垂れた。
結構な勢いで壁と衝突させ、意識を刈り取る。しばらくは目を覚ますまい。
テーブルに積み上げられていた書類や実験器具が床に散乱する。それを見て、今回の標的である少年錬金術師は年齢に似合わぬしわを眉間に寄せる。
「やけに荒っぽい客人だな。んん? ゲームの参加者か? だったらもう賞品は譲ってしまってここにはもう存在しないのだが?」
「ああ。分かってるさ。そして言うまでもないと思うが、貴様が主催したゲームの参加者ではない」
「まあ……そうだろうな」
白衣のポケットに手を突っ込み、少年錬金術師は俺に向き直る。
「職業柄、年齢もあってか学会絡みで他方から色々と恨みや嫉妬は買っている。が、襲撃されるのはこの俺も初めてだ」
「……………………」
「さて、では改めて問おう。君は何者だ」
「名乗るほどの者でもない」
名乗る必要もない。
「俺は、貴様の魂を刈りに来た。ただそれだけだ」
「あー。待て待て」
と。
少年錬金術師はポケットから片手を出してガシガシと頭を掻いた。
「さすがのこの俺も事態の把握ができん。本当に君は何者だ」
「名乗るほどの者でもないし、名乗る必要もない」
「……堂々巡りだな。会話が成り立たん」
だが、と。
隈のできた目を細め、少年錬金術師は身構える。
「うちの助手を問答無用で眠らせて押し入った時点で、碌な奴ではないのだろうな」
「抵抗するなよ。無駄な恐怖を与える趣味はない」
「だから……会話が成り立っていないと言っているだろう」
言って、少年錬金術師はポケットに突っこんだままだったもう片方の手を勢いよく抜き、俺に向けた。
その手から、鈍色の何かが投げ放たれる。
あれは――ネジ……!?
「くっ!?」
一瞬だった。
飛来したネジが、一瞬で細長く鋭利な針へと変容した。
「……錬金術か」
間一髪の所で針を叩き落とすことに成功した。しかしこの少年錬金術師、躊躇なく俺の目を狙って来たな……。
「そうだ。そもそも錬金術は戦闘向けの異能ではない。が、組み合わせ方によっては十分な戦力となりえる」
パチンと指を弾く。すると彼の周囲に拳大の水球がいくつか漂いだした。
あれは……水系の魔法?
「魔術師……」
「別に錬金術師が魔法を使えないとは限るまい。もっとも、この俺も大層な魔力を持つわけではないから、このような初級中の初級魔法しか使えんが」
「……………………」
「まあ本職の錬金術との組み合わせで、どうとでも応用は効くがな」
「……抵抗するなと言ったはずだが」
「んん? 君は馬鹿なのか?」
少年錬金術師が心底呆れたように吐き捨てる。
「明らかにこっちの命狙ってきてるような奴相手に無抵抗でいるほど、人間は大人しくない」
その言葉と同時に、先程のネジと同様に飛来する水球。
所詮は水。避ける必要もない。
そう思っていたら、いきなり目の前で水球が蒸発するように消え失せた。
というか、蒸発したのだろう。下手をしたら火傷をしてしまいそうな熱気が顔面を直撃した。
強烈な刺激臭と共に。
「ぐおっ!?」
思わず鼻を抑える。しかしとっくに吸い込んでしまった分の刺激臭は鼻孔に残り、涙が勝手に流れ出てしまう。
正直、肌を焼くような熱気よりもこっちの方がダメージは大きかった。
「ただの水だと思ったか? この俺が錬金術師だということを忘れてもらっては困る」
「錬金術師……! 今のは……!」
「もちろんアンモニア水だ。空気中の窒素と水素を用いて錬成してみた。魔法で生成した水と混ぜて一気に蒸発させると――強烈に臭うぞ」
言いながら、今度は色々なもので散らかっている床から、液体の入った薄茶色の瓶を取り出した。
その蓋を取って中身を手の平に落とす。しかし中身は手に垂れることなく、空中をさながら魚のように泳ぎだした。
「これもまた、水系の初級魔法。水を自在に動かすものだが……この俺が普通の水を用いるわけがないのは分かっているだろう?」
「ちなみに……それは何の薬品だ」
「塩酸」
「……………………」
おい。
「そして、さらに……」
少年錬金術師は棚の中からさらに二つの瓶を取り出し、同じように中身を空中に漂わせた。
