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だい にじゅうろく わ ~ラナウン・シー~




 私立月波学園の学園祭開催まで残り一週間を切った。

 各クラスの出し物はあらかじめ抽選によって決められているのだが、私が所属する高等部二年S組は運よく人気のフライドポテトの露店の経営権を得ることができた。調理そのものも簡単だし、何より売れ行きがいいのだそうだ。

 そして準備も楽でいい。

 すでに食材の発注は済ませており、あとはクラスメート全員でレシピを覚え、露店の看板作りを終わらせるだけでよかった。

 その看板作りも、デザインが得意な女子や手先が器用な男子が主立って行っているため、正直に言って私個人は手持無沙汰だった。

 だからと言うわけでもないが。

「ハル! すまないが力を貸してくれ!」

「ああ、構わないぞ」

 と、部活の方の出し物の準備から戻ってきた彼の申し出に、それがどのような内容なのかも確認せずに頷いていた。

「……って、おい? まだ俺、何も言ってないんだが……?」

「構わない。私は当日の調理担当として期待されているらしいからな。下準備の段階では暇を持て余していたところなのだ。部活にも入っていから準備に駆り出されることもないし、本当に暇なのだ」

「そうか? それならいいんだが……」

 そう言って、彼は頭を掻いた。

「じゃあまあ、とりあえず、一緒に来てくれ」

「分かった」

 断られるとでも思っていたのか、拍子抜けした表情のまま、彼は歩き出す。

 私はそれについて行きながら尋ねる。

「それで、力を貸すのは一向に構わないのだが、具体的には何をするのだ?」

「……………………」

「……何だ?」

「ハル……お前、音楽の授業の時、ピアノは問題なく弾けてたよな?」

「ピアノ?」

 そう言えば、音楽の授業の課題で弾いたピアノ曲を褒められたことがあった。確かに子供の頃から両親にピアノだけはしっかりとした先生に教わっていたから、自慢ではないが得意と言えば得意だった。

「まあ、楽譜は読めるし、問題はないが?」

「そうか! それは良かった」

 そう言って、安堵の溜息を吐く彼。

「……?」

 イマイチ事態が呑み込めないが、私が大人しく彼の後ろをついて歩く。

 そして辿り着いた場所と言うのが、

「……軽音楽部の部室?」

「ああ。まあ、とりあえず入ってくれ」

 第二サークル棟の一階に位置する軽音楽部の部室。彼を始めとする私の友人たちの一部は軽音楽部に所属しており、ここ最近は学園祭のライブに向けて練習を頑張っている。

 のだが……。

「ん……?」

 部室に一歩踏み入れた途端、私は違和感を覚えた。

 小さめの音楽室ほどの広さがある部室には、見覚えのある面子しかいなかったのだ。

「おっす。連れてきたぞ」

「……ああ」

きょう、お疲れ様」

「ごめんね、ハルさん。急に呼び出して……」

 いつも仏頂面を浮かべている駒野こまのに陰陽師の宇井うい、そして私の前任保健委員の香川かがわだった。

「どうしたのだ? 宇井も香川も、軽音楽部ではないだろう?」

「あれ? ハル、知らないの?」

「おれたちふたりは部員じゃないけど、毎年この時期、二人とバンド組んでるんだよ」

「そう言うこと」

 言って宇井と香川は笑った。

 いや、しかし……。

「そうなると、正規部員は君たち二人だけか? もっといるはずだろう?」

「まあ、そうなんだが……」

「……………………」

 気まずそうに明後日の方を向く二人。

「他の部員たちは、みんなロック研とジャズ研との兼部で、そっちの舞台発表で忙しくて軽音部には来れないんだって」

 と、宇井が代わりに事情を説明してくれた。

 って、いやいや待て待て。

「ならば発表はどうするつもりなのだ?」

「いや……ね。本当なら、今年は俺たちを含めた部員四人で組む予定だったんだけどよ。そこから二人抜けて、しゃーないからいつも通り香川と隈武のに入ってもらうつもりだったんだけど……」

「おれがレスリングの全国大会に出場が決まって、当日は学園にいないんだ」

「あ……」

 ……そうか。そうだった。

 香川は体格に恵まれている。それは彼が力技な妖怪であることを差し引いても、格闘技ならば十分に全国に通用するものだった。

 当然、格闘技系の部活が黙っていない。

 聞いた話だと、特にレスリング部からの勧誘が熱烈で、本来は温厚な性格で荒事には向かない香川もついに根負けして入部を決めたのだとか。

 去年は一年生と言うことで、大会出場は先輩たちに譲ったらしいが、今年は香川自身が出場することになったのだ。

「うーん、本当はわたしもね、うちのキャプテンが全国大会に出るから部全体で応援に行く予定だったんだけど。でも無理言ってこっちに残ってもいいことにしてもらったわけなんだよね」

「……すまんな」

 駒野のいつものぶっきらぼうな口調に、若干だが感謝の念が感じられた。

「でもなー。香川はそうもいかねぇしな」

「ごめん」

「お前が謝ることじゃねぇよ」

「……ああ。今回は、しっかりとスケジュール調整をしていなかった藤原ふじわらが悪い」

「そうそう、全部俺が……っておい駒野! テメェも人のこととやかく言えたもんじゃねーだろ!」

「……………………」

「おう、都合の悪いことは無視かこの野郎」

 ケッ、と悪態を吐きながら話を戻す。

「で、だ。本当なら俺がギター、駒野がベース、香川がドラム、隈武のがキーボードなんだが、そこから香川が抜けたわけだ。幸いにも駒野はドラムも齧ってるから、今から練習すれば十分にその穴は埋められる」

