だい じゅうはち わ ~ゾンビ~
ある日の朝のことである。
僕は下宿の前で倒れていた白い狐の少女を拾った。
とても綺麗な少女だった。
しかし彼女は記憶と魂を失っていた。
奪われていた。
自分が何者なのかも分からずにいた。
何の因果か、彼女は僕の家の守り神、そして僕の住む町の土地神の血縁だった。
僕は神様に彼女を守るように命じられた。
でもきっと、僕は神様に命じられなくとも、彼女を守ろうとしただろう。
毎朝、彼女は起きると自分が何者なのかを問うていた。
それが痛々しすぎて。
普段は明るく振舞っているだけに、見ているだけでも苦しくなって。
朝食の用意ができたことを伝えると、すぐにその場を立ち去った。
しかし、守ろうと決心したのはそれ以前からだったと思う。
いつだ?
思い浮かばれるのは、あの最悪との会話だ。
最悪から情報を聞き出すために、とっさに彼女は僕の恋人だと言ってしまった。
さすがに面食らった表情を浮かべた最悪は、それでも深き海の底の如き黒瞳の奥に温かな光を宿してこう言った。
守ってやれよ。
それは、最悪のなしえなかったこと。
叶わなかった夢。
最高の白を守れなかった、最悪の黒。
思えば、あの時からだったかもしれない。
彼女を意識し始めたのは。
感づかれないように振舞ってはいたが、ついつい必要以上に優しくしてしまう。
構ってしまう。
彼女の失われた一部を埋めるように。
彼女の笑顔が見たかったから。
僕は彼女を守ると決めた。
だからこそ。
僕はこうして引き金を引いているのだろう。
恋は盲目とはよく言ったものだ。
気付けば、僕は彼女しか見ていなかった気がする。
そして今も。
僕の視界に入るのは、彼女の美しい白髪。
そして。
……群れをなす、生ける屍。
* * *
「ゾンビ」
暢気に、そう羽黒さんは口にした。
「起源であるブードゥー教でも『生ける屍』として扱われている。だがまあ本来の意味でのゾンビとは、呪術者の忠実な下僕であり、決して人間と敵対しているわけじゃない。むしろ本来の意味での吸血鬼の方が現代における――」
「んなことはどうでもいいんで手伝ってくださいっ!!」
タンタンタンッ、と。
僕は左手に持ったベレッタM92を立て続けに発砲していた。
ようやくビャクちゃんの記憶の手がかりを掴み、取り戻しに出陣した途端、どこからともなくウジャウジャと現れたゾンビの群れが襲い掛かってきたのだ。
そしてあっという間に、僕らが待機していた人気のなくなった公民館前の広場はゾンビで埋め尽くされた。
羽黒さん曰く、僕らの動向に気付いた、ここ数日の黒炎事件の犯人とされる悪魔がゾンビを喚び出して襲わせているのだそうだ。
根拠としては、被弾したゾンビが端からボロボロと霧散していっているのだ。
これがもし、ヒトとしての意思を持つ『妖怪』だったならばこうはならない。
言い替えれば、このゾンビたちはヒトの意思を持たない『妖魔』、もしくは『魔物』とでも称される存在だ。
しかし。
「何なんですかこの数! いくら八百刀流が手数勝負の流派でも、この数量は無理ですって!」
「おいおい、ユウ。何弱気なこと言ってんだ。その手数勝負の八百刀流の中でも特別手数の多いお前が根を上げてんじゃねえよ」
「数が多すぎてその手数を出し切れないんですよ!」
本当に、さっきからひっきりなしにゾンビが襲い掛かってきている。
