だい にじゅうさん わ ~狐の嫁入り~
「えーと、これで全部?」
「うん……ありがとう。梓ちゃん」
病院の一室から、そんな会話が聞こえてくる。
やれやれ、やっと終わったか。
「ほらユーちゃん! 出番よ、手伝いなさい!」
「はいはい」
呼ばれるがままに僕は病室に入った。
そこには、亜麻色の髪の勝気な雰囲気の少女と、日本人形のような艶やかな黒髪に牛乳瓶の底のような厚いレンズの黒縁眼鏡をかけた少女が立っていた。
「朝倉、荷物はそれで全部?」
「うん。……入院って言っても、二週間だけだったから、そんなに荷物はないの」
「そりゃ助かる。どうせ荷物持ちは僕に回ってくるんだから」
「そーそ。女の子に荷物持たせちゃダメよ?」
「いや、梓には持たせていいと思う」
「何ですって!?」
僕と梓のくだらないやり取りを見て、朝倉は灰色の瞳を細めて微笑んだ。
今朝まで朝倉が寝ていたベッドには、大き目のボストンバックが二つだけ乗っている。中には下着類を含む着替えが入っているらしく、荷物をまとめ終わるまで僕は廊下待機を命じられていた。
「じゃ、行こうか」
僕はボストンバックを担いで病室を出る。その後を、朝倉と梓が着いて来た。
「新居って学内の寮だよね?」
「うん……そうだよ」
「確か、雲海寮だっけか? 男女共同の」
「うん。あそこは……ほら、藤村先生が管理人さんをやってるから。その……きちんと、魔法を一から勉強しなおせるし……」
「……そっか」
僕はチラッ朝倉を見る。
その灰色の瞳には、先週までの暗い影は見られない。
二週間前。
あの黒炎騒動が決着した後のことである。
病院で目を覚ました朝倉の荒れようは、それは酷いものだった。
あのいけ好かない悪魔に唆されていたとは言え、黒炎を操り、魂を集めていたのは朝倉自身なのだ。悪魔はただ、求められたから力を与えただけだ。
それはつまり、朝倉はその手で人を殺めたということ。
正気に戻り、その罪悪感に押し潰された朝倉は、何度も自殺を図ったらしい。入院後、最初の三日間は精神科のベッドに両手両足をバンドで縛られ、精神安定剤を投与されていたと聞く。おまけに舌を噛み切らないように猿轡までされていたとか……。
監禁じゃん。
しかしそうでもしないと、朝倉は本当に自殺してしまっただろう。
根が優しすぎるだけに、「まさか」の一言で一蹴できない。
しかも、事情徴収に来た警察の第零課の人たちは「オカルトで犯した罪は、現代の日本では裁けない」と言ってさっさと帰ってしまったのだ。
これでは、朝倉の罪悪感が拭われることはない。
そう思っていた。
しかし先日、ようやく落ち着きを取り戻した朝倉は、決心したようにこう宣言したのだ。
――わたし、生きる……。犠牲になった人たちの分まで生きて、誰かのために何かをできる魔術師になる……!
と。
何が彼女の内で変わったのかは、僕には分からない。
夢にでもお兄さんが出てきたのかもしれないし、一人思い悩んだ結果かもしれない。
それでも。
僕は友人が変わり、生きていてくれることを、心の底から喜んだ。
今回の退院後の引越しも、その一環らしい。
今までは町外れのアパートに一人暮らしをしていたらしいが、これからは寮で藤村先生の指導の下、改めて魔術師を目指すとのことだ。
それに、と朝倉は続けた。
「わたし……よく考えたら、ユッくんと梓ちゃん以外に、友達らしい友達もいなかったから……。もっと気を置かずに話せる友達がいたら、今回みたいに根詰めて暴走しちゃうこともなかったと思うんだ……。寮に入ったら、嫌でも他人との繋がりができるでしょ?」
そう言って朝倉は、少し困ったように、しかし期待に満ちた笑みを浮かべたのだった。
* * *
「あ。……ねえ、二人とも」
「ん? どうした?」
「ちょっと、寮に行く前に寄りたい所があるんだけど……」
そう言って、朝倉は僕の顔を見た。
僕は二つのボストンバックを背負い直しながら頷いた。
「僕は別にいいよ。梓は?」
「オッケー! どこ行くの?」
「最近、近くに雑貨屋さんができたんだって。……何でも、小物から家具まで色んな物を置いてるらしくて。寮って勉強机とベッド、クローゼット以外に家具はないらしいから、見ておきたいんだけど……。前住んでたとこは家具が備え付けだったから、何も持ってないの……」
「いいよ、それくらい。どこにあるの?」
「えっと……確か……」
朝倉はその新しくオープンしたという雑貨屋の住所を言う。
えーと、ここからだと……。
「寮までの最短ルートは外れるけど、まあ大丈夫でしょ? 問題ないわね? 荷物持ち」
「別にいいよ」
別にいいけど、何で梓が偉そうなんだ。
「と言うか、そんなところに雑貨屋なんてできたんだ」
知らなかった。
「結構いい感じらしいよ……? 看護師さんたちも、いいって言ってたの」
「へー。可愛い小物とか置いてるかな?」
「お前、可愛い系って好きだっけ?」
「い、いいじゃない別に!」
「梓、中等部の時に誕生日プレゼントでネコのぬいぐるみあげたら、『いらない』って突っ返しやがっただろ」
「そ、それは……」
あれで、僕は梓は可愛い物にはあまり興味がないものとばかり思ってたんだけど。
意外とそうでもなかったのかな?
「……………………」
「ん? どうした朝倉」
「ユッくんってさ……梓ちゃんと仲、良いよね?」
「「え?」」
唐突に何を言い出すんだ、この娘は。
「まあ確かに、梓とは付き合いだけは長いけど」
「ほら……。ユッくん、年上だと下の名前にさん付けだし、年下だと男の子ならくん付け、女の子ならちゃん付けじゃない? それに同い年だと苗字で呼び捨てでしょ……? でも、梓ちゃんだけは『梓』って、下の名前で呼び捨てだし……」
「あ、それはあたしも少し気になってた。八百刀流関係者も、基本お互いあだ名で呼び合ってるのに、ユーちゃんだけは違うよね」
なんで? と女子二人は首を傾げた。
うーん、何でと言われてもなー……。
「気付いたらこの形に収まってた、じゃダメかな?」
「えー」
「少し気になるよね……?」
「ほら、梓とは生まれた時から一緒だったし」
「それを言ったら、ウッちゃんだって同じようなものじゃない」
歳が一つ違うだけだし、と。
梓はなおも食い下がった。
まあ確かに、宇井さんも付き合いの長さで言ったら梓と同じくらいだ。同じ遠距離系の武器を扱う家柄同士、交流も深かった。
けど。
「何か違うんだよなー」
「何がよ」
「強いて言うなら、語呂?」
「語呂……」
そう、語呂。
「あだ名で呼び合うのは、何かあんまり得意じゃなくてさ。僕に異常な数のあだ名があるのが原因かもしれないけど。でもだからって、呼び捨てって言うと、こう、何か呼びにくい」
「えー。試しに『宇井』って呼んでみてよ」
「宇井」
「……………………」
「何だよ」
「……うん、何か違和感ある」
「だろ?」
「次、あたしみたいに『ウッちゃん』って呼んでみて」
「ウッちゃん」
「うーん……何か違うな」
何でだろう、と梓は首を傾げた。
いや、ただ聞き慣れてないだけだと思うけど。
「……じゃあユッくん。『梓ちゃん』って呼んでみて」
「梓ちゃん」
「ぐわっ……! これはあたしが恥ずいっ!」
「だろ?」
「じゃあ、『梓さん』は……?」
「梓さん」
「……ちゃん付けほどじゃないけど、違和感」
そうだろう。呼んでる僕だって違和感があるし。
「じゃあ次! 『真奈ちゃん』って呼んでみて」
「えー。まだ続くのかよ、この話題」
「いいからいいから!」
「ったく……。真奈ちゃん」
「……………………」
「こら待て朝倉。顔を赤らめて無言になるな」
こっちまで恥ずかしいじゃないか。
「真奈ちゃんが照れたところでハイ! 次は『真奈』って呼び捨て!」
「真奈」
「「……………………」」
「何で二人して無言になる?」
朝倉はさらに顔を赤くするし、梓はイラッと顔を顰めた。
「その……やっぱり、下の名前で呼び捨てだと、恥ずかしい……」
「ちゃん付けよりもか?」
「うん……」
「て言うか、聞いてるとムカつく」
「梓、理不尽って言葉知ってる?」
前から思ってたけど、たまに酷いなこいつ。
「じゃあ、そういう梓は僕を呼び捨てで呼んでみろよ」
「えー」
「えー、って」
「いやー。いっつも『ユーちゃん』って呼んでたら、本名忘れちゃった」
「おいっ!」
「もー。怒んないでよ。冗談じゃない」
「いつも本名で呼ばれないだけに冗談に聞こえないんだよ!」
心臓に悪い!