「それで、今度は明良のベース枠が空いちゃったわけだけど、そこにはわたしが埋める。むしろわたしは弦楽器の方が得意なのよね。てなわけで明良、ベース貸してね」

「……壊すなよ」

「わたしを誰だと思ってんのよ」

 言って、宇井は壁際にまとめて置かれていたケースの中から、濃い青のカラーのベースを取り出し、軽くその場で弾いてみせた。

 おお、本当だ。なかなかに上手い。

 しかしすぐに演奏をやめ、駒野に向き直って一言。

「……ちょっと明良。弦、張り替えてないでしょ」

「……替えといてくれ」

「自分で替えなさい!」

 ベースを駒野につき返す宇井。駒野は煩わしげに唸りながら受け取り、部室の隅の道具箱に向かった。そこで床に腰を下ろし、一人黙々と弦の張り替え作業を始めた。

「まあ、ともかく……」

 そう言って、彼は私の前に一台のキーボードを運んできた。

 結構使いこまれているようだが、きちんと手入れはされているようだ。宇井が使っていたというのなら当然のような気もするが。

「ハルには、キーボードとして俺たちと一緒にバンドを組んでもらいたい」

「……………………」

 とりあえず適当に鍵盤を叩いてみる。

 ポーン、とピアノを模した電子音が響く。

「……………………」

 そしてそのまま、授業でやった課題曲を弾いてみる。

 日本の曲と言うのは存外、日本語の勉強には役立つ。独特の言い回しや韻が多く最初は難解なのだが、基礎の部分をしっかり理解しているのならば歌詞の裏の意味を感じ取ることで、実際に会話や文章で表現する時の練習になる。

 確かこの曲は、一度別れた恋人が春に再会することができた、という感じの歌詞だったはずだ。

「……ふう」

 一通り弾き終わり、私は顔を上げる。

 すると、その場にいた全員――離れた所でベースの弦を張り替えていた駒野に至るまで、ポカンとした表情で私を見ていた。

「な、何だ……?」

「あ。いや……」

 彼は呆けた表情のまま私を見る。

「お前……授業のテストで弾いた時よりも上手くなってないか……?」

「そうか?」

「いや、絶対そうだって」

 と、香川もしきりに頷いて見せる。

「まあ……確かにあの時はクラス全員が見ていたわけだし、緊張していたが……」

「「「あれで全力じゃなかったのかよ!?」」」

 当日、同じクラスでテストを受けていた三人が声を上げる。

 ちなみに、三人は課題曲を勝手にロック調にアレンジしバンドを組んで先生に怒られていた。

 何をしてるんだか……。

「うーん、噂には聞いてたけど、これほどとは……」

「よ、よしてくれ」

「ううん。これで、わたしもベースの方に集中できるわ。明良!」

「……ほら」

 そう言って、弦を張り替えたばかりのベースを駒野から受け取る宇井。そして弦の調子を確かめ、満足げに「うん」と頷いた。

「さて! じゃあ改めて、練習始めるとすっか」

「待ってくれ。楽譜をくれ」

「おっと、そうだった」

 さっそく自分のギターを取り出してきて演奏を始めようとした彼を慌てて止める。いくら得意だとは言っても、楽譜なしで弾けるほど器用ではない。

「えっと……これだな」

 ファイルから楽譜の束を取り出し、その中から何枚かを引き抜く。

「俺たちがステージを使える時間は、準備と後片付けを含めて四十五分。一番時間がかかるのはドラムの準備だから、実質的な演奏時間は三十分程度か。で、一曲当たり五分程度の曲を四曲演奏する。残りの時間はMCな」

 私は彼から楽譜を受け取る。

 そのうちの二曲は有名なアイドルグループのカバー曲。もう一つは、確かアニメか何かのオープニング曲だったか? 行燈館でいずみが見ているのを聞いていつの間にか覚えてしまった。

 しかし全て、バンド用にある程度アレンジされているようだった。

 王道二つと受け狙い一つか。無難だな。

 しかし……。

「この最後の一つ……」

 一番最後の楽譜……これだけは、見覚えのない楽曲だった。

 しかも、他の三曲にはきちんと歌詞まで書いてあるのに、これには歌詞どころか曲名すら書いていない。

「歌詞が書いてない!?」

「くぺっ!?」

 そう言うと、宇井は恐ろしい形相で彼を締め上げた。

 そしてそのままガクガクと頭を揺らす。

「ちょっと経! どういうつもりよ! 本番まで一週間もないのよ!? それなのにまだ歌詞完成してないの!?」

「ちょっ……ごっ、あっ……く、苦しい……!」

「……落ち着け隈武」

「そうだよ……!」

 いよいよ彼の顔色が不思議な色になってきたところで、駒野と香川の二人が止めに入った。

相良あらいはともかく、明良まで何を悠長に構えてるのよ! あと一週間切ってるって言ってるじゃない!」

「……それは……そうなのだが……」

「今からでも別の曲にすればいいんじゃない?」

「バカヤロウ。今から新しい曲覚えられるか」

「「「お前が言うな」」」

「……………………」

 三人に同時に責められ、彼は消沈していった。

「えっと……話が読めんのだが……」

「えーと、つまりだな……」

 そう言って、彼は歌詞の書かれていない楽譜を指さした。

「これ、俺たち四人が作った曲なんだ」

「え……?」

 これを……四人で……?

「王道、王道、受け狙い、オリジナル。それが今回の俺たちの組曲なんだが……」

「このバカ、『歌詞は俺に任せとけ!』とか言って、全っ然筆が進まないのよ!」

「ふっ……調子がいい時にだけ、脳裏に詩がフッと浮かんでくるんだ……」

「……調子に乗るな」

「あだっ!?」

 駒野に思いっきり殴られ、床をのた打ち回る彼。

 それを尻目に、宇井は深く溜息を吐いた。

「正直、経のバカが歌詞を書いてないことが分かった以上、メンバー不足よりも困った事態になったわね……」

「どうなのだ?」

「どう、って?」

「今からでも書けそうなのか?」

「正直、今から書いてたんじゃ間に合わないわね。歌詞覚える期間も必要だし……」

「だったら、さっき香川が言った通りに新しく既存の曲を覚え」

「……るのは、さらに無理だな」

 のた打ち回っていた彼に関節技をかけながら(妙に静かだと思ったら声にならない悲鳴を上げていた)、駒野がぶっきらぼうにそう言った。

「やはりダメか……」

「……ああ。今から覚えるくらいなら、別の奴に歌詞を頼む」

 そう関節技をきめる手を緩めることなく口にし、ふと何かに気付いたかのように駒野は私を見据えた。

 ……正直、本人に悪気はないのだろうが、その悪い目つきで長時間見つめないでほしい。睨まれているようで、緊張するなんてものじゃないのだが……。

「……………………」

「……な、なんだ?」

「……なあ」

「うん?」

「……お前、書いてみないか?」

「……………………」

 は?