「硫酸と、硝酸。最も酸化力が高い三つだな。君が何者かは知らんが、アンモニアの刺激臭に反応したということは、人間と体構造はさほど変わらないと見える。この三つの酸を一度に被ったら、どうなるかな?」
「……………………」
こいつ……子供らしからぬえげつないことを考えやがる。
全く持って――重罪だ。
「一応確認しておいてやろう」
「ん?」
「俺は抵抗するなと言った」
「ああ、そうだな」
「そして、無駄な恐怖を与える趣味もないと言った」
「……だから?」
「強硬手段に出ても……文句は言わないでもらいたい」
そうして。
俺は。
ここではないどこかの、ズレた空間に手を突っ込む。
そこから。
ズルリと。
巨大な鎌を取り出した。
「っ!?」
少年錬金術師の目に、初めて負の色が宿る。
焦り。
恐怖。
――絶望。
ガタガタと年相応の子供らしい醜態で、震えていた。
「得物を見せびらかすのは趣味じゃないんだが、仕方がない」
仕方がない。
仕方がない。
仕方がない。
貴様が悪いのだから。
「何だ……その鎌は……! 君、本当に何者だ!?」
「言う必要はない。言い訳なら後で聞こう」
あの世で、な。
俺は鎌を振り上げ、標的の細首めがけて振り下ろ――そうとした。
「……?」
腕が。
というか全身が。
動かない。
鎌を振り上げた格好のまま、文字通りピクリとも動かない。
またこいつが何かしたのか? そう思ったが、変わらず少年錬金術師は恐怖に震えあがり、目の焦点も怪しい。
こいつではない。
では誰が。
そう思ったところで、唯一自由の利く眼球を動かして状況を把握する。
よく見れば、本当によく注意して見なければわからないような、細い糸。髪の毛の何百分の一というような、しかしながらとても切れそうにない極細で強靭な糸が、部屋中から伸びて俺の体を締め上げている。
無理やり体を動かそうとすると、露出している手や首に刃物を押し当てたような痛みが走る。
それ以前に、動こうとしただけで着ていたパーカーの裾が切れた。
「教授に……何をするんですかぁ~……!」
背後から間延びした声が聞こえる。
糸で身動きが取れずに振り向けないが、ここに来るときに眠らせたあの女らしい。もう起きてしまったようだが。それにこの力……妖怪だったのか。もっと強い力で眠らせておけばよかった。
「下手に、動かないでくださいねぇ~? 今あなたを縛ってるのは拘束用の糸だけではありませんのでぇ~。五体バラバラじゃ済みませんよぉ~」
「……………………」
ご丁寧に口にまで糸を張られているらしく、声を出すこともできない。
問答無用、ということか。
「……………………」
はあ、と。
心の中で溜息を吐く。
「……………………」
面倒臭い。
俺は鎌を取り出した時とは逆に、俺自身を、俺だけを、ズレた空間に放り込んだ。
途端に消える、糸の圧迫感。振り返ると、急に消えた俺を探しているらしい白衣の女の姿があった。
このズレた空間は、見えるだけ。
触れられない。
さながら、霊感のある者にも見えない幽霊になったような感覚。
けれど、それだけで十分。
俺を縛っていた糸をすり抜けることができたら、それで十分。
俺は糸が二重三重と張り巡らされていたその場所を離れ、女の元へ歩み寄る。そして手にした鎌を首元に突き付けた状態で、元の空間に戻った。
「……っ!?」
いきなり消え、いきなり現れ、そしていきなり鎌を首に突き付けられたように見えたのだろう。
女はその目に驚愕の色を浮かばせた。
「動くな」
指先を動かし、再び糸を張ろうとしていたのだろう。何度やられてもすぐに抜け出せるが、いちいち面倒臭いのでこちらから動きを封じさせてもらう。
「大人しく寝ていれば痛い目を見ずに済んだものを。その場にいただけの無関係人物として報告できたものを。下手に動いたせいで貴様も要注意人物として報告せねばならなくなったろうが。面倒臭い」
「……子供に手を上げる不審者が目の前にいるのに黙って見ていられるほど、薄情ではないのでぇ~……」
「言い残すことはそれだけか」
はあ……一日に二人も向こうに送らねばならんとか……本当に面倒だ。
俺は鎌の柄を握る腕に力を籠め、女の魂を刈り取ろうと振り抜く。
しかし。
――ドカンッ!!