と、怒鳴ったところで。
「……ユッくんの本名って、何だっけ……?」
「「え」」
ちょ、ちょっと、朝倉……?
「なあ朝倉、いやさ朝倉さん! 冗談だよね?」
「えーと……」
「お願い! 冗談って言って! ユーちゃんが可哀想過ぎる!」
春に会ったばかりだから、ホント、マジで冗談にならないんだけど!
「……冗談だよ?」
「「……………………」」
心臓に悪すぎるわっ!!
「わたし、一度見聞きしたものは忘れないもん。……言ってなかったっけ?」
「聞いてただけに、より一層冷や汗物だったよ……!」
朝倉の完全無欠の記憶力でも覚えられてなかったかと思うと、言いようのない恐怖があった。
僕の本名の存在感が迷子です……。
「ユッくん、ゴメンね……?」
「いや、いいよ……」
朝倉が、冗談を言えるくらいにまで心に余裕が生まれたってことだしね……。
それは喜ばしいことなんだけど。
「で、僕の名前は?」
「……………………」
「お願いだから無言にならないで! 冗談だって分かっててもキツいものがある!」
「あ、ご、ゴメンね……!」
と、朝倉は両手を合わせて何度も頭を下げた。
……その灰色の瞳が笑っているように見えたのは、きっと気のせいではない。
こいつ、隠れサドだぞ絶対。
「大丈夫。ユッくんの本名だよね……?」
「うん……」
「ユッくんの本名は――」
――ユタカ。
トクン……。
と。
心臓が一度、大きく鳴った気がした。
「――で、あってるよね……?」
「え。あ、うん、そう。あってるよ」
「……? どうしたの? ユッくん……?」
「いや、何でもない」
不思議そうに首を傾げる朝倉。
それに僕は両手を振って否定した。
そう。
何でもないはずなんだ。
だって。
彼女は、もうどこにもいないんだ。
僕を本名で呼んでくれた彼女は、もうどこにもいないんだ。
だから、あの声は空耳なんだ……。
* * *
新しい雑貨屋があると言う住所には、意外な先客がいた。
そのヒトは、大きな引越し用のトラックから荷物を下ろして運んでいた。
「あれって……」
長身に夜空色の艶やかな長い黒髪。そして十人中十人が一度は振り返るであろう美貌とその完璧なスタイル。普段着らしい足元まで隠した黒いロングスカートのワンピースがよく似合っている。
ただ今日は、白いエプロンとバンダナを身に付け、何やら忙しそうにしている。
「もみじ先輩?」
「あら? 梓さん。それにユウさんに真奈さんじゃないですか」
「こんにちは、もみじさん」
「こ、こんにちは……」
手にした荷物を足元に置き、もみじさんは微笑みながら挨拶してきた。
僕は軽く会釈し、朝倉はオドオドと頭を下げる。
まあ、悪魔に体を乗っ取られた時、朝倉はもみじさんに気圧されてたからなー。記憶はなくても本能的な部分に軽いトラウマが残ってても仕方がない。
と言うかもみじさん、ホント、あの時は僕も少し怖かった。
何と言うか、そこにいるだけで威圧感が半端なかったのだ。
「もみじさん、引越しですか?」
「はい、そうです」
「何でまたこんな微妙な時期に……」
梓が首を傾げる。
確かに、僕ら一年生が三月に引越しをするなら分かる。でも何で三年生のもみじさんが、しかも六月頭なんて変な時期に引越しを?
「……あの、ひょっとして、わたしが燃やしちゃって……?」
「「あ」」
朝倉が申し訳なさそうに尋ねる。
そうか、あの黒炎で住む所を失った人は大勢いる。もしかして、もみじさんもそのうちの一人だったのだろうか?
表情に出ていたのだろう。もみじさんは「ご心配なく」と微笑みながら首を横に振った。
「わたしの前の家は何ともありませんよ。ただ、良い機会でしたから思い切って引越しすることにしたんです」
「良い機会?」
いや、タイミング的には微妙だと思うんだけど……。
その時、引越しトラックの陰から業者のおじさんが顔を出した。
「お嬢ちゃん、家具は全部、部屋に運んでおいたよ」
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ。それより、大丈夫かい? ダンボールは玄関先に置きっぱなしだし、家具の配置とか、おれたちがやってもいいんだよ?」
「大丈夫です。お気遣いなく」
「そうかい? じゃ、また何かあったら連絡くれな」
「はい、ありがとうございました」
「そんじゃ」
手を振り、おじさんはトラックに乗り込んだ。
ブルルンとエンジンが鳴り、トラックが走り去る。
それをもみじさんは手を振って見送っていたけれど……。
「「……………………」」
正直、僕と梓はそんなのを気にしている場合じゃなかった。
トラックの陰になって今まで気付かなかったけど、もみじさんの荷物らしきダンボールの山は、朝倉が来たがっていたらしき雑貨屋の前に積まれていた。
そしてその店の外見は、見事なまでに黒く塗りたくられており、店名だけが『WING』と白抜きになっている。
が、それは問題じゃない。いや、問題だけど。
一番問題なのは、店先でブスッとした表情で、もう全然似合わねえ、もみじさんとお揃いの白いエプロンを身につけた長身の黒い男の方で。
「「……………………」」
いや、何度見ても瀧宮羽黒その人だった。
「「「……………………」」」
僕ら三人はしばし無言でお互いを確認した。
ただし、梓さんと羽黒さんが険悪そうに睨み合っているのに対し、僕は全力で笑いを堪えていた。
何だあの人、本当に白が似合ってない……!
もう違和感なんてもんじゃない。ずっと黒ずくめだったからと言うのもあるんだろうけど、超絶的に浮いている。
今まで黒ずくめで統一していたのは何かの心情でもあるのかと思っていたけど、これは単に白が似合わないからという理由なのかもしれない。
いやマジで似合わねえ……!
震える腹筋を必死で押さえ込んでいたら。
「……………………」
スタスタスタ、と。
羽黒さんが無言で歩み寄ってきた。
そして。
「笑いたかったら笑え! 笑い堪えてるのを見てる方が腹立つわ!」
「ぎゃんっ!?」
殴られた!
しかもグーで!
親父にも殴られたこと……は、結構あるけど!
「痛ぇ……!」
しかし、何も全力で殴らなくても……!
頭割れるかと思った……!