「え? どういうことだ?」

「……そのままの意味だ。藤原のバカに代わって歌詞を書いてみないか?」

「わ、私がかっ!?」

「お、それいい」

 と、無理やり駒野の関節技を振りほどき、彼までそう言ってきた。

 いやいやいや!

「さ、さすがに歌詞までは……」

「うーん、でもハルってすっごい日本語綺麗だからなー」

「そうだよね。それにいざとなったら、洋楽風にアレンジもできる」

「……ついでにボーカルも任せれば」

「おおっ! すっげー豪華なバンドになりそうだな!」

 ちょっとおおおおおぉぉぉぉぉっ!?

 何やら勝手に話が進められているのだが!?

「私は歌詞までは――」

「「「お願いしますっ!!」」」

「――面倒見き、れ……な……」

 四人同時に深々と頭を下げられた。駒野は宇井に無理やり押さえつけられていただけが。

「いやいやいや! 本当に! 本当に無理だと……!」

「ハル、本当にお願い! このバカの尻拭いは嫌だろうけど!」

「なあ、俺さっきからサラッと貶され続けてないか!?」

「……お前は黙ってろ」

「痛い痛い痛いっ!」

「ハルさんゴメン! 本当に頼むよ!」

「……うぅっ……!」

 皆、口々に私に歌詞を書いてくれと頼む。

 そして。

「なあハル! さっき何でも力を貸してくれるって言ったよな?」

「うっ……!」

 確かに言った。

 間違いなく言った。

 しかしそうは言われても私に作詞の才能などないし、確かに何でも力になるとは言ったがこんなことになるとは思っていなかった。それに今から曲の練習もしなければならないだろうからこの二、三日中には書き上げなければならないだろう。

 いくらなんでもそれは無――

「「「「……………………」」」」

「……………………」

 ――理と言いたいがそんなに落胆した目で見ないでくれ……!

 無理なものは無理なのだ……!

「「「「……………………」」」」

「……わ……」

 私は……!



       *  *  *



「……無力だ……」

 勉強机のスタンドだけが私の手元を照らす。

 手元には今日貰った楽譜と、一枚のルーズリーフ。

「……はあ」

 結局、断りきれずに作詞を承諾してしまった。

 あの状況で断れるほど我は強くなかったようだ。

「しかし、なあ……」

 正直のところ、何を書いたらいいのかさっぱり分からない。ルーズリーフには作詞者として私の名前、そして作曲者として彼の名前だけ書いてある。

 そう、実は作曲は主に彼が担当していたのだそうだ。ベースとなる部分を彼が大まかに考え、他の三人が手直ししていったのだとか。

「んん、んんん~……」

 楽譜を見ながら、鼻歌でメロディーを奏でる。

 ゆったりとした、どこかほろ苦いメロディー。正直に言うと、普段の彼からは想像もできない曲調だった。

 あの後、楽譜を確認した時に思わずそう呟いたが、彼は「たまにはいいだろ」と照れ臭そうにそっぽを向いていた。

 曲そのものは、やはり素人が作ったものだからか今一つ何かが足りないような気がしないでもない。では何が足りないかと言われれば……そう。この曲に似合った歌詞が足りない、と答えざるをえなかった。

 この不完全で未完成な曲を補う、歌詞が足りない。

「……………………」

 私はシャープペンシルを置いて天井を見上げる。

 気晴らしに、意味もなく木目の年輪の数を数えてみる。しかしそれにもすぐに飽きて、別に汚れているわけでもないのにメガネのレンズを拭いてみた。

「……………………」

 何も思いつかない……。

 この曲に見合った歌詞を考えようと思考を巡らすが、何一つ思い浮かばない。

 歌詞のテーマさえも、だ。

「……音楽でも聞くか」

 気分転換になるか。

 いいアイディアが浮かぶかもしれないし。

 私は棚の中に何枚か眠っている、母国から持ってきたCDを取り出した。どれもこれも何回もきいた曲ばかりで、今でも何も見ずに歌うこともできる。

 それでも、行き詰った時にはちょうどいいだろう。

 そう思い、プレーヤーも取り出してCDをセットしている時だった。

 コンコン、とノックの音が聞こえた。

「は」

「ハルさんお菓子ちょうだいっす!」

「……………………い」

 返事をする前に、小さな女の子が引き戸をパンと音を鳴らして開け放った。そしてそのまま、私のベッドに寝転がる。

「……いずみ。せめて返事を聞いてから開けたらどうだ?」

「ほい?」

「……………………」

 自分のベッドでするかのように、ゴロゴロと暴れまわる。整えていた布団がグチャグチャになるが、全く邪気のないその笑顔を見ると何だかもうどうでもよくなってきた。

「……それで、泉。どうしたのだ、こんな夜中に」

「小腹が空いたのでお菓子が食べたくなったんっすよ」

 ひとしきりベッドで暴れ、可愛らしいクマさん柄のパジャマが捲れて腹部が丸出しになっているが、泉は気にすることなく元気よくそう答えた。

「小腹が空いたって……泉、夕食にどれだけ食べたと思っている?」

「うーん、と……。ご飯をドンブリで三倍くらいっすかね?」

「そうだ。しかも私とあきさん、それにビャクのおかずまでくすねただろう」

「だってみのりさんのご飯、すっごい美味しいんっすもん!」

「まあ……分かるが……」

 確かに、穂さんの作る食事は美味しい。この国に来てから、誤差の範囲とは到底呼べないほどに体重計の針がよく動くように……いや、気のせいだろう。

「しかし泉。お前はあれだけ食べても全く太らないよな」

「そうなんっすよね。と言うか、逆に食べないとどんどん細くなっちゃうんっすよねー」

「一日に十キロ泳いでいたら、そうなるか……」

 余計な心配だったか。

 泉は中等部一年にして、月波学園水泳部のエースなのだそうだ。もともと泳ぎが得意な妖怪であるということを差し引いても、その小柄な体躯からは全く想像もできないパワフルな泳ぎと尋常ではないスタミナで、初等部の頃から注目を浴びていたのだそうだ。

