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だい にじゅうよん わ ~ダリ~




 家に帰ると同居人がうつ伏せで倒れていた。

「……………………」

 何事!?

「な、直行なおゆき!? ど、どうしたのだ!? 何かあったのか!?」

「うっ……うぅ……」

「直行!」

「……あ、あぁ……詠美えいみ、お帰りなさい……」

「た、ただいま……ではなくてだな! どうした!? 何で倒れている!?」

 とりあえず、そのままの姿勢では息苦しそうだったので、仰向けにして後頭部を自分の膝の上に乗せてやる。すると少しは楽になったのか、表情は穏やかだった。

「いや……大した理由じゃないんですけど……」

「顔を青くして言われても説得力がない! どうしたんだ? 言ってみろ!」

「……………………」

 問い詰めると、直行はしばし無言で私を見上げていたが、すぐに観念したように口を開いた。

「……は……」

「は?」

「腹が……減ったんです……」

「……………………」

 すぐに膝を引き抜いて後頭部を床にぶつけてやった。

「……痛い」

「喧しい! 帰ってみたらお前が倒れていて、肝を冷やしたと思ったら空腹で倒れていた!? 気が抜けるわ!」

「……だから大した理由じゃないって言ったのに……」

 力なくそう呟く直行。

 ああ、もう。本当に余計な心配をかけさせて!

「……私は影女。家とその家主に取り憑く妖怪なんだぞ? この家の家主であるお前に何かあったら、私にまで影響が出るんだ。分かってるか?」

「ご迷惑をお掛けしました……」

「分かればよろしい」

 フラフラと手を挙げる直行。私は頷き、倒れたままの直行を見下ろした。

「で。何でまた自宅で行き倒れているんだ? 空腹なら自分で何か作って食べればいいじゃないか」

「いや……ぶっちゃけ、もう詠美が作った料理以外は食べれない」

「……っ!」

 顔が一気に赤くなったのが自分でも分かる。

 い、いきなり何を言い出すんだこの男は!

「な、直行! その、そう言ってくれるのは嬉しいんだが、だがな! 私の料理は、行き倒れて私の帰宅を待つほどのものではないと……!」

「その……実はおれ、帰宅早々ぶっ倒れまして……」

「だから気持ちは嬉しいが、自分の身の方を心配……何だって?」

「ですから……七時に帰ってからずっとぶっ倒れてました」

「……………………」

 時計を確認する。

 現在、夜の十時半。

 私のバイト上がりが十時だったので、今日の夕食は直行が自分で作って食べることになっていたことを思い出す。

 だと言うのに、何も食べずに三時間以上倒れていた?

「もうすぐ全国大会だから、張り切って練習してたんですが……それが仇となったみたいです……。もう、自炊する気力も残ってません。ですから、詠美の作った料理以外、食べることが不可能です……」

「……………………」

 私は無言で直行を見下ろす。

 呆れた。

「スポーツマンなんだから、自分の体調管理くらいしっかりやらんか!」

「返す言葉もございません……」

 大人しく反省の言葉を口にする直行。

 私は溜息交じりでキッチンへと向かった。

「待ってろ。今、軽く何かを作ってやるから」

「頼みま~す……」

 力ない声が背後から聞こえてきた。



       *  *  *



 人と妖怪が住まう街、月波市を襲った黒炎事件が解決して、半月が過ぎようとしていた。

 私が住み憑いていた直行のボロアパートが黒炎の餌食となったり、入院中の直行のテンションが「飯がまずい」という理由で大暴落したり、ようやく退院して新居を探したら前よりもボロボロの借家しか空いていなかったりと、まあ怒涛の一ヶ月半が過ぎ去ったことと同意ではある。

 そんな町全体と個々人を揺れ動かした事件の最中も、私たちはあくまで平常営業だった。

 まず、この前のアーチェリー地区大会で直行が全国大会への進出が決まった。

 入院生活で腕がなまっていないか私自身も心配だったが、彼は危なげなく全国への切符を手にしたのだ。「地区大会が最後だと思ってたんだけど」と苦笑いを浮かべてはいたが、誇らしげに見えたのは私だけではないはずだ。

 そしてあんな大変な事件が続いていても、私立月波学園の関係者、特に大学生と高校生は浮き足立っていた。

 今月末、つまりは六月の終わりに学園祭が行なわれるのだ。

 五月終わりの中間テストも一段落し、期末試験前のバカ騒ぎを楽しむために準備に取り掛かっている。

「いやー、助かりました。ご馳走様」

「はい、お粗末様」

 冷蔵庫に鶏肉と卵が余っていたので親子丼を作ってやると、直行は一瞬でペロリと平らげてしまった。

 よほど空腹だったのだろう。十五分かけて作った物を三分で完食。

 まあすごく美味しそうに食べるもんだから、作った側としても嬉しい限りなのだが。

「しかしよく考えれば、クラスの出し物の準備の後すぐに猛練習だからな。空腹になるのも頷ける」

「そ。おれは練習があるから早めに抜け出せるんだけど、連中、多分校則破って八時くらいまで残ってるんですよ」

「しかもアーチェリー部でも出し物の準備があるからな。そっちも大変だろう」

「う~む、別にそっちはそうでもないんですがね。ほら、例年通りアーチェリー体験だから」

「ああ、そうか」

 高等部のアーチェリー部では毎年、一般の人にも弓引きを体験させている。競技用の的を使って実際に矢を射るのだが、的までの距離は半分ほどに縮めておく。そして得点に応じてお菓子か何かを配るのが慣わしとなっている。

 ちなみに、大学の方は特に何もしない。そもそも高等部ゆかりの者が大半だから、何か学園祭でやりたいなら高等部の手伝いをしに行くことになっている。

「詠美も少しは顔出してくださいよ」

「そうは言ってもな、ほら、私は入院で出てない分の授業の追加レポートがあるからな」

「う~む、そうですか」

 最初からあまり期待はしていなかったのだろう、直行は早々に引き下がった。

 まあ、時間があれば顔くらい出すつもりだから、あえて口にすることもあるまい。

「さて」

 と、私は手を叩いた。

「夕食も食べ終えたし、直行、いつものやつを頼むぞ」

「……ま、またですか……?」

「当然だ」

 気まずげに視線を逸らそうとする直行。

 しかし私としては、アレをやってもらわないと、もう落ち着いて寝れないのだ。

「やってはくれんのか……?」

「……ああ、もう! 分かりましたよ!」

「うむ、頼むぞ」

 言って、私は直行に背を向け姿勢を正した。そしてふくらはぎまで届く長いポニーテールをまとめていた髪留めを解く。

 途端にバッサと音を立てて髪が広がった。視界が黒で埋め尽くされ、口元しか外気に晒されなくなる。

 そして同時に、服装がラフな部屋着から影女バージョンの漆黒のワンピースに変化する。

 ……この服、妖怪モードになると否応無しに出てくるのが玉に瑕だ。見た目は気に入っているが、夏はとにかく暑いのだ。

「……相変わらず、すごい髪の量ですね」

「ああ。生まれてこのかた切ったことがないからな」

「マジッすか」

 背後から驚きの声が聞こえてくる。

 まあ、そうだろうな。かつて友人たちに同じことを言ったことがあるが、同じような反応を返された。

「これだけ長いと手入れが大変でしょうに……」

「だから頼んでいる」

「はあ」

 まあ切れとは言いませんけど、と。

 直行は溜息混じりに櫛を持ってきて私の後ろに座った。

 そして。

「んじゃ、行きます」

「ああ」

 そう断ってから、直行は私の髪に櫛を入れた。

「……………………」

 あー……。

「直行、やっぱりお前、髪を梳くのが上手いな。すごく気持ちがいい」

「まあ、詠美の大切な髪ですから、そりゃ丁寧になりますよ」

「そうか」

 あー、本当に気持ちいい。

 癖になる。

 事の発端は、つい三日前だ。

 風呂上りで濡れた髪を乾かしながら、私は絡まっていたところを慎重に櫛で梳かしていた。しかし何せ量が量だから、一時間や二時間では終わらない時もある。特に後頭部など見えないところは特に大変だ。

 そんな時、直行が特に理由はなかったのだろうが「ここも絡まってますよ」と、なかなか手が届かないところを梳いてくれたのだ。

 ……その時の気持ち良さと言ったら、もう……!

