だい さんじゅうに わ ~残留思念~
僕は浮かれていた。
年甲斐もなく気持ちが高ぶり、賑わいを見せる学園祭を二人で廻った。
二人、である。
僕と、妖怪でも幽霊でも、まして神でもない一人の人間で、二人。
「美味しいね」
彼女はそうコロコロと子供のように笑い、口の周りにクレープのクリームをつけながらこちらを見た。
その何気ない現象も、つい数十分前まではあり得ない現象だったのだ。
肉体を失った幽霊が、少しの間ではあるが肉体を得た。
少しの間ではあるが、当たり前の人間のように過ごせるのだ。
当たり前の人間のように、僕は彼女と並んで歩いているのだ。
「後で……」
「ん?」
「後で、あの子にお礼を言わないとね」
言うと、彼女は小首を傾げた。
「あの子って、あの子供教授?」
「それもあるけど、ほら。昨日会った占い研究会の子」
「あ、そっか」
「あの子のおかげで、快斗君に会えたわけだしね」
「そうだね! でも、どこにいるんだろう……」
「そう言えば、昨日もすぐに消えちゃったしね……」
また会えるんだろうか……。
僕らはそんなことを考えながら、再び学園祭の賑わいの中に心を奪われていった。
* * *
異変は、空も赤く染まり日も暮れ始めようとしていた時に起きた。
目の前には、外装だけは真新しい、僕と彼女が住まう一室があるアパート。
「はあ……はあ……」
彼女の息が荒くなる。
「大丈夫……?」
少し心配になり顔を覗き込むが、彼女は額に汗を浮かべながら首を横に振った。
「大丈夫……じゃ、ないかもなー、これ……。あは。自分の中では踏ん切りは付けてたつもりだったんだけど……やっぱり、肉体があるとないとじゃ、違うのかなー?」
強がっていることは目に見えていた。
子供のような朗らかな笑顔の奥に、極度の恐怖が浮かんでいる。
この代替の肉体には、彼女が殺された時の記憶などないはずだ。ひょっとしたら、魂の記憶が肉体にも影響を及ぼしているのかもしれない。
「でも……大丈夫」
と。
彼女は笑う。
あくまで、子供のように笑う。
「佑真君がいるから」
「……………………」
僕の名を呼び、彼女は僕の左手を握る。
霊媒体質など本来は存在しないはずの僕が、唯一触れることができる幽霊の彼女。
しかし今、そこに霊媒体質の有無など関係なく、僕は彼女に触れることができる。
僕はそっと、彼女の手を握り返した。
「大丈夫。……僕がいる」
「ん。ありがと……」
僕たちは手を握り合い、一歩ずつアパートに近付く。
左手から感じる彼女の右手。
トクトクと、まるで生きているかのような鼓動が微かに伝わってくる。
「……………………」
「……………………」
無言で、僕らは階段を上る。そのたびに、コツコツと二人分の足音が聞こえる。
僕らの部屋は四階。
意外と部屋に着くまでに時間がかかるのだが、今日は特にその道のりが長く感じる。彼女の顔色もどんどん悪くなってくる。
「大丈夫? 無理、しなくてもいいんだよ?」
「……大丈夫。大丈夫だから……」
「でも……」
「もう、心配性だなー。大丈夫よ。これはウチの問題だもん」
「……………………」
「佑真君が、隣にいてくれるし」
「……うん」
「それに、部屋に戻らなくてどうやってご飯食べたり寝たりするの?」
「……そう、だね」
あくまで子供のように無邪気に笑う彼女。
その瞳には強い意志が宿っている。
くそっ……何で僕が弱気になってるんだ。本当に辛いは、彼女だろうに! 僕が隣で支えてやらいといけないのに……!
