だい にじゅう わ ~吸血鬼~
「何で……お前がここにいるんだよ……!」
黒い火柱の中から現れた灰色の瞳の少女の姿を目にした瞬間、ユウは絶叫した。
ガタガタと、銃を持つ手が震えている。
それでも構えを解かなかったのは立派だと褒めてやりたいが、生憎とその銃口は悪魔を宿した少女へは向けられていない。
その隣で、白狐の嬢ちゃんが震える瞳で少女を見ていた。
ちっ……。やっぱりこうなったか。だからこいつには『伍角天石』の柱の方を担当してほしかったのだが。
「おい、朝倉!」
「……………………」
少女は答えない。
ただ、濁りきった灰色の瞳をこちらに向けるだけだ。
「……………………」
俺は無言でその様子を見極める。
思った以上に進行が早い。
数日前、悪魔の手がかりを探しに町中をウロウロしていた時だ。それは全くの偶然の産物と言ってもいいのだが、俺は登校途中の生徒の群れから一人、ごくわずかながら異質な気配を感じ取った。
一応は探査の苦手な『瀧宮』である俺が、よくまああれを察知できたものだ。
それが未だに使い切れてはいないこの龍の力の作用なのかは分からないが、それほどまでに、あの時の気配は薄かったのだ。
勘違いでは色々と面倒になる。
俺は道に迷った風を装い、少女に声をかけたのだった。
そして、確信する。
あの灰色の瞳の奥に宿るおどろおどろしい淀みは、間違いなく悪魔のものだった。
すぐにでも斬り離してふん縛ってやろうかとも思ったが、その時は我が最愛なる愚妹が何を勘違いしてきたのか斬りかかってきたので、諦めざるを得なかった。
そしてそのすぐあとに、ユウも乱入してきた。
三人が少なからず交友があったのはすぐに見て取れた。
だからこそ、この悪魔退治にユウと愚妹は参加してほしくなかった。
もちろんそれには、友人相手に刃と銃口を向けるだけの不要な勇気を持ち合わせていないだろうという前提だったのだが。
それ以上に。
少女の心が揺れ、悪魔に全てを乗っ取られるのを阻止したかったからでもある。
全身全霊、くまなく乗っ取られたら、ひっぺ返せなくなる恐れがある。
そうなったら、殺さなければならない。
それは、愚妹が強くなるには不要な課程だ。
俺はあいつが強くなるためになら何だってする。家も裏切るし、友も利用する。そんな俺を、もみじは『最高の偽悪者』などと称したことがあるが。
偽『悪』者はともかく、『最高』なんざ似合わねえっての。
最高なんて言葉は、あいつにしか似合わない。
俺は拳を握り締める。
まだだ。
まだ結界は完成した直後で、十分に狭まっていない。
悪魔を斬り離すのは、まだ先だ。
「とりあえずは……」
時間稼ぎだ。
悪魔を宿す少女と向き合う。
最も、向こうは何も見てはいないだろうが。
「ふっ……!」
距離を詰めるべく、一気に駆け出す。
殺さないまでも、牽制程度の一撃を加えることが出来れば……。
だが。
「おわっ!?」
あと一歩というギリギリのところで踏み止まる。
スッと前に出された少女の手から、黒々しい炎が発せられたのだ。
あれはヤバイ。
さっきもギリギリで踏みとどまって、革ジャンが腐っただけで済んだからいいものの、モロに食らったらさすがの龍鱗の加護も効果が薄そうだ。
龍鱗も、内なる力から精製されているのだ。その力を食い物にする黒炎とは相性が悪い。
いや、それを言ったら、黒炎と相性のいい異能など存在しないが。
そう言えば、何であの少女の服は腐り落ちずに無事でいられるんだ?
悪魔の加護でも憑いてるんだろうか。
「邪魔を……」
「あ?」
不意に、声が聞こえた。
見れば、手に黒炎をまとわせた少女が小さく呟いていた。
「邪魔を……しないで……」
その目は虚ろなくせに、やけに鋭い光を宿していた。
「やっと……お兄ちゃんと……会えるんだから……」
「……?」
お兄ちゃん?
何だ、こいつ、兄がいるのか。
――お兄ちゃん
「……………………」
嫌な思い出だ。
「おい、お前。悪魔に何を願った」
「……お兄ちゃんと、会いたい」
そう言って、少女の全身から黒炎が噴出した。
「くっ……!」
さすがにヤバイ!
「おいっ! ユウ、一次撤退だ!」
「……あ、はい……!」
終始呆然としていたユウは、やはり呆然としていた白狐の嬢ちゃんを小脇に抱えるように抱いて走り出した。
その後を俺も追う。
「……………………」
チラッと背後を確認するも、少女は追ってくる様子はない。
手出ししなければ、何もしない、か。一応、主導権はまだあの少女が握っているらしい。
もしくは、追う必要がないか。
……できるなら、こっちの可能性は考えたくはないのだが。
「ハア……」
公民館の物陰に隠れ、一度大きく息を吸い込む。
視界の隅には、未だ混乱状態にあるユウと白狐の嬢ちゃんが写った。
「……………………」
だから、連れてきたくなかったんだよ。
「おい、ユウ」
「……あ、はい」
「割り切れ」
顔を上げ、俺の方を見る。
「俺たちは別にあの嬢ちゃんを殺そうってんじゃねえ。悪魔を祓ってやるんだ」
「分かってます……。けど――」
「けど、じゃねえ。何であの嬢ちゃんが悪魔を召喚して、黒炎を撒き散らしてんのかとかは、後で問い詰めればいいだけだ」
「……………………」
ユウは。
無言で俯いた。
「ユタカ……」
「……ありがとう、ビャクちゃん」
そっと、白狐の嬢ちゃんがユウの手に自分の手を添えた。
ずっと気になっていたが、この二人からは時折、妙な関係性を感じる。
恋人だと言っていたが(真偽は知らん)、何か、それ以上の物。
絆と言い切ってもいい。
白狐の嬢ちゃんを自分に取り憑かせているため、お互いに依存しているようだが、それだけでは言い表せない不思議な関係。
例えるなら、俺のもみじの真逆の関係と言ったらいいか。
「……………………」
そう言えばあいつ、まだ到着しないのか。
俺の呼びかけに、珍しくリアクションが遅い。
風に乗って、微かだが腐敗臭が飛んでくる。まだゾンビの群れはその辺を闊歩しているらしい。
「おい、ユウ」
「はい?」
幾分かは落ち着きを取り戻したユウが顔を上げる。
「さっき、あの嬢ちゃんのセリフで引っ掛かったところがあるんだが」
「えっと……どれですか? すみません、聞いてなくて」
「まあいい。何かあいつ、兄貴に会いたいって言ってたぞ。悪魔にはそれを願ったらしい」
「お兄さん? ……ああ、そう言えば、いるっていってましたね。何か、オカルトを現代医学をに応用できないかって、医者になったとか」
「……………………」
何だって?