 美容院など一度も行ったことがなかったから、他人に髪を触られることに不慣れだったため、その感覚がとても新鮮だったのだ。

 それ以降、私自身は前髪だけを手入れし、後ろ髪は完全に直行に任せるようになったのだ。時間も半分になるしな。

「でも普通、女の人って自分の髪を触られるのは嫌って言いません? 人によっては手を握られたりキスされたりするよりも抵抗があるそうですが」

「そうか? 私はこの前、お前に触られたのが初めてだったから、よく分からん。と言うか、髪を触られるのを嫌がって、どうやって髪を切るのだ?」

 切ったことがない私が言うのもおかしなものだが。

「それはほら、気心の知れた美容院ならオーケーなんじゃないんですか?」

「ふーん」

 前髪を櫛で梳きながら、私は頷いた。

 そんなものなのだろうか。

「しかし、気心の知れた奴なら触っていいというのは分かる気がするな。私も、知らない奴に髪を梳かれるのとお前に梳かれるのだったら、お前に梳かれる方が断然いい」

「……………………」

 直行の手が急に止まって無言になった。

 どうしたのだろうと振り返ってみれば、私の髪を手にしたまま俯いていた。心なしか、頬が赤くなっている気がする。

「どうした?」

「……あのですね、詠美」

 呟くように直行は口を開いた。

「あんまり、そう言うことは言うもんじゃないですよ。おれも……ほら、一応、健全男子ですから」

 思わず抱きしめたくなる、と。

 本当に消え入るような声で言った。

「……直行」

「え、あっ、聞こえました? すみません! おれ、少し調子に――」

「……構わんぞ」

「――乗ってまし……え?」

「構わん、と言ったんだ」

 私は髪を梳きながら答える。

「いいか、直行。憑き物系の妖怪には二つのパターンがある」

「はあ……?」

「一つは宿主に危害を加える者。それが怨みによるものなのか、その者の特性によるものなのかは別としてだがな。貧乏神とか悪魔とかがこれに当たる」

「ああ、何となく分かる気がします」

「もう一つはその逆。宿主を幸福にする、もしくはそこにいるだけで特に何もしないタイプだな。有名所は座敷童子」

「なるほど」

「そして私、影女は後者だ」

 影女は家とその家主に取り憑く。

 同類に会ったことはないが、ほとんどが「障子に影のみが映る」や「庭先にボンヤリと佇む」といった具合に特に何もしない者が多いと聞く。

 しかし私は「家事を行う押しかけ女房」という特性を持つタイプの影女だ。

「人を幸運にするタイプの妖怪は大抵の場合、憑く相手を選ぶ。悪人に幸福を運ぶような酔狂なことはしないし、嫌いな奴の近くにい続けるのは御免だ」

 私は、あくまで髪を梳きながらそう言った。

「そもそもお前を嫌っていたのなら、あのアパートに辿り着いたとしても住み憑きはしなかっただろうよ。それにお前の世話などするものか」

「詠美……」

「……だから、な……?」

 遠慮などしなくてもいい、と。

 自分でも聞き取れるのがやっとの声で言った。

 ……まずい。

 自分で言っておいて、結構恥ずかしい。きっと髪の隙間から見えている肌は、今頃真っ赤になっていることだろう。

 そもそも私たちは、きちんとした告白というものをしていない。ただ雰囲気と、その場の対応に追われて同棲という形をとっているだけのような気もする。

 しかし稀にこういう雰囲気になると、「ああ、やっぱり好き合ってるんだな」と実感する。

 そう、好きなんだ。

 最初はただの親切な後輩の家ということで住み憑かせてもらっていた。

それが私の正体がばれた時、それでもあのアパートにいてもいいと言われた時。そして、あの黒い炎で焼かれた部屋から助けてもらった時。

 私は、こいつに惚れたのかもしれない。

「詠美」

 後ろから声が聞こえる。

 私の、妖怪としての名前。

 人間・黒崎くろさき愛美えみではなく、影女としての名前。

 この名前を知っているのは直行と、彼から又聞きした宇井うい理玖りくだけだ。

 そして。

「……っ!」

 そっと、直行の腕が私の肩を抱いた。

 全身が熱くなる。

 二人分の衣服と私の髪を間に挟んでいるにもかかわらず、直行の体温を背中に感じた。

「……ん」

 私はここ数年の間、弓を引き続けて逞しくなった直行の腕に顔を埋める。

 とても温かな、直行の体温。

 髪越しに、静かな吐息が首元にかかる。

 何より、顔が近い。

 見れば、直行も顔を赤くしている。

「……直行」

 そっと、私は彼の名前を口にする。

「詠美……」

 そうすると、今度は直行も私の名前を呼んでくれる。

 そして。

 お互いの顔が自然と近くなり、そしてその唇に、


 ――ぐう


 脊髄反射で頭突きをかましてやった。

「ぎゃあっ!? 歯が! 歯が……!」

「喧しい! 直行、お前! デリカシーがなさすぎだ!」

「ちょっ、それより、歯が……! 何かすっげえ軋んだ音が歯茎から聞こえてきたんですが……!?」

「うるさい黙れ! さっき食べたばかりなのに、何でもう腹の音が鳴るのだ! 全く、お前など知らん!」

「え、ちょ、詠美? どこへ……?」

「もう寝る! お休み!」

「あの……できれば何か作って頂きたく……何かまたすげえ腹が減ってきて……」

「あぁっ!?」

「すみません! 自分で作ります……」

 萎縮する直行を背に、私は手早く髪をまとめた。そして蛍光灯に照らされてできた家具の影に足を踏み入れ、トプンと、潜り込む。

 全く……!