 もっとも、水泳に没頭するあまり勉強の方は疎かになっているそうだ……。前回の中間テストでも、ユー介やくれないがつきっきりで勉強を教えていた。

 ギリギリで赤点は回避できたそうだが。

「そうだ……。泉、お前、いつもは紅のところにお菓子とか集っているだろう。今夜は何で私のところに来たのだ?」

「やー、ここ来る前にも紅くんとこ行こうとしたんすがね。途中で良樹よしきさんに捕まって、男子棟から摘み出されたんすよ」

「……それで、私のところに来たのか」

「ういっす。穂さんは夜にお菓子とかくれないっすからねー」

 まあ、朝に弱くて一番忙しい時には全く戦力にならないと言っても、あの人は一応ここの管理人なのだ。夜中にお菓子を食べさせるとか、そんな不健康なことはさせないだろうな。

「と言うわけで、ハルさんお菓子ちょうだいっす!」

「断る」

「んなっ!?」

「健康に良くないことを私が勧めるわけがなかろう」

 雷に打たれたかのような衝撃が、泉の全身を駆け巡ったように見えた。

「……っ!」

 そして無言のまま口をパクパクさせた後、キッと口元を引き結んで私を睨み付けてきた。

「どうしてっすか!? 何でハルさんまでお菓子くれないんっすか! 鬼っすか! こんなに可愛い女の子がお菓子ねだってるのに! トラック・オア・トレードっすよ!」

「自分で可愛いとか言うな。それと、それを言うならトリック・オア・トリートだ」

 何だ、貨物自動車か交換って。

「そ、そうとも言うっす」

「いや、そうとしか言えないからな?」

 私は眼鏡の位置を意味もなく直し、机の中を漁る。

「ほら、ガムならあるぞ」

「うー……こんな物じゃ、お腹の足しにならないっす……」

「文句を言うな。それに何度も噛んでいれば満腹中枢が刺激されて空腹は抑えられる」

「うー……」

 グチグチと聞き取れない声で文句を言いつつも、泉は大人しくガムの包装紙を解いて口に放り込んだ。

「んぐっ。うぇー、ミント味―……」

「嫌いか?」

「苦手っす……」

「いちいち注文が多いな」

 しかし今はそれ以外に持っていない。そう言ってやると、泉は若干涙目のままガムを噛んでいた。空腹には代えられなかったらしい。

 泉が大人しくなったところで、私は作業に戻る。

 えーと、何をしていたんだっけ……。

 ああ、そうだ。気晴らしに音楽を聴こうとしていたんだった。

 私は開きっぱなしだったプレーヤーの蓋を閉じ、CDを再生する。

 和室にあまり似合わない、ゆったりとしたオペラ調の洋楽が流れる。

「何の曲っすか?」

「曲調はオペラに近いが、どちらかと言うと民謡かな。私と同族の歌手のアルバムだ」

「ふーん。何て曲っすか?」

「―――――だ」

「へ?」

 私の口から発せられた、間違いなく聞きなれないだろう言葉に泉は素っ頓狂な声を上げる。

「え? もう一度お願いするっす」

「―――――、だ」

「はい?」

「まあ、聞き取れないだろうな」

 私も日本語で発音表記しろと言われても、無理だ。

「どこの言葉っすか……?」

「どこ、と言うか、そもそも人間の言葉ではないからな」

「へ?」

「私たち人魚の言葉だ」

 私たち人魚の歌声には、人を魅了する力がある。古来には岩礁で歌い、船乗りたちを誘導して事故を起こす者もいたという。

 今ではすっかり数は減ってしまったが、生き残った人魚たちの中には、自分のその力を有効に活用しようとする者もいる。

 歌で魅了するということは、その瞬間は心にゆとりが生まれるということ。

「このヒトは人の心を癒す歌が歌いたくて、歌手になったそうだ。あえて人間の言葉ではなく古来からの人魚の言葉を使っているのは、歌の力を制御するには人魚語の方が扱いやすいからだそうだ」

「そうなんすかー。でも確かに、何だかすっごく落ち着くっす」

 ガムを噛みながら、泉はベッドの上で心地良さそうに鼻歌を奏でていた。

 歌詞の意味は分からなくても、その声とメロディーで心が癒されていっているのだろう。

 そして私はもう一度、楽譜と白紙のルーズリーフに向き直る。

 しかし心落ち着く曲を流しているからと言って、そう簡単にいいアイディアが浮かぶわけでもない。

「何を書いてるんすか?」

 と、しばらく時間が経過してから、あき子さんが貸してくれた少女漫画をベッドで横になりながら読んでいた泉が声をかけてきた。

「いや……ちょっとな。曲の歌詞を任されて」

「お菓子!?」

「食べ物の話から離れたらどうだ?」

 歌詞だ、歌詞。

「今度の学園祭で、私もステージ発表のバンドに参加することになったのだ」

「え? こんな土壇場にっすか?」

「ああ。色々とゴタゴタして、今になってメンバーが足りなくなったのだそうだ」

「大変っすねー」

「別に演奏するのはいいのだ。しかし、最後の一曲、オリジナルの一曲だけが未完成なのだ」

「歌詞がないんすか?」

「ああ。そこで、私にそのお鉢が回ってきた、と」

「ははあ」

 泉は少女漫画を閉じてベッドから起き上がる。いつの間にかガムは捨てたらしく、口はモゴモゴと動かしてはいなかった。

「で、どんな感じなんすか?」

「正直、どうしたものか悩んでいる。全く思い浮かばん」

「全く?」

「全く」

 そう言って私は白紙のルーズリーフを見せてみる。作曲者と作詞者の名前しか書かれていない。文字を消した形跡すらない。

「どうしたものかな……」

 私は椅子の背もたれに体重をかけ、天井を見上げる。

 この数カ月で見慣れてしまった天井の木目。こうして見ると波のようにうねっていて気味が悪い部分もある。

「だったら、誰かに相談したらどうっすか?」

 と、白紙のルーズリーフを覗き込んでいた泉が言った。

「相談って……メンバーが行き詰ったから、歌詞が私に回ってきたのだぞ?」

「いやいや、そうじゃないっすよ」

「うん?」

 首を傾げる私に、泉は満面の笑みでこう答えたのだった。

「生徒会の会計さんっすよ!」



       *  *  *



 生徒会会計職と言えば、私はどうしても同学年である二年C組の針ヶ瀬(はりがせ)玲於奈れおなを連想する。あの染めたツインテールが印象的な粗野な外見の彼女は、九百人近くいる高等部二学年の中で、もかなり有名な類の人物だ。

