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だい じゅう わ ~土地神~




 月波学園の下宿先の一つである行燈館の朝は、早い。

 毎朝五時には起床し、朝食の準備を始めなければならない。

 と言っても管理人である姉さんは異常に朝に弱いので戦力外。僕を始めとした家事手伝いのアルバイトで朝の仕事を切り盛りしなくてはならない。

「おはよう、ユーさん」

「あ、おはよー」

 食堂――と言ってもただの大きな和室だが――に卓袱台をいくつも並べ、布巾で拭いているとくれないくんが欠伸交じりでやってきた。

「卓袱台、運びますね」

「あ、お願い。並べたら拭いてね」

「はい」

 彼はこの春からここに来た新顔だ。最初は面倒臭そうな気だるい雰囲気を醸し出していて自分から他人に話しかけることは少なかったが、最近は人付き合いにも慣れてきたようだ。このバイトも最近になって始めてくれたのだが、ずいぶんと戦力アップになって助かっている。

 そう言えばこの春からの新顔と言えば。

「おはよう。すまないユー介。遅くなった」

「あ、おはようございます。いえいえ。僕も今始めたところですから」

 長くて綺麗な金髪を動きやすいようポニーテールにして、留学生のハルさんが来た。手にはすでに濡らして絞った布巾が握られている。

「それじゃあ紅くんが出した卓袱台をお願いします」

「うむ」

「僕は厨房を見てきますから」

 ここは二人に任せて大丈夫だろう。

 僕は足早に厨房へと急ぐ。

 ちなみに厨房と言えば聞こえはいいが、この行燈館は武家屋敷の成れの果てだ。一般的な厨房と言われるものとはかけ離れている。

 というか台所ですらない。

 土間だ。

良樹よしきさん、どうですか?」

「ん? ああ、ユの字か。いやスマン。今ようやく火が入ったばかりだ」

 しかも釜戸である。

 ここの古株で、大学生となった良樹さんが苦笑いを浮かべて手にした薪を持ち上げた。

「ちょっと薪が湿ってた」

「……すみません……! わ、わたくしのせいで……!」

「え、あっ」

 良樹さんの一言に、流し台で野菜を切っていたあきさんがカランと、手にした包丁を落とした。そして土間に膝を附き、両手で顔を覆ってすすり泣いた。湿っているような艶やかな黒髪が小刻みに震えている。

 それを見た瞬間、良樹さんの表情が「しまった」と固まった。

「あ、あああああアキのせいじゃねえよ! こ、これは……そう! ついうっかり昨日俺が水をぶちまけちまったんだ!」

「いえ……良樹さん、無理をなさらないで……。わたくしが貴方に取り憑かなければこのような水難に遭って、ユタさんを始め皆様のお食事作りの足を引っ張らなくて済んだのに……!」

「……アキ。それは言わねえ約束だろ」

「良樹さん……!」

「それに誓ったじゃねえか。どんな困難に直面しても、俺はお前と二人で乗り越えると!」

「良樹さん!」

「遅れた分はスピードで取り戻すぞ! アキ、お前は今朝の分の食材の下拵えを頼む! 俺はもっと勢いよく火を熾す!」

「はい!」

「……………………」

 よし、いつもの光景だ。

 朝食は基本この二人に任せておけば大丈夫だし。

「僕はお弁当作りに勤しむか」

 僕は作業場に並べられている十個の空の弁当箱に目をやる。あき子さんが昨日のうちに洗っておいてくれたもので、おかずの準備も姉さんが済ませたものが冷蔵庫に入っている。

 本当は管理人さんがやるべき仕事なのだが、朝の戦力外通知はすでに知れ渡っているため、いつのまにか僕の仕事となっている。

 冷蔵庫から取り出した大皿に入ったキンピラゴボウや肉団子を、良樹さんが熾したキャンプファイアーかと見間違う火を孕んだ釜戸の近くに置く。

 レンジが壊れたため、こうして温めるしかないのだ。

「ユーさん、終わった」

 弁当箱にアルミ小皿を敷き、そろそろいいかなとおかずの大皿を手にしたところで紅くんが土間に降りてきた。その後ろにはハルさんもいる。

「あ、じゃあ紅くんはお弁当手伝って。ハルさんは……あー、すみませんがいずみちゃんと、無駄だとは思いますが姉さんを起こしてきてください」

「了解した」

 頷くと、ハルさんは金色の尻尾を翻して廊下の奥へと姿を消した。

「ユの字、紅! 飯が炊けたぞ!」

「あ、はい!」

 振り向けば、軍手でお釜を火の入った釜戸から隣の釜戸へ下ろしている良樹さんが。

 僕はしゃもじで美味しそうに炊き上がったご飯に差し込む。

 文字通りの銀シャリだ。粒が潰れないように丁寧に混ぜる。

「美味そう……」

 思わずといった風に紅くんが呟く。

 確かに美味しそうだ! 日本人に生まれてよかったと思う一瞬だ。

「紅くん、弁当箱持ってきて」

「はい」

 言われた通り弁当箱を一つずつ持ってくる紅くん。僕はその半分に炊き立てのご飯を装う。そして全てに装い終えたところでおかずを詰めていく。一人でやれば時間がかかるが、紅くんと一緒に作業を進めるためさほど時間は取られない。