「……で」
と、梓が嫌悪感たっぷりの声音で訊ねた。
「あんた、悪魔封じた結晶持ってどこかに消えたと思ったら、こんなところで何してんのよ?」
「見りゃ分かるだろ」
「見て分かんないから聞いてんだけど!?」
吠える梓。
まあ確かに、分からない。
いや、大体見当はつくけど、意味が分からない。
「見ての通り、ここ、俺の店」
と。
羽黒さんは至極当たり前の事実を述べるようにそう言った。
ああ、やっぱり……。
何となく、店の外見からそんな気はしたんだ。
でも。
「何で、あんたがこんなところで店開いてるのよ!」
「俺がどこで開店しようが勝手だろう」
「月波市で開くな!」
「いいじゃねえか。妖怪絡みの仕事は金になるって学んだんでな。今回の成功報酬の七千万を元手に、よろず屋をやることにしたんだよ。ま、当分は雑貨屋で細々と食っていくことになろうだろうがな」
「知るか! 出てけ!」
「ところで、妖怪絡みはしばらくの間は裏の仕事ってことになるんだろうが、俺の肩書き、揉め事処理屋と請負人、どっちがいいと思う?」
「知ーるーかーっ!! て言うかどっちもアウトっ!!」
怒号が昼間の街角に響いた。
ああ、今日も梓は元気だなあ。
羽黒さんが本拠地をここ、月波市に構えた。
またもや騒動の予感……。
梓の胃に穴が空かないか心配ではある。
「それよりも! 兄貴がここで開店するのは百歩、ううん! 一京歩譲って許可したとして!」
「譲ってねえだろ、それ」
「黙らっしゃい! 何よりも問題は、何でもみじ先輩の引越し先がここなのかって話よ!」
「え? 私ですか?」
梓の怒りの矛先がいきなり、もみじさんに向いた。
しかし当の本人はいつものように落ち着いて微笑んでいた。
「何で、と言われましても。今まで私が住んでいた家は羽黒のお金で借りていたんです。羽黒は別にいいと言ってくれましたが、やはり少し心苦しかったんです。そんな時に羽黒が自分の新居兼店舗を構えたのですから、良い機会ですので転がり込むことにしたのです」
「まずそこがおかしいって言ってるんですよ! 何で兄貴の家に転がり込むんですか!」
「だって。……恋人ですし」
ポッと、もみじさんは頬を桜色に染めた。
……こんなに幸せそうなもみじさんは初めて見る。
うん、確かにそれはある意味、納得できる理由ではある。
あるのだけど……。
「ふ、不純異性交遊禁止! 校則第二十三条! もみじ先輩、生徒会長でしょう!?」
「ああ、それなら風紀委員長の和田さんと秘密裏にタッグを組んで、表現を曖昧なものに変えました」
「まさかの才色兼備上司が職権乱用!?」
「あら、承認の判子を押したのは梓さんですよ?」
「え、いつの間に!? って、あれか! 黒炎騒動で溜まってたあたしの仕事の中に紛れ込ませたんですか!?」
「はい。梓さん、すごい勢いで仕事を片付けていたので気付かなかったんですね」
「な、なんと言う不覚……! 誰ですか、そんな詐欺師みたいな作戦考えたのは!」
「俺に決まってるだろう。俺も昔は生徒会長だったからな。校則は一通り把握している」
「あんたが原因かああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
怒号再び。
あーもう。
ホント、賑やかだなあ、この三人。
僕と朝倉、すっかり蚊帳の外だよ。
「ど、どうしよう、ユッくん……」
「面白いからもう少し見てよう」
「え……」
早く家具を見たいのであろう朝倉には悪いが、店長の羽黒さんがこうして雑談に興じている以上、もうしばらく付き合ってもらおう。
梓が黒ずくめの二人に食って掛かる。
「そもそも! あたしは二人が付き合ってるなんて認めません!」
「お前は昭和の頑固親父か」
「兄貴は黙れ!」
「しかし梓さん。私たちが恋人同士であることは事実ですし……」
「兄貴がもみじ先輩に無理やりそう言わせている可能性だってあります!」
「お前の中で俺はどんな評価なんだよ」
「最悪!」
「……至極分かりやすい回答をありがとう」
やれやれ、と。
羽黒さんは大袈裟に肩を竦めた。
「まあ実際のところ、微妙だろ。俺とお前の関係なんて」
「え……」
「え、ってお前」
「そんな……! 羽黒、わ、私との関係は、遊びだったんですか……!?」
「セリフと時間と場所を選べ! 色々と誤解を招くようなことを言うんじゃない! それと梓! 無言で太刀を取り出すんじゃない! 言霊どうした!?」
「あの時! 羽黒は『お前は黙って一生俺に尽くせばいいんだ』って言ってくれたじゃないですか!」
「そこまで鬼畜なセリフは言ってねえよ! 梓! さらに太刀を喚び出して俺の周囲に配置して陣を形成するんじゃない! 俺はともかく、もみじまで巻き添えにする気か!」
「ちっ」
舌打ちし、梓は(どうやったのか知らないが)言霊なしで喚び出した四本の太刀を体内にしまった。
危ない。
もう少しで周囲が滅茶苦茶になるところだった。
もちろん、洩れなく僕らも巻き添えだ。
「うぅっ……。羽黒、私たちって、何なんですか……? 恋人だと思っていたのは、私の独りよがりだったんですか……?」
「もみじ先輩を泣かすとは、不届き千万……!」
「お前、どっちだよ!」
「もみじ先輩と付き合うなんて許さない! でも泣かせるなんてもっと許さない!」
「だあっ! 何だこの八方塞な状況!」
「……両手に花?」
「……ユッくん、少し違うと思うよ……?」
まあ片方は敵意剥き出しのトゲだらけの花だしなあ。
正直、僕はいらない。
「羽黒……」
「ああもう! 分かった! 分かったから、もみじ、泣くな。な?」
「うぅっ……。でしたら、羽黒、ちゃんと言ってください……! 私は羽黒の恋人です、って!」
「……………………」
ここまで困った顔の羽黒さんも初めて見るな。
と言うか、もみじさんってこんなに積極的なヒトだったんだ。
あー、と羽黒さんは明後日の方向を見る。
対して、もみじさんは期待するような眼差しを向けているし、背後には梓が殺すような視線を向けている。
さあ、どうする羽黒さん?
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「「……………………」」
四つの沈黙が流れる。
気まずそうなのが羽黒さんで、ドキドキしてるのがもみじさん。殺気立ってるのが梓で、僕と朝倉は完全に傍観者だ。
で。
「あー……と、だな」
「はいっ!」
期待全開の声を出すもみじさん。
そして。
「…………お前は、俺の……恋人、だ」
「――抜と」
「羽黒っ!」
梓が言霊を紡ごうとするのと、もみじさんが動き出すのはほぼ同時だった。
しかしながら、梓のほうが若干早かったかもしれない。
けれど、梓は言霊を紡げずに固まっていた。
いや、それは僕と朝倉、誰よりも羽黒さんも同じだったけど。
「……っ!?」
「んっ……」
と。
硬直したままの羽黒さんにもみじさんは抱きついて――キスしていた。
「なっ……! んな、な、なあっ!?」
「ひゃっ!? へぇっ!? ふぇっ!?」
「うわ。うわー。うわー……」
奇妙極まりない声が三つ聞こえてきた。
梓は首まで真っ赤にして言語機能に障害を起こしているし、朝倉は朝倉で恥ずかしそうに両手で目を覆っている。……けど、そんなに指の間を開けていたら目隠しにならないと思う。
対して僕は、一周回って落ち着いて、その様子を観察していた。
羽黒さんはやはり初めてではないようで、最初こそ驚いてはいたが、すぐにもみじさんの肩を抱いて受け止めていた。
表情は見えにくいが、もみじさんも心の底から嬉しそうな、恍惚とした顔をしていた。
しかし長いキスだな。
それにしても、他人のキスシーンを初めて生で見たけど、結構生々しいな、これ、って、うわっ。もみじさん、あれ、舌入れてない?