おかげで言霊を紡げずに、装弾数の大きいマシンガン系の銃を喚べず、さっきから装弾数の少ない拳銃で延々と発砲と装填を繰り返している。
しかも僕はビャクちゃんを庇いながら、と言うか背負いながら戦っていた。
「きゅう……」
ちなみに、当のビャクちゃんはゾンビが放つ腐敗臭にやられて絶賛気絶中。
右手で落ちないように支え、左手だけで銃を構えるという不利極まりない状況だ。
プラス、ビャクちゃんの長い白髪が動くたびにバッサバッサと揺れて視界を塞ぎ、実に狙いを定めにくい。
だと言うのに、羽黒さんは手伝う気ゼロ。さっきから自分によってくるゾンビを蹴り飛ばしているだけだ。
「お願いしますから! 三十秒でいいんでこいつら押し留めてください!」
「えーっ、こいつら相手に素手で遣り合うのかよ!」
「心底嫌そうな顔をしないでください!」
「だってこいつら腐ってんだぜ? 触りたくねえよ」
「腐ってんのはあんたの性根だっ!!」
ちなみに、この間にも僕はひたすらに発砲を続けている。
すでに装弾数十五発のベレッタM92を二回ほど装填し直している。
つまりは三十発以上。ついでに言うと、その全てを命中させている。
だが全くゾンビは減る気配がない。
むしろ増えている気がする。
「ふーむ。どうやら何体か特殊な奴が混じってるな。魔法陣か何かを埋め込まれてる。そいつらが自分の肉体を生贄にして、より多くのゾンビを召喚しているようだな」
「そうなんですか?」
「多分」
「多分って!」
「勘」
「勘ですか!?」
「まあどの道、こいつらを一掃しねえと先には進めなさそうだ」
そう言って。
「おらっ!!」
僕の顔の横スレスレを、羽黒さんの拳が恐ろしいスピードで飛んでいった。
「へ?」
わけが分からず呆けていると、背後から妙に生々しい湿った音が無数に聞こえてきた。
ゆっくりと振り返る。
そこには、何だかよく分からない腐った肉の塊のような物がいくつも転がっており、端から少しずつ霧散していく途中だった。
「三十秒だけ相手してやる。早く紡げよ?」
「は、はいっ!」
えーっ。
パンチ一発でどんだけぶっ飛ばしたんだよ。
この人が最前線に立った方が絶対に効率いいって。
とは言うものの、任されたのだから請け負うしかない。
「ふうっ……!」
一度バレッタM92を手元から消し、両手に力をこめる。
使い慣れている拳銃系はすぐに喚び出せるのだが、マシンガンともなると滅多に使わないために少し手間取るのだ。
まず全体のイメージ図を思い浮かべる。
次にその銃の装弾数。
そして長所と短所。
もちろん僕が自分の力で精製するのだから、装弾数を増やしたり短所を消したりもできる。だけどそれは、この世に存在していない物を一から造り上げると言うことと同義であり、非常に疲れる。
そして何より、僕が愉しくない。
悪いところがない銃なんて、面白みに欠ける。
さて。
今回具現化させるのは、アメリカ軍の象徴とも言える、コレだ。
「――短機関銃、コード【TSM‐100‐B】!」
トンプソン・サブマシンガン。
ドラムマガジン装着で装弾数は百発。
発射速度は一分間に六百発以上。
「羽黒さん! どいて!」
「ん? うおっ!?」
銃口が真後ろのゾンビを捉えていたため、羽黒さんは慌てて僕の後ろに引き下がった。
それを見計らい、僕は短機関銃を左手だけで構えて引き金を引いた。
ズガガガガガガガガガガッ!!