 薄暗い影の中で、私は悪態をつく。

 せっかくいい雰囲気になれたのに……。



       *  *  *



 久しぶりに蒲公英たんぽぽ食堂という、字面と発音が全く似合わない学生食堂に足を踏み入れた。

 いつもならば直行と、たまに理玖や宇井も交えて昼食をとっているのだが、さすがに昨日の今日である。あのデリカシー皆無の男に弁当を作ってやる気も起きず、かと言って自分の分だけ作るのも効率が悪いで、今日は食堂を利用することにしたのだ。

 もちろん、今日は別々だ。

 直行はいつも通り、男向けで量の多い雛罌粟食堂に行っているのだろう。だから私はあえて正反対の方向にある、女性向けメニューが多い蒲公英食堂に来ていたのだ。

「あ」

 そこで、意外な人物を見かけた。

秋晴あきばれ先生」

「んー? あ、黒崎さんじゃない」

 あまり人気のないフレンチトーストセットを頬張りながら、車椅子の女性が顔を上げた。

 朗らかな雰囲気の笑顔にフワフワとしたセミロングの栗毛が印象的の、美人というより可愛い印象のある女性。

 月波大学教育学部の美術系の講義を担当しているが、春の人事異動で人手の足りなくなった文学部の顧問も兼任している。その上、プロの画家兼デザイナーとしても活躍している、多忙な女性だ。

「珍しいね。黒崎さんが一人で食堂に来るなんて」

「え?」

「いつも彼氏さんとお弁当でしょ?」

「……っ!」

「あー。赤くなっちゃって、可愛い」

 イジワルな笑みを浮かべる秋晴先生。今すぐにでも立ち去りたかったが、それも悪い気がしたので向かい側の席に座ることにした。

「何でそんなことを知ってるんですか」

「担当してる学科の学生の個性くらいは把握してるわよ。これでも先生だよ?」

「……それにしても、よく食べますね」

「むー。あからさまな話題転換」

「よく食べますね」

「……えー? そうかな?」

 無理やりに話題を変えてやると、秋晴先生も渋々といった具合に乗ってきた。

 ありがとうございます。

「だってこれ、女の子向けのメニューだよ?」

「その女の子向けのメニューを一度に五人分も食べる女の子がどこにいますか」

 そう、五人分。

 私の目の前のテーブルには、五枚のフレンチトーストと、セットのサラダとスープがきっちり五つ分並んでいた。

「これ、何カロリーですか……」

「んー。そんなに多くないんじゃないかな?」

「いやいやいや」

 ただでさえ砂糖で甘いフレンチトーストを、さらに甘くしたのがこのフレンチトーストセットだ。私も一度食べてみたことはあるが、確かに甘くて美味しい。甘すぎる気もしたが、まあ甘党にはちょうどいいのだろう。

 しかしこの甘味が不人気の理由でもある。

 甘い=高カロリー。それは決して覆ることのない世の理。甘い、美味しい、でも高カロリー。蒲公英食堂名物の愛すべき敵。

 ……それを、一度に五人分も食べている人が目の前にいる。

「だって毎日こんな感じで食べてるけど、太らないし」

「バカなっ!?」

 車椅子なのに、どうやってカロリーを消費しているというのだ!?

 ダイエットに悩む世の女性たちに謝ってください!

 本気でそう叫ぼうと思ったが、さすがに公衆の面前で怒号を上げるわけにもいかず、私は無理やり叫びを飲み込んだ。

 ……ふう。

「で、どうして今日は一人なの?」

「……………………」

 またそっちの話題に戻しますか。

 強引に話題を変えてやろうとも思ったが、口の周りに粉砂糖をつけてやけにニコニコとしている秋晴先生を見て、不可能と判断。

 この人、恋バナとか好きそうだしな……。

「実は……」

 どうせ、注文した物が来るまでしばらく時間がかかるだろう。少しくらい話してみるのもいいかもしれない。

 そう思い、私は昨夜の一部始終をとつとつと秋晴先生に話してみた。

 その間、秋晴先生はモムモムとフレンチトーストを頬張りつつ相槌を打ちながら大人しく聞いていた。

「……と言うわけでして」

 とりあえず、いい感じになったのにあいつの腹の虫に邪魔された、と言うことを遠回しに言ってみた。

 すると秋晴先生は「ふむ」と口の周りの粉砂糖を舐め取りながら大仰に頷いた。

「つまり、いい感じになったのに彼氏さんの腹の虫に邪魔された、と」

「……………………」

 その辺に理玖でもいるのではないかと周囲を見渡した。

 もちろんいなかったが。

「まあ……そんな感じですが」

「んー。確かに、それは彼氏さんが悪いわねー」

「ですよね!?」

 思わず食いつく私。

 しかし秋晴先生は苦笑しながら「でもね」と諭した。

「頭突きはまずいでしょう、頭突きは」

「う、あ……それは……つい、反射的に……」

 シュルシュルと引っ込む私。

 まあ、自覚はあるだけに、反論はできない。確かに頭突きはまずかった。

「それにさ。黒崎さんの方が年上なんでしょう?」

「あ、はい。一つですけど、私の方が上です」

「だよね? だったら、さ? もう少し大人の対応をしてもいいんじゃないかな?」

「大人……」

「そう、大人。笑って『しかたないなあ、また何か食べたいの?』みたいな」

「そ……」

 それは、どうだろう……?

 それで何か作りに台所に向かったら、それはそれで台無しだと思うのだが……。

 そう言うと、秋晴先生は「やれやれ子供だね」と首を振った。

「そこはほら、私を食べ――」

「絶対に言いませんからね!?」

 何だこの人、自分とこの学生に何を言ってるんだ!?

 と言うか、このネタは……!

「……秋晴先生、高等部の養護教諭主任はご存知ですか?」

「んー。メイちゃんだよね? うん、たまにご飯一緒に食べる仲だよ?」

「……………………」

 やっぱりあのヒトの影響か。

 白沢しらさわ先生の下ネタは伝染する……覚えておかなければ。

「まー、冗談は置いておいて」

「冗談だったんですか……?」

「当たり前じゃない。いい歳なんだし、するなとは言わないけど」

「……………………」

「はいはい、イチイチ顔を赤くしない。その辺が子供なのよ。これくらい苦笑しながら受け流すくらいの度量を持ちなさい」

「はあ……」

 苦笑でいいのか。

 それならいつも浮かべているが。

「ともかく、年上なんだから大抵のことは受け止めてあげたらどう? さすがにデリカシー云々はフォローできないかもしれないけど」

「うーん……」

「とりあえず、帰ったらごめんなさいのチューでもしてあげたら? 男って、こっちからされるのって嬉しいらしいよ?」

「……………………」

「……何? その反応」

 私が無言で視線を外したら、秋晴先生はジトッと目を細めた。

 あー……。

「……まさか、まだ……?」

「……………………」

「あっきれた。一緒に住んでどれくらい経つのよ」

「……にゅ、入院を含めれば、そろそろ一ヶ月……いや、気付かれる前を足せば二ヶ月弱になります……」

「お互いを意識し始めたのは入院前からだから、実質一ヶ月以上でしょ? お互い好き合ってて、一つ屋根の下で何も起きないって、逆にすごくない? もう告白も済んで――って、こら。何でまた視線を外す?」

「……………………」

 うわわわわわ……。

「……まさか……」

「……………………」

「……告白も……?」

「……………………」

 無言を貫いていると、「はあー……」と特大の溜息が聞こえた。

 いやまあ、自分でも不甲斐ないとは思いますがね……。

「まさかうちの弟以上の甲斐性なしがいたとは」

「す、すみません……」

「そりゃ彼氏さんも積極的になれないはずだわ。いい雰囲気になっても、本当にそれ以上先に進んでいいのか分かんないんじゃないの?」

「……うぅ……」

 返す言葉もございません。

 俯いていると、秋晴先生は再び特大の溜息を吐いた。

「たまには自分から甘えてみたらどう? で、その場の雰囲気で告っちゃおー」

「えっ、ちょっ、それは……恥ずかしいと言うか、キャラじゃないと言うか……」

 俯いてそう呟くと、秋晴先生は「ダメだこりゃ」と首を振った。

 諦められてしまった……。

「はー。まあ今回はどっちも悪かったってことで、帰ったらちゃんとお互いに謝りましょう。で、ちゃんと自分の気持ちを伝える。いい?」

「はい……」

 はい今日はここまで、といつも授業を締める時のようにパンと手を叩き、秋晴先生はそのまま小さく頭を下げた。

「ご馳走様でした」

「はい、お粗末さまでし……いぃっ!?」

 気付けば、五人分のフレンチトーストセットが物の見事に平らげられていた。

 もうそれは綺麗に、トーストは元より、サラダの野菜の一欠けからスープの一滴まで、何も残っていなかった。

「は、早すぎませんか!? あれだけあったのに!」

「えー。でもまだ食べれるよ? 黒崎さんもいけるでしょ」

「秋晴先生だけです!」

「そうかな?」

 可愛らしく小首を傾げても、あれだけの量をあの短時間に、しかも会話しながら胃袋に収めたという事実は消えない。

 いや本当に、どうやってカロリーを消費しているんだろう……?