うわー……。
さすがにこれ以上は止めた方がいいんじゃないか?
そう思った時。
「……ぷはっ」
羽黒さんもそう考えたのか、半ば無理やりにもみじさんの肩を掴んで引き離した。その時、「あ……」と切なそうな声が聞こえたのは無視する。
「……もみじ、お前……」
「はい……?」
頬を赤らめながら小首を傾げるもみじさん。
そして羽黒さんの視線を追って、ようやく僕らがいることを思い出したのか、「あら」と口元を押さえた。
「「……………………」」
僕と朝倉は気まずくなって、なるべく二人を見ないように視線を外した。
で。
もう一人の外野はと言うと。
「……ば」
首元どころか指先まで真っ赤に染めた梓は、震えながらそう口にした。
「ば?」
バカ?
爆発しろ?
バージェス動物群?
……いや、最後の一つはありえないけど。けど、この場合は……。
「――抜刀、四本!」
「やっぱりか!」
「――水陣《揚清激濁》!!」
「バカっ! こんなところでそんな大技……!」
喚び出された太刀で形成された陣を破壊しようとした僕と羽黒さんが、突如出現した巨大な滝に押し潰され、全身濡鼠となった。
朝倉が超早口でルーンを唱えて障壁魔法を発動させてくれなかったら、その辺に放置していたままだったもみじさんの荷物が羽黒さんの新居諸共、流されるところだった。
* * *
「……ったく、ひでえ目に遭った」
「僕に言わせれば、今回ばかりは自業自得だと思います。僕は完全に巻き込まれましたし」
「うっせえ」
羽黒さんにシャワーと乾燥機を借りた後、僕は店の奥の居間でお茶を啜りながら店内の様子を見ていた。
外見が外見だけに、もしかしたら内装はメタな造りになっているのかと思ったら、案外そうではなかった。すごく落ち着いたカフェのような雰囲気の店内に、家具や小物を始めとする商品がスッキリと置かれていた。
「……………………」
「何だよ」
「これ、羽黒さんの趣味じゃないですよね?」
「おう。もみじがデザインした」
「へえ」
「本当は外装もあいつに任せようとしたんだがな。そしたら外も内もオンナオンナしたデザイン画を持って来たもんだから、慌てて外を黒に塗りつぶしたんだ」
「で、外に合わせて内側も少し落ち着いた雰囲気になった、と」
「そう言うことだ」
ズッ、と羽黒さんは湯呑みのお茶を飲み干した。
あのヒト、本当に何でもできるな。でも、元のデザインって見てみたかったな。羽黒さんが慌てて黒に塗りつぶすようなデザインって、どんなのだ?
と言うより、もうデザインを考えていた段階からここに住み着く気だったんじゃないか?
自分の住むところなんだから自分の趣味に合わせよう、みたいな。
意外と姉さんとかイヴさんと趣味が似てるのかもしれない。私服は黒のワンピースしか見たことないけど。
「そもそもあいつは、昔は白ばっかり着てたんだぜ?」
と、羽黒さん。
「へ? そうなんですか?」
「おう。ユウ、お前、あいつの本性見たろ?」
「あ、はい。白……と言うか、名前通り白銀でしたね」
「あいつ、自分の銀髪がお気に入りでな。髪に合わせて白い服ばっか着てたんだ。だがまあ、俺と会って人化するようになってからは、俺の趣味に合わせたのか、黒ずくめにするようになったんだがな」
「へえ」
「今の黒髪黒服も十分綺麗だがな。前に一度だけ見た、銀髪に白いドレス姿っていうのが、もうメチャクチャ綺麗だったぜ?」
「……………………」
本人が目の前にいないと、いきなり惚気だしたよ、この人。
何? 逆ツンデレ?
いつの間にか丸くなっちゃって、まあ。
ご馳走様です。
……ああでも、昔は梓に対してもこれくらいデレてたっけ。
ちなみに、恋人が惚気ているとは知らないもみじさんは引越しの片付けの真っ最中。好意で朝倉と、羽黒さんに命じられて梓も手伝っている。
梓は最初渋っていたが、店先を洪水させた時に、僕が背負っていた朝倉のボストンバックをずぶ濡れにした罪で働かされている。
そう言うと、朝倉自身は気にしないと言ってはいたが、さすがの梓も断れなくなったというわけだ。
今現在、朝倉のボストンバックの中身は僕らの服と入れ替わりに乾燥機で回っている。もうそろそろ終わるかな?
「……ところで、羽黒さん」
「何だ」
「実際のところ、羽黒さんともみじさんって、どういう関係なんですか?」
「……何だよ、藪から棒に」
「いえ、少し気になって」
そう言うと羽黒さんは少しの間、考える素振りを見せた。
そしてしばらくの沈黙の後、こう答えた。
「分からん」
「分からん、って……」
「そうとしか言いようがないんだ」
羽黒さんは自分の湯呑みに新しいお茶を注いで、言葉を続ける。
「あいつは俺に好意を抱いているし、俺も憎からず想ってる。けどそれは、出会った頃の敵対関係、その後の主従関係を経ての好意だ。簡単に恋仲の一言で片付けられる関係じゃねえよ」
「……そうですか」
「強いて言うなら」
依存関係、と。
羽黒さんは呟いた。
過去、二人に何があったのかは、ここでは掘り下げるべきではない気がした。
敵対関係。
主従関係。
そして、依存関係。
封印された六年間に、瀧宮羽黒と白銀もみじがどのように関わり合っていたのかは、僕の知るところではない。
最悪の物語など、知ろうとも思わないけど。
けど。
もし羽黒さんの気が向いて、その話がポロっと零れた時は、耳を貸してやらないでもない。
「それなら」
と。
僕は質問を変えた。
「羽黒さんは、もみじさんのために死ねますか?」「死ねる」
即答だった。
改行の必要すらなかった。
「そうですか」
小さく頷く。
そして。
「僕は……死ねませんでした」
気付いたら、僕はそう呟いた。
「……………………」
羽黒さんは黙って僕を見る。
「……………………」
僕はそれに、無言で応えた。
すると、遠くからピーピーと機械音が聞こえてきた。ああ、やっと朝倉の着替え類が乾いたようだ。
「僕、ちょっと梓を呼んできます」
「おう」
取り込みはあいつにやってもらわなければ。女子の下着が入っている乾燥機に不用意に近付くほど、僕は愚かじゃないしね。
と。
「そうだ羽黒さん。ついでにもう一つ」
「何だ」
居間から出ようとしたところで、僕は不意に思いついた質問をぶつけてみた。
「梓のために、死ねますか?」「ノーコメント」
即答。
改行の必要もなし。
見れば、いつも通りの軽薄そうな笑みを浮かべていた。
やれやれ。
じゃあ、と僕は続ける。
「白羽ちゃんのために、死ねると思ったことはありましたか?」
「……………………」
と。
羽黒さんは、今度は即答できなかった。
しばらく沈黙した後、小さな声が聞こえた。
「……俺も、死ねなかった」
だが、と続ける。
「今なら死ねる」
と。
はっきりと答えた。