「大丈夫。行こう」
「……うん」
頷き、彼女は再び歩き出す。
僕も彼女の手を握りながら歩を進める。
そして。
僕らは413号室のプレートのかかった部屋の前に立つ。
「えっと……」
「……?」
「ねえ、佑真君」
「何?」
「何て言って入ればいいと思う?」
「……普通に、ただいま、でいいんじゃないかな?」
「あ、そうだね。ウチらの家だもんね」
僕は苦笑しながら、出掛ける時に彼女から預かった鍵を財布から取り出し、鍵穴に差し込む。
カチャリ。
ロックが解除される。
「……………………」
扉一つ開けるだけなのに、酷く緊張する。
「……ただいま」
ドアノブを捻り、僕は乾いた声でそう言った。
瞬間――
「……え?」
視界が真っ暗になった。
いや、正確には真っ暗ではない。
目を凝らせば薄っすらと部屋の中が窺えるし、閉じてあるカーテンの向こうからほのかに月の光が透けている。
「……………………」
月?
待て。
待て待て。
月だって?
おかしい。
僕らがこのアパートに戻ってきた時は、確かに日も暮れかけてはいたが、月が出るほど遅い時間ではなかったはずだ。
それに、何だろう? 見慣れた部屋のはずなのに、見慣れない物がたくさん置いてあるような……?
目を凝らしてもう一度見る。
「……………………」
やっぱりだ。
備え付けのタンスとテーブルとテレビと冷蔵庫。
それらはあるにはあるのだが、タンスの上の小物や部屋の中央のミニテーブルなど、僕の知らない物がたくさん置いてある。
さらに、僕がここに入居してから買った本棚替わりのカラーボックスやカーペットがなくなっている。
そして何より、どことなく全体的に女の子っぽい雰囲気が漂っている。
「部屋……」
間違えた?
そんなはずはない。
だって、僕が持っていた鍵で扉を開けたんだから……。
「ねえ、これって……」
隣に立っている彼女に声をかける。
いや、かけようとした。
「あれ……?」
さっきまでそこにいたはずの、彼女の姿がない。
左手の温もりも消えている。
「どこ……行ったんだ?」
僕は恐る恐る部屋の中に入る。
まるで、自分の部屋ではないような、不思議な感覚。
靴を脱ぎ中に踏み入る。
そっと居間を覗く。
いない。
キッチンにもいない。
トイレも空だった。
あとは僕の寝室だけだけど……あそこは、彼女は近付きたがらない。
夜寝ようとする僕を、居間でテレビを見ながら見送るだけだ。
気になっていつ寝てるのかと聞いたら「幽霊だから寝なくても大丈夫」とあっけらかんと笑っていたが。
ともかく。
ここは、彼女にとって近付きたくない場所であるらしい。
鬼門。
普段の生活でも自然に避けて通っている。
ここには何かがある。
いや。
あった、と言うべきか。
元々この部屋は彼女の物だったのだから。
「……………………」
意を決して、僕は寝室の扉を開けた。
最初に目に飛び込んできたのは、他の部屋と同じような薄暗い光景。
やはり、他の部屋と同じように僕には見覚えのない物で溢れたベッド周り。
暗くて見えにくいが、見覚えのないベッドも布団も、シンプルだけど可愛らしいデザインの物になっていた。
そのベッドには、一人の黒髪の女性が横になっていた。
そして――
女性に覆い被さるように、一人の男が馬乗りになっている。
「……っ!?」
息を呑む。
顔は見えない。
けれど、知らない男だ。
そいつはベッドの女性を太く逞しい腕で――首を絞めていた。
「あんた、何を……!」
僕は慌てて、男を止めようと突進する。
が。
「なっ!?」
スルリと。
僕の手は男をすり抜けた。
触れない。
もしかして、幽霊なのか……?
いや、それなら何でこいつは女性の首を絞められる?