 そもそも本当に人間なのだろうか?

 などと私が若干失礼なことを考えているとは露知らず、秋晴先生は「でも……」と口の周りの粉砂糖を舐め取りながら不思議そうに首を傾げる。

「なーんかね。ここ数日、いつもより食べるんだよねー」

「え?」

「わたしだけじゃなくって、遊斗ゆうと……弟もいつもより食べるのよ。そんなに大食いって言うわけじゃないんだけど」

 何でだろうと言いながら、秋晴先生は食器を重ね、器用に片手だけでそれを持ち上げた。

「じゃーね。午後も頑張ってー」

「はい」

「夜も頑張ってー」

「は、って、秋晴先生!!」

 何を頑張るんですか何を!!

 叫ぶと、軽快に笑いながら、これまた器用に片手だけで車椅子を操って秋晴先生は去っていった。

「はあ、もう……」

 一気に体力を持っていかれた気がする。

 秋晴先生ってあんな人だっけ……?

 いや、そもそもは白沢先生か。白沢先生はいいヒトなんだけど、こういうところで問題が生じるんだよな……。


 ――食券二十八番、野菜うどんでお待ちのお客様ー。できてますよー。


「……あ、私だ」

 そう言えば、お喋りに夢中になって自分の昼食を忘れていた。思い出せば、さっきから何度か呼ばれていた気がする。

「……伸びてなきゃいいな」

 うどん……。



       *  *  *



 当然と言えば当然のことなのだが、やはり出汁を吸ってしまって若干柔らかくなったうどんを胃袋に収め、私は午後の授業に臨んでいた。

 大学生と言っても一年のうちは専門科目は少なく、今回も一般教養の授業だ。

 科目名は「日本の文学」だが、この授業、色々と不評だ。

 授業の名前からは文字通り、日本の文学史を読み解くものと予想されるし、シラバスにも「明治から現代までの小説家の半生を紐解きつつ、作品に触れる」と書いてあるのだが。

「ふわぁっ……」

 ……つまらんのだ、これが。

 一応、文学部に所属しているだけに、古典文学から現代文学まで、小説は何でも好きなのだが、それでもやはり現代文学の方が好みではある。

 しかし先生はもうお爺さんと呼ばれる一歩手前のお歳だからか、基本的に明治から昭和初期までの文学者しか授業に登場しないのだ。前期の授業も半分ほどになり、ようやく大正時代に入ったところだ。このペースだと平成の文学者は触りしか扱わないだろうな。

 ついでに言えば、やけにゴモゴモと口篭って喋るため、聞き取りにくい。マイクは使っているが、なぜか口にすごい近付けているため吐息がブウブウと喧しい。

 さらに意味不明なことに、手にしたマイクで黒板を指すのだ。つまり、黒板を指すほど重要な部分が、全く聞き取れない。黒板を向いて喋るし。

「ふわぁっ……」

 眠い……!

 一応レジュメを見れば、授業後に提出する小レポートは書けるが、それでも居眠りはまずいだろう。中には居眠りを見つけても注意せずに点数を引いていく人もいると聞く。

 まあこの先生がそんな人なのかは知らないが、とにかく居眠りはしない方がいいのは間違いない。

 授業料を払ってるんだから、授業は聞こう。

 それが私のモットーで――


 ――くう


「……………………」

 無言で私は隣に座る友人を見た。

「……明菜あきな?」

「……あ、ごめん。聞こえた?」

「……聞こえた」

 高等部からの友人は少し恥ずかしそうに苦笑しながらお腹を押さえた。

 さすがに授業中であるため、私は小声で訊ねた。

「……何? 昼、食べたなかったの?」

「……食べたんだけどさ。なんかお腹空いちゃって」

 言いながら、明菜はゴゾゴソとバックの中身を漁った。

 そして「あっ」と嬉しそうに、それでも小さく笑ってバックから何かを取り出した。

「……おやつにと思って買った菓子パンだけど、いいよね」

「……いや、いいわけないだろう」

 授業中に何を食べようとしているんだこの娘は。

「……えー」

「……えー、ではない。あと三十分で終わるんだ。それまで待てないのか」

「……待てない」

「……………………」

「……それにほら。みんな食べてるし」

「……みんな?」

 言われて気付く。

 辺りを見渡してみれば、何人かがコソコソとパンなりお菓子なりを食べていた。しかも後ろの方には堂々とスナック菓子の袋を広げて数人で摘んでいる学生もいた。

「……な、何だ……?」

 いくら大学の授業が、他人に迷惑をかけない範囲で自由だとは言え、自由すぎないか?

 私が呆れているうちに、明菜はこっそりと菓子パンの袋を空けて食べ始めていた。

「……あ、こら明菜――」

 注意しようとした。

 したのだが、そのあまりにも異様な光景に私は目を疑った。

「……な、何!?」

 黒板の前に立って相変わらず聞き取りにくい解説をする先生。

 それもそのはずだ。

 先生は、なぜか教卓の上に置いている飴を舐めながら授業していたのだ。その証拠に、すでにいくつか包み紙が袋の近くに置いてあるし、時折コロコロと飴を口内で転がす音をマイクが拾っていた。

 さすがにおかしいと思ったのだろう、何人かは不思議そうな顔で先生を見つめる。

 いくらなんでも、先生が授業中に物を食べるというのはおかしい。

 しかし、隣で菓子パンを頬張っている明菜を始め、何かを食べている面々は別段何とも思っていない風に授業を聞いている。

「……これは……」

 私は授業そっちのけでその現象を観察してみる。

 そして、すぐにあることに気付いた。

 今現在、何かを食べているのはだった。

 妖怪には目の前の者が同族かそうじゃないか位は分かる。そして明菜も先生も、他の何かを食べている人たちは全員そんな感じがしない。つまりは人間だ。

 さらによく見てみれば、何かを食べていないまでも空腹でお腹を押さえている面々も、例外なく人間のようだった。

「……妖怪は何ともないのに……?」

 ここまでくれば後は直感的に理解できる。

 非常に地味ではある。地味ではあるのだが、これは――



       *  *  *



 授業終了後、私は講義室から駆け出して宇井に電話をかけた。

 すぐに高等部はまだ授業中だった思い出して焦ったが、すぐに『はい、隈武くまべです』と応答があった。

「……高等部は授業中ではないのか?」

『うーん、授業中だと分かっていて電話するのもどうかと思いますけど……。ですがまあ、授業中ではありませんよ』

「そうなのか?」

『はい。中等部と高等部は学園祭に向けて午後は準備時間ですので』

「ああ……」

 そう言えばそうだったな。

「では今すぐ動けるか?」

『うーん、本当は準備で忙しいんですけど、今は好き勝手に動かせてもらっています』

「は?」

『気付いてます? 今、学園内で起きていることに』

「あ、ああ。何やら異様な空腹を訴えている者が続出しているな。人間限定のようだが」

 確認すると、電話越しに『そうです』と頷く声が聞こえてきた。

『うちのクラスでもやけにお腹の音が鳴ってて大変でしたよ。特に女子が』

「……だろうな」

『で、さすがに異常だということで、わたしは原因究明のほうに借り出されています。わたしだけでなく、割と手の空いている陰陽師に退魔師、その他鼻の利く妖怪の面々が動いてるようです』