* * *
女の買い物は長い。
それは決してファッションに限ったことではないようだ。
「あ、これ結構便利じゃない?」
「んー……。でも少し、大きすぎるかな……?」
「でしたら、こちらなどどうでしょう?」
引越しの片づけを粗方終えて、朝倉の家具選びに僕と梓で付き合っていたのだが、なかなか終わらない。雑貨屋『WING』の店員として、もみじさんが選別に参加してくれたので、僕は戦線離脱することになった。
暇だったので、居間でお茶を飲みながら羽黒さんと二次大戦時の旧ソ連の銃火器について駄弁っていると、マナーモードにしたままだったケータイにメールの着信があった。
見てみると、姉さんから「お客様が来ているので帰ってくるように」とのことだった。
「僕に客?」
誰だろう。
首を傾げつつ、ワイワイと家具選びをしていたはずなのに、小物コーナーで姦しくお喋りをしている三人娘を見やる。
すると。
「あの嬢ちゃんの家具選びは俺が面倒見てやるから、帰っていいぞ。買うなら俺が運ぶし、荷物も俺がやろう」
と、羽黒さんが言ってくれたので、僕は大人しく帰ることにした。
まあ、もみじさんもいるし、変な物は買わされないだろう。
と言うわけで帰路に着く。
初夏直前の昼下がり。
僕は暖かな日差しが降り注ぐ中、意外な人たちに出くわした。
正確には『人』は一人しかいなかったけど。
「お。穂波の」
「……む」
「やあ」
「やっほー、ユーユー」
「ユー介、今帰りか」
活発に笑う経さんと、大柄な体躯にしかめっ面がデフォルトの明良さん。明良さんよりもさらに大柄なのに穏やかな表情の相良さん。そして『隈武』の次期当主で、弓矢使い陰陽師の宇井さん。さらに行燈館でお馴染みの金髪碧眼眼鏡美女のハルさんだった。
しかしなぜか五人揃って、休日の昼間だというのに制服を着ていた。
「どうしたんですか? 制服で」
「実は聞くも涙、語るも涙の事情が――」
「……ないぞ」
「ただの補習だよ」
大袈裟な演技を始めようとした経さんを、明良さんと相良さんが一蹴する。それに対して経さんは「ちぇっ」と面白くなさそうに舌打ちした。
と言うか補習って……。
「経さんならともかく、何でハルさんと宇井さんまで?」
「俺はともかくって、おい」
「うーん、まあ、そうだよね」
「スルーかよ隈武の!」
「だが事実だろう」
「くっ……」
ハルさんの青い瞳に射抜かれて沈黙する経さん。自覚はあるらしい。
この二人は、ぶっちゃけ、補習を必要とする成績ではない。ハルさんとか国語の点数、僕よりもむしろ上だし。
「で、どうしたんですか」
「えーとね。ほら、アレよ」
「何ですかアレって」
説明を宇井さんに求めると、気まずそうに視線を逸らしながら言いよどんだ。
それを見かねたのか、ハルさんが代わりに答えた。
「あの夜、私たち四人は勝手に参戦しただろう? それに風間先生が怒ってな。罰として朝からさっきまで補習を受けていたのだ」
「そーゆーこと」
経さんが肩を竦めながら頷く。
「で、わたしは勝手にこの四人の封印を解いた罰で、巻き添え補習。いやー風間先生、普段はテキトーな授業するくせに、補習だと鬼畜になるから焦ったよ」
「だよね。あれ、有名私立大の過去問だったよ」
「……何一つ分からなかった」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる明良さんに、他の四人が溜息を吐いて同意する。
ご愁傷様です。
「でも、終わったんだからよかったじゃないですか」
「「「「「……………………」」」」」
沈黙の五人。
……ひょっとして、まだ続くのか?
「実は、まだ午後もあるんだ……」
「今日は食堂がどこも閉まってるから、昼休みを使って飯食って来いってさ」
「……本当は午前で終わる予定だったのだがな」
「私たちがあまりにも解けないものだから、午後までもつれ込んでしまったのだ」
「また学園に帰らなきゃいけないんだよねー……」
「……………………」
ハルさんと宇井さんも解けない問題を、経さんたち武道派三人組が解けるわけないじゃん。
風間先生、よほどご立腹だったんだろうか。
「つーわけで、これからそこの牛丼屋でガッと食ってさっさと学園に戻るんだが、穂波の、お前も食うか?」
「奢りですか?」
「俺がそんなに金持ちに見えるか?」
「……威張ることか」
「経、牛丼の一杯も奢れないの……?」
「うるせえ」
冷たい視線の二人を軽くあしらい、経さんは気にすることなく笑った。
まあ、別に僕も期待していたわけじゃない。
「残念ですけど、今回はご遠慮します」
「ん? そうか?」
「ほらー。経が奢らないからユーユー断ったじゃん」
「うっせえ!」
「まあ経さんは関係なくですね、何か行燈館まで僕にお客さんが来てるらしく」
そう言うと、明良さんは「……うん?」と首を傾げた。
「ユー介、ではこんなところで油を売っている場合ではないだろう?」
と、ハルさん。
あ、と僕は慌てて腕時計を確認すると、羽黒さんの店を出てからすでに二十分近く経っていた。あそこから行燈館までは十五分と少しあれば余裕で間に合う距離なのに。
「あっ、じゃあ、すみません! 僕はこれで!」
「おう。走れ走れー」
手を振る経さん。
その声を背に、僕は走り出した。
「経、暢気に手を振ってる場合じゃないよ?」
「……オレたちも早く飯を食わないと、昼休みが終わる」
「うおっ! あと二十分ない!?」
「急ぐよ! 遅れれば課題を増やすとか言ってなかった!?」
「さ、さすがにあれ以上増えるのは勘弁してほしい……!」
ついでに、そんな会話が聞こえてきた。
頑張れ頑張れー。
* * *
ようやく行燈館に帰ると、やけに静かで人の気配がなかった。
「……?」
チラッと広間とかを覗くも、誰もいない。
おかしい。休日に誰もいないなんて。全員、それも管理人であるところの姉さんもいないなんて。
「……人払い、か?」
そう言えば、前にもこんなことがあったな。
あれは確か、羽黒さんがこの街に再来した夜だっけ。羽黒さんが龍族の人払いの結界を張って、一般人を排除していた。
あの龍族の結界は、同じ龍族であるミオ様の加護を受けている『瀧宮』には効果がなかったから、梓は入れたんだよな。それと、羽黒さんの許可があったもみじさんも入れた。僕はミオ様本人から一時的に加護を受けることで踏み入れることができたんだけど。
そう言えば、後から聞いた話だとあの夜、羽黒さんは黒炎について調べていたらしい。邪魔が入らないように人払いの結界をかけたにもかかわらず、梓が入ってきてしまったため結構焦ったのだそうだ。
ともかく。
「今回も、その類かな……?」
でも今回はあの晩みたいに特に誰かの加護を受けているわけじゃないぞ?