「……おあよ~……」

 そして最後のアルバイト登場。

「おはよう寝坊介」

「……う~……」

 紅くんの皮肉交じりの挨拶も耳に届いていないようで。

 泉ちゃんはコックリコックリと舟を漕ぎながらゆっくりと歩いてくる。それをハルさんが転ばないよう後ろから支えていた。

「時にハルさん。姉さんは?」

「すまない。無理だった」

 うん、分かってたけどね。何と言うか、アルバイトが全員出勤してきてるのに店長が寝坊で出てこない職場って、どんなもんなんだろう……。

 だけどそれよりも今は。

「泉ちゃん」

「うー?」

「ほら、お食べ」

 冷蔵庫からキンキンに冷えたキュウリを一本取り出す。

 それを彼女の目の前にチラつかせると。

「いただきますっ!」

「おわっ!?」

 危ねぇっ!

「指! 指持ってかれるとこだった……!!」

「……大丈夫ですか?」

「大丈……」

 あ、爪ちょっと欠けてる。

「「……………………」」

 猛獣か、この娘……。

 バリバリと音を立てながらキュウリに齧り付く小動物のような少女を見ながら、僕と紅くんは冷や汗を流していた。

 バリバリバリ。

「えーと、じゃあ、泉ちゃん?」

 バリバリバリ。

「それ食べたら」

 バリバリバリ。

「お弁当におかずを……」

 バリバリバリ。

「……詰めるのを」

 バリバリバリ。

「……手伝って……」

 バリバリバリ。

「……欲しい、んだけど……」

 バリバリバリ。

「いつまでもキュウリ齧ってるんじゃない」

「あたっ!」

 ゴクン。

 紅くんに叩かれ、口の中のキュウリを飲み込む泉ちゃん。

「紅くん、何するんすか!」

「人の話を物食いながら聞くな」

「痛いっ!? ぐりぐり! ぐりぐり止めるっす!」

「……あー、いいよ、紅くん。別に怒ってないし……」

 泉ちゃんの小さな頭を抱えて人差し指の第一関節をぐりぐりと押し付けている紅くんを止める。何やら手馴れている気もするが、きっと気のせいだろう。

「えっと、それで泉ちゃん」

「ほい!」

「頼める?」

「もちろんっす!」

 バリバリと手元に残っていたキュウリの破片を咀嚼し、泉ちゃんは作業場に向き直った。

 そして菜箸を持ち、大皿のおかずを丁寧に弁当箱に詰めていく。

 さすがに何度もやっているだけあって手馴れている。基本は均等に、多めにと要望のある男子の弁当箱には少し贔屓に。

「あ、ユー兄」

「んー?」

 弁当箱の方は泉ちゃんと紅くんに任せて、僕は朝食の準備に取り掛かっていた。

 食器棚から十五人分のお茶碗とお椀、お皿を出し、そこにご飯と味噌汁、焼き鮭を並べていく。おかずは普通の塩鮭なのに、何であき子さんが焼くとこんなに美味しそうに焼けるんだろう?

「どうしたの泉ちゃん?」

「そろそろ牛乳配達さんが来る時間じゃない?」

「あー」

 時刻は朝七時。

 朝食は七時半からだから、それに合わせて配達してくれるよう年間契約している牛乳屋さんが、玄関先に毎朝新鮮で美味しい牛乳を届けてくれる。

 今時珍しい牛乳配達。

 前の管理人のおばあさんがずっとそこの牛乳屋さんをご愛顧していたから、姉さんの代になってもやめることはできない。そもそもあそこの牛乳はとっても美味しいから止める気もないけど。

 で、何で泉ちゃんがわざわざ牛乳配達の時間を僕に教えるかというと。

「ユーさん、すみません」

「ユー介、恩に着る」

「ユの字、俺今手ぇ離せねえわ」

「いつもすみません、ユタさん」

「アリガトっす、ユー兄!」

「……………………」

 皆、重い牛乳を運びたくないんだ。

 くっ……こんな時ばっかり結託しやがって……!

 ふふ、見てろよ。そっちがそのつもりなら、こっちにだって考えがあるんだ!