オカルトと現代医学?
それに、ユウはあの嬢ちゃんを朝倉と呼んでいた。
思い当たる節がある。
以前、どこかで聞いた。
俺がこの町から旅立った後、俺はとある事情から腕のいい魔術師を探していた。幾人かの候補を挙げて訪ねていたのだが、その候補の一人だった。
だが、奴は治療方面の魔法に特化していたため、俺の目的とはずれていると判断し、結局会うことはなかったのだ。
「……朝倉護人」
「え?」
「オカルト方面の世界じゃ結構名の知れた魔術師だった。治癒魔法の腕もそうだが、何よりも医者としての評価も高かった」
「……だった?」
ユウは不審そうに顔を顰める。
そう。
だった、だ。
過去形である。
「朝倉護人は、数ヶ月前に死んだはずだ」
死因は交通事故による頚椎の骨折。
確か、妹を庇って事故に遭ったと聞いている。
* * * * * * * * *
俺たちは再び少女の前に立っていた。
「「「「……………………」」」」
俺たち三人を含む四人、完璧にこう着状態である。
やはり俺たちが何もしないなら、向こうも手を出す気はないらしい。
その辺は、ギリギリで人間としての理性が残っているようだ。
「いいか、しっかりやれよ」
「……はい」
俺はユウに舌打ちする。
とりあえずの作戦としては、今まで悪魔が喰ってきた力を黒炎として放出させ、じわじわと削っていくというものだ。今のままではとてもじゃないが触れることもできない。
だがある程度まで削ったら、俺が特攻して悪魔を引き剥がすことができる。
もちろんその間、悪魔に願いを叶える力がないと言うことは感づかれてはいけない。兄を蘇らそうとする、ある種の歪んだ願望が叶わないとなると、心が壊れる可能性もある。
そうなったら悪魔は完全に少女の肉体を乗っ取り、魂を喰らってしまうだろう。
「朝倉、悪い!」
ユウは両手に構えた拳銃を連射する。
ただし、いつものように弾丸を言霊で紡いだものではなく、威力はないが燃費がいい力の塊だ。
「……ユッくん……何で、邪魔するの……?」
飛来する弾丸を、黒炎を壁のようにして防ぐ少女。
よし、それでいい。
攻撃に対して、防御が大きすぎる。
黒炎だって元々は悪魔の力。吸収される力と釣り合わなければ、地道だがそのうち枯渇していく。
さらに。
「おらっ!」
俺も拳を振るって爆風を巻き起こす。
根本の部分では異能の力を働かせてはいるが、風自体は自然現象だ。力として吸収されることなく、黒炎を吹き飛ばす。
「うっ……」
暴風から身を守るために顔を覆う少女。
その隙に、ユウは宙を漂っていた黒炎を撃ち抜く。
「何で……」
少女は掠れた声を出す。
「何でユッくんも……邪魔をするのよ……!」
「……………………」
事前に言いつけておいた通り、ユウは答えない。
下手に口を滑らせて、少女が壊れると元も子もない。
いや。
「……あと少しなの……! あと少し、みんなから力を分けてもらえば、お兄ちゃんに会えるの……!」
もう大分、行くところまで行っているようにも見える。
死んだ兄に会える。
本気でそう思っているのなら、彼女の心はもうずいぶんと前に歪み始めていたのかもしれない。
内気で。
気弱で。
物静かで。
優しくて。
ユウから聞いた彼女の印象は、そんなのばかりだった。
これらは相手の心に踏み入れない謙虚な性格な要因だと言える。だが裏を返せば、自分の心にも誰も踏み込ませない。
ここまで歪んだのは元来の正確がゆえか。
はたまた、兄の死がきっかけか。
「……………………」
ったく、何で俺がよそのガキの心配をしなきゃならんのだ。
俺のキャラじゃねえ。
だが、こいつを救ってやらなければ、あの愚妹が怒る。いや悲しむ。
俺が嫌われるのは構わないが、同席しているユウが巻き添えを食らうのは阻止したい。
身内の身内は身内ってか。
「そうだ、ユウ!」
「何ですか!?」
発砲し続けながらユウは答えた。
「その白狐の嬢ちゃんの記憶ってえのは、一体何なんだ?」
「すみません、分かりません!」
「おい」
「でも、悪魔がこれまで散々食ってきた魂を解放してやれば、それぞれの肉体に戻ると思うんです」
……ああ、なるほど。幽体離脱みたいな理論な。
魂が肉体を離れたとしても、肉体が無事であるなら勝手に元に戻る、みたいな。
確かに、白狐の嬢ちゃんが魂と一緒に記憶も奪われているなら、悪魔から魂を解放すれば元に戻る可能性は高い。
しかしどうやって? 腹を掻っ捌けってか?
「だが、とりあえずは……」
悪魔を斬り離さないとな!
俺はもう一度、特攻を試みる。
「……………………」
だが、少女は再び手を掲げ、全身に黒炎でまとった。
さらにダメ押しで、黒炎の壁が三枚張られた。
まだだ。
まだ手が出せない。
「くそっ……」
長期戦は覚悟していたつもりだ。だが、これは予想以上に長くなる。
一体どれほどの魂をその腹に蓄えているのだ。
「ユウ! 弾幕薄いぞ!」
「すみません!」
背後でユウが大きく息を吸い込む気配がする。
そして。
「――重機関銃、コード【M134‐0‐B】!」
ドン、と大型の設置型マシンガンが姿を現した。
っておい。
「ユウ! M134とか! そこまで求めてねえよ!」
「伏せてください!」
「だあっ!?」
再び大きく息を吸い込み、言霊を紡ぐ用意をするユウ。
で。
「――――――――――――――――――――――――――――――っ!!」
恐ろしい速度で言霊が紡がれ、マシンガンの銃口が火を噴く。
もちろん銃弾ではなく純粋な力の塊なのだが、それでも少女が張っていた黒炎の壁をぶち破るには十分な弾幕だった。
その異様な発射速度から生身で被弾すれば痛みを感じる前に絶命するとされ、通称ペインレスガンとも呼ばれるマシンガン。
つか、ユウの言霊が速過ぎて何言ってるか聞こえねえし。
戦闘狂、どんだけよ。
「……………………」
だが、本当に驚くべきは悪魔を宿した少女の方だ。
あれだけの黒炎が打ち砕かれ、霧散していったというのに、未だに余力を残しているように見える。
「あ゛~……!」
対して、一気に言霊を紡いだ代償として、ユウは喉が疲れたらしく苦しそうに唸っていた。
そりゃそうだ。バカじゃねえの。
「もう……ユッくん、わたしのことは放っておいてよ……」
「朝倉……」
「わたしはただ、みんなの力を分けてほしいだけなの……。誰も傷つけるつもりはないよ……?」
「傷つけるつもりはない? ふざけるなよ。何人犠牲になったと思ってるんだ」
「……何人?」
「……………………」
少女は。
無垢に、そう訊ね返した。
何だ、この強烈な違和感。
ユウから聞いた印象と少し、いや大分違う。
何で、こんな自己中心な物言いをするんだ?