「なっ!?」
凄まじい破壊音と共に、部屋の扉がこちらに迫ってきた。
いきなりの出来事に俺は鎌を手放し、避けることもできずに扉の下敷きとなった。
「は、はぇっ!?」
奇妙な感嘆詞を口にする女。その驚きようから、彼女がやったわけではないらしい。が、さっきの少年錬金術師を見ても、いまだ俺の鎌の恐怖からは立ち直ってはいないようだ。
「おいおい」
と。
扉の向こう――と言っても、すでに扉など存在しないのだが、部屋の外の廊下から声が聞こえてきた。
酷く軽薄そうで、虫唾の走る声音だった。
「何か胸糞悪い気配がしたから思わず扉蹴破っちまったが、まさか本当にこんな所にテメエらみてえなのがいるとは思わなかったぜ」
言って。
蒸し暑い初夏の季節だというのに全身黒ずくめで揃えたその男は興味なさげに俺を見下ろし、手にした紙切れをヒラヒラとさせ示した。
「で、『三つ首犬を手懐ける焼き菓子が欲しい』んだが、まだ余ってるか?」
* * *
「死神」
黒い男は語る。
「大鎌を持ち、ボロい黒ローブをまとった白骨の姿で描かれることが多い。振り上げられた鎌は振り下ろされた時、何者かの魂を刈ると言われ、逃れるためには別の魂を捧げなければならない。よって、死その物のイメージを擬人したものであるとも言える」
「……………………」
床に落ちている書類や実験器具を適当に足で退け、ゴツゴツとブーツの靴底を鳴らしながら近寄ってくる黒い男。その間も、軽薄そうな笑みを崩すことはなかった。
「まあ俺もまさか、ジーパンにパーカーなんて人間みたいな当たり前の恰好した死神がいるとは思わなかったが。お前、ローブはどうしたよ」
「……変装だ。これだけ霊感が強い者が多いと、姿を消していても俺を目視できる輩もいるからな。いつものローブは目立って仕方がない」
「なるほどなるほど。で」
俺を下敷きにしている扉に足をかけ、黒い男がズイっと顔を近付けた。
扉と床に挟まれ、鈍いな痛みが走る。
「お前、この月波市で何勝手に暴れていやがる。ここは、テメエら死神も自由には動けない特級神霊地だったと思うんだが?」
「俺は、ここでの魂の導きを任された者だ」
「ほう。パッと見若いのに出世してんな」
「舐めるな。これでも貴様の歳の数十倍の年月は死神として生きている」
「さようで。それにしても『導き』ねえ……さっきのはどっちかっつうと、拉致っぽかった気がするんだが?」
「いつから見ていた」
「ノーコメント」
「……………………」
「ま、この賞品の内容的に、あんたら死神が出てきてもおかしくはない気もするがね」
手にした紙切れを眺めながらニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべる。
その憎たらしいまでの挙動に、俺の神経がギリギリと鳴る。
「……俺からも問おう」
「あ?」
鋭い目付きをさらに細め、黒い男は俺を見下ろす。
対して、俺は扉が飛んできた時に手放してしまった、死神の象徴たる大鎌に視線を向ける。
「貴様、何故人間のくせに俺の鎌を見ても何も感じない」
死神の鎌は、そのまま『死』のイメージを植え付ける。
生ある者が目にすれば、『死』への恐怖に怯え。
すでに死せし者が目にすれば、執着の払拭を想って心安らぐ。
それなのに。
こいつは死神の俺から見ても、明らかな生ある人間であるはずなのに、何も感じていない。
死人の反応とはまた違う。
妖怪の『死』と人間の『死』は違うため、さっきの女が怯えなかったのは分かる。
まるで無心。
無感。
己の死を見ていないかのような。
「答えろ」
「……………………」
笑って。
黒い男は答えない。
その笑みがやけに腹立たしかったため。
俺は再びズレた空間に這入り込んだ。
バタンと音を立て、俺の体をすり抜けて床に叩き付けられる扉。
気にせず俺は悠々と立ち上がり、床に落ちた鎌を拾い上げ、それから呆然と立ち尽くしている黒い男の首に背後から鎌を押し当てる。
今度は躊躇なく。
躊躇いなく。
ズレた空間から元いた空間に戻ると同時に鎌を振り下ろした。
唸る鋭刃。
これまで幾度となく刈って来た魂のように、プツリという感覚が柄を握る手の平に伝わってくる――はずだった。
ガキンッ!!