 ……無論、考えなど端から存在しないが。

 僕はすごすごと一人玄関へと向かった。


 ここがまでが、僕の日常。

 いつもの、平和な光景だった。

 空は晴れているのに、なぜかパラパラと雨が降っていた。



       *  *  *



 で、だ。

「うーん……」

 僕は天気雨の降る中、玄関先で呆然としていた。

「どうすんだよ……」

 別に重い牛乳を運びたくなくてサボタージュを決行しているわけではない。行燈館の住人全員分の牛乳が詰まったケースは足元にあるが、これを持ってさっさと土間に戻れば仕事は終了。すぐにでも朝食だ。

 だが視線は牛乳にすら向けられていない。

 ではなぜ牛乳を運びもせずただ呆然としているかというと。

「……妖怪、だよな……」

 古びた門扉の近くに、白い何かが落ちていた。

 白い着流しに白く長い髪の何か。人影のようだが明らかに人ではない。

 普通の人間には長く尖った獣の耳も見るからにフワフワとした毛が生えた尻尾もない。

 まあつまりは妖怪の類。

 それはこの町では別段不思議でも何でもない。むしろ日常の光景だ。

 だが問題があるとすれば、一目で妖怪だと分かるその容貌だ。

 ここの妖怪たちはあくまで人間として生活している。人間の姿を取り、人間の名前を持ち、人間の肩書きを背負っている。

 つまり、門扉の先で倒れている白い犬のようなモノは、この町の者ではない可能性が高い。

 そういった妖怪もたまにいる。だがその全てが新たにこの町に人として住みたくて来た妖怪であるとは限らない。稀に悪意と敵意を持って住人を襲おうとする輩もいる。

 そういった存在から住人たちを守るのが警察の第零課だったり、僕たち八百刀流の陰陽師だったりするのだが。

 しかし怪しいからと言ってすぐさま滅するわけにもいかない。昌太郎しょうたろうさんでもあるまいし。

「……とりあえず保護して、何でぶっ倒れてたのか聞いた方がいいかな」

 そうと決まれば話は早い。

 僕は犬っぽい人影に近づいた。

「あ……」

 女の子だ。

 しかも綺麗な。

 ずいぶんと小柄だが泉ちゃんほどではない。鍋島なべしま先生と同じくらいか。肌や背中の中ごろまで伸びた白髪は土や埃で着流し同様に煤けているが、それでもその美貌は霞んでいない。

 どうでもいいが、ハルさんといいあき子さんといい泉ちゃんといいこの娘といい、ジャンルは違うけど紅くんもそうだが、どうしてこう妖怪には美形が多いんだろうか。

 そう言えば月波学園の二大ファンクラブの対象も妖怪だったな。

「っと……軽っ」

 白い女の子を観察しながらどうでもいいことを考えつつ、とりあえず抱きかかえる。するとまるで中身がないかのように軽かった。

 いくらなんでも軽すぎじゃないか?

「何? こいつ中スカスカ?」

 何て口にした瞬間。


 ――ぎゅごおおおおおぉぉぉぉぉっ……!


「……………………」

 え?

 何今の?

 さっきの腹に響くような轟音はどこから……?


 ――ぎゅるるるるる……!


「……………………」

 まさか。

 僕は腕の中で気を失ったままの女の子を見やる。

 するとわずかに口元が動いているのに気付いた。

「……………………」

 耳を口元に近づけ、何を喋っているのかを全神経を集中させて聞き取る。

 すると。

「…………………………お……なか……………………すい、た……………………」

「……………………」

 行き倒れかよ。

 今すぐこいつをその辺に放り出したくなった衝動を抑え、玄関に向かう。

 さすがに雨の降る中、人間ではないとは言え女の子を放置しておくほど鬼ではない。

 玄関で靴を脱ぎ、廊下を進む。

「あれ、ユの字」

「あ、良樹さん」

 しばらく行ったところで、大鍋に入った味噌汁を運ぶ良樹さんと遭遇。

 良樹さんはジロジロと僕と女の子を見比べる。特に耳と尻尾は念入りに。

 そして一言。

「元いたところに捨てて来い」

「酷ぇっ!?」

「行燈館はペット禁止だろ。それに牛乳はどうしたよ。牛乳持って来いとは言ったが犬を拾って来いとは言ってないぞ」

「鬼だ……鬼がいる……」

 気絶した女の子を犬扱いしやがった。本当に犬かもしれないけど。

 僕は死んだ魚を見るような目で良樹さんを凝視する。

「まあ、冗談は置いておいて」

「あ、冗談だったんだ……」

 半ば本気だったように見えたんだけど。

「で、何なんだ、その娘。人間ではないにしろ、ただの妖怪ってわけでもなさそうだが」

「何か行き倒れっぽいです。多分それで人化が解けかけてるんじゃないかと」

「……行き倒れって、マジであるんだな……」

 呆れを通り越し、むしろ感心する良樹さん。

 まあこのご時勢、行き倒れなんてそうお目にかかるものでもないし。

「で、どうするよ」

「どうするって、それこそ元いたところに捨ててくるわけにもいきませんしね」

 白い女の子はいまだ目を覚ます気配はない。時折小さく腹の虫を鳴かせては力なく呻いている。

「……とりあえず、僕の部屋にでも寝かせてきますよ。空き部屋の布団は埃被ってかび臭いですし」

「だな。牛乳は俺が持ってってやるから、後で来い」

「はい。あ、先に食べてていいですよ」

「言われなくてもそのつもりだ」

「……………………」

 そうですか……。

 僕は溜息をつきながら女の子を抱えて自室に向かった。

 さてそれにしても何を食べさせたらいいものか。行き倒れの対処の仕方なんて知らないよ。

「……普通にお粥でいっか」

 ご飯残しといてって泉ちゃんに言わないと。じゃないと勝手に全部食べちゃうし。

 自室に戻り、とりあえず僕のベッドに寝かせる。それから予備の布団を引っ張り出して床に敷く。さすがに野郎のベッドに寝かせ続けるわけにもいかないからね。

 それから着替えさせないと。

 小雨だったけどけっこう濡れちゃってるし。風邪を引いたらいけない。

「……………………」

 待て。

 この濡れた着流し、どうやって、つか誰が着替えさせんだよ。

 僕?