これもまた、心が壊れている予兆か。
早いとこ何とかしなければ……。
俺はもう一度拳を握り、大きく振りかぶった。
その時である。
「――抜刀、五十本」
ドスドスドス、と。
辺り一面に大量の鍔も柄も鞘もない、剥き身の太刀が突き刺さった。
「……何で」
声が背後から聞こえる。
「真奈ちゃんが……黒炎を使ってるのよ……」
「……っ!」
何で、はこっちのセリフだ。
せっかく『瀧宮』を町外れの柱に配置したと言うのに。
俺が言うのもなんだが、最悪だ……。
「てめえ、梓! 何でここにいる! 柱どうした!」
「親父が、お前は町に溢れたゾンビを狩ってこいって……」
「あのクソ親父!」
気を利かせたつもりか!?
迷惑だっつの!
「梓ちゃん……ちょうど良かった……」
「真奈、ちゃん……?」
「梓ちゃんのお兄さんとユッくんが……わたしの邪魔をするの。少しでいいから、二人を押し留めてくれないかな……?」
「何を……」
愚妹は言葉を失う。
それほどまでに、この少女の変貌はショッキングなものだったのだろう。
「真奈ちゃん、自分が何をしてるのか、分かってるの?」
「もちろんだよ。……わたしは、お兄ちゃんに会いたい。だから悪魔様にそう願ったの。……でも悪魔様は力を失っていらしたから、こうして補充して差し上げないといけないの」
そう言って。
少女は近くにあった木に手をかける。
すると、一瞬にして黒炎が包み込み、あっという間に枯れ木と化してしまった。
心なしか、少女の周囲の黒炎の勢いが盛り返す。
「悪魔様って……」
愚妹が呟く。
狂信的だ。
これは、予想以上にえげつない性格をした悪魔らしい。術か何かを使ったのかは知らないが、少女を魅了し、自分を心の根本に植えつけたという感じか。
「それに、お兄ちゃんに会いたい? ふざけないでよ!」
愚妹は続ける。
「たかがそんなことのために、悪魔を召喚したの!? そのために何人が――」
「……たかが? ……そんなこと?」
少女が冷たく言い放つ。
「梓ちゃんにとっては『そんなこと』かもしれない……だって梓ちゃんのお兄さんは、ちゃんと生きてるんだもん……!」
「え?」
「わたしのお兄ちゃんは、もう、どこにもいないのに……!」
「真奈ちゃ――」
「不公平だよ……! 梓ちゃんは贅沢だよ……お兄さんがちゃんといるのに、そのお兄さんを殺そうなんて……!」
「そんなの、関係ないでしょ!」
愚妹は。
少女の灰色の瞳を睨み付ける。
「何で、あたしが兄貴と殺し合いをした時に泣いてくれた真奈ちゃんが、人を殺めてでもお兄さんと会いたいなんて願うの? 何かおかしいよ!」
「おかしくない……!」
少女は叫ぶ。
「おかしくない……おかしくない……! わたしはお兄ちゃんに会いたい! ただそれだけなの……!」
そうか、と。
俺は呟いた。
さっきからの違和感。
この少女は交友のあった愚妹やユウが見ても驚くほどに内面的に変貌していた。
自己中心と言えば分かりやすいが、この場合は少し違うように見える。
言うならば、善と悪の違いが分かっていない。
理性がない。
家族を失い、生き返ればと望むことはごく当たり前のことだ。一般人ならばそんなことは不可能だと、その悲しみを乗り越えようと強くなる。俺たちのようなオカルトの世界の者ならば、それが禁忌であると本能的に分かっているため、理性で押し留まる。
それが、この少女にはない。
いや、あったのだろう。現に朝倉護人が死んでからすでに半年が経つ。端から理性がないのなら、死んだ直後に生き返らそうとしたはずだ。
それが今になって、悪魔を召喚して蘇生を願った。
悪魔が召喚されたのは一ヶ月近く前。
この一月に、彼女に何が起きた……?
「……おかしくない……おかしくない……!」
少女は、何かに取り憑かれたかのように同じ言葉を繰り返している。
まあ、悪魔に取り憑かれているんだが。
「真奈ちゃん!」
そう叫ぶ愚妹の声は。
涙ぐんで、震えていた。
「死んだ人間は……もう生き返らないのよ……?」
「分かってる……! だからわたしは悪魔様に――」
「悪魔にだって! できることとできないことがあるのよ!?」
「そんなことない……! 悪魔様は、満月の今夜、完全に復活なさるのよ! そうすれば、お兄ちゃんを生き返らせてくれる……! 町中のみんなから、力を分けてもらえば、お兄ちゃんが――」
「その悪魔が!」
愚妹は叫ぶ。
「ペテンだったらって、考えなかったのっ!?」
「え……?」
……おい。
ちょっと待て。
「羽黒さん……まずいんじゃないですか?」
「くそっ! あのバカ……!」
今ここで、あの事実を突きつけるのか?
少しはこっちの意向を察せよボケ!
「おい、あず――」
「真奈ちゃんが召喚した悪魔は!」
聞く耳持たず。
愚妹は叫ぶ。
「願いを叶える力もない、ただの下級悪魔なんだよっ!?」
「……っ!?」
プツンと、何かが切れる気配がした。
少女の灰色の瞳が見開かれ、四肢の力が失われて操り人形のように不自然な姿勢のまま、それでも倒れることなくグニャリと立っていた。
「――――――――」
だらしなく開いた口元から、何かが洩れた。
それが笑い声であると気付くまで、そう時間はかからなかった。
「真奈ちゃん……?」
「……か」
少女が。
いや。
「かかかかかっ!」
悪魔が、嗤う。
瞬間。
少女の体から発せられる気配が、どす黒く濁ったものへと変貌した。
そして。
「礼を言うぞ、娘」
「……っ!」
愚妹は大きく後方に飛び退いた。
次の瞬間には、さっきまで愚妹が立っていたところは巨大な黒炎の火柱が轟音を鳴らしながら立っていた。
「な、何……?」
「こんの……ボケがっ!!」
「きゃぅんっ!?」
俺は容赦なく愚妹の脳天に拳を振り下ろした。
龍殺しの本気で、である。
それでも気絶せずに俺を睨み付けるだけの気力があるのだから、大したものである。
「何すん――」
「てめえ、俺たちの作戦台無しにしてくれやがって!」
「作戦?」
「じわじわ削って消耗させよう作戦」
「その通りではあるが、しかしユウ! その作戦名からは俺の卑怯さしか伝わらねえだろ!」
「いや……羽黒さんは卑怯でしょ……?」
心外である。
ともかくだ。
「一応これでも、あの嬢ちゃんが壊れねえように悪魔については触れないで戦ってきてたんだよ! 壊れた途端、悪魔に乗っ取られる可能性があったからな」
「え……それじゃあ……!」
「お前が引き金だ。どうしてくれる」
言うと、愚妹はあからさまに狼狽したように視線を動かした。
その視線の先にいたユウは、小さく溜息を吐く。
「……ごめん」
「……………………」
空耳か?