「そ、そうなのか」

 さすがと言うか、私がわざわざ声をかける必要もなかったかもしれない。

 やはり彼らは専門家なのだ。

 そう改めて確認したところで、宇井は自信なさ気に呟いた。

「こっちも授業中に、学生だけでなく先生まで飴を食べだす始末だ」

『そうなんですか? うーん……』

 しばし考える宇井。

『黒崎先輩、今から暇ですか?』

「暇だが?」

『でしたら手伝ってくださいませんか? 学園内に何かがいることは分かっているんですが、捜索面積に対して人手が少な過ぎ――ああ、もう! また!』

 電話の向こうからかすかに腹の音が聞こえてきた。

『とりあえず、情報交換をしたいので一旦合流しませんか?』

「あ、ああ。そうだな」

『今どこにいます?』

「メインストリートの購買部の前だ。ちなみに、さっきから菓子パンが飛ぶように売れて店員の嬉しい悲鳴が聞こえてくる」

『……なるほど。ではそこで待っていてください。すぐに駆けつけます!』

 プツッと、電話が一方的に切られた。

 情報交換なら電話で済むと思うのだが……。しかしここで待てと言われたのだから大人しく待つことにする。

 その間、何か異常はないかと周囲を見渡していると。

「ただいま到着しました!」

「うわぉっ!?」

 背後から声をかけられた。

 振り返ると、アーチェリーを肩から下げた見慣れた少女がそこに立っていた。そしてその後ろには、肩を上下させて荒い息遣いの大男の姿が。

「は、早かったな」

「はい。こいつに負ぶってもらいましたから」

「……いきなり走らすな」

 言いながら、大男は鋭い目付きを険悪にして宇井を睨んだ。その迫力と言ったら、大柄な体躯と相まってか、その筋の者でもそうはお目にかかれないだろうものだった。

 はっきり言って、怖い。

「あ、確か初対面ですよね。こちら、高等部二年S組の狛野こまの明良あきらです。鼻の利く妖怪代表と言うことで、練習中の軽音部から拉致って来ました。こんな不機嫌そうな顔してますが、これがデフォですんでお気になさらず」

「……もっとまともな紹介をしろ」

 言って、再び宇井を睨み付けるが、明良と呼ばれた大男は自覚があるのか否定はしなかった。

 とりあえずは、自己紹介。

「私は黒崎愛美だ。文学部一年で、元高等部アーチェリー部部長。後輩が世話になっている」

「……どうも」

 ブスッとした口調で小さく頭を下げる。

 ……宇井を信じるなら、別段不機嫌ではないらしいが、これはさすがの私も身構える。平然としている宇井を見る限り、どうにも見てくれで損をするタイプのようではあるが。

「それで、明良」

「……何だ」

「この辺り、どう?」

「……………………」

 宇井に訊ねられ、明良はスンスンと鼻を鳴らして周囲の匂いをかいだ。しかしすぐに小さく溜息を吐いて宇井に向き直った。

「……ダメだ」

「えー。黒崎先輩が購買のパンが飛ぶように売れてるって言ってたから、この辺だと思ったのに」

「……煤けた子供のような匂い、だろ? そんな物はしない」

「うーん、そっか……」

 残念がる宇井。

 私が説明を求めるように見つめていると、今思い出したかのようにポンと手を叩いた。

「すみません、忘れてました」

「まあ、いいが」

「簡単に説明させて頂きますと、もうお気付きでしょうが、こんかいのこれは妖怪の」


 ――きゅるる……


「ああ、もう! また!」

 突如鳴り出した腹を押さえ、宇井は恥ずかしそうに顔を赤らめた。

 なるほど、異能の力を持っていようが持っていまいが関係なく、人間なら例外なく空腹を感じているのか。

 納得していると、宇井はおもむろに手の平に何かを指で書き、それを舐めた。

「ふう……。マシになったかな」

「何だ、それは?」

「え、ああ。この手の妖怪の対策です。手の平に『米』と書いて舐めれば空腹は和らげるんですよ」

「そうなのか?」

「あくまで一時的ですけど」

 言って、宇井はポケットからケータイを取り出した。少し失礼します、と断ってから誰かに電話をかけ始める。

「……あ、アズアズ? うん、今メインストリートの購買部の近く。……うん、うん。こっちは何もないみたい。……うん、ユーユーって今、どの辺を探索してる? ……あー、はいはい。だったら、一応大学の方も見てくるよう伝えて。先生も何か食べてたらしいから、近くにいるかも。……うん、よろしく」

 報告を終え、こちらに向き直る宇井。

「お待たせしました。じゃあちょっと、探索に付き合って頂けます?」

「それはいいのだが、分かれて探した方がいいのではないか?」

「うーん、そうしたいのは山々なんですが、今回はそうもいかなくて」

「ん?」

「ほら、ターゲットの姿が分かっていないので判断が難しいんですよ。鼻が利く妖怪の力で大体の場所は分かっても、それが本当にターゲットなのかは人間にしか分からないので」

「んん?」

「うーん、と。確かめるのは簡単ですよ。近付けば急激にお腹が空くはずなので」

「……なるほど」

 確かにそれもそうだ。

 これほど広い敷地の中にいる者を空腹にさせるような妖怪だ。そんな奴が近くにいればすぐに分かるだろう。……腹の音で。

「とりあえず、ここは購買部で売り上げが上昇しているだけのようなので、移動しましょう。個人的には、先生まで物を食べだしたという大学の方が怪しいと思ってるんですが」

「そっちはもう、他の者に任せたのではないのか?」

 さっきの電話での口ぶりだと、ユーユーなる者が向かっているようだが。

 訊ねると、宇井は渋い顔で溜息を吐いた。

「……どうにも今回の件、野郎共には期待できないんですよね。別段お腹が鳴ったって気にするような連中でもないし、お腹が空いたら食べればいいだろ、みたいな感じですので」