 いやいやいや!

 無理無理無理!

 絶対無理!

 だけど気の知れた女性陣は皆忙しく朝食の準備の真っ最中だし、姉さんは絶賛爆睡中だし。

「……………………」

 えー。

 マジッすか……?

「……背に腹は変えられない、か……!」

 ちょっと意味が違う気もするけど。

 僕は腹を括り、箪笥から昨日買ったばかりの甚平を取り出す。この夏にと思って購入したのだが、まさかこんなに早く、しかも僕以外の人物のために使うことになろうとは。

 まあサイズは一回り大きいだろうけど、小さいよりはいいか。

「……よし」

 頬を叩き、気合を入れなおして作業に取り掛かる。

 まず帯に手をかけゆっくりとほどく。湿って摩擦力の大きくなった帯はほどきにくかったが、これは何とかなった。

 問題はここから。

「……………………」

 僕は着流しの裾に手をかけ、真っ先に目を逸らす。

 落ち着け。

 ここから先は本来、男には不可侵領域だ。

「ふぅ……はぁ……」

 僕は大きく深呼吸し、覚悟を決め、

「はっ」

 剥く。

「……………………」

 視界の隅に入ってきたのは、色気の欠片もない純白のサラシ。

「……………………」

 ベ、別に残念とか思ってないからな!?

 むしろラッキーだと思おう。これが現代風の下着だったり、そもそも未着用だったりしたら僕の人生が終わる。いろんな意味で。

 とりあえず肩を抱いて上半身を起き上がらせ、下に甚平を広げて敷く。そして腕を袖に通し、紐で結べば任務完了。

「よし」

 あとは女の子の下敷きになっている着流しを引き抜いて、洗濯にでも……。

「……………………」

 待て。

 甚平の紐を結ぼうとして、手が止まる。

 今この状態で、着流しを引き抜いたらどうなる?

 見たところ、この娘は着流し一枚羽織っているだけのようだ。それはつまり、上のサラシと同様に下も直に下着を身に付けているということだ。

 ……いや、本当に身に付けているのか?

 着流しにサラシという古風な格好のこの女の子が万一、下も古風で貫いていたとしたら……。

「……………………」

 はい、僕の人生終了。

 ちらりと横目で確認する。

 だが幸か不幸か、着流しと甚平の裾でどうなっているのかは分からなかった。

「……ええーい! ままよ!」

 僕は決心を決め、脱がしかけていた着流しの裾に手を伸ばす。

 そして。

「……ユー介」

「あ」

 部屋の入り口に立つ、金髪美女と目が合った。

「……おはようございます、ハルさん」

「うむ。もうすでに一度挨拶は済ませているが、改めておはよう」

「どうしました?」

「もう皆朝食を食べ始めているから呼びに来た」

「ははあ、わざわざありがとうございます」

「うむ。気にするな」

 一見、実に平和的な会話風景だ。

 僕が女の子を半裸にして、さらに着流しの裾に手をかけていなければ。

 そしてハルさんの眼鏡の奥の碧眼が、いつも以上に寒々とした青い光を湛えていなければ。

「ユー介」

「……はい」

 僕は素直に返事をする。

「とりあえず、表に出たまえ」

「……はい」

 抵抗なんてできるわけがなかった。



       *  *  *



「全く君という奴は」

「はい……」

曽我部そがべさんから大体のことは聞いていたが」

「はい……」

「ああいうことは我々女性に任せようと考えなかったのか?」

「でも皆忙しそうでしたし……」

「言い訳をしない」

「すみません……」

 食堂にて、僕は延々とハルさんの説教を受けていた。

 言い訳したいが、それでもハルさんの言っていることは正論であるため太刀打ちできない。ハルさんは口に入れた食事を飲み込むたびに一言二言僕に浴びせ続けていた。

 事情をハルさんの説教の内容から察したその他女性陣の視線が痛い。

 非常に痛い。

「まあまあハル。その辺で勘弁してやれよ」

「曽我部さん……」

 良樹さんが漬物を齧りながらハルさんを制した。

 その瞳には優しげな光が湛えられている。

 はあ、助かった。

 これでようやくハルさんのお小言から解放される……。

「思春期真っ盛りの男子高校生が女子の服の下に興味を持つ何て普通だろう」

「え、良樹さん? それフォローのつもり?」

「むしろ女子に興味があるってことは健全な証だろ」

「いや絶対フォローする気ないでしょ!?」

「むう……。確かにその通りではあるが……」

「はいそこハルさん! 納得するとこじゃないよ!?」

 ここに味方はいないのか!?