……いや待て。
「そっか」
そう言うことか。
僕は普段なら食堂として機能している広間に向かった。あそこは行燈館の敷地のほぼ中央に位置しているため、結界を張るにはちょうどいいはずだ。
かくして。
「遅いぞ、ユー坊」
「すみません、ホムラ様」
自前の巫女服姿に、滝のように流れる金色の長髪を手櫛で梳きながら、ホムラ様は炎を閉じ込めたような紅い瞳を細めて微笑んでいた。
その妖艶な笑みに、少しばかりドキッとする。
今日は酔っ払っていないらしく、獣の耳も九尾も見られない、完璧な人化姿だ。
そう言えば、酒を呑んでいないホムラ様って久しぶりに見るな。
「みんなの姿が見えませんが……これって、やっぱり人払いですか?」
「そうじゃ。もっとも、ミオの結界のように、自分の加護を受けた者には効果がない人払いではなく、これは儂の許可がある者のみを受け入れる結界じゃ。今回は二人だけを受け入れる仕様になっておる」
「はあ」
なるほど。ホムラ様自身と僕だけか。
「つまり、二人きりで話すことがあるってことですか?」
「まあ、そんなところじゃ」
言って。
ホムラ様は姿勢を正した。
「……………………」
僕も倣って、背筋を伸ばす。
「単刀直入に言おう。話すこととは、此度の黒炎の事件についてじゃ」
「はい」
やっぱり。
ホムラ様が自ら僕の元を訪ねる理由など、それ以外思いつかない。あの後、戦勝報告は梓に任せて、僕は怪我の養生に専念していた。もっとも、昌太郎さんの術によって、右足の骨折はほとんど完治していたのだが。
怪我というなら、精神的外傷。
大切な存在を失った、トラウマ。
「御主の活躍、見事であった」
言って、ホムラ様は小さく笑った。
「御主の手によって、この街は守られた。深く感謝する」
「いえ! そんな……僕は、大したことはしてません。あの事件は羽黒さんと、梓を始めとする八百刀流の協力、それにホムラ様の力があったからこそ、解決できたんです」
「謙遜するな。あの悪魔を相手に単身で立ち向かったのじゃ。御主がいなければ、今頃どうなっていたのか分からんわ」
「そんな……」
ことはないです、と。
僕は消え入るような声で呟いた。
「僕は、一人じゃなかった。……大切なものを背負っていたから、戦えたんです」
それが、例え幻だったとしても。
もしあの時、本当に一人で戦っていたとしたら、僕はあの悪魔に喰われていたに違いない。
「ふむ」
と。
ホムラ様は片目を瞑り、形のいい細い顎に指を添えた。
「まあ、御主がそう言うのならば、そうなのだろうな」
「はい」
「それではついでにもう一つ。どちらかと言うと、こちらが本題じゃ」
「……?」
何だろう。
首を傾げていると、ホムラ様は射るような眼光で僕を睨んだ。
「我が妹分のことじゃ」
「……っ!」
「少しばかり、昔話をしようか」
僕は全身が凍て付いたように動けなくなった。背筋が薄ら寒くゾワゾワとしているのに、ホムラ様の眼光で身が焼けるほど熱く感じた。
「あやつは儂の遠い血縁であることは言ったな?」
「……はい」
「儂の血縁。つまり言い換えれば、あやつも少なからず陰陽師の一族と関わりがあると言うことじゃ」
言って、ホムラ様は昔を懐かしむように目を細めた。
僕には想像もできないはるか昔。
歴史書にすら載っていないような過去から、このヒトは生きてきたのだ。
その永い歴史の一部でホムラ様と、あの白い彼女は陰陽師と関わりを持った。
陰陽師。
阿部家を祖とする、八百刀流。
その、妖怪を殺すことにのみ特化した荒々しい流派は、完全に阿部家からは断絶されたと聞いている。
「あやつが陰陽師と初めて関わりを持ったのは、確か清明の小僧が生まれた頃じゃよ。……もっとも、その時の深い事情は儂も知らぬがな」
「知らない?」
「ああ。その頃、儂は人間の女として宮仕えしとったからな。そう簡単に出歩ける身分ではなかったのじゃ」
「……………………」
サラリとすごいことを言ってくれる。
つまり、このヒトは当時の天皇にも会ったことがあるのだろうか?
「ああ、もちろんじゃ。あの女好き、儂に手を出そうとしたから背中に溶けた蝋をぶっかけてやった」
「……………………」
聞いてみると、さらにとんでもねえ答えが返ってきた。
よくそれで罪人扱いされなかったな。当時の天皇、そっちのケでもあったのだろうか?
「で、じゃ。話を戻すぞ」
「あ、はい」
ついつい脇道に逸れてしまった路線を修正する。
「詳しい話はあやつの事情に深く関わってくるから省くが、清明とあやつは仲が良かったのじゃ」
「はあ」
「清明の奴、実は二回死んでおってな。親しかったあやつはその衝撃で、自らの記憶を封じてしまったのじゃよ」
「……え?」
「そもそも、あやつをこの地に呼んだのは儂じゃ。いい加減、あやつも過去と向き合うべきじゃと考えたというのが大きな理由じゃが、何よりも、御主に預けておれば無意識に自ら封印を解くのではないかと踏んだのじゃよ」
「はい……?」
意味が分からない。
えーと? 清明って言うのは安部清明のことだよな? で、清明と仲が良かったあの娘は奴が死んだショックで記憶を封じて? で、ホムラ様はそれじゃいかんと思って……?
え?
やっぱりよく分からない。いや、どちらかと言うとこの場合、ホムラ様はあえて意味が分からなくなるように話している感じだ。
その証拠に、ホムラ様は疑問符を大量に浮かべる僕に対し「分からなくともよい」と笑ったのだ。
「むしろ理解するでない。詳しい事情は、本人の記憶が戻ってから本人に聞け」
「はあ……?」
「まあ、確かにこのままでは要領を得んのう。では改めて、単刀直入に言おう」
一人納得するホムラ様。
この辺のどこか身勝手な思考は、やはり人間とは格も核も違う神様ゆえだろうか。
つまりじゃ、と。
ホムラ様は続ける。
「あれだけの苦労をした上に、実は記憶が戻っておらず、なおかつ、自分が消えていなくなった体で話を進められて気まずいからと言って、いつまでそこにいる気じゃボケ」
と。
ホムラ様はいきなり僕の顔を鷲摑みにした。
「いっ……!?」
ホムラ様の手の平で視界が埋め尽くされる。
そして。
ズルリと。
ホムラ様の手が僕の頭部をすり抜けた。
次の瞬間。
「きゃぁっ!?」
と、何かが悲鳴を上げて僕の中から出てきた。
何か、と言うか、誰かだった。
ホムラ様に掴み出されて、声の主は僕の後ろに転がされていた。
「え……?」
その声に、僕は胸の奥が熱くなった。
ごく短い悲鳴であっても聞き違えることのない、どれだけ恋焦がれていたであろう、その声。
僕はゆっくりと振り返る。
「……ビャク、ちゃん……?」
「うぅっ……」
果たして。
そこには、勢い余って柱に頭をぶつけて蹲っている一人の少女がいた。
小柄な体躯を包む白い着流し、色白の肌、そしてそれ以上に白い、雪のような綺麗な白髪。氷の結晶のように蒼い瞳は、よほど痛かったのだろう、若干涙ぐんでいる。
獣の耳と尻尾はないが、見間違うことのないその姿がそこにいた。
「何じゃ。まだそんな貧相な姿にしかなれんのか。耳と尻尾は引っ込められる程度には力は戻っておるようじゃが」
「い、痛い……」
「ふん、いつまでも引き篭もっているつもりのようじゃったから、無理やり引き剥がさせてもらったぞい」
「む、無理やり過ぎない……?」
「喧しい。儂だけでなくユー坊にまで心配かけよって」
「きゃっ!?」
グワシグワシ、と。
ホムラ様はビャクちゃんの小さな頭を雑に撫で回した。そして耳元に口を近づけ、愛おしそうに話しかける。
「……無事で何よりじゃ」
「……うん」
その後、ポソポソと僕に聞こえない声で二、三言交わし、「さて」とホムラ様は立ち上がった。
「後は御主らの問題じゃ。話し合うなり乳繰り合うなり好きにせい」
「ぶぅっ!?」
「ね、姉様!?」
「もうすでに接吻まで済ませた仲じゃろうが」
「「……………………」」
二人して黙る。
そう言えば、ホムラ様も一応は土地神だから、自分の土地で起こったことは離れていても分かるんだった。
ぐわぁっ! 結構恥ずい!
「ユー坊」
「は、はいっ!?」
声が上擦った。
そんな僕に苦笑しながら、ホムラ様は優しげな口調でこう言った。
「我が妹分を頼むぞ」
「……? はあ……」
深く考えずに頷く。
えーと、頼むぞって……?