「あたしが……悪かった」
ほう? こいつが俺に謝るか。意外だな。
「まあいい」
俺は軽く、亜麻色の髪を撫でてやる。
昔よく、落ち込んでいた梓に対し、そうしていたように。
「乗っ取られてすぐなら、まだ十分に間に合う。悪魔だけを斬り離すぞ」
「……うん」
「来る……」
ユウが銃を構えなおす。
同時に、少女の姿をした悪魔が黒炎を撒き散らしながらこちらに歩み寄ってきた。
「もう一度礼を言わせて貰うぞ、娘」
「……何よ」
「貴様の一言のおかげで、この魔術師の心に大きな隙が出来た。かかっ。今まで散々気負っていたからな。さすがの我も付け入る隙がなかった」
悪魔はそう軽快に嗤った。
姿形も声音もさっきまでの少女と同じなだけに、その獰猛な笑みと尊大な口調が実に不気味だった。
「ようやく! ようやく肉体が手に入った! あの忌まわしい女に磔にされてから数百年! 肉体も存在しない意識だけの存在に成り下がってから、どれほど夢見てきたことか! この娘には感謝してもし足りぬよ! 封印を解く魔導書を読み解き、不完全ではあったが我をこの世に顕現させ! 都合の良いことに死者の復活などと狂信的な願いを口にし、我を体内に受け入れ――ぶはっ!?」
「……うるせえよ」
俺はデコピンの要領で指を弾き、その衝撃波で悪魔を黙らせた。
遠距離デコピン。
つんのめった悪魔の額には、赤い痕がくっきりと残っている。
「ようやく姿現しやがったと思ったら、ベラベラベラベラと。てめえの身の上話なんざ知らねえっての」
ずっと表に出てこねえ引き篭もりかと思ったら、とんでもねえお喋りじゃねえか。
しかもやたらと大きな身振り手振り付き。
ぶっちゃけ、ウゼエ。
「……何か、真奈ちゃんの体で喋ってるだけに、腹立たしさ倍増なんだけど」
「奇遇だな梓。僕もだ」
ユウと梓も同意見らしく、表情を顰めたまま各々の得物を握っている。
「大体、感謝してる相手の体を乗っ取ってんじゃねえ」
「……かかっ。男。仮にも悪魔である我が、素直に召喚主に感謝すると思うか」
「思わねえ」
「だろうな。我以外の全ての存在は、我が利用するためにある」
そう言って。
悪魔は薄ら寒い笑みを浮かべた。
「まあ、そうは言っても、我は元来の性格でお喋りでな。少しくらい我の身の上話に付き合っても罰は当たらんぞ?」
そう言って、悪魔は勝手に身の上話をベラベラと語りだした。
* * * * * * * * *
「我がこの世に顕現された経緯までは話したな? 不完全ではあったがな。
その理由は見当がついている。この魔術師、封印を説くための魔導書をわざわざ自前の冊子に書き写し、そこから封印を解いたのだよ。つまりは封印解除を二つの媒介を挟んで行ったわけだ。これでは完全に封印が解けるわけがない。
そこで我は仕方がなく、我は魔術師の体を借りて少しずつ力を取り戻すことにしたのだ。いやこれが実に大変であった。
この魔術師、悪魔を召喚するなど正気の沙汰とは思えぬ行動を起こしたくせに、異様なまでに理性が強くてな。自分はどうなっても構わぬが他人は傷付けたくないとぬかす。魂を喰わねば、悪魔の力は元に戻らぬというのに。
そこで我は一計を案じた。
小さき命、取るに足らない命から魂を少しずつ奪い、理性を徐々に壊してやろうと考えたのだ。
最初はその辺の雑草や虫けらから始め、誰からも見向きもされぬ老いた木々へと対象を移す。次に普段から貴様ら人間が口にする魚や家畜共の魂を喰らっていく。ああ、もちろんその間、我は心の隙間に取り入ることは忘れなかった。
その地道な作業が功を奏したのはここ一月ほどか。
古い建物に宿る魂とも言えぬような力なら、と妥協したのだ。
だが建物を喰らうと言うことは、少なからず人の魂も喰らうと言うこと。
魔術師はしっかりと味を占めたよ。もう虫けらの魂などまずくて喰えなくなっていた。
もう少しだ。もう少しで理性など腐れ落ちる。
もっと美味い魂の味を覚えさせれば、もう魂を喰らうことに抵抗など感じなくなると踏んだ。何せその根本にあるのは、兄を甦らせたいという歪んだ願いなのだ。
そして我は、その辺をフラフラと歩いていた白い狐の神に目を付けた。
その魂を、我は魔術師の肉体を通して喰った。
美味かった。
実に美味かったぞ、神の魂は!
その味を、我だけでなくこの娘も忘れられなかったのだろうな!
魔術師は次々と魂を喰らっていった! まあ実際には、貴様らに邪魔されて人の魂などあまり集まらなかったが、それでも数が数だけに我の力も徐々に元に戻っていったよ!
そして今宵!
この満月の夜の力を借り、ついに我は完全に復活を遂げた!
ここまでくれば、もうやることなど限られてくる!
この町は実に面白い。妖怪が人間に混じって普通に暮らし、その人間も揃いも揃って普通ではない! しかもまだまだ神の気配がするではないか!
これを喰わずして何とする!