 しかし今回、泉が言っているのは玲於奈のことではなく、三年O組のナンシー・滝沢たきざわさんのことを指しているらしい。

「ナンシーさんはボクら中等部でも有名なヒトっす! うちの部活の三年生がよく進路相談でナンシーさんのいる自習室に行くそうなんっすが、すっごい優しく相談に乗ってくれるそうっす!」

 というのは、実際に進路相談に行った泉の先輩の話なのだそうだ。

 また同時に、とても厳しいヒトであるらしい。相談に行った者をバッサリとした物言いで斬って捨てることもままあるとか。

 しかし、そのおかげで踏ん切りがついたという者も多いとか。

 まあ何にせよ、今の私には相談する相手が必要だ。

 結局、泉が帰った後も全く一文字も書けなかったのだ。

「ここか……」

 高等部第一校舎棟三階自習室003。

 入口のホワイトボードには『使用中 Nansy』の文字が。

 本来、使用中の自習室にはよっぽどのことがない限り立ち入ってはいけない決まりがある。使用を許された生徒のみが使えるこの自習室だが、使用者はたいていの場合渡された鍵をかけて学習に勤しんでいるのが常だ。

 しかし、この自習室だけはだけは、あからさまに五センチほどの隙間が空いていて鍵がかかっていないのが窺えた。

 少し深呼吸。

 心を落ち着かせ、私は軽くノックする。

「……………………」

 無言。

 返事はない。

「……し、失礼します」

 中から返事がないのはいつものこと、と泉から聞いていたが、少し遠慮がちに扉を開ける。

「……………………」

 そして、そこにいた。

 褐色の肌に、金髪とも茶髪とも言えない、オレンジ色の髪。それでいて、顔つきは東洋系の血筋であることを明確に示している。

「扉、きちんと閉めてネー。開いていると営業中ってことで、誰かが入ってきちゃうかもしれないからネ」

「あ、はい」

 カリカリと手元のノートに何かを書きながら、ナンシーさんは怪しい片言の日本語で私にそう言った。

「相談は一度に一人まデ。そう決めてるのヨ」

「はあ……」

「ようこそ、2Sのハル・ラインさン」

「え!?」

 まだ私、名乗っていないのだが……。

 後ろ手で扉を閉め、戸惑っている私をナンシーさんは笑って手招きした。

「まさか、全員の名前を……?」

「オウ、いやネー。まさか全生徒を把握しているわけないでしョ。モミジじゃあるまいし。アナタがたまたま留学生だったから覚えてただけヨ」

自習室だから当然なのだろうが、やはり勉強中だったらしい。手元のノートを閉じ、ナンシーさんは私に向き直った。

 テーブルを挟んで、私は彼女の向かい側の椅子に腰掛ける。

「それで、今日は何のご用かナ?」

「えっと、勉強はいいんですか……?」

「いいのよ別ニ。ここで相談所を開くためのフェイクとしてノートを開いていただけだしネー。ほらここ、勉強目的じゃないと貸してくれないからネ」

「……………………」

 微妙に生徒会員のセリフではない気がする。

 しかしまあ、相談に乗ってくれるというのならば是非もない。そもそも私はこのためにここに来たのだから。

「えっと……実は……」

 とつとつと私は現在置かれている状況を説明した。

 急遽、友人たちのバンドに編入することになったこと。

 メンバー全員でオリジナル曲を作っていること。

 その一曲が未完成であること。

 その歌詞を書くよう頼まれたこと。

 そしてその歌詞が全く思い浮かばないこと……。

「ふーン……」

 腕組みをし椅子の背もたれに体重をかけるナンシーさん。

「それはまあ、大変ネー」

「でも、引き受けたのは私ですし……できるなら、自分で何とかしたかったのですが」

「まあこればっかりは、いいアイディアが浮かばない限りどうしようもないわよネ」

 溜息交じりにナンシーさんは天井を見上げる。

 そしてふと、思い出したように私に向き直る。

「そう言えば、キョウはどんな曲を作ったノ?」

「えっと、楽譜は持ってきてないんですが……」

「ああ、いらないわヨ。どうせワタシ楽譜あんまり読めないシ。ハミングでいいから、歌ってくれないかしラ?」

「え? あ、はい」

 何かヒントでも出してくれるのだろうか。

 アドバイスでもくれるのだろうか。

「……………………」

 ジッと私を見つめるナンシーさん。

 少し気恥ずかしかったが、言われたとおりにハミングで歌って聞かせる。

 ゆったりとした、どこかほろ苦いメロディー。

 自習室という無機質な空間に、ほんの少しの間だけ悲しげな曲が流れた。

「……ふう」

 一通り歌い終わり、私は向き直る。

 見れば、ナンシーさんはポカンと私の方を見つめたまま呆けていた。

「ナンシーさん?」

「え、あ、ゴメンなさいネ。ちょっと、ううん、すっごいビックリしたワ」

「はい?」

「なるほどネー。これが噂に聞く人魚の歌声カー。初めて生で聞いたワ!」

「えっと、その、大したことじゃないです……」

「オウ、本当に綺麗だったわヨ! 本番も当然ボーカルなんでしョ?」

「おそらくは……」

「キョウたちの発表は確か学園祭三日目だったわネ。何としても予定を開けておかなきャ!」

 そう言ってナンシーさんは手帳を取り出して予定を書き足していた。

 恐縮である。

「……っと、オウ。そうだったタ。ゴメンね、アナタの相談事忘れてたワ」

「……………………」

「えっと、それで、歌詞が思いつかないんだっケ」

「あ、はい……」

「さすがに歌詞をそのまま考えてあげることはできないけど、そうネ……」

 ナンシーさんはオレンジの髪を掻き上げ、うーん、と唸った。

「そう……まず率直に、この曲を初めて聞いた感想はどうだっタ?」

「どう、と言われると、そうですね。『らしくない』ですかね」