「……っ!?」
返ってきたのは、金属を無理やり斬りつけた時のような手応え。
決して、人間の首に刃を振り下ろした時の物ではない。
「よう」
「くっ……!」
黒い男は振り向きもせず、背後に立つ俺に声をかける。
「俺の魂を刈ろうってのか?」
黒い男はごく自然な動作で、鎌の刃の先端を握った。
通常ならば、触れるだけで皮膚どころか指が斬り落とされるような鋭さがある。しかしこの男はまるで平然としており、むしろ腕力にものを言わせて俺から鎌を取り上げんばかりに力を込めている。
「甘いな。甘い甘い。激甘だ」
「ぐっ……貴様……!」
「俺の魂を刈るにはまだまだ実践不足。歳だけ食ったお役所仕事ばかりの死神ごときにやられるほど、俺の命は軽くない」
「ぐう……!」
鎌と自分自身の体をズレた空間に放り込み、黒い男の拘束から逃れる。そしてそのままの状態で離れた所に立ち様子を窺う。
さすがにこのズレた空間までは把握できないのか、黒い男は特に何もするでもなく棒立ちになっている。
いや、棒立ち状態でも俺を撃退できるという自信か……!
「くそっ、何なんだこいつ……! 本当に人間なのか……!」
「人間だよ」
「……っ!?」
ギョッとした。
まさかこちらの声が聞こえたのか?
「おっと勘違いすんなよ? この部屋のどこかにいるってことは分かるんだが、さすがに声までは分かんねえよ。ただ、俺と戦った奴は大体このタイミングで『何なんだお前』『本当に人間か』と言ったセリフを口にするからな。それに合わせて返事してみただけだ、どうだ? タイミングは合ってたか? 合ってたなら拍手喝采頂きたいもんだがね」
「……………………」
本当に。
本当にこいつは何なんだ……!
こんな、こんな人間見た事ない!
こんな徹頭徹尾ぶっ壊れて、人間終わってるくせに、人間の枠に収まろうとする奴は!
そこの妖怪の女も、そっちで未だに振るえている常識離れした知識を持つ少年錬金術師も、こいつに比べたらずっと人間らしい。
何だ。
何なんだこいつは……!