「じゃあ何かユの字。お前は女子に興味がないと?」

「ユーさん……」

「引かない! 紅くん引かない! 別に男に興味があるってわけじゃないから!」

「じゃあ男と女、どっち好きだ?」

「普通に女の子好きですから!」

「ユー兄……」

「今度は泉ちゃんに引かれた!?」

 一体どうしろと!

 何だこの状況!

 どう答えても変な方向に転がってしまう!

 女の子が好きだと素直に答えれば女性陣に引かれ、好きじゃないと答えれば男性陣に距離を置かれる……!

「どうなんだ、ユの字」

 良樹さん、絶対楽しんでるな!

 ええい、どう答えたら……。

 その時、ふいに奥の襖が開けられた。

「ほら管理人さん、しっかりしてください」

「……うー……」

「ほら、みんなもう食べ始めていますよ。管理人さんだけご飯お預けなんて嫌でしょう?」

「……う」

 弟の危機にもかかわらず、惰眠を貪っていた姉さんがあき子さんに無理やり連れられて来た。

 相変わらず起きてるんだか寝てるんだか分からない垂れ目に、今起きましたと主張するような寝癖頭。

 あき子さんに肩を抱いてもらって支えられてどうにか立っているが、その手を離せば今すぐにでも畳みに崩れ落ちて寝入ってしまいそうだ。

 その暢気な表情を見て、僕はとっさにこう口にしてしまった。

「僕、姉さんが好きだから」

「「「「……………………」」」」

「……う?」

「……ユタさん……?」

 姉さんと、この現状を理解できていないあき子さんを除く全員に引かれた。

 男ではない、でもただの女の子じゃない、つまり家族が好きだと言えばこの状況を打破できると混乱しきったこの頭脳は処理してしまったわけだが。

「……………………」

「「「「……………………」」」」

 しばらくの間、僕の数あるあだ名に『シスコン』が加わりそうだった。



       *  *  *          *  *  *          *  *  *



「……ということがありまして」

「何をやってるのよユーちゃん。いえ、シスコン」

「……うるさい」

 その日の昼休み。

 僕はどこからか今朝の話を聞きつけたあずさによって詰問、というか尋問を受けていた。

 尋問と言っても、奴が面白半分に僕の弁当箱の中身を人質に取りながら聞きだしているだけなのだが。

 しかし誰から洩れた? 僕の予想では、ハルさんが肉体派三人組の誰かにバラし、それが梓まで回ってきたというのが最短ルートだが。明良あきらさんや相良あらいさんがこの手の噂をバラすとは思えないから、きょうさん辺りが本命か。

 にしても何つー情報網。

 恐るべし、梓一味。

「って、何でこんな話になってるんだよ」

「うん?」

「僕は今朝方拾った正体不明の犬耳娘のことを相談していたはずだろ」

 結局あの娘は僕が行燈館を出るまでには目を覚まさなかった。仕方なく、今日の授業は昼かららしい良樹さんとあき子さん、それに朝食を食べて少し目を覚ました姉さんに世話を任せてきた。

「クスクスっ。そうだったわね」

「……………………」

 まさか学校でも遊ばれるとは。

 梓は楽しげにクスクスと笑っていた。

「梓、お前とは一度出るとこ出てガチバトルした方がよさそうだな」

「あらユーちゃん。あたしに勝てるとでも思ってるの?」

「そっちこそ、分家筆頭舐めるなよ?」

「本家の底力を甘く見ないようにね?」

「「……………………」」

 ガンのくれ合い。

 一触即発。

「あの……二人とも、落ち着いて、ね……?」

 そんな空気の中、オドオドとした声で割ってはいる奴がいた。

「む、朝倉あさくら

「まあ、真奈まなちゃんがそう言うなら今日はここで引こうかな」

 一緒に昼食を食べていた朝倉の一声で、僕らは険悪な雰囲気を引っ込めた。まあ本気でやり合おうとは考えてなかったけど、朝倉が本気で心配そうな顔をしていたので素直に引いておく。

 それにこんなところで梓と僕が暴れたら、学園が崩壊するし。下手したら生徒会副会長や風紀委員長クラスの先輩が粛清に出てきそうだし。

 ……それは怖いな。

「それでユッくん……その女の子ってどんな子なの?」

 再び脱線しそうになった会話を朝倉が戻してくれた。

 ナイス。

「うーん、どんな女の子っていっても、普通に普通じゃない女の子だけど」

「どんな日本語よ」

「見た目は普通じゃないけど、特に何か妖怪として感じるわけでもないから、妖怪としては普通の女の子って意味」

「なるほど」

 神妙に頷きながら、何気なく僕の今日のお弁当のメインであるところの肉団子を失敬する梓。

「とりあえず姉さんたちに世話を任せて行燈館で寝かせてるけど、一体どうしたものか悩み中」

 神妙に頷きながら、何気なく梓の今日のお弁当のメインであるところの春巻きを失敬する僕。

「あー! 最後に残しておいた春巻き!」

「お前こそ数少ない肉団子を持ってくとはどういう了見だ!」

「もー……二人ともやめなよ……」

 半ば本気で言霊を紡ぎかけていた僕らはその一言で沈静化。

 危ない。ここで暴れたら本当に生徒会副会長や風紀委員長が来る。あの二人を同時に敵に回すくらいなら、屋上から紐無しバンジーした方がよっぽど生還率は高い。

「とりあえず、目を覚ますまでは放置かな?」

「放置って、ヤバイ妖怪だったらどうするのよ」

「行き倒れて気絶してような奴がか?」

「う……」

「それにハルさんの話だと、外傷はないけど妖力というか霊力というか、まあその類の力が著しく低下してるらしいし。ほっといても何か悪さができる状態じゃないから大丈夫でしょ」