「ああ……」

 そう言うことか。

「で、逆に女子は必死になって探している、と」

「はい……」

 男女の差か。

 確かに、年頃の娘が異性の前で腹の虫を暴れさせているというのは羞恥の極みだろう。

「……別段、男は気にしないがな」

「男は気にしなくても女は気にするのよ」

 呟いた明良をキッと睨み付ける宇井。

「いい? 百歩譲ってお腹が鳴るのはいいのよ。でも、この空腹感だけはどうにもならないの」

「……はあ」

「お腹が空いたなー、何か食べようかなー、こんなところにお菓子があるー。……これが負のスパイラルの始まりなのよ」

「……………………」

「ちょっとでも油断すれば、数ヶ月の努力が水の泡。すぐにフカフカのプニプニに逆戻り!」

「……知るか」

「明良みたいな脳筋バカには分からないわよ!」

「……そもそも、少しくらいふっくらしていた方が男受けはすると思うんだが」

「ちっちっち。分かってないね、明良」

「……ああ?」

「痩せるためなら、男にモテたいなんて二の次よ!」

「……ダイエットって、何のためだよ……?」

 意味が分からないと首を傾げる明良。

 まあ、分からないだろうな、こればかりは。それが女という生き物なのだと理解してもらわなければ。

「……ん?」

 ふと、明良が顔を上げた。

 そして仕切りにスンスンと鼻を鳴らして周囲を確認した。

「どうしたの?」

「……微かだが、匂う。煤けた布切れと、乳臭いガキの匂いだ」

「どこから!?」

 食い付く宇井。


 ――きゅるる……。


 叫んだ瞬間、また小さく原が鳴ったが、すぐに手に米と書いて舐める。

「コホン……。で、どこから?」

「……大学の敷地……これは、農学部の植物園か?」

「大学の方……。やっぱりそっちか。それに農学部の植物園とくれば、もう間違いないか……!」

 言って、宇井は突如走り出した。

「お、おいっ!?」

「……ちっ。あいつ、前しか見えてないな」

 苦々しく呟き、明良も駆け出す。

 おーい……。

「私も付いて行った方が良いのか……?」

 今日はスカートじゃないから、別にいいんだけど……。



       *  *  *



「ダリ」

 私たちが農学部の植物園に到着すると、そこに着物を着た小さな少女が膝を抱えて座っていた。

「ヒダル神とかダルとか呼ばれますが、まあみんな同じようなものです。山道を歩いていると急激な空腹に襲われるという怪異ですが、原因はたいていこいつですよ。ちなみに、『ダルい』の語源となったという説もあります」

「山道……ねえ……」

 走る二人に何とか付いて行ったので息が上がっている。

 深呼吸を繰り返し何とか息を整え、目の前の少女に目を向ける。

「妖怪……だよな?」

「はい。ですが、ヒトとしての意思はほとんど持っていない、どちらかと言えばお化けとか幽霊とかに近い存在ですね」

「……何でそんなものが」

「うーん、この植物園は結構鬱蒼としてるから、山道に見えないこともないから顕現条件としてはアリなんじゃない? それに、ここ最近の学園祭準備の陽気に浮かれて出てきちゃったんじゃないかな?」

「……なるほど」

 頷く明良。

 確かにここ数日の浮き足立った雰囲気に、浮かれた小妖怪がついつい出てきてしまうのも頷ける。

「で、宇井」

「はい?」

「この娘、どうするんだ?」

 このまま放置というわけにもいくまい。現にさっきからスルーしているが、宇井は何度も何度も腹の虫を手に書いた米の字で押さえつけていた。

 妖怪というより幽霊に近い存在と言っていたが、成仏でもさせるのだろうか?

「もちろん、ご退去願いますよ」

「まさか、滅するとか……?」

「とんでもない!」

 フルフルと慌てて首を振る宇井。

「開祖ならいざ知らず、さすがの八百刀流も現代じゃ妖怪を見つけ次第始末、何てことはしませんよ。この前の黒炎騒動は例外です」

「じゃあどうするんだ?」

「うーん、と。ここは順当な手段を踏もうと思います」

 そう言って、宇井はポケットに手を突っ込んで何かを取り出した。

「チョコ?」

「はい」

 頷きながら、その辺の店で普通に売っている一個十円のチョコの包装紙を剥がす。

「ダリというのは、そもそも飢え死にした旅人の霊が妖怪化したものなんです。ですから何か食べるものを恵んでやると消えてくれるんですよ」

「ほう、そうなのか」

 確かに言われてみれば、この少女、ずいぶんとみずぼらしい格好をしている。着物はツギハギだらけのボロ布のような状態だし、伸び放題の髪はボサボサでフケだらけだ。頬は痩せこけているし垢も目立つ。

 まるで餓死寸前の風貌だ。

 これが実際に目の前にいる人間ならば、相当臭うだろうな。

「はい、お嬢ちゃん」

「……………………」

 宇井は小さなチョコを少女に差し出す。

 少女はそれを不思議そうに見つめ、宇井が手にしている褐色の物体が何なのか分からずに首を傾げた。

「……それが何なのか分からんのだろう」

「うーん、そっか」

 明良に指摘され、宇井はもう一個、ポケットからチョコを取り出した。そして片方を自分の口に放り込むと、「あー美味しい」と笑ってみせた。

 それで少女はそれを食べ物だと理解したのだろう。再び差し出されたチョコを躊躇うことなく口に放り込んだ。

 そして。

「……………………」

 少女は無言でニッコリと笑った。

 しかし。

「「「……………………」」」

 それだけだった。

 美味しそうに口の中のチョコをモゴモゴさせるだけで、少女には何の変化もない。

「……どう言うことだ?」

「うーん……?」


 ――きゅるる……。


「……………………」

 手に米と書いて舐める宇井。

「しかも全く収まっていないじゃないか」

「うーん、どう言うことなんで……ああ、そっか!」

「……何だ」

 ポンと思い出したように手を叩く宇井。何事かと明良が尋ねると、宇井はポリポリと頭を掻いた。

「うーん、と。ダリの撃退法には食べ物を与える他に、あと二つありまして」

「二つ?」

「はい。もう一つは自分が何か食べること。ですがまあ、今回はこの方法は無効みたいなんで省略です。そしてもう一つが、自分が身に付けているものを与えるんです」

「は?」

 身に付けているものを与える?

「……それは、服とかか?」

「服が一番だけど、靴とか手袋とか、とにかく身に付けるものを与えれば消えるのよ。ほら、飢え死にした人の霊が元だから、身形も満足に整えられなくて、それが未練になったみたい」

「なるほど。しかも女の子だしな。一度くらい綺麗に着飾りたかったろうな……」

 私は未だに口をモゴモゴと動かしている(どうやら噛まずに溶かしているらしい)ダリを見つめる。

 こうやって見てみれば、痩せこけてみずぼらしい格好をしているが、なかなかに可愛らしい顔をしている。

「で、明良。何か持ってる?」

「……急に言われて、持ってるわけないだろう。与えた物は戻ってくるのか?」

「多分一緒に消えると予想されます!」

「……だったら論外だ。オレは今、ワイシャツ一枚だ」

 まさか上裸になれと言うまい? と明良は宇井を睨む。

 対して、宇井も負けじと睨み返す。

「そうは言うけど明良? まさかわたしたちに脱げなんて言わないよね?」

「……いや、さすがにそうは言わないが」

 確かに、ここは人通りがほぼ皆無だ。しかしだからと言って、ここから上着を一枚脱いで薄着になれというのは無理な話だ。

 だが。

「なあ、宇井」

「はい? どうしました、黒埼先輩」

「身に着けている物なら何でもいいんだよな?」

「え? はあ、まあ理論上は」

 そう言って頷く宇井。

 よし、と頷き、私は明良に後ろを向いているように命じる。

「……?」

 首を傾げながらも、言われた通りに後ろを向く明良。それを確認すると、私は今着ているシャツの裾に手をかけた。

「え、ちょっ!? 黒崎先輩!?」

「宇井、持ってろ」

 下着の上にタンクトップだけというラフすぎる格好になりながら、私は脱いだシャツを宇井に押し付ける。そして次に髪をオールバックのポニーテールにまとめていた髪留めに手を伸ばし、そっと外した。