「ちなみに、これからどこへ?」
「羽黒のところじゃ。奴の店の開店記念ともみじの引っ越し祝いを兼ねて、ミオも交えて朝まで呑み明かす予定となっておる」
「……………………」
いや正直、この状況をちゃんと説明してから行ってほしいんですが。
具体的には、ビャクちゃんが僕の中から出てきた辺りから。
もう意味が分からなさすぎてショート寸前なんだけど。
「言ったじゃろう? 後は御主らの問題じゃ」
聞くと、あっけらかんとそう答えた。
いやもう、その辺を含めて意味が分かんないんですってば。
「……………………」
助けを求めようとビャクちゃん本人に視線を向けるが、何やら顔を赤らめながら気まずそうに視線を逸らした。
おい。
本人が説明放棄するんじゃない。
「では、の」
「ちょっ!? ホムラ様!」
シュタッと手を掲げて広間から立ち去るホムラ様。
本当に何も説明しないで呑み会に行きやがったあのヒト! あんなの説明のうちに入るもんか!
その背中を押し留めようと手を伸ばすも、土地神様は軽快に笑いながら玄関へと向かっていった。
「「……………………」」
えーと……。
「「……………………」」
どうするんだよ、この微妙な空気。
「「……………………」」
ひたすらに無言が続く。
「「……………………」」
五分経過。
いや、僕もいい加減に動くべきだとは思うんだけど。
チラチラと何度かビャクちゃんのほうを確認する。
すると向こうも同じ気持ちのようで、何回か目が合っては慌てて視線を外す、という無限ループに陥っていた。
えーい、どうしたものかこの状況……!
かくなる上は!
「「……あの!」」
……………………。
「「……ど、どうぞ」」
……………………。
シンクロしてどうする。
「えっと、あの、ビャクちゃんから……」
「う、ううん! ゆ、ユタカから……」
ユタカ。
当たり前のその響きが、とても懐かしい。
そして、すごく心地良い。
「えと、じゃあ、さ。ホムラ様じゃないけど、単刀直入に聞くよ?」
「うん……」
「……生きて、たの?」
ビャクちゃんは。
「……………………」
無言で、小さく、しかしはっきりと頷いた。
「ど、どうやって? 力を使い切って消えたんじゃなかったの?」
「……消えてないよ。消える前に、助かるように頑張ったんだよ」
そう言って。
ビャクちゃんは僕の胸に顔を埋めた。
「……っ!」
女の子特有の甘い香りが漂い、ドキッとする。
僕の上着をキュッと掴み、ビャクちゃんは消え入るような声で事情を説明してくれた。
「私、消える直前に、その……ユタカと、き、接吻したでしょ……?」
「え、あ、うん」
そう言えば、そうだった。
あの時は全身の感覚が奪われていたし、その直後にビャクちゃんの体が透けて見えて動揺したから、あまり印象に残ってなかったけど。
そうだ僕、ビャクちゃんと二回もキスしてるんだよな……。
「それで、ね? 私、その時にユタカに完全に取り憑いたの」
「え?」
「取り憑いた、と言うか寄生、かな。ほら、あの悪魔が、あの魔術師の女の子に取り憑いてたみたいな感じに」
「あ、ああ……」
そう言えば、朝倉が言ってたっけ。
あの悪魔は肉体を失い、召喚した時は酷く不安定な存在だったらしい。それで消えてなくならないように朝倉の体に取り憑いて、ビャクちゃんの言葉を借りるなら寄生して、消失を免れたのだという。
なつほど。あいつと同じように、一時的に僕の肉体に入って消失を回避したわけか。
「賭けみたいなものだったんだけどね。でも妖狐って、元々は人に憑く妖怪だから、いけるとは思ってたんだけど」
上手くいったみたいだね、と。
ビャクちゃんは顔を上げて上目遣いで僕を見た。
その仕草に、また僕はドキッとした――が。
「いやちょっと待て騙されるか」
「……っ」
ギクッとビャクちゃんが震えた。
心なしか、冷や汗をかいているようにも見える。
「て言うことは何? ビャクちゃん、あれからずっと僕の中にいたってこと?」
「そ、そう言うことか、な?」
「何で疑問系なのさ。はっきりと言う」
「うっ……。はい、ずっとユタカの中にいました……」
「うん、それはビャクちゃんが消えないようにとっさに取った行動だから責める気はないし、そもそもビャクちゃんが生きていたから僕としてもすごく嬉しいんだけど」
でも。
でも、である。
「……何で今まで黙ってたのさ」
「うっ……うにゅっ!?」
視線を逸らそうとしたので頬をちょっと摘んで無理やり視線を合わせる。
……どうでもいいけど、ほっぺ柔らかいな。プニプニする。
「僕がどれだけ落ち込んだか、僕の中にいたんなら分かるよね?」
「ふ……ふん……」
涙目になりながら頷くビャクちゃん。
……その可愛らしい仕草に惑わされるな。ここは心を鬼にして追求するべきだ。
「もう一度聞くよ? ……何でもっと早く出てきてくれなかったのさ」
「へ、へっほね……」
「……………………」
喋りにくそうだったので頬は放してやった。
「えっとね、その……」
「うん」
「その……さっき姉様も言ったけど実は……」
「うん」
「記憶が……」
戻ってないの、と。
ビャクちゃんは申し訳なさそうに言った。
「「……………………」」
僕らは黙ってお互いを見つめた。
今度は、僕から口を開く。
「……その辺について、僕はよく分かってないんだけど」
「えっと、私も自分のことだけど、あまり分かってないから詳しくは説明できないんだけど……」
そう前置きして、ビャクちゃんは説明した。
「悪魔から取り戻した記憶って言うのが、その、何て言うか、『記憶を封じている記憶』って感じだったの」
「……へ?」
「つまり、記憶が封印されているという事実に関する記憶、ってこと」
「……………………」
あんまり『つまり』になってない気がする。
えっと、ようするに……。
「記憶は戻ってないってことだよね?」
「戻ってないって言うか、悪魔に襲われる前からなかったの」
「……………………」
な。
「何だそりゃ!?」
「あ、でもここ数百年数十年の放浪中の記憶は戻ってきたの。ただ、その……」
そこで言いよどむビャクちゃん。
何だろうと首を傾げていると、恥ずかしそうに小さく呟いた。
「その、ね……。せ、千年くらい前の記憶がプツリと途絶えてるの……」
「……?」
千年前?
そう言えばさっきホムラ様が、安部清明がどうのと言ってたっけ。たしかあれが千年位前だから……えっと、つまりはこう言うことかな?
千年前、清明とビャクちゃんは旧知の間柄だった。
清明が死んだ時、ショックでビャクちゃんは自分の記憶を封じてしまった。
それからずっと放浪を続けていたけど、ホムラ様がこの町に呼び寄せた。
その理由は、いつまでも記憶を封印して放浪しているビャクちゃんを叱咤して、過去と向き合わせるためだった。
けどその道中、悪魔の『食事』に付き合っていた朝倉に襲われて、魂の一部とここ数百年の記憶を根こそぎ奪われた。
「……って、感じかな?」
とりあえず、自分も理解するために口に出して整理してみた。
「うん、大体そんな感じだけど……」
「……?」
再び言いよどむビャクちゃん。
どうしたんだろう?