連射音と同時に左肩に恐ろしい負荷がかかる。
だけどそれすらも、僕を愉しませる要因でしかない。
戦闘狂。
梓を始めとする八百刀流関係者が、そう皮肉気に僕を呼ぶ。
最も背中を預けたくない陰陽師だそうだ。
僕の狙撃の腕を信用しないと逆に危ないと言うのに。
テキトーに撃っているように見えてちゃんと狙っているのに。
ほら、今だって。
「……ふう」
装弾数百発だったため、全て撃ちきるのにたった十秒である。
その十秒の間に、ゾンビは跡形もなく姿を消していた。
「おいおい……」
背後から羽黒さんが引き攣った笑いを浮かべて近付いてきた。
「マシンガンでライフル並みの狙撃とか……お前、バカじゃねえの?」
「そう褒めないでください」
「褒めてねえし」
「ん……」
背中でビャクちゃんが身動ぎをした。
まあさっきまで爆音のような発砲音がすぐ近くで鳴り響いていたのだから、そりゃ起きるか。
「ビャクちゃん、大丈夫?」
「……ん。大丈夫」
ズルズルと背中から降りるビャクちゃん。
着流しの裾を直しながら、「うえっ」と鼻を擦る。
「うぅ~っ……。まだ体中に染み付いてる……。臭い……。お風呂入りたい……」
「ハイハイ、後でね」
「うー」
しかめっ面を浮かべるビャクちゃん。だが不意に顔を起こし、ピンと両耳を立てた。
「……え?」
「どうしたの?」
「聞こえる……。これは、狼の遠吠え……?」
「狼?」
『大峰』の狼衆が連絡を取り合っているのだろうか?
「何て言ってるか分かる?」
「無理だろ。狼衆の遠吠えは暗号化されてっから――」
「分かる」
「……何?」
羽黒さんが胡散臭そうにビャクちゃんを見やる。
狼衆の暗号が分かる? あれ、僕にだって意味不明なのに。
「分かるわ。だってあれ、暗号化されてなかったもん」
「うん? じゃあ狼衆じゃねえってことか?」
「多分ね。そもそもこれ、犬神の声じゃないし。言ったでしょ、狼って」
「ああ……」
確かに、犬神は犬の妖怪だ。
けれどそこに違いなんてあるのか?
「狼の方が、何て言うかな、遠吠えも猛々しいのよ」
「そうなんだ」
「で、何だって?」
「あ、うん。……あ、また聞こえた」
僕には全然聞こえない。
見れば、さすがの羽黒さんも渋い顔をしていた。
「えーと……。クマベ、キキ、キュウエン、モトム……」
「何だって!?」
不穏な単語が聞こえた。
「宇井さんからの救援要請、ってことですかね、やっぱり」
「だろうな。こっちにあれだけのゾンビが群れてたんだ。結界の柱には相当の数が向かったろうな。しかも『隈武』は戦力不足のはずだ」
「……ん? 戦力不足なら、誰が宇井さんの護衛についてるんだろう? 柱に力を注いでいる間はトランス状態で身動きができないはず……」
ふと、嫌な予感がした。
宇井さんの学年は二年だ。
僕の知り合いで、何かと首を突っ込みたがるあのヒトとも交友がある。
僕はポケットから携帯電話を取り出して、行燈館に電話をかけてみた。
「……………………」
プルル、と呼び出し音が鳴る。
そして数秒後に『もしもし、行燈館っす』と、元気のいい声が聞こえてきた。
「あ、泉ちゃん?」
『その声、ユー兄じゃないっすか。どうしたんすか?』
「悪いんだけど、ハルさんいる?」
『ハルさんっすか? えーと……。あれ……? 靴がないっす……?』
「……オーケー。ありがとう、泉ちゃん」
『え、あ、ユー兄? 確か今夜は外に出ちゃいけない、と言うか出れないんじゃ……?』
「いい? 行燈館のみんなにも伝えて。絶対に外には出ないように。それから、ハルさんは僕らに任せて。それじゃ」