 バッサと音を立てて大量の黒髪が私の体を覆う。同時に、着ていた服が漆黒のワンピースに変化した。

「ふむ。妖怪モードになると無条件で服が変化するのが欠点だったが、今回は助かったな」

 視界を覆う前髪の間から服装を確認し、私は満足げに頷く。

 少々暑苦しいが、そこは私が我慢すればいいだけのことだ。

「明良、もういいぞ」

「……? ……っ!?」

 振り返った明良が驚いて鋭い目付きを心持ち丸くする。

 まあ、少し目を離していた隙に、友人の先輩が黒ずくめの髪の毛お化けに変身していたら、そりゃ驚くだろう。自覚はある、うん。

「さて、宇井。そのシャツをこの娘に着せてやってくれ」

「え? いいんですか?」

「構わん。この格好は少々暑苦しいが、ただそれだけだ」

「いえ、そうじゃなくて。このシャツ、消えちゃうかもしれないんですよ?」

「問題ない。どうせ安物だ」

「はあ……」

 曖昧に頷きながら、宇井はダリの少女に向き直る。

 少女はやはりよく分かっていないらしく、キョトンと首を傾げたまま私たちを見上げている。

「あ、待てよ」

「どうしました?」

「どうせなら、髪と体くらい洗ってやろう」

 これでも一応は女の子なんだ。いつまでもみずぼらしい格好でいさせるのも可哀想だ。

 幸いにもここは農学部の植物園。温室も近くにあるから、水道くらい引いてあるだろう。

 と言うわけで、私と宇井は蛇口を探して少女を洗ってやることにした。見るからに外見を気にしなさそうな明良は「……その必要があるのか?」と首を傾げていたが、スルーした。

 ちなみに彼は現在、少し離れた所で待機中。このダリが見た目が五歳か六歳くらいの幼女の姿をしているとは言え、女の子のシャワーシーンを見せてやるつもりは私にも宇井にもない。

「やはり少し冷たいな……」

「でも今日はちょっと暑いですから、ちょうどいいんじゃないですか?」

 予想通り、温室の脇に水撒きようの蛇口があった。

 セットされていたホースを一旦外し、水を出す。少しばかり冷たいような気もしたが、当の本人は興味深そうに水をバチャバチャと触っている。

 さて。

「とりあえず、脱がすか」

「ですね」

 ボロ布同然の着物を脱がし、宇井が水を手で少しずつすくいながら少女の体にかけてやる。冷たくて気持ちいいのか、少女はニコニコと笑って水で遊んでいた。

 その間に私は着物を洗ってみる。

 少し力を入れただけで破れてしまいそうな状態だったため、慎重に力を入れる。どうせもう着ることはないだろうと思ったのだが、濡れた体を拭うくらいの機能は取り戻したかった。

「さて、頭を出して目を瞑れー」

 着物が大体タオル程度の機能を取り戻したところで、私は少女の洗髪に取りかかった。

 ボサボサで手入れが全くされていないと言っても、少女の髪だ。触ると細く柔らかだった。それを絡まったり抜けたりしないように慎重に洗う。

 目に水が入って暴れないかと心配したが、少女はあくまで大人しく髪を洗われていた。

 むしろ気持ちよさそうに微笑んでいる。

 まあ、他人に髪を触られる言いようのない心地よさは、つい最近体験したばかりだ。しかしここは、私たちが信頼されているということを喜ぶべきなのだろうか?

「よし、こんなものか?」

「ですね」

 時間をかけて何度も髪を洗ってやった。本当はシャンプーやリンスがほしいのだが、そこまで高望みしない。そもそも人間ではないからか、意外と水洗いだけでも綺麗になった。

「宇井。服」

「了解です」

 ボロボロの着物で最低限の水気を拭き取り、素肌の上から直接シャツを着せてやる。

 当然ながらサイズが合ってないが、裾が膝下まで来ているので見ようによってはワンピースに見えなくもない。

 それに顔と髪も洗って、ずいぶんと見られる姿になったと思う。

 うんうんと宇井と二人で頷き合う。

「大分綺麗になったな」

「ですねー。でっかいシャツも、むしろ可愛らしさを引き立てていますね」

「そうだな」

 ……で、だ。

「「……………………」」


 ――きゅるる……。


「おい」

「な、何なんでしょうね……?」

 手の平に米の字を書いて舐める宇井。

「全然治まらんではないか!」

「うーん……そんなはずはないんですが……」

「まさかダリではないというオチじゃないだろうな?」

「い、いえ。ダリで間違いないとは思うんですが……」

 しかし、目の前の少女はシャツの裾を掴んでクルクルと不思議そうにその場で回っている。全く消える気配はないのだが?

「何か、何かまだ足りないんじゃないんですか?」

「足りないって……。お菓子も食べさせて、体も綺麗にしてやったし、服も新しい物を与えてやった。その上、髪まで洗ったのだぞ? 何が足りないと言うのだ?」

「うーん……」

 額に手を当てて唸る宇井。

 思いつく限りのことはやった。しかし、この少女の姿をしたダリは消えないし、宇井はいまだに腹を鳴らしている。

 一体どうしろというのだ。

「んー……うん?」

 その時、ふと気付いた。

 楽しそうにクルクルとその場で回っていた少女が足を止め、私を、と言うか私の振り解いた髪の毛を見ていた。

 それは、何だかおもちゃ屋でほしい玩具を見つめる子供のような瞳のようで……。

「……まさか」

 私はポケットに突っ込んでいた髪留めを取り出し、振り解いたままだった髪の毛をまとめる仕草をする。すると。

「……………………」

 見て分かるほどに、ダリの少女はションボリと落ち込んだ。

「ひょっとして……お前、これがほしいのか?」

 鼈甲を模した、プラスチック製の髪留めを見せてみる。すると少女は星が出そうなほどに目を輝かせた。

 何だその顔。チョコを食べてる時も髪を洗われている時もそんな表情しなかっただろう。

 しかし、やはりか。

「これがほしいのだな?」

「……っ!!」

 コクコクと何度も頷く少女。

 そうか、と頷き、私は少女に後ろを向かせる。

「いいんですか?」

「いいさ。どうせ家に帰るまでこの格好でいなければならないんだ。それに――」


 ――たまには自分から甘えてみたらどう?


「――髪留めの一つくらい、ねだっても罰は当たらないだろうしな」

「……? はあ」

 何だかよく分からないが頷いておこう的な相槌が聞こえてきた。まあ、分からなくてもいい。別段教える気もないが。

 私は少女の濡れた髪を手櫛で整えてやる。

 最初は私と同じポニーテールにしてやろうと思ったが、この可愛らしい雰囲気にはお下げの方が似合いそうだったので、少し緩めの三つ編みにする。

「ん……。よし」

 濡れた髪は若干編みにくかったが、一見しただけだと問題はないように見える。

 少女は三つ編みにされた自分の髪と、解けないようにつけた琥珀色の髪留めを見比べて、ニッコリと笑った。

「ありがとう!」

 初めて、少女が口を利いた。

 そして驚く暇もなく、次の瞬間には少女の姿はもうどこにもなかった。

「「……………………」」

 私と宇井は、さっきまで少女がいたところを呆然と眺めていた。

 当然のようにシャツも髪留めもその場に残されることはなかったが、私はどこかホッコリとした気持ちになっていた。



       *  *  *



「ダリは幽霊として扱うなら、地縛霊の類なんですよねー。そりゃ、ちょっとやそっとじゃ祓えないわけですよ」

「しかし、髪を結ってやるだけで、あんなに喜ばれるとはな」

「やっぱり、幽霊でも妖怪でも、髪は女の命なんですね」

 その後、私たちは遠くで律儀にも待機していた明良に礼を言って帰ってもらい、高等部のアーチェリー場に向かっていた。私はもう授業はないので、アーチェリー部の学園祭の準備を手伝おうと言うことになったのだ。