「そうなんだ……早くよくなればいいね……」

「だな。まあ何にせよ、今日はちょっと実家に呼ばれてるから、爺様かホムラ様にでも相談してくるよ」

「それがいいと思うわ」

 そう梓が言葉を結び、僕らは空になった弁当箱を片付け始めた。そしてそれを見計らったかのように、呼び出しの放送が流れた。


『高等部1F、瀧宮梓さん。今すぐ理事長室まで来てください。繰り返します――』


「……お前、何やったよ」

「知らないわよ!」

 理事長室に呼ばれるとか、普通ならありえないよ……。



       *  *  *



「ユー介、いるか?」

「え、あ。ハルさん」

 放課後、下校の準備をしていると教室にハルさんがやってきた。

 ザワザワと教室に残っていた男子が騒ぎ始める。

 ハルさんには他学年にもファンがいることを自覚して欲しい。後で僕がどんな仕打ちを受ける羽目になるのかも含めて。

「どうしました? こんなとこまでわざわざ」

「うむ。一緒に帰ろうと思ってな」

「……………………」

 男子の視線が痛い。

「い、いきなりどうしたんですか?」

「いや、な。あの少女の具合が気になってな」

「ああ、そう言えば力がどうの言ってましたね」

「うむ。ただ空腹なだけではああはなるまい。恐らくは事情があるのだろう」

「そんなに酷かったんですか?」

「……ユー介、君、陰陽師だろ」

「すいません。僕、感知とかは苦手で」

 ちなみに梓も苦手な方だ。どうにも八百刀流の血筋が濃いとそっち方面の能力には疎くなるらしい。

 そう言えば梓、どこ行ったかな? ホームルームが終わってからダッシュで廊下に飛び出していったけど。

「まあでも分かりました。とりあえずいったん帰って事情を聞きましょう。その上で、ちょっと実家に顔出して相談してきます」

「うむ。そうしよう」

 頷き、ハルさんは教室の入り口へと向かった。その背中を追うように、僕も荷物をまとめて教室を出る。

「あ、いたーっ!!」

「どうもユーさん。ハルさん」

「あれ? 泉ちゃん、紅くん」

 廊下の奥から、高等部の中ではやけに目立つ小柄な泉ちゃんと、高等部に混じってもそれほど違和感がない紅くんが走ってきた。

「どうしたのだ二人とも。ここは高等部の校舎だぞ」

 それを言ったらここは一年の階ですよ、ハルさん。

 まあ突っ込まないけど。

 泉ちゃんは元気よく手を挙げながら答えた。

「一緒に帰ろうと思ったんす!」

「つまりは今朝方拾ったあの白い娘が気になったので」

 二人ともハルさんと同じか。

 確かにこの町はあらゆる意味で何でもありだが、行き倒れの正体不明の獣耳妖怪少女は興味をそそるのだろう。

 僕も実際そうだし。

 何だかんだ言っても、陰陽師うんぬんの建前よりも好奇心からあの女の子の正体が気になるのは仕方がないことだと思う。

「じゃあ一緒に帰ろうか」

「ういっす!」

「それにしても、これで良樹さんとあき子さんが合流したら行燈館のバイトメンバーが揃うね」

「そう言えばそうですね」

 メンバーを見渡して頷く紅くん。

 でもまあ、大学は僕らとは終わる時間が違うだろうから、そううまい話はないとは思うけど。

「お、ユの字とその他大勢、来たな」

「こんにちは、ユタさん」

「……………………」

 前言撤回。

 校門でずっと待っていたらしい良樹さんとあき子さんに出会いました。

「何となく聞かなくても分かりますけど、どうしました?」

「あの子が気になった」

「管理人さんに任せっきりというわけにもいきませんし」

「午前中はついぞ目を覚まさなかったしな」

 まあ確かに。

 姉さんも、あれで覚醒したらきちんと仕事をしているらしい。しかもあの規模の武家屋敷を実質ほぼ一人で管理しているのだからその仕事量は膨大なものだろう。

 出掛けに「大丈夫です」と寝ぼけ眼で手を振っていたが、それでも仕事を増やすのは気が引けた。

「じゃ、とっとと帰りますか」

「うむ」

「行燈館まで競争しよう!」

 何か聞こえたぞ。

 見れば泉ちゃんがアキレス腱を伸ばして走る準備をしていた。

「あ、おい。泉」

「いいなそれ! 行くぞお前ら!」

「良樹さん!? ま、待ってください!」

 いきなりダッシュし始めた泉ちゃんと良樹さん。そして追いかけるあき子さん。

 良樹さん……精神年齢が中一女子と同レベルですか……。

 あき子さん、あれのどこがいいのかたまに分からなくなりますよ。

「どうする、ユー介」