『あ、ちょっ――』
泉ちゃんの返事を待たずに通話を終了させる。
ハルさんがいない。きっとあの武道派三人組も家にはいないのだろう。
そしておそらく、四人は宇井さんの近くにいる。
さっきビャクちゃんが聞いたという狼の咆哮は十中八九、明良さんで間違いない。
軽い頭痛を覚えながら、羽黒さんに報告する。
「……どうやら、うちの学園の先輩が宇井さんの護衛についているようです」
「はあ? おいおい、何のために俺がわざわざ学園のお偉い連中に外出厳禁を要請したと思ってんだ。いくらここの街の連中がこんなゴタゴタには耐性があるからって、前線に出るのは危険すぎるぞ」
「たぶん、宇井さんが自分で頼み込んだんだと思います。経さんはともかく、他の三人がこんな危険のど真ん中に自ら入ってくるとは思えませんし」
「ちっ……」
実を言うと、八百刀流が現在進行形で展開させている結界の他に、羽黒さんの要請で月波学園がもう一つの結界を張っていた。
以前、羽黒さんが張った人払いの結界。
さすがに龍族に伝わる物ほど強力ではないが、許可なしでは家屋の外に出られないように張られている。
だと言うのに、ハルさんは行燈館にいない。
恐らくは宇井さんが封印の腕輪も解いてしまったのだろう。
妖怪の力が戻ってしまえば、あの程度の人払いを振り切ることは容易だ。
いや、この状況、解けているおかげで幾分かは安心できる。
少なくとも、あの三人は盛大に闘える。
盛大に舌打ちし、羽黒さんは「何で俺がよそのガキの心配をせにゃならんのだ……」と呟きながら自分の携帯電話を取り出し、耳に当てた。
「……ああ、もしもし俺だ。……おう、予定が変わった。お前んとこのガキが数人隈武の嬢ちゃんのとこで暴れてるらしい。……おう、確か名前はハルとか経とか言ったか。……悪いがそう伝えてくれ。あと、悪魔に感づかれた。何かゾンビがウジャウジャ出てきてっから、お前も制圧に加わってくれ。……ああ、はいはい、分かってるよ。後で好きなだけしてやるから。んじゃあな」
無造作に携帯電話をポケットに突っ込む。
はあ、と深い溜息を吐きながら羽黒さんはこちらに向き直った。
「隈武の嬢ちゃんとこは大丈夫だろう。ついでに町に溢れているかもしれないゾンビの対処も頼んでおいた。……代償はなかなかでかいが」
「誰に頼んだんですか……?」
「もみじ」
「……………………」
そう言えば、あのヒトも一応は生徒だから今夜は外出禁止になっていたっけ。全く意味はないと思うんだけどな。けれど、戦力となってくれるならこれ以上嬉しいことはない。
でも、一体何を要求されたんだろう?
「ったく、あいつ俺に対してだけはデレまくるからな。さすがに扱いに困るぜ」
「はい?」
「代償として一日腕枕だとよ」
「はいぃっ!?」
おーい、もみじさん!?
何かとんでもねえセリフが聞こえてきましたよ!?
クールで清楚な生徒会長キャラも羽黒さんの前では崩壊ですか!?
つか、羨ましい!
「あれやると指先の感覚がなくなるから嫌なんだよな」
「しかもすでに経験済み!? 贅沢な悩みですねマジで!」
ちょっとイラッとするぞ。
「ともかくだ。隈武の嬢ちゃんとゾンビの群れは増援に任せるとして、俺たちは俺たちの仕事を片付けるぞ」
「……了解です」
何やら釈然としないが、まあ言っていることは正しいわけで。
僕はビャクちゃんを連れて羽黒さんの後を――
「って、ビャクちゃん?」
そう言えば、さっきから大人しい。
まだ悪臭にやられてボーっとしているのかな?