これでも我は大食漢の美食家でな。
今宵の食事はこの町に住まう全てのたま――ぶはっ!?」
* * * * * * * * *
「……………………」
ユウの構えた拳銃の銃口から、わずかに煙が上がっている。
流暢に経緯を語っていた悪魔は、大きく仰け反る形で口を噤んでいた。
純粋な力の塊が銃口から発せられ、さっき俺がデコピンでつけた痕に的確にクリーンヒットしたのだ。肉体はあくまで少女のものであるから、長々とした鬱陶しい口上を黙らせる程度の威力しかないのだろうが。
「とりあえず……お前がこの町の人たちを喰おうって意思は伝わったから。大人しく黙ってろよ」
「そうよ。それ以上、真奈ちゃんの体でさえずるな。ゴチャゴチャうるさい」
言いながら、二人の戦闘狂は得物を構える。
今まで見た中で、もっとも殺気立っている様子。
「かかっ」
悪魔は嗤う。
「威勢のいい小僧と小娘だ。嫌いではないぞ」
「「好かれたくない」」
「だが――」
二人のセリフをまるで聞いていないようなタイミングで、悪魔は言葉を続ける。
「今の貴様らに、否、今の我に対し、何が出来る」
そう言うと。
悪魔は全身に黒炎をまとわせた。
「この通り、肉体を手に入れた我は最盛期と変わらぬ力を取り戻した。さらに今宵は満月。妖怪の力が最も活性化する時間帯だ。異能の力が使えるとて、たかが人間である貴様らに何ができる」
さらに、と悪魔は付け加える。
「貴様らは我に手を出せない。この魔術師の娘は貴様らの友人らしいからな! かかっ! 肉体の主導権は奪ったが、娘の魂は未だ健在! 本気を出して、否、本気を出したところで我には勝てまいが! 貴様らが本気で我を殺しに来ることなど不可の――ぶはっ!?」
「……バン」
そう簡単に言霊を紡ぎ、ユウはさらにもう一発、悪魔の額を狙撃する。
だが、悪魔は嗤いを止めない。
「かかっ。そら見ろ。この通り、貴様は我を殺すことができない。貴様が本気で我を殺すつもりだったなら、我はすでに百回単位で殺されているだろうな」
もっとも、と。
悪魔は少女の灰色の瞳を醜く歪めて続ける。
「貴様が本気で我を殺しに来たならば、相応の対応をするだけだがな」
言うなり。
悪魔は何やら呟きだす。
「――ヤ コルドゥーン ドゥフ ウミェールシハ ドゥルグ マナ アサクレ……」
「……っ!」
ヤバイ。
門外漢の俺にも聞き取れるルーン。
つまりは召喚魔術!
しかも、ちゃっかり少女の名義で召喚しようとしていやがる!
「――アニ ソルダート クラードビシチェ……」
「ユウ! あいつ黙らせろ!」
「かかっ……もう遅い」
嗤う悪魔。
瞬間、広場を覆いつくすほどの巨大な魔法陣が出現した。
「――ィエボ ザブット 《ゾンビ》 ……ヴィーゾフ!」
魔法陣から淀んだ灰色の光が洩れ、同時に辺り一面に異質な気配が充満する。
そして。
ゾロゾロと。
ウジャウジャと。
ズルズルと。
腐敗臭を撒き散らしながら、再び大量のゾンビが姿を現し……っておい。
「何かさらに数が増えてねえか?」
「くさっ!」
「きゅう……」
「ああっ! ビャクちゃん、しっかり!」
ざっと見渡しただけですでに百近くいる。さっきは初めに数十体だけいて、そこから少しずつ増えていくという形だったのだが……。
「かかっ。我の力も本調子に戻ったと言うことだよ。それにそもそも、我は死霊遣いとしての才能の方が上でね」
「てめえ、悪魔の誇りはないのか!」
「美食の前に、誇りなどそれほど大した問題ではないのだよ。我は美味い魂が喰えればそれでいいだけの、実に無害な悪魔だ」
「……ほざいてろ」
言うも、さすがにこれはキツいか?
やはり数体、魔法陣を埋め込まれたゾンビがいるようで、未だゾンビは増殖中だ。
「――抜刀、三十本!」
「――短機関銃、コード【TSM‐100‐B】!」
愚妹が言霊を紡ぎ、的確にゾンビの頭上に太刀を落とす。さらにそれを、ユウがマシンガンで狙撃して弾き飛ばし、別のゾンビに突き立てる。
さすがは手数勝負の八百刀流。
だが。
「くっ……! ダメ! やっぱり多すぎる!」
「梓! もっと太刀を喚び出して! 僕が弾き飛ばすから!」
悪臭で再び気を失った白狐の嬢ちゃんを背負いながら、ユウは怒号を飛ばす。それに応えるように愚妹もさらに数十本の太刀を具現化させるが、それでも間に合わない。
ゾンビの群れは着実にその規模を大きくしていっていた。
「かかかかかっ! 実に愉快愉快! さあ! 存分に苦しめ!」
一方、悪魔は離れた所から愉快そうに不愉快な嗤い声を上げていた。
少しずつ甚振って、弱ってきたところを喰おうという魂胆らしい。
さっきまで似たようなことをしていたもんだから、実に皮肉的である。
正直鬱陶しい。
「まずいって! 羽黒さん! 加勢して!」
「丸腰でか?」
「今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 馬鹿兄貴!」
喚き散らしながら太刀を地面から引き抜き、近寄ってきたゾンビを斬り伏せる愚妹。
まあ確かに。
さすがにこれ以上増えられたらまずい。
俺たちはともかく、この大群が街中に溢れ出したら後処理が面倒だ。
「しゃあねえ……」
ゴキゴキと指の関節を鳴らす。
本気パンチ一発でどれくらい消し飛ばせるか、一度試してみようと思ってたんだ。
俺は大きく拳を振りかぶる。
目指すは、一撃で三桁。
力を溜め、拳を突き出そうと構える。
その瞬間。
「……あ」
不意に声が洩れた。
見知った気配が近付いてくる。
「……………………」
「ちょっと羽黒さん!?」
「何ボーっとしてるのよ! 手伝いなさいよ!」
「いやー……」
俺は黙って拳を下ろす。
それに二人は訝しげな表情を浮かべるが、俺は内心で笑いが止まらなかった。
久しぶりに、アレが見れる。
「しかし、押し測ったようなタイミングで登場しやがる」
呟き、俺は空を見上げる。
漆黒のカーテンのような夜空に、白銀色の満月が浮かんでいた。
その満月を背景に。
夜空色の長髪を風に揺らしながら、一人の女が宙に浮かんでいた。
ずいぶんと離れているにもかかわらず、俺はその口の動きが見て取れた。
そして。
――跪きなさい。
ドシャドシャッ!!