「……らしくなイ?」

「はい。だって作曲が……」

「ああ、はいはイ。そりゃそうだワ」

 ナンシーさんは苦笑しながら頷いた。

 普段の彼を見ていると……ね。

「確かにらしくないわネ。じゃあ……何で彼はこんな曲を作ったのかしらネ?」

「え?」

 それは、知らない。

 聞いても、「たまにはいいだろ」と言ってそっぽ向いてしまった。

「じゃあ逆に、彼は何でこの曲に歌詞をつけなかったのかしらネ?」

「それは……単に思いつかなかったからでは?」

「うん、それもあるでしょうネ。でも本当にそれだけかしらね?」

「……?」

 何だ?

 このヒトは、何を言っているのだろう?

 いや。

 ()()()()()()()()()

 その目を見ても、彼女から真意を探ることはできない。

 ただ微かに微笑を浮かべているだけだ。

 そう言えば。

 違和感に気付く。

 私はさっき、友人たちがオリジナル曲を作っている、と説明した。

 しかし私は一度だって、彼どころかメンバーの一人の名前だって口にしていない。

 それなのに、ナンシーさんは「キョウはどんな曲を作ったノ?」と聞いてきた。

 このヒトは、一体……?

「そうネ。その辺のところを考えながら歌詞を書いたらどうかしラ?」

「はあ……」

 私は曖昧に頷く。

 この数回の会話で、ナンシーさんのキャラクターは見当がついた。おそらくこのヒトは、重要なことは適当に誤魔化してはぐらかすのが好きなタイプだ。これ以上の問答は意味がないと考えていいだろう。

 けれど、不思議と楽になった。

 誰かに相談するということで何かを得たいという気持ちがあったのだろうが。

「……彼がどんな気持ちでこの曲を作った、か……」

 そう言えば考えたことがなかった。

 彼は何か思ってこの曲を作ったのだろうか……?

「そうネ……。ハル」

「あ、はい?」

 物思いに耽っていた私をナンシーさんが現実に引き戻してくれた。

「今回は特別に、ワタシが力を貸してあげようかしら?」

「力?」

 もう相談に乗ってくれたから、十分力になってくれたとは思うのだが……。

「遠慮しないでいいのヨ? ただ単に、ワタシが個人的にアナタにはあの曲にあう最高の歌詞を書いてほしいと思ってるだけだかラ」

「はあ……」

 なるほど。

「オウ。その前に貰う物を貰っておこうかしラ」

「えっ!?」

 この相談、タダじゃないのか!?

「何を驚いた顔をしてるのヨ? アナタ、ワタシが何て呼ばれているのか知らないの?」

「えっと……」

 確か……「必要最低限以上のコスト削減」がモットーの「悪鬼羅刹の会計コンビ」の片割れ、だっただろうか?

「これでも生徒会の会計職だからネ。その辺の感覚はがめついわヨ?」

「……………………」

 ここに来て……。

「い、いくら払えば……?」

「ンー? そうネ……」

 しばし考える素振りを見せ、ナンシーさんはニッコリと笑った。

「歌詞が書けたら一番最初に、アカペラでいいからワタシに聞かせてくれないかしラ?」



       *  *  *



「ラナウン・シー」

 自室でルーズリーフに向かいながら、私は昼間のナンシーさんの言葉を思い出す。

「ラナウン・シーの力を受け入れた者は、その寿命と引き換えに詩の才能と美声を得るノ。ケルトで多くの芸術家や詩人が短命なのは、ワタシたちが原因だともされているワ」

「……………………」

 私はその言葉を聞いた時、ギョッとして椅子から飛び上がった。そしてそのままバランスを崩して床に転んでしまった。

 しかしそれを見て、ナンシーさんは可笑しそうに笑った。

「イヤネー。別に捕って食おうとは思ってないわヨ。それにワタシがアナタに与える力はほんの少シ。一日で消えてしまうような量だケ。寿命が減ると言っても数時間程度ヨ」

 それでもやっぱり減るんだ……。

 笑いながら差し伸べられたナンシーさんの手を掴み、私は立ち上がる。

 その時。

「あた……」

 ナンシーさんの腕を弾く力が強く、またもやバランスを崩して前に倒れ込む。

 今度は転ばないように踏ん張ったのだが、勢いは殺し切れずにナンシーさんと額を軽くぶつけ合ってしまった。

「はい、これでOKネ」

「……はい?」

 すぐ目の前に、褐色の肌の頬を緩ませるナンシーさんがいた。

「これで、ワタシの力がアナタの中に入ったワ」

「え、えええええっ!?」

「それじゃあ、歌詞頑張ってネ! 効果はちょうど二十四時間だけだかラ。なるべく急いだ方がいいわヨー」

 ……というわけで、至る現在。

「本当に力をもらったのだろうか……」

 感覚的には昨夜と比べて変わっているようには思えない。

 数時間とは言え、寿命と引き換えに得た力だ。有効に使いたいところではあるが……。

「んっ……んー……」

 長時間同じ姿勢をとっていたために背中が凝ってしまった。思いっきり背伸びをし、筋を伸ばす。

「でも……」

 何かが違う。

 何が違うかと言えば、やはりナンシーさんの言葉で、昨夜と視点が変わったことだ。

 普段の彼からは想像もできない、言い換えれば「らしくない」オリジナル曲。

 彼がどんな思いでこの曲を作ったのか。

「……ん~……」

 もう一度、私はハミングで彼の曲を奏でる。

 ゆったりとした、どこかほろ苦いメロディー。

 ヒントはここから得るしかない。

 何だろう……。

「……ん?」

 何度目だろう。

 何度もハミングしているうちに、どこか聞き覚えのあるメロディーが含まれていることに気付く。

 そりゃ、何度も歌っているのだから聞き覚えも何もないだろう。しかしこのオリジナル曲に近いメロディーを、私はどこかで聞いたことがあった気がした。

 それも、割と最近だ。

「えっと……」

 いつだ?