『キシ』
不意に。
聞きなれた女性の声が脳内に響く。
「……リン様?」
『その者から手を引きなさい』
「なっ……!?」
あまりと言えばあまりな指示に、俺は相手が上司という言葉では言い表せない存在であることを失念して声を荒げた。
「何故ですか! あの妖怪の女はともかく、少年錬金術師もそこの黒い男も、明らかに処分対象者でしょう!? それをどうして見過ごさねば――」
『キシ。もう一度言います。その者から手を引きなさい』
「……っ!」
『命令違反など考えないように。その者は貴方が、いえ、死神ごときが対抗しえない力の持ち主なのですから』
「なっ……!?」
『その者が関わってきた以上、その錬金術師も放置するしか他ありません。私と彼との契約ですので』
「……?」
『まあ彼ならば間違った方向に導くことはないでしょうからご安心ください』
「しかし……」
『それに貴方にはまだやるべきことが、導くべき魂が一人いるでしょう』
「……………………」
『今回は彼女を送還しだい、冥界にお戻りなさい。私からは以上です』
その言葉を最後に、脳内に響いていた念話の声は途切れた。
しばらく呆然と部屋を眺めるも、すでに黒い男は俺に興味をなくしたらしく、妖怪の女と一緒に少年錬金術師を奥の部屋に運び込もうとしていた。
「……………………」
一瞬、どうするべきか悩んだ。
しかし、死神の鎌も効かないような、化物のような人間の存在と、リン様の言葉が俺の足を止めさせた。
「……クソ」
俺は大人しく、部屋の外に出た。
* * *
その夜。
外装だけは真新しいアパートの屋上で、俺は何をするでもなく月を眺めて待っていた。
今は、昼間のような人間の恰好ではない。
古びた黒ローブに髑髏の仮面、手にした大鎌と、まさしく『死神』といった風体だ。
ただ待つ。
今俺にできるのは、それだけだ。
そして、彼女がアパートの階段を上ってくる気配を感じた。
そのうち、コツコツという靴音も聞こえてくる。
……来たようだ。
「もういいのか」
「……はい」
これが彼との最初で最後の夜となったのだろう。別に覗き見したわけではないが、俺も何十年と生きてきているのだ。分かるものは分かる。
「ありがとうございます」
「……何がだ」
不意に彼女が頭を下げてきた。
「ここに帰ってくる時……佑真君とは別の声が励ましてくれた気がするの。それって、あなたでしょう?」
「別に……ただ、貴様にはさっさと成仏してもらわないと俺が面倒なだけだからな。労力を考えたら、手を貸した方が楽だと思っただけだ」
「それでも……です。それに、佑真君にも――」
「言っておくがな」
俺は彼女の言葉を区切った。
感謝されるのは苦手だ。
俺は、命を奪う神なのだ。
憎まれることは多けれど、感謝されることなど滅多にない。
「俺は貴様を冥界――あの世に送るためにここにいる」
「はい」
「そして今の貴様は、そこに存在するだけで罪なのだ」
「はい」
「向こうに逝って、真っ当な扱いをされると思うな」
「はい」
彼女は。
淡々と言葉を返す。
コロコロと、子供のように笑いながら。
無垢な子供のように。
もはや、この世に未練などないかのように。
「……………………」
拍子抜けしないと言えば、嘘になる。
こうも彼女の未練が綺麗に立ち消えるとは思わなかった。
結局のところ、あの少年錬金術師は成功したのだ。
肉体を得たことで、彼女は己の未練を二人で断ち切った。
それが過ちの道への導きだったとしても、だ。
「……別れは……」
「え?」
「別れは済ませたのか」
「……………………」
彼女は小さく首を振る。
その表情が、初めて小さく歪む。
「佑真君、ぐっすり寝てる。起こすのが忍びないくらい」
「……それだけか?」
「……………………」
問う。
彼女は言いづらそうに、それでもどこか嬉しそうに答える。
「だって……彼の顔を見るだけで、胸が苦しくなる。彼の声を聴くだけで、切なくなる。例えこの体が偽りの物であっても……」
「……………………」
「また彼に会ったら……ウチ、また未練ができちゃう。まだこの世にいたいって思っちゃう。それはさすがに……ね?」
「……そうだな」
そうだ。
それは罪だ。
許されざることだ。
ただでさえ、この世にいるべきではない存在なのだ。
それが偽りとは言え肉体を得たというだけで重罪なのに、それが続くとなれば、魂の消滅を科せられる恐れもある。
俺たち死神は、別に悪意で魂を刈っているのではない。
この世から逸脱した存在を強制的に冥界に送る。
もしくは、彷徨う魂をあの世へ導く。
それだけだ。
それだけなのだ。
魂の消滅は、俺たちの望むところではない。
「もういいのか?」
俺はもう一度問う。
彼女に問う。
すると彼女はコロコロと子供のように笑って、こう答えた。
「ウチは、佑真君といれて幸せだった」
俺は鎌を振り上げる。
そして彼女の首めがけて振り下ろす。
「……………………」
スッと、抵抗なく刃が肉体を通り抜けた。
魂と偽りの肉体との繋がりのみを断ち切る。
崩れ落ち、座り込むように膝を付く偽りの肉体。
そこから、スッと光が漏れだした。
それがゆっくりと浮上し、消えるように見えなくなった。
「迷わず逝け。向こうに着いたらまた会おう」
しばしの別れを告げ、俺は鎌をズレた空間にしまう。
あっけない。
この瞬間はいつもそう思う。
どれだけ辛く長い時間を彷徨おうとも、どれだけ最後に幸福な時を刻もうとも。
向こうに逝くときは、ほんの一瞬なのだから。
「さて……」
これをどうするか……。
俺は眠るように座り込む、空っぽの肉体を見やった。
よく見れば本当によくできている。これがホムンクルスなどとは到底信じられないほどの精巧さだ。あの少年錬金術師は「意思のないただの肉」と言っていたが、本当にないのは意志だけのようで、微かに呼吸までしている。
サンプルとして冥界に持ち帰るか?