分からない。
何だ。
何なんだ。
「何なんだよ! これは!」
「……面倒な奴だ」
その時。
脳内に、少年のような声が聞こえた。
* * *
「残留思念」
頭の中に声が響く。
「物体や土地などに人の思いが宿ることがある。思いが強ければ強いほど鮮明になり、地縛霊の類と混合しても問題はないようだが、違いがあるとすれば、そこに意志はなく、映像としてただそこにあるだけ、という辺りか」
声は淡々と僕にそう告げる。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
残留思念。
物に思いが宿った映像。
つまりこれは彼女が――
「……殺された時の……!」
「そう言うことだろうな」
声は語る。
酷く気怠そうに、面倒臭そうに。
「この時の思いが、この部屋に宿ってしまったのだろうな。それがそのまま、彼女の未練としてこの世に縛り続けている」
「……………………」
「ずいぶんと古く、薄れていたらしいがな。肉体を得たことで感受性が上がり、再び見えるようになったのだろう」
「感受性が……上がった……?」
「元々は彼女の肉体と魂の記憶がこの部屋に宿った物だからな。魂だけの存在となり劣化していた物が、仮初の肉体が魂の影響を受け、ありもしない肉体の記憶が部屋に再び宿ったのだろう」
声は語る。
淡々と語る。
「全く……とんでもない物を人間ごときが作りやがって。こちらから直接手が出せないのが腹立たしい……。あの方も無茶な契約をしてくれたもんだ……」
「……………………」
悪態を吐く声が脳内に響く。
いや……。
「それより、君は誰? 一体どこに――」
「おれのことなんかどうでも良い」
「僕は一体どうすれば……」
「おれが知るか、面倒臭い。これはお前の物語だろう。お前自身の手で紡げ」
「……………………」
それっきり、謎の少年の声は沈黙した。
一体なんだったんだ……。
月波市に来てからというもの、僕の常識が次々と崩されていく……。
幽霊になっていた初恋相手に謎の不審火騒ぎ、そして今回のホムンクルスに姿なき声。
一体僕にどうしろっていうんだ。
僕は数か月前まで、いや、今でも、特殊な眼鏡をかけないと授業すら受けられない無力な人間だというのに……。
こんな役目は、他の主人公っぽい人が担ってほしい。
「けど……」
僕は改めて、目の前の光景を注視する。
今でも、その男は彼女の上に跨って首を絞め続けている。
あれが、彼女をこの世に縛り続けている未練。
恐怖。
あれを振りほどけば、彼女はようやく成仏できる。
六年間の地縛霊生活と数か月の守護霊生活が終わる。
正直、今の恋人のような関係がなくなるのは少し悲しい。
けど。
けれども。
「きちんと迷いなく逝ってくれた方が、幸せなんだろうな……」
だって彼女は。
僕の初恋の相手は――もう死んでるんだから。
「はあ……喧嘩なんかやったことないのに……」
僕は拳を握りしめ、男を見据える。
さっきはすり抜けてしまった。
けれど、これは元々彼女の記憶。
僕が唯一、見えて、触れる幽霊。
だったら今度こそ。
落ち着いていけば……!
――波長が合った、と言うより、運命があったのかな?
波長が合って、運命があるんだから、いけないはずがない!
僕は握り拳を振り上げ。
そして。
「加奈子さんに触るんじゃねえええええぇぇぇぇぇっ!!」
思いっきり、横っ面を殴り飛ばした。
* * *
気付けば見慣れた寝室で呆然と突っ立っていた。
可愛らしい布団のベッドもなく、ましてや女性の首を絞める見ず知らずの男の姿もない。
窓から夕陽の赤い光が差し込める、ごく当たり前の光景だった。
「……………………」
え? 何これ夢オチ?