「どうするもこうするも、後々『おっそーい!』とか言われるのも腹立たしいですし、走りますか」

「右に同じく」

 紅くんも溜息混じりに頷き、走る準備をしている。

 そしてハルさんもハルさんでやれやれと首を振りながらアキレス腱を伸ばしていた。

 何だかんだでノリのいい行燈館の住人たちだった。



       *  *  *          *  *  *          *  *  *



「あ、おかえりー……?」

 行燈館の門前で掃除をしていた姉さんの迎えの挨拶が疑問系の形をとっていても責めてはいけない。

 なぜなら僕らのほとんどがゼーハーと肩で息をしていたからだ。

 ケロリとしてるのは泉ちゃんと紅くんの最年少コンビだけ。

「か、はー。まだもう少しは走れると思ってたんだがなー」

 一番乗り気だった良樹さんは若干のショックを受けている様子。大学に入って体育の授業がほぼなくなったことで体がなまってきているのかもしれない。

 それを言ったら僕とハルさんが一番体力があるはずなのだが、途中で転んだあき子さんを代わる代わる背負いながら走ったので、一番酷い有様だった。

「申し訳ありませんお二人とも……」

「い、いえ……これくらい……」

「な、何とも、あ、ありません、よ……」

 いや正直大丈夫ではなかったが。

 膝が爆笑してプルップルに震えている。

 と言うか良樹さん、あき子さんが転んだのに気付かずに走っていったもんな……。

「って、ぬおおおおおぉぉぉぉぉっ!? あ、アキっ!? ど、どうした!?」

 良樹さんが僕に背負われているあき子さんを発見して悲鳴を上げた。

 ようやく気付いたか……。

「あ、いえ。少し転んで足を挫いてしまいまして」

「た、大変だ! 早く手当てしねぇと!!」

「きゃっ!」

 叫ぶやいなや、あき子さんを僕から奪い取りお姫様抱っこする良樹さん。

 あき子さんは良樹さんの腕の中で赤面しながらうろたえていた。

「よ、良樹さん……は、恥しいです……」

「こんな時にそんなこと言ってる場合じゃねぇだろ! ハル! 手伝え!」

「あ、うむ。そうだな」

 ズンズンとあき子さんを抱えたまま行燈館の廊下を歩いていく良樹さん。息を整えたハルさんはその後ろを付いて行く。

 ……うん、いつも通りの光景だ。

「で、姉さん」

「あ、はい。どうしました? ユーくん」

 気を取り直して姉さんに向き直る。

「あの娘……白い女の子、どんな感じ?」

「ああ、ビャクちゃんですか」

「……………………」

 ビャクちゃん?

「へー、ビャクちゃんって名前なんすか」

「ってことはみのりさん、目を覚ましたんですか?」

 紅くんも疑問に思ったらしく訊ねる。

 だが姉さんは首を横に振った。

「いえ。まだユーくんの部屋でぐっすりお休み中ですよ。ですがいつまでも『あの娘』とか『白い女の子』って言うのもアレだと思って、勝手にそう呼ぶことにしました」

「……なるほど」

 まあ確かに白いからビャクちゃんとか、本名のわけないか。単純すぎる。

 でもそれって犬猫につけるのと同レベルのネーミングだと思うのは僕だけだろうか?

「何にせよ、いったん部屋に戻って様子を見ようか」

「そうですね。おれも荷物を置いたらお邪魔します」

「ボクも!」

「うん。じゃあ後で僕の部屋にね」

「ういっす!」

 紅くんと泉ちゃんも廊下の奥へと消えていった。

 それを見送り、僕も玄関に向かう。

「っと、その前に。姉さん、昨日頼んでおいた奴、できてる?」

「ホムラ様へのお土産ですか? もちろんです。腕によりをかけて作ったのでとっても美味しいと思いますよ」

「ありがと」

「冷蔵庫に入れておきました。今のうちに出して少し温めておいたほうがいいですよ」

「わかった」

 お礼を言い、まだ掃除が残っている姉さんを置いて土間に向かう。

「これかな?」

 冷蔵庫のふたを開け、それらしき物を取り出す。竹で編まれた古風な弁当箱だ。

念のための中を確認する。

「お、いい感じ」

 中にはキツネ色の油揚げに酢飯がぎっちりと詰められた、丸々として美味しそうな稲荷寿司がたくさん。穂波家伝統の一品だ。

「ホムラ様、本当に好きだもんなー、これ」

 弁当箱のふたを戻し、自室に急ぐ。

 姉さんの話だとあの女の子……やっぱりいちいち言うのも面倒だな。手っ取り早くビャクちゃんでいいか。まあビャクちゃんはまだ寝ているらしいが、目が覚めていたら早いとこ話を聞きたい。