「ビャクちゃん?」
「……………………」
振り返ると、ビャクちゃんはジッと一方を見つめていた。
ただジッと。
無言で。
目を見開いて。
公民館前広場の並木の陰をジッと見ていた。
「……あ……」
掠れた声が聞こえる。
ビャクちゃんの色白な肌が、今はより一層青白く見えた。
「どうした?」
その異変に気付いた羽黒さんが戻ってくる。
そして、僕と一緒にその視線を追った。
そこに。
「え……?」
誰かが。
いや、何かが、いた。
「……へっ、そっちから出向いてきやがったか」
羽黒さんは、ニヤニヤと軽薄そうな笑みを浮かべた。
そして一歩一歩近付く。
「さて、まだ結界は完成してねえが、さっそくおっ始めようか?」
悪魔さんよっ、と。
羽黒さんは右の拳を並木目掛けて突き出した。
瞬間。
ゴォッと唸るような突風が吹き起こり、樹皮を大きく抉った。
木が軋み、隠れていた人影目掛けて傾いていく。
同時に。
「……………………」
人影が何やら呟くと、その木は巨大な黒い火柱に呑み込まれ、あっという間にボロボロの枯れ木と化した。
「……っ!」
あの黒炎。
間違いない。
ここ数日の間、僕たち陰陽師のみならず町全体を騒がせてきた黒炎だ。
しかも今回は水晶など無粋な触媒を使わず、自らの力のみで発生させていた。
力は大分戻ってしまっているようだ。
「ビャクちゃん、下がって」
「……………………」
フラフラと僕の後ろに下がるビャクちゃん。
やはり、ビャクちゃんの記憶と魂を奪ったのは間違いなくあいつだ。
記憶がすっぽ抜けているのに、その姿が目の前に現れただけでこのザマだ。記憶になくとも、肉体にはしっかりと恐怖が刻み込まれている。
「くそ……」
暗くてよく見えない。
今夜は満月で、綺麗な白銀色の月光が地上に降り注いではいるが、悪魔はわざと薄暗い影に潜り込んで羽黒さんの攻撃をやり過ごしている。
これでは僕が手を出せない。
別に動き回っている相手を狙撃するなど造作もない。けれど、さすがに見えない標的に当てるほど、僕の腕はいいわけではない。イヴさんならできるかもしれないけど。
念のため、僕はトンプソン・サブマシンガンのマガジンを交換しておく。
「……………………」
ギュッと、服の裾を掴まれた。
「ビャクちゃん?」
「……………………」
振り返ると、顔面蒼白のビャクちゃんが服の端を握っていた。
「怖い?」
「……………………」
小さく頷く。
そりゃそうだ。生きたまま記憶と魂を引き剥がされたのだ。一生物のトラウマとなっていても不思議ではない。
「大丈夫?」
「……うん」
もう一度、小さく頷く。
「大丈夫……。怖いけど、自分の物だもん。自分で、取り返したい」
「……………………」
「でも……ちゃんと、守ってよね?」
「もちろん」
僕は、はっきりとそう頷いた。
改めて短機関銃を構え直す。
「ありがと……ユタカ」
そう言って。
ビャクちゃんは僕の隣に立った。
その時。
――ドンッ!
「うおっ!?」
爆音が起こったと思ったら、短い悲鳴を上げて羽黒さんが吹き飛ばされてきた。
見れば、いつも着ている革ジャンの表面がボロボロと朽ちている。
その先には、ゴウゴウと黒い火柱が音を立てて燃え上がっていた。
「羽黒さん、大丈夫ですか!?」
「おう、俺はな。あーあ、この革ジャン、気に入ってたんだが……」
「……………………」
余裕そうである。
だが、その後の羽黒さんの発言で、むしろ僕の方が余裕を失った。
「ちっ、やっぱガワが女だとやりにくいぜ……」
「……女?」
悪魔は召喚主に取り憑いて、足りない力を補って黒炎を操っていたらしい。
つまり今も悪魔は召喚主の体の中にいるわけで。
「何か……」
嫌な予感がする。
悪魔。
魔術師。
召喚。
……女。
「あ……」
不意に。
黒炎の火柱の中から、どこか気弱そうな声が聞こえてきた。
そして、コツコツと靴音を立てて近付いてくる。
「……っ!!」
僕は、動けなかった。
呼吸することすら、忘れていた。
「こ、こんばんは……」
こんな状況でも。
彼女は、礼儀正しく声をかけてきた。
「ユッくんも、来ちゃったんだ……」
そう言って。
彼女は黒炎の中から姿を現した。
日本人形のような艶やかな黒髪。
牛乳瓶の底のようなレンズの厚い黒縁眼鏡。
そして、灰色の瞳。
「何で……お前がここにいるんだよ……!」
「……………………」
彼女は答えない。
悪魔を召喚した魔術師。
月波市に災厄をもたらした魔女。
朝倉真奈、その人だった。