何て外れたことを考えながら、僕は思い出すように左側を見た。
「……………………」
僕の左隣。
僕の左手を握る、彼女の姿。
そこに、ちゃんといた。
「……佑真君」
「うん……」
彼女が僕の名前を呼ぶ。
「ありがとう……」
「え?」
「未練、払ってくれて……」
「……うん」
「こんな近くにあったんだね……ウチの未練」
「……うん」
「死んでからこの部屋には近づかないようにしてたんだけど……そりゃ未練が分からないはずだよ。ずっと避けてきてたら、ねえ?」
「……うん」
何でだろう。
僕は不思議と、彼女のことを直視できなかった。
この部屋にあった、恐怖という未練は断ち切った。
もう、いつ成仏してもおかしくないのに。
……いつ、僕の目の前から消えてもおかしくないのに。
「ねえ」
「何?」
「さっきから、返事に気力がないよ?」
「そう……かな?」
「そうだよ」
と、笑う彼女。
コロコロと、子供のように笑う彼女。
「ねえ」
「……何?」
「ひょっとして、ウチがもうすぐ消えると思って落ち込んでない?」
「……………………」
当たり前だ。
そんなこと。
「だって……」
「確かに未練は断たれて立ち消えたよ? でもね――」
まだやり残したことがある、と。
彼女は言った。
「やり残したこと……?」
「うん。うん? んー、違うかも。何て言ったらいいかなー」
「……………………」
しばし腕を組んで考え込む彼女。
そして考えがまとまったのか、ポンと手を打った。
「やりたいことができた」
「やりたいこと?」
「そう」
例えばさ、と。
彼女は笑う。
コロコロと笑う。
「ウチは彼に殺されちゃったわけだ」
「……うん」
「でももし彼が違う人だったら、ウチはこんなことになっていなかったかもしれない。子供の頃からの夢だった教師をやってたかもしれないし、友達とおバカなこともやっていたかもしれない」
「そう……かもね」
「もしかしたら、今頃その人と結婚して子供もいたかもしれないし」
「……………………」
そのIFは……少し嫌だなあ。
表情に出てしまったのか、彼女は苦笑する。
「ちょっと意地悪なこと言っちゃったかな?」
「……いや。気にしてないよ」
「ウソ」
「まあ、ウソだけど」
「あは」
「……………………」
彼女が笑う。
「それでね、佑真君がウチの未練を払ってくれて……ふと思ったんだ。もし『彼』が『君』だったら――って」
「え……?」
「そりゃーあり得ないIFだってことは分かるよ? ウチが殺された時、佑真君まだ中学生だもん。けどね……」
もしウチがもっと遅く生まれていたら。
もし佑真君がもっと早く生まれていたら。
「生きているウチの隣にいたのは、佑真君じゃなかったのかな、って。そんなこと考えちゃったわけよ」
「それは……」
「そもそも、借金して自分の彼女巻き込むような奴と付き合ってたウチが悪いのかもねー。そんな奴が、先々ちゃんと相手を愛せるのかっていうと結構微妙じゃない? ……まあ、結局全部『終わった』身から見たもしもの話でしかないんだけどね」
「えっと……」
「ごめん、自分でも何て言ったらいいか分かんないや」
誤魔化すように、彼女は苦笑した。
それが窓から差し込む、仄かに夕日の赤みの残った光に照らされ、酷く寂しげに見えた。
「ただ……うん、何て言おう。こうかな? 佑真君が隣にいたら、ウチは幸せだったのかな?」
「それは……」
分からない。
彼女は結局、ああいう風に人生が終わってしまった。
愛する者に殺され、終わってしまった。
それでも。
『それ』までは、少なくとも幸せだったはずなのだ。
あの彼も、幸せだったはずなのだ。
でも。
それでも僕は。
あえて、こう言おう。
「加奈子さんは、僕といた方が幸せだった」
「……………………」
キョトンと呆ける彼女。
しかしすぐに顔を赤く染め、プルプルと震えながら目に涙を溜まりだした。
そしてプッと吹き出す。
「くっ……ぷっ、あはは!」
「……笑わなくてもいいじゃないか……」
「いやいや、ゴメンゴメン。いやー、ね? あんな小っちゃかった佑真君が随分と男らしくなっちゃって! カナ姉ちゃんは嬉しいよ」
一頻り笑い、目じりの涙を拭って彼女が微笑む。
「そっかー。ウチ、佑真君といた方が幸せだったのかー。生まれる時をちょっと間違えちゃったなー」
「……………………」
「じゃあさ」
言って。
彼女はそっと、僕の体に腕を回してきた。
力のない僕が普通に触れることのできる唯一の存在。
しかし今、僕はそれとは無関係に、彼女に触れることができる。
「せめて……今夜はウチを目一杯、幸せにしてくれるかな?」
「え……?」
「ウチだって、元々は恋する乙女だもん。愛した男に殺されて消えるよりも、幸せにしてくれる人に可愛がってもらって消えるほうが――ずっといい」
言って。
彼女は僕の胸に顔を埋める。
「えっと……」
僕はどうしたらいいか分からず、言葉に迷う。
「それが……その、やりたいこと?」
「……………………」
彼女は無言で、しかし僕を抱きしめる腕をキュッと強めた。