 最近音楽を聴いたと言えば、夕べだ。私と同郷で同族の歌手のアルバム。

 しかしあれは違う。そもそも曲調が全くの別物だ。

 ならば……。

「あ」

 そうだ。

 やはり昨日、軽音楽部の部室で弾いた、音楽の授業の課題曲。

 恋人の再会を歌ったあの曲。

 あれのAメロと、このオリジナル曲のサビがほんの少しだけ、似ていた。

 と言っても、気付いてもなお、気のせいと思ってしまうほどに微妙に似ている程度だ。

「彼は……何故あの曲を真似た……?」

 課題曲で弾き慣れていたから?

 いや、彼はあれを駒野たちとロック風にアレンジしていた。原曲を弾き慣れているとは思えない。

 では何故?

「あの曲のテーマは……恋人の再会」

 彼にしてはらしくない、ゆったりとしたほろ苦い曲調。

 あの課題曲の歌詞は、別れざるを得なかった恋人が春に再開し、もう一度お互いに惹かれ合うという内容だった。

 Aメロは、二人が別れるシーンと再会するシーンの、特に心に染みる曲調。

「……恋?」

 彼が?

 らしくない……と言うのは、さすがに失礼だろう。

 彼だって思春期男子だ。恋だってするだろう。

「では誰に……」

 そう呟いた瞬間だった。

「え……?」

 脳裏を、途方もないイメージが過った。

 いや、イメージなどという崇高なものではない。単なる妄想と言っても差し支えない代物だった。

「でも……そうだとしたら、話がつながる……のか?」

 グルグルと。

 妄想が私の脳内を駆け巡る。

 ただの混乱状態と言ってもいい。

 けれど。

「……………………」

 歌詞を書かく気になった。

 それも、とびきり捻くれた奴を。



       *  *  *



 翌日。

 昨日と同じ時間にナンシーさんがいる自習室を訪れ、私は約束通り書いたばかりの歌詞を披露した。

「……………………」

「えート……」

 歌い終え、ナンシーさんの方を向くと、彼女は困惑したかのように私の方を見ていた。

「うん、相変わらず綺麗な声だし音程も最高ネ。最高だけド……」

 一瞬言いよどみ、ナンシーさんは口を開く。

「本当に、その歌詞でいいノ?」

「はい。すでに彼らからも許可は貰っています」

「そウ……。だったらいいんだけド……」

 一つ聞いてもいイ? と、ナンシーさんは前置きする。

 それに頷くと、彼女は遠慮がちに聞いてきた。

「キョウたちは、どんな顔をしていたかしラ?」

「酷く微妙な顔をされましたね。まあ当然でしょう。それと、この曲のボーカルも、私が一任することになりました」

 それもまた、当然。

 私が手掛けたこの曲の歌詞は、私にしか歌えない。

「私からも……一つ、聞いていいですか?」

「はイ?」

「その……彼のことですけど」

「彼?」

「彼……藤原経とは、どういったご関係で?」

「……………………」

 キョトンと、呆けた表情をする。

「私……今回の相談を持ち込んだ時に、一度も彼の名前は出していません。でもあなたは、この曲を作ったのが彼だと知っていた」

「……? あア……」

 一瞬だけ、訝しげに眉をひそめる。しかしすぐに納得したように小さく頷いた。

「アナタ、キョウの紹介でここに来たのではないのネ?」

「え? そうですけど……」

「オウ。そうだったのネ。何か微妙に話がかみ合わないなー、と思ったラ」

 一人納得するナンシーさん。その言動に、私は若干の苛立ちを覚えながらも、さらに追及する。

「私、昨日調べました。ラナウン・シーのこと。……ラナウン・シーは寿命と引き換えに美声と歌の才を与える。それはあなたが教えてくれたことと同じでした。けれど……他にも重要な特性、縛りがあるでしょう?」

「……………………」

「ラナウン・シーは、愛する相手にしかその力を与えない。間違いないですか?」

 古来より、ヨーロッパで名を馳せた文化人が短命であるのは、ラナウン・シーの愛を受け、才を得たからだと言われている。

 逆に、ラナウン・シーの愛を受けなければ才を得ない。しかしラナウン・シーは愛を受け入れてもらうべく、奴隷のようにその相手に尽くすのだそうだ。

 そして彼には、そこそこの声と作曲の才があるように見えた。

「……えエ。間違いないワ」

 余裕気に頷くナンシーさん。

 その動作が癪に障り、私は無意識に棘のある口調になった。

「それならば、昨日私に授けたというあなたの力とやらは、嘘ですね? 初対面に対して、愛も何もないでしょうし」

「そうネ。あれは嘘ヨ。ワタシはアナタに力は与えていなイ」

「そして彼の『らしくない』あの曲……。ナンシーさん。もしかしてあなた、彼に力を与えました?」

 そしてもう一言。

「私は、彼があなたをイメージしてこの曲を作ったと考えています」

 ナンシーさんは。

「……………………」

 答えない。

 ただひたすら、可笑しそうに微笑んでいるだけだ。

「なるほド……」

 そして徐に口を開く。

「なるほど、面白い発想ネ。それほどの発想力なら、本当にワタシの力などいらなかったでしょうネ」

「話を逸らさないで」

 つい。

 私は敬語を使うのも忘れた。

 しかし、さすがにそれはすぐに自分でも失礼すぎたかと反省し、咳払いで誤魔化す形となった。

「……で、どうなのですか?」

「アナタはどう思うのかしラ?」

「……………………」

 ダメだ。

 ここでまた苛立っては、話が進まない。

「私は……あなたが、彼に力を貸したのだと思っています。そして彼は、あなたの力を……愛を受け入れた。そう考えてしまうほどに、彼の曲は『らしくない』」

「ふム……」

 小さく頷き、じっと私を見つめる。

 そして。

「半月前かしラ。彼がこの自習室に来たのハ。ちょうど、一連の騒動が終息した辺りかしらネ。オリジナル曲の制作が進まない、ってネ」

 訥々と、それでもどこか可笑しそうに話し出した。

「何だったかしラ……。そうそう、『今俺たちは四人で曲を作ってんだけど、上手くいかないんだよな』って言ってたっけネ。それでワタシが、思いつく限りの上手くいかない理由を挙げるよう促したらね、真っ先に『いつも仲良くつるんでるのに、これには参加してない奴が一人いるのが気がかりだ』って答えたのよ、彼」