「んがっ!?」
意味不明の驚嘆詞を上げたのは、少女の体を絶賛乗っ取り中の悪魔だった。
まあ、当然だろう。
数百体はいたゾンビが、一斉に地面に押し付けられ、腐った肉塊へと成り果てたのだ。
一片のタイムラグもなく、全てのゾンビが跪くように押し潰された。
もちろん、一体も残さず。
もうこれ以上増えることもない。
「何が……起きた……?」
ユウが状況を理解できないまま呟く。
それに構わず、俺は上空に浮いているもみじに声をかける。
「遅れて申し訳ありません、羽黒」
「ホントに遅せえよ」
言いながら、俺は螺旋階段でも下りるような、ゆったりとした歩調で降下する彼女を見上げた。
「えっと……もみじ先輩……?」
「はい。私ですよ、梓さん」
フワリと、もみじは俺たちの前に降り立った。
「お前、今まで何してた」
「申し訳ありません。少し家に戻って着替えてました」
「……はあ?」
「だってこれから少し激しく動き回るかもしれないでしょう? 私、制服のスカートだったので動き辛くて……。ですから下にスパッツを穿いてきました」
「……………………」
ほら、とスカートの裾を少し捲ってみせるもみじ。
愚妹が慌ててユウの首を捻って視線を無理やり外したが(その時、「くぺっ」と奇妙な悲鳴が聞こえた)、しかし、もみじよ……。
「何でお前はそう、俺に対してはガードが緩々なんだ……」
「……?」
小首を傾げるもみじ。
……まあ、いいけどな。それに遅れてきた理由も、俺としても、もみじのパンチラを他の野郎に見せる気はないので許してやるが。
「それで、羽黒」
もみじはまっすぐと俺――の後ろの少女に目をやる。
悪魔は未だに何が起きたか理解できず、俺たちと端から崩れていくゾンビだった腐った肉の塊を見ていた。
久しぶりに見たが、やはり壮観だ。
「……ん?」
しかもよく見れば、もみじは封印の腕輪をつけたままだ。
おいおい……パねえな、マジで。
「悪魔祓いは……間に合わなかったようですね」
「ああ。今何とか斬り離そうとしている。が、黒炎が鬱陶しくて迂闊に近付けん」
「なるほど。現状としては、消耗を狙っているわけですか」
「そんなところだ」
「効率的ではありませんね」
「……………………」
そう言うなよ。
するともみじは顔を寄せてこう囁いた。
「久しぶりに本気を出したらどうでしょう? 一瞬で済みますよ」
「……おい」
「はい?」
「お前、ただ暴れたいだけじゃないのか?」
「そんな滅相もない」
そう言って微笑むもみじ。
嘘臭ぇ……。
「だいたい、結界がまだ十分に狭まってねえのに、斬り離しても意味ないだろ」
「その点についてはご心配なく」
「あ?」
「さっきの一言で、町中のゾンビを一掃しておきました。結界の柱も、順調に立てられていくでしょう。それに一部はもうすぐそこまで来ていますよ。さっき上空から確かめました」
「……………………」
なるほど。
俺はもみじを見る。
「……………………」
もみじも俺を見返す。
その夜空色の瞳の奥に、紅い、好戦的な光が宿っているのが分かった。
「……いいぜ」
そして俺は。
「好きなだけ暴れろ。許可する」
「ありがとうございます」
白銀もみじの。
俺が知る限り、最強の化物の枷を外す。
ブチッと、もみじは手首の腕輪を引き千切った。
八百刀流しか外せないはずの封印の腕輪を、力ずくで破壊した。
「ん……」
小さく口元から息を溢しながら、もみじは俺の首筋にキスをする。
もっとも、それはキスとはとても言えたものじゃないが。
「いただきます」
そう言って。
もみじは口を大きく開いて笑った。
そしてガブリ、と。
もみじは俺の首筋に歯を突き立てる。
それは、八重歯なんて可愛いものじゃない。
犬歯なんて生温いものじゃない。
鋭く凶悪な、鬼の牙である。
「……っ」
そしてもみじは。
愚妹の刃でさえ弾き返した龍鱗に牙を突き立て、流れ落ちる鮮血を啜った。
途端に。
「んんっ!」
喘ぎ声にも似た声を上げると、もみじの体から光が放たれる。
まるで月光のような、白銀色の光。
俺の体内に封じていた力を血液と一緒に吸い取り、本来の姿へと戻っていく。
髪と瞳が、変色していく。
艶やかな長髪は、夜空色から美しい銀色へと。
瞳は血のように紅い、紅葉色へと。
もみじは紅い瞳を、嬉しそうに細めながら血を啜っていた。
* * * * * * * * *
「吸血鬼」
俺は静かに、もみじに血を分け与えながら独白する。
「元々は墓場をうろつくゾンビのような妖怪だが、B・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』が現代における吸血鬼のイメージの祖となった。つまりは、生血を啜る、心臓をホワイトアッシュの杭で貫くと死ぬ、日光で消えてしまう、十字架がダメ、聖水に弱い、ニンニクが苦手、鏡に映らない、招かれなければ他者の家に入れない、狼や蝙蝠を従え、それらに変身できる、霧になれる、エトセトラ」
そして何より、その不死身性。
西洋東洋ひっくるめても、吸血鬼の弱点の多さはずば抜けている。にもかかわらず、吸血鬼は不死者の王として扱われることが多い。
それはなぜか。
簡単である。
「吸血鬼が、そんな弱点なんざ軽く無視できるほど不死身で、圧倒的に強いからだ」
「んんっ……」
俺の首筋から牙を引き抜く。一瞬、血管から派手に出血しそうになったが、もみじが舐めるように舌を押し付けるだけで、一瞬で傷が塞がった。
そう言えば、吸血鬼の唾液や血液には治癒効果があるという設定もあったな。
「うふふ……。ご馳走様でした」
「はいよ。お粗末さん」
口の周りについていた赤い血を、血よりも赤い舌で舐め取るもみじ。
月のように美しい銀髪をなびかせながら、綺麗に微笑む。
「ああっ……。羽黒、やっぱりあなたの血が一番美味しいです」
「そいつはどうも」
「んんっ……」
ブルリと、もみじは肩を抱いて体を震わせた。
久しぶりの本領発揮に、体が疼いているらしい。
「もう、我慢できないです」
「我慢しなくていいんだぜ? 見ろ」
俺の視線の先。
そこには、灰色の瞳の少女のなりをした悪魔が正気を取り戻し、再びゾンビを召喚するべくルーンを口にしていた。
「――ィエボ ザブット 《ゾンビ》 ……ヴィーゾフ!」
悪魔の呪文詠唱が完成すると同時に、再び足元に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
そしてもうすっかり見飽きてしまったゾンビの群れが姿を現す。
全く。
「何度喚び出したところで、同じなのですが」
もみじは牙を見せて笑い、右手を前に差し出した。
そして威圧するように、こう命じた。
「――跪きなさい」
ドシャッ!!