一瞬そう考えたが、万が一向こうでそのテの連中の耳に入ったらどんなことに利用されるか分かったものではない。
ならばいっそのこと、ここで焼却処分してしまった方がいいかもしれない。
リン様も、そこまでは指示を出していなかったし、この辺りは俺の判断でいいのだろう。
「そうと決まればさっさと面倒事は片付けて、さっさと帰――」
あまり得意ではない魔術を発動させて一気に燃やしてしまおうとした時。
俺はあることに気付いた。
気付いてしまった。
むしろよく気付いたと自分を褒めてもいいくらいだ。
「ははっ……!」
乾いた笑いが口から洩れる。
「少年よ……貴様、本当にとんでもない物を作ったな……!」
言って、俺はホムンクルスの腹に手を伸ばす。
そこにあったのは、見逃してしまっても仕方がないと言って責められないほどの、小さな光の球。
鎌など武骨で無粋な物を使ってしまっては、消えてしまいそうな儚い光。
どれほど大きさが異なっていても、それは正しく魂そのものだった。
「恐れ入ったよ……本当に」
ズレた空間の応用で、注意深くその小さき魂を取り出す。そしてそれを壊さないよう、俺は鎌をしまってある空間とは別の所に、厳重に保管した。
「時が来たら……」
彼女に返してやるのも、悪くない。
どうせこれで終わりという関係ではないだろうから、また会うこともあろう。
「それでは改めて――」
ホムンクルスを処分しようとした。
その時。
「おっと、悪いがこいつは頂いてくぜ!」
「なっ!?」
どこからともなく、黒い影が走り寄って来て当身をした。
いきなりのことで俺は抵抗もできずに吹き飛ばされ、屋上に転げる。
「き、貴様……!」
何とか起き上がって襲撃者を確認する。
見覚えはあった。
と言うか、昼に会ったばかりだ。
全身黒ずくめで、腹立たしい軽薄そうな笑み。
あの黒い男がホムンクルスを粗雑に肩に担ぎ、落下防止用の柵の上に立っていた。
「悪いな。こいつがどうしても必要って奴がいてな。頂いて行くぞ!」
「おい待てっ!!」
慌てて取り返そうとするも、奴はすでに柵から飛び降りた後だった。
ここは五階建ての建物のさらに屋上。
だが奴にその程度の高さなど高さではないだろう。
柵の隙間から首を突っ込んで下を覗くと、人一人担いでいるとは思えぬ速度で走り去る黒い背中が見えた。
人通りが皆無な所を見ると、ご丁寧にも人払いの術でも周囲にかけているらしい。
気付かなかった。
今の今まで、死神たるこの俺が。
「ぐうっ……!」
またしても。
またしてもしてやられたか……!
「貴様あああああぁぁぁぁぁっ!! 最悪だあああああぁぁぁぁぁっ!!」
夜の住宅街に、俺の怒号が木霊した。