「その、ユタカは……気にしないの?」
「? 何が?」
「だって……私、その……せ、千歳は絶対に超えてるんだよ……?」
「……? ああ……」
そう言うことか。
僕の初めてのキスの相手が超年増だったという事実について、気にしないのかってことか。
それでも、千歳を超えていても、ビャクちゃんは乙女である。
「まあ少しはビックリしたけど、ホムラ様の血縁だし、それくらいだろうなとは思ってた」
「その納得の仕方は微妙なんだけど……」
まあそうだろう。
この場合、ホムラ様に失礼。
それでね、と。
ビャクちゃんは気まずげに視線を逸らした。
「……あれだけユタカには危ないことをさせたのに、戻ってきた記憶は不完全なものだったし……。しかも自分が千歳を超えてるって判明しちゃって……」
「……それで気まずくなって、出てこれなくなったと」
「うん……。で、でも!」
と、ビャクちゃんは不満げに声を荒げた。
「ユタカだって悪いんだからね」
「え? 僕?」
「そうよ。勝手に私が死んじゃったことで話を進めるし!」
「いや、あんなの見たら誰だってそう思うよ」
だって今生の別れみたいなタイミングでキスされて、その上、体が透けてパッと消えてなくなったんだよ? あれは死んだものと判断しない方がおかしいと思う。
「むー……」
「それに、気まずくても誤解はさっさと解いてほしかったな」
「で、でも何度か名前を呼んでみたわよ!」
「ん? ああ、そう言えば」
さっき朝倉と話している時に呼ばれた気がしたけど、あれ、空耳じゃなかったんだ。その前から何度か呼ばれたような気がしたが、全部ビャクちゃんを失ったことによる幻聴だと思ってた。
「でも、もっと分かりやすい意思表示がほしかったよ。僕に取り憑いてから二週間、何してたのさ」
「え、えーと……」
再び気まずそうに視線を逸らすビャクちゃん。
この白狐、よほど誤魔化すのが苦手らしい。あからさまに視線を逸らすので実に分かりやすい。
今までは記憶が空っぽだった分、個性も薄くなっていたのだろう。以前は気付かなかった微妙な個性がよく見えるようになっていた。
「ほら、私、ほとんど力を失くしてたわけだから、ずっとユタカの中で寝てたって言うか、気を失ってたって言うか……」
ほほう。
「僕の中の寝心地はどうだった?」
「最高だった! うにゅっ!?」
もう一回頬を摘んでやった。
こいつ……!
「今までずっとゴロゴロと僕の中で寝てやがったな!?」
「ひゃ、ひゃって! ふっほくひもひよはっはんはもん!」
「何言ってるか分からない」
「ぷはっ! だって、すっごく気持ち良かったんだもん! その、ユタカに包まれてる気がして……」
「デレて誤魔化さない! まったく、怠惰な生活を送って! もう、僕がどれだけショック受けたと思ったんだよ! さっさと慰めに出てこい!」
言って。
僕は思いっきりビャクちゃんに抱きついた。
いや、さっきからビャクちゃんとは体が密着していたようなものなんだけど、改めてちゃんと腕を体に回して優しく力を入れた。
「ひゃっ、へぇっ!?」
変な声を上げるビャクちゃん。
けれどジタバタと抵抗するようなことはせず、大人しく身を任せてくれていた。
「本当に、心配したんだ……。早く出てこいよ、このバカ……」
「……ゴメン」
言って、ビャクちゃんはそっと僕の背中に手を回した。
その小さい手に、力がこもる。
僕らはしばし、無言で抱き合っていた。
ああ、やっぱり、と。
僕は心の中で呟いた。
僕はこの娘のことが好きなんだ。
記憶を失った自分に対し自問自答する痛々しい姿を目にする前から。
羽黒さんに「守ってやれ」と言われる前から。
それこそ、あの朝、行燈館の前に倒れていたこの娘を見つけた時から。
僕は惹かれていたのかもしれない。
「まだ、記憶は戻ってないんだよね……?」
「う、うん……」
ビャクちゃんは耳元で小さく呟いた。
僕は前に、ビャクちゃんについて考えたことがあった。
記憶と魂が戻ったら彼女はどうするのだろう、と。
僕は彼女にどうしてほしいんだろう、と。
その答えは結局出ないままだった。
今なら、答えが出せる。
「記憶が戻るまで……いや、記憶が戻った後も、ここにいない?」
「え……?」
呆けた声を出すビャクちゃん。
最初は意味が分からなかったのだろう。しかしその言葉を噛み締めるような間を置くと、腕の中の小さな体が火照るように熱くなる。
「いいの……? 私、ずっとここに、ユタカのそばにいていいの……?」
「当たり前だよ」
僕は一度、さらに強くビャクちゃんを抱きしめる。するとビャクちゃんも僕を抱きしめ返し、小さく呟いた。
「ありがとう、ユタカ」
「……!」
その一言に、僕は体の中心が熱くなった気がした。
「「……………………」」
密着した体を離し、無言で見つめ合う。
どちらからと言うわけでもなく、キスをしようとお互いの顔を近付けた。
が。
「あーっ! もーっ! 何なんすか! 晴れてるのにいきなり雨が降ってくるとか、ありえないっす! 走ってきたからお腹も空くし! 紅くん、カップ麺か何かないっすか? ……って、あれ?」
「おれにたかるな。この前、お前が勝手に食べたので最後だ。……え?」
「良樹さん、少し待っていてくださいね。今バスタオルを持ってきますので……あら?」
「うーっす、頼んだわ。あ、管理人さん、そう言えば卵の賞味期限が切れかかってたから卵焼きにして食っていいか? 泉が腹減ったってうるさいし……って、は?」
「構いませんよ。むしろ消費して頂けると助かりま――ユーくん、何をしているのですか?」
「「……………………」」
何かドヤドヤと湧いてきた。
僕らは硬直したまま、この状況を確認した。
僕とビャクちゃん、抱き合ったままキスまであと一センチ。
面子、行燈館の皆様。
「……………………」
何だこの状況。
何でいきなり帰って来……って、そうか! ホムラ様が帰ったから人払いの効果がなくなったんだ!
タイミング最悪!
「おーおー、昼間からお盛んなことで」
「よ、良樹さん! す、すみません、お二人とも! ど、どうぞ、ご、ごゆっくり……!」
「ユーくん。私はユーくんをそんなふしだらな弟に育てた覚えは――」
「穂さん、邪魔しちゃ悪いっすよー。ここは黙って見ない振りをしつつ観察するべきっす!」
「出歯亀じゃないか。とりあえず、ここは退散した方がいいと思う」
「「変に気を利かせないでっ!!」」
硬直状態からようやく復活し、僕らは叫んだ。
しかし、良樹さんはニヤニヤと笑いながら。
あき子さんは顔を赤くしながら。
泉ちゃんは何を期待しているのかワクワクしながら。
紅くんは半ば呆れながら。
姉さんはなぜかプリプリと怒りながら、声を揃えてこう言った。
「「「「「抱き合いながら言われても」」」」」
「「……………………」」
全くもってその通りである。
* * *
「狐の嫁入り」
ビャクちゃんが戻ってきたことを祝した少し豪華な夕食を食べ終え、そう言えばと僕は思い出していた。
「つまりは天気雨のこと。太陽が出ていているのに雨が降ると、無数の狐火が提燈行列みたいに現れるらしい。これは文字通り、狐が婚礼のために提燈を灯しているかららしいけど」
僕は辺りを見渡した。
すっかり夜も更け、月明かりが差し込む広間で、行燈館の面々と二次会と称して押しかけてきたホムラ様とミオ様、それに羽黒さんともみじさんがゴロゴロと転がっている。
成人組は酔いつぶれているし、未成年組は酔っ払いのテンションに煽られて疲れ果てているようだ。
それにしても、神様二柱と羽黒さんはともかく、もみじさんまで……。開店祝いと引っ越し祝いで何をしてたんだか……。
僕は呆れながらも、僕の膝の上で寝息を立てる白い少女の髪を撫でる。
綺麗な白髪が、月光に照らされて仄明るく光っていた。
よほど疲れたのだろう。緊張が解けてしまったのか、今は以前と同様に狐の耳と尻尾がニョッキと生えている。
僕の大切な存在。
僕の大切なヒト。
とても綺麗な白い狐の少女。
「そう言えば、あの朝も天気雨が降ってたっけ」
小さく呟き、僕は目を閉じる。
今、すっごく幸せな気持ちなんだ。
このまま寝てしまうのも、悪くない。