生々しい音を立てて、全てのゾンビが跪くように押し潰された。
それを目の当たりにし、悪魔は震える声で呟いた。
「貴様……何者だ」
「さっき羽黒が言ったでしょう? 吸血鬼です。白いですがね」
血を吸う鬼。
最強の化物。
不死者の王。
――吸血鬼。
「全てのアンデットは私の下僕です。それが例え、死霊魔術で召喚された存在であっても、関係ありません」
全ての死霊は吸血鬼の支配下にある。
死霊遣いに対する仮初の忠誠など、全く意味をなさない。
「何度喚び出しても、何を喚び出しても、それがアンデットであるならば、私には関係ありません」
ただでさえ桁外れの力を持つ吸血鬼。
それが、同属のアンデットが相手となると、真に最強となる。
数も質も関係なく、吸血鬼の言葉の元に、全ての死霊は跪くのだから。
「……ならば……!」
悪魔が苦々しげに吐き捨て、再び何かを召喚するべくルーンを唱える。
「――ヤ コルドゥーン ドゥフ ウミェールシハ ドゥルグ マナ アサクレ……」
「……どうしましょう、羽黒?」
「放っとけ。どうせ何を召喚しても結果は同じだ」
ゾンビを喚び出すならば同じこと。
それ以外ならば八百刀流の本分。
少しでも消耗させようという根本的な作戦は変わらない。
「――ウ ニィヴォ クルラヤ イ チェシュヤ……」
悪魔の呪文詠唱が続く。それに、もみじが「あら」と反応した。
「ん?」
「ここから先は、あなたの専門のようですよ」
「俺の専門って……。もみじ、あれ、何言ってんのか分かるのか?」
「ええ。発音は悪いですけど、ロシア語ですから」
「……………………」
何でお前がロシア語分かるんだよ。
お前の妖怪のベースとしての出身はルーマニアだろうが。
いや、そもそもこいつの出身は――
「来ますよ」
「……おいおい」
悪魔の足元に魔法陣が浮かび上がる。
そこから灰色の光が洩れ、少しずつ形作られていく。
「ははっ」
なるほど。
そう言うことか。
「――ィエボ ザブット 《ドゥラカン》 ……ヴィーゾフ!」
ズンッと、地面が揺れる。
雄々しい巨躯に逞しい翼。長くしなやかな尻尾は鞭のように強靭で、長い鎌首の先には鋭利な牙が並ぶアギト。
「ワイバーン、か」
しかも、ゾンビではない。
瞳に激昂の炎を宿す、巨大な飛竜がそこに現れた。
「かかかかかっ!!」
悪魔は声高に嗤う。
「どうだ! 死霊が意味をなさないならば、別のモノを召喚するまでだ! しかしこの魔術師の知識は素晴らしいな。契約を結んでいないにもかかわらず、こんなものまで召喚できるとは! まあ力不足で、今まで召喚したことはなかったようだがな」
「正気に戻った途端、またベラベラと……」
うるせえんだよ。
「つか、勝ち誇ってんじゃねえ」
「かかっ。負け惜しみか」
大仰な手振りで、余裕の笑みを浮かべる悪魔。
全く。
「無知とは怖いものだな」
「何?」
「この俺に対し、ワイバーンを召喚して勝ち誇るとはな」
いやはや全く。
運が悪い奴だ。
他の奴ならともかく、この俺に対し、下級の龍族を喚び出すとは。
「もみじ、うちの愚妹共を頼む」
「了解しました」
小さく頭を下げ、もみじは銀髪を翻して後ろに下がった。
さて、これでいい。
あいつらには、俺の本気の余波だけでも辛いところがあるだろうからな。悪いがもみじには、盾になってもらおう。
さあ。
俺も本気を出すのは、数年ぶりだ。
「――抜刀、【龍堕】」
そう、言霊を紡いだ。
瞬間、全身からどす黒い力が渦巻くように溢れ出す。
それが右手に凝縮され、同時に爆風が巻き起こる。
「……久しぶりだな」
爆風が治まり、どす黒い力は一振りの大太刀へと姿を変える。
【龍堕】――俺が未だに保有している、数少ない八百刀流由来の太刀だ。
刃渡りだけで二メート近くある長刀。八百刀流の太刀としては珍しく、柄と鍔がある。だがその切先から柄の先まで、一貫してどす黒い。
さながら、光の届かない深海の底のように、黒い。
「さて……」
無造作に【龍堕】を構えながら、俺はゆっくりと歩き出す。
視線の先には、巨躯を誇る一頭の飛竜。
ただし、俺の気配に本能的に恐怖を感じているのか、登場時の畏怖は一切感じられない。
「お前には恨みはないが、登場していきなりではあるが、退場してもらうぞ」
一歩一歩進むごとに、ジリジリとワイバーンも後退する。
さすがにおかしいと感じた悪魔が檄を飛ばす。
「お、おいっ!? 何をしている! 噛み砕け! 踏み潰せ! 焼き殺せ! 貴様にはその力があるだろうが!」
「おいおい、無茶言っちゃいけないぜ? 悪魔様よ」
本能的な恐怖は、主の命令を上回る。
だが、召喚された妖魔は主の命令なしでは逃げることもできない。
「今、楽にしてやるからな」
呟き、俺は【龍堕】の切先をワイバーンの首元に突き立てる。
その堅牢な龍鱗を物ともせず、【龍堕】はワイバーンの首に小さな斬り傷をつける。
これで十分である。
――オオオオオオオオオオォォォォォォォォォォッ!!
悲痛な咆哮。
同時に、巨躯がゆっくりと倒れこむ。
ズンッ、と登場時よりも大きな音と振動を立て、ワイバーンが息絶える。
そして俺がつけた傷からボロボロと霧散していくように姿が消えていった。
「な……何だと!? ワイバーンが! 仮にもドラゴンの眷属が! 掠り傷一つで、こうも簡単に……!」
「そういう太刀なんだよ、こいつは」
俺が一から鍛え抜いた太刀、【龍堕】。
俺が龍を殺すためだけに作り出した、最悪の一振り。
相手の強度など関係なく、龍族ならば掠り傷一つで死に至らしめる。
空高く舞う龍を地に堕とすから、【龍堕】。
「龍殺し相手に、龍族を嗾けんな、ボケ」
「……龍殺し、だと!? 馬鹿な! たかが人間が、龍を殺せるはずが……!」
「現にこうしてワイバーンを屠ったんだ。現実見やがれ」
「くっ……」
悔しげに一歩下がる悪魔。
その表情は、焦りで歪んでいる。
……今がチャンスか?