 それに何より、あそこには直行がいるし。

「……………………」

 そうだ、あそこには直行がいるんだよなー……。

 うわー、どういう顔で会えばいいんだ……? まだ正面向かって顔を合わせるには妙に気まずいんだが……。

 うー、でも……。

「……髪留めを新しく買ってもらうというのも……」

「え?」

「い、いや! 何でもない!」

 不思議そうに顔色を伺ってきた宇井に対し、首を振って全力で否定する。

 しかし、直行に新しい髪留めを買ってもらうことを想像すると、心臓の鼓動が自分でも分かるくらいに早くなる。

 直行は優しい。そりゃ、頼めば飼ってくれるだろうけれど。

「……昨日の次の日だぞ……」

 今度は宇井に気付かれないように小さく呟く。

 思いっきり頭突きをぶちかましてやった次の日に物をねだるって、何だか都合がよすぎる気がする。むしろ私が何かを渡して謝るのが普通な気がするが……。

 いやしかし、あれは直行が悪い。そう、直行が悪いのだ。

 ……そう思わなければ、どうにも居心地が悪い。

「はあ……」

「……?」

 今日何度目かの溜息を吐き、それを宇井が珍しそうに眺めているのが視界の隅に映る。

 まあ確かに私は普段、溜息を吐くことは少ないが。

 しかしずっと悩んでいるわけにもいかない。そうこうしている間にも、私たちはアーチェリー場に着いてしまったのだ。

 そして。

「……あ?」

「あ……」

 なぜか、部室の前でボーっとしていた直行に出くわした。

「詠美……? 何でその格好なんだ?」

「あ、いや……これは……」

「これには深い訳があってですね。黒崎先輩は髪留めを失くしたんです」

 言いよどんだ私に代わり、宇井が説明してくれる。

 助かった……。

「失くした? どこかに落としたのか?」

「そういうわけでもないんだが……」

「ふうん? まあ、いいけど」

「で、長谷川はせがわ先輩。何でこんなところにいるんですか?」

「いや、さっきまで学園祭の準備をしてたんだが……。男性陣があまりにも使えないものだから、空いた小腹に収める菓子の買出しを優希ゆうきに命じられたんだ。おれは早々に帰ってきたんだが、仕事はないからって追い出された」

「ご愁傷様です……」

 苦笑を浮かべる宇井。

 きっとその空腹とやらも、すぐに解消されるのだろうから、買出しに走らされた男性陣は徒労に終わるのだろうな。

「と言うことは、わたしの仕事もないんですか?」

「ああ。こっちは人手が足りてるらしいから、クラスの準備に行っていいぞ」

 え?

「了解しました!」

「おう。じゃあな」

 ……え?

「お疲れ様でした!」

「はい、お疲れー」

 タッタッタと早々に走り去っていく宇井。

 ……えー……!

 お前、行ってしまうのか……!

「「……………………」」

 残された私たちは、しばし呆然としていた。いや、正確に言えば、呆然としていたのは私だけだったのだが。

 直行はただ、去っていく宇井の背中をボーっと見ていた。

 ……よほど暇らしい。

「あのさ、詠美」

「……うんっ!?」

 と、私も何となく気が抜けたところで急に直行が声をかけてきた。

「な、何だ!?」

 上擦った声で返す。

 すると直行は、いきなり膝に額がつきそうな勢いで頭を下げた。

「昨夜はごめん!」

「へ……?」

 いきなりの謝罪に、私は呆けた声を上げる。

 ごめん……って、その謝罪は間違いなく、昨日のムードぶち壊しに対する謝罪なんだろうが……。しかし今になって思い返せば、直行のあの異様な空腹はさっきのダリの少女が原因であると考えられるわけで……。

 ……あれ?

 これ、誰が悪いってわけじゃなさそうだぞ? あの女の子は存在理由に則って飢餓を散布していただけだし、直行はそれに中てられただけだ。

 強いて言うなら、頭突きをぶちかましてしまった私が悪い気がするが。それでもムードぶち壊しに対する代償だと思えば当然と言えなくもない。

「……………………」

「その……やっぱり、あれはデリカシーがなさ過ぎたと思う。……ごめん」

 しかし、そんなことは直行の知るところではない。さっきからこっちが恐縮してしまうほどに平謝りしている。

 ……………………。

 これって、チャンスじゃないか?

 直行は申し訳なく思っているようだし、私は……その、秋晴先生にいわれたからと言うのもあるが、直行に……甘えたい。そして私は髪留めをダリの少女に譲ってしまった。

 ……ふむ。

 これは、私の良心が許す限りなら、ある程度のワガママも許されそうだ。

「……悪いと思ってるか?」

「も、もちろん!」

「そうか」

 私はあえてツンケンとした口調で訊ねる。

「あー、髪がこうも長いと、さすがに邪魔だなー」

「……?」

「髪留めもないし、困ったなー」

「……………………」

 棒読みでそう口にする。しかし口調とは裏腹に、前髪の隙間から見えている口元が緩むのだけは抑えきれなかった。

 私の明白な演技に、直行は一度チラッと腕時計を確認し、困ったような、しかし嬉しそうな微笑を浮かべた。

「なあ、詠美。今から暇?」

「暇だが? 何だ? 何か用か?」

「……はあ。もう、意地悪はやめてください。その……さ。今から新しい髪留め、買いに行かないか?」

「髪留め? 誰のだ?」

「詠美の」

 不便だろ、と直行は私の前髪をちょっと摘んだ。

「あ……」

 その指先が一瞬だけ鼻の頭に触れ、私は顔が赤くなるのを感じた。

 ……ダメだな。余裕ぶって見せようとしたのに、ちょっと触られただけでメッキが剥がれてしまう。

「……いいのか?」

「いいも何も……。いや、買わせてくれよ」

「遠慮はしないぞ」

「どうぞご遠慮なく」

 大仰に直行はお辞儀をする。

 その動作が似合わなくて、私は思わず吹き出してしまった。

「……ほら、そうと決まったら行くぞ。たちばなに呼び戻される前に」

「了解しました。ちなみに、どこへ?」

「宇井の知り合いがやっている雑貨屋が近くにできたらしくてな。小物も充実しているらしいから、一度行ってみたかったのだ」

「了解」

 そう言うと直行は。

「えっ……」

 自然な動きで、私の手を握って歩き出した。

 しかも、ただ手を繋いだだけじゃない。それはいわゆる、恋人繋ぎとかいうやつで……。

「詠美」

「な、何だ!?」

 私はひっくり返った声で返す。

「おれ、詠美が思ってる以上に、詠美のこと、大切に思ってるから」

「……っ!」

「だから、さ。これからも、そばにいてくれ」

「直行……」

 歩きながら、真っ直ぐに前を向きながら語る直行。

 その顔は明らかに赤くなってる。

 全く、これを顔色を変えずに、正面を向いて口に出来れば花丸なのだが。……いや、それだと直行らしくないか。

 普段ならいざ知らず、昨日の次の日なのだ。

 これが、直行にしたら限界点だろう。

「……………………」

 私は何だか嬉しくなって、キュッと、握る手にほんの少しだけ力を加えた。

「詠美?」

「全く。直行、私は影女なのだぞ? ……そばにいて、当たり前の妖怪だ」


「これから先、いやでもそばにいてやるから、覚悟しておけ」

「……お手柔らかに」

 そう言って、私たちは身を寄せ合い、並んで歩いた。




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