「え……?」

 四人とは。

 言うまでもなく、彼を筆頭に駒野と香川、そして宇井だろう。

 そしてもう一人とは――

「彼にどうしてその子を加えないのかと聞いたワ。そしたら『こんなギリギリの時期に頼んでも断られるだろう』ってネ」

「……………………」

 全く。

 結局、もっとギリギリのタイミングで泣きついてきたではないか。

 いや、確かその時はまだ音楽のテストも行われていなくて、私がピアノを弾けるのを知らなかっただけか。

「それでワタシはこうアドバイスしたワ。『ではその子のことを思って曲を作ればいいんじゃなイ?』ってね」

「私を……?」

「そウ。参加できないのなら、せめてその子をイメージした曲を作ればいいじゃない、ってネ。まあその時は、まさかその子が歌詞を頼まれて、彼と同じようにここに来るとは思ってなかったワ」

 彼の勧めでここに来たのかと勘違いして話を少しややこしくしちゃったわネ、と。

「私をイメージした曲……」

 ナンシーさんは申し訳なさそうに苦笑した。

「でも彼、私のアドバイスにもまだ少し不安そうだったからネ。だからハル、アナタと同じような対応をとらせてもらったワ」

「力を与える、と?」

「いわゆるプラシーボ効果ってやつネ。彼のような性格の子には効果はテキメンなのよネ」

「プラシーボ……」

 つまりは、思い込み。

 虚言によって相手をその気にさせる。精神医療に用いられることもあるらしい。例えば、何の変哲もないお茶でも、薬茶だと言って飲ませれば体調がよくなるのだそうだ。

「つまりネ。ワタシと彼はただの相談者と相談相手の関係ヨ。それ以上でもそれ以下でもなイ」

「……っ!」

 うわあ……。

 何か……何か恥ずかしい……。

 勝手に一人で勘違いして、暴走してあんな歌詞まで書いて……。

「……………………」

 いやいや。

 勘違いって何だ。

 私はナンシーさんに言われた通り、彼がどんな気持ちであの曲を作ったのか考えながら歌詞を書いただけだ。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 そこに勘違いなんて存在しないしない……!

「……ハル? 顔色が愉快なことになってるわヨ?」

「気のせいです」

「そうかしラ……?」

 まあいいワ、と。

 ナンシーさんは肩を竦めた。

「それにネ。……ワタシ、しばらくは誰かに力を与えることはできないのよネー」

「え?」

「全くワタシも物好きヨ。文芸に全く興味のない厳つい男に惚れこんじゃったせいで、ろくにラナウン・シーとして役目を担うこともできないワ!」

「はあ……」

「向こうがワタシを受け入れてくれるか、ワタシが愛想を尽かせて別の男にするカ……。持久戦の真っ最中ヨ。……っと、ごめんなさいネ。これじゃあ愚痴よネ」

「……いえ」

 ……何だ。

 このヒトにはちゃんと相手がいるのか。振り向いてもらえていないようだけど……。

 でも。

 これで私の――

「だから、ネ? 別に彼を取って食おうとか考えてないから安心してネー」

「……っ!?」

「また顔色が愉快なことになってるわヨ?」

「……………………」

 何なんだこのヒト……!

 眼鏡越しに睨み付けると、ナンシーさんはニヤニヤと笑っていた。

 ……ユー介とビャクたちを見ている行燈館の面々を連想してしまった。二人とも、すまない。いつもこんな感情を抱かせてしまっていたのだな。

「あラ? 彼、アナタの片恋相手じゃないノ?」

「違います……! 友人としては好感を持てますが、それ以上は……!」

「ふーン……そウ。それなら、彼はどういう気持ちでアナタをテーマにした曲を作ったのか、今なら想像できル?」

「……………………」

 ええい、いちいち引っかかる笑い方と物言いだな。

 なるほど。この性格が『悪鬼羅刹の会計コンビ』と言われる所以か。玲於奈が資金増額申請をバッサリと切って捨てるタイプだとしたら、このヒトはネチネチと意味深なことを言って不安をあおるタイプだ。

「はあ……」

 自然と、溜息が漏れる。

「とりあえず、相談事は以上でいいかしラ?」

「はい……。お手数をおかけしました」

 疲れた。

 私はただ歌詞を書いていただけのはずなのに、何なのだろう、この疲労感は。

 なぜ相談している私の方が疲れているのだろう。

 しかし……なるほど。中等部にまでナンシーさんの相談室が広まっていることが何となく分かった気がしないでもない。

 彼女はノラリクラリとはっきりとした物言いは避ける。けれども、必ず相談者と同じ視線に立って見捨てることはない。

 悩み多き思春期には、そんな存在が必要と言うことなのだろう。

 帰り際、扉に手をかけた所でふと気になって振り返ると、ナンシーさんはすでにノートを開き、勉強している体を装っていた。

 その姿勢がやけに綺麗で、こっちは色々と疲れたのに、向こうはまるで堪えていないようで若干だがムッとしてしまう。

「ナンシーさん」

 苦し紛れの一言。

 私は無意味と知りながらも対抗心からこう言った。

「当日はお礼として、最高にバンドをお見せします。絶対に来てください」

 ……ただの宣伝になってしまった。

 何だか恥ずかしくなり、彼女の返事を待たずに自習室を後にした。


 扉は五センチだけ、開けておいた。




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