悪魔に、さっきまでの余裕はない。
今なら隙をついて、少女の体から引き剥がすことができるかもしれない。
いや、ダメで元々。
「さて、そろそろ覚悟決めてもらおうか!」
俺は一瞬だけ後ろを確認する。
もみじが愚妹とユウ、それに白狐の嬢ちゃんを守るような立ち位置でこちらを見ている。
もちろん、愚妹もこっちを見ている。
……本当は、あいつには見られたくなかったんだが、背に腹は変えられない。
「……行くぞ」
俺の中に眠る、もう一つの力に囁きかける。
「――抜刀、【白羽】」
左手に具現化されたのは、一振りの純白の太刀。
それを俺は少女に、否、悪魔の胸に突き立てた。
「んなっ!?」
背後から、愚妹の悲鳴が聞こえる。
そりゃそうだ。
端から見れば、俺が問答無用で少女を刺したように見えただろう。
だが。
『があっ!?』
少女の体が発したその醜い悲鳴は、男の物だった。
ズルリと、少女の姿がダブる。
同時に、少女の淀んだ灰色の瞳が、澄んだそれへと変わった。
グラリと少女が傾く。
だが少女の体は、白刃をスルリと通り抜け、俺の腕に倒れこんだ。
純白の太刀は、少女に取り憑いていた悪魔のみを貫いた。
『き、貴様! 今度は何をした!?』
少女の体から抜け出た悪魔は、憤怒の怒号を上げた。
肉体を失ったからか、声が脳内に直接響くように聞こえる。
「見ての通り、この嬢ちゃんから斬り離させてもらった」
チラッと腕の中の少女を見やる。
……うん、大丈夫そうだ。顔面蒼白で死人同然だが、しっかりと呼吸もしているし、何よりも魂の強い鼓動を感じる。
「もみじ!」
「はい!」
少々乱暴だが、両手の太刀を一度体内に戻し、死んだように眠る眼鏡の少女をもみじに投げ渡す。
白い吸血鬼はそれを危なげなく抱きとめ、安全なところまで下がった。
『ぐうっ……! せっかく肉体を手に入れたというのに……!』
「いい加減諦めろ。さあ、さっさとお縄についてもらおうか」
『舐めるな! こうなったら! せめて貴様らの魂だけでも――』
ふと。
悪魔は言葉を区切った。
その視線は、俺ともみじ、そして愚妹とユウを巡った後、未だにゾンビの悪臭で気絶したままの白狐の嬢ちゃんを捕らえていた。
……まさか。
『かかっ……! 何やら貧相な姿形になっていて気付かなかったが、その娘、我が先日、惜しくも喰い残した狐の神ではないか!』
「……! ユウ! その嬢ちゃん連れて逃げろ! こいつ!」
『もう遅いわ!』
黒い靄にしか見えない外見の癖に、ニタリと嗤ったのが分かった。
そして次の瞬間には、ビタリと俺たちは身動きを封じられた。
『かかっ! 《金縛》だよ! 効果は極短時間だが、この程度の魔法ならば呪文の詠唱など不要!』
そして、と悪魔は改めてルーンの詠唱に入る。
『――■、■■■■■、■■、■■■■■、■■……』
視界の隅では愚妹やユウだけでなく、もみじまでも身動きができなくなっていた。
くそっ!
『――■■■、■■■■、■■、■、■■■■■……』
悪魔が暢気にルーンを唱える。
だと言うのに、俺たちは指先一つ動かすことができない。
『さあ! 食事の時間だ! 吸血鬼に龍殺し! 喰うことができないと言うのは口惜しいが、今はそれよりもその狐の神の魂だ!』
邪魔者は立ち去れ、と。
悪魔は嗤った。
そして。
『――《転移》!』
「ぐおっ……!」
俺たちの足元に、複雑な紋様の魔法陣が浮かび上がる。
動かない体を無理やり動かそうとするも、セメントで固められたかのように動かない。
『吸血鬼に龍殺しよ』
嗤う悪魔。
「うおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
瞬間。
ギリギリで体が自由を取り戻した。
俺は足元の魔法陣を踏み砕こうと足を上げる。
だが。
『さらばだ』
ダンッ!
俺は地面を思いっきり踏み潰す。
大地に巨大なクレーターができるが、悪魔のその一言を最後に、俺の視界は一変した。
まるで最初からそこにいたかのように、俺たちは場所を移動させられていた。
そこは、どことも知れない廃工場だった。
「くそ……転移魔法も使えたのか」
いや、ひょっとしたら、あの少女の知識を使ったのかもしれないが。どちらにしてもそんなことはどうでもいい。
「ここは……確か町外れの……」
「もみじ?」
振り向けば、銀髪を撫でながらもみじがこちらに歩み寄ってきていた。
傍らには、愚妹の姿もあるし、少女も腕の中で静かに寝息を立てている。
だが、やはり白狐の嬢ちゃんの姿はない。
「……………………」
ツカツカツカ、と。
愚妹が近寄ってきた。
「……?」
何だよ。
訝しげに顔を顰めた瞬間。
「とおっ!」
「ぐおっ!?」
油断していたところを思いっきりアッパーを喰らった。
痛え。
「いきなり何しやがる」
「いきなりも何しやがるもこっちのセリフよ! 何なのさっきの太刀は!」
「【龍堕】か? あれは俺が龍殺しを――」
「そっちじゃない! その後の、白い方!」
「……………………」
「あれで真奈ちゃん刺したと思ったら急に悪魔は出てくるし、そのくせに真奈ちゃんは無傷だし! それにあの白さ――」
「あーはいはい。全部後々」
パンパンと手を叩いて話題を変える。
実際、今はそれどころじゃない。
「あの白狐の嬢ちゃんが狙われてる。せっかく消耗させて肉体も奪ってやったって言うのに、力の大半を失っているとは言え、立派な一柱の神の魂を喰われては元も子もない」
それに悪魔の話では、あの白狐の嬢ちゃんの魂は美味だったらしい。きっと今までも、執拗に狙っていたのだろう。容姿が貧弱になっていたらしく、それで気付かれなかったのがせめてもの救いだが。
まあ、趣味が悪いので口にはしないが。
「とりあえずはさっさと戻るぞ」
今のあの嬢ちゃんには戦う力などない。
「もみじ」
「はい」
「その嬢ちゃんは任せた。今時分にウロついてるのは八百刀流関係者だから、適当な奴を見繕って預けろ。その後に追いつけ」
「了解しました」
「梓は俺と来い。ゾンビが無効化されると分かった以上、奴は違う何かを召喚するだろうからな。そうなったらお前の本分だ。分かるな」
「わ、分かった」
「んで、ユウだが……」
……………………。
あれ?
「ユウはどうした」
「え? あ。そう言えば」
「ユウさんなら、転移させられませんでしたよ?」
「……何?」
「あのお嬢さんを背負ったままでしたからね。さすがに標的に密着している者を転移させることはできなかったのでしょう」
そうもみじは説明した。
なるほど。
さすがにそこまで器用ではないということか。
だが。
「ユウが残ったなら、少しは安心だ」
あいつは腕は確かだし、何よりあの嬢ちゃんを守るという気概に溢れている。
「うふふ」
「……何だよ、もみじ」
「いえ」
急に笑い出したもみじを見る。
「ただ、少しおかしくて」
「あ?」
「あなた、自分のことは信用するな信頼するなとか言う割には、梓さんやユウさんのことは信用も信頼もしてるんですね」
「……………………」
ほっとけ。
「俺は身内には甘いんだよ」
「知ってます。だからあなたが好きなんです」
「……………………」
「間違えました。大好きなんです」
「言い直さなくてもいい」
愚妹の冷ややかな視線が痛い。
俺は無理やりに話題を変える。
「んじゃま、さすがにユウ一人だとキツいだろうから、助太刀に行くぞ。梓、準備はいいな?」
「え、あ、うん」
曖昧に頷く愚妹。
どうにも釈然としないようだ。
実際、あの白い太刀についても明言してないしな。当然と言えば当然だ。
だが、やはりまだ早い。
あのことをこいつに打ち明けるには、まだ早い。
俺が、まだ踏ん切りがつかない。
「さて、行くか!」
俺と愚妹は、ユウが白狐の嬢ちゃんを庇いながら悪魔と対峙しているであろう公民館前広場へと走り出した。
ようやく、長い夜が明けそうである。