 僕は足早に部屋へと急いだ。

「ごめん、遅れた……って、まだ誰も来てないのか」

 扉を開けるも、そこには誰もいなかった。

 いるのはビャクちゃんだけ。

「……とりあえず、顔色はよさそうだな」

 濡れた着流しから新品の甚平に着替えているビャクちゃんの顔色は、今朝よりも大分よかった。やっぱり寒かったのだろう。

「でも起きる気配はないか……」

 整った寝息に混じって小さく腹の音が鳴っている以外、普通に安眠しているように見える。だがさすがに妖怪と言えども行き倒れるほどの空腹が長時間続けばさすがにヤバイだろう。本当は起きてお粥でも何でも食べてくれればいいんだけど。

「でも叩き起こすわけにもいかないしな」

 キュウ、とまた小さく腹が鳴った。

 ……そう言えば僕も小腹が空いたな。結局昼のお弁当も、おかずの半分くらいを梓に取られてたし。僕はあいつのおかずは最後の春巻き以外はそんなに取ってないのに。横暴な奴め。

 まあそれはともかく、そう感じた僕はおもむろに竹の弁当箱に手を伸ばした。

 これだけあるんだから一個くらいならいいだろう。

 僕は素手で美味しそうな稲荷寿司を摘んだ。

 それを口元に運ぼうとした瞬間。

「稲荷寿司の匂い!!」

 カプ。

「……………………」

 えーと。

 どうすればいいんだろう。

 いきなり稲荷寿司が僕の右手ごと消えた。

 右手首より先にはさっきまで眠っていたビャクちゃんの、蒼穹のような蒼い瞳を輝かせた顔がある。そして右手全体にぬめぬめとした唾液の感触に混じって硬い歯の食む感覚が伝わってきた。

 つまり彼女は稲荷寿司を僕の右手ごと咀嚼しているということで。

 あ、そうか。

 どうすればいいなんて考える必要はないか。

 んじゃ、行きまーす。

「ぎゃああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 悲鳴を上げればいいんだ。



       *  *  *



「……………………」

 バクバク。

「……………………」

 ングング。

「……………………」

 ハグハグ。

「……………………」

 ゴクゴク。

「……………………」

 パクパク。

「……………………」

 ゴキュゴキュ。

「……………………」

 ゴックン。

「ぷはー! いやー、文字通り生き返ったわ!」

 布団に半身を突っ込んだまま、大皿に山と詰まれた大量の稲荷寿司をお茶と一緒に流し込むように胃袋に収めたビャクちゃんは、言葉通りに生き返ったような清々しい笑顔を浮かべた。

 それにしても危なかった……。姉さんが今夜の夕食にと余分に作っていた稲荷寿司まで全部食われ、泉ちゃんと紅くんに近くのコンビニとスーパーに買いに行かせたのだが、それすらも全滅しそうな勢いだった。

 その小さな体のどこにあの大量の稲荷寿司が入っているんだ?

 まあ相手は妖怪だし、常識は通じないか。

「いやー、ご馳走になったよ! 感謝感謝!」

「ああ、まあそれはいいんだけど……」

 こいつ、狐だったのか……。

 耳と尻尾の形から勝手に犬だと思い込んでたけど、稲荷寿司が好きってことは妖狐で間違いはないと思う。

 いや、それはともかく……どうするかな、稲荷寿司。

「姉さん、今からもう一回作れる?」

「え、無理です。そもそも材料がありませんので」

「そっか」

 こりゃ今回はお土産なしかな。

 怒るだろうなー。あのヒトも常識を逸脱した稲荷寿司好きだから。

「ホムラ様に何て言い訳しようか」

「……え?」

 と、暢気に残りのお茶を飲んでいたビャクちゃんの笑みが不自然に硬直した。

「どうしたの?」

「……ホムラ様って……土地神のホムラ……?」

「え、うん」

「九尾のホムラ……?」

「そうだけど」

 え? ひょっとして知り合いなのだろうか。

 そう予想した矢先、ビャクちゃんは冷や汗をだらだらと滝のように流し始めた。

「ヤバイ……ヤバイわ……! 姉様の稲荷寿司を全部食べちゃったなんてバレたら……!」

「姉様!?」

 予想外な単語が聞こえたぞ!

「え、ビャクちゃんってホムラ様の妹なんすか?」

 泉ちゃんも驚いたようで目を丸くしている。見れば良樹さんもあんぐりと口を開いていた。

 きっと僕の表情もあんな感じなんだろう。

 だがビャクちゃんは首を振った。

「血は繋がってるけど実姉ってわけじゃないわ。遠い親戚よ。昔から付き合いがあったから姉様と呼ばせてもらってるだけ。……って、それどころじゃないわ! どうしよう……お仕置きされる……!」

 ブルブルと恐怖で震え上がるビャクちゃん。

 ……昔何があったんだ。

「あ、でもホムラ様の血縁のヒトってことは別に怪しい奴じゃないか」

 だったら無理にホムラ様のところに連れて行く必要もないか。

「え? 何? 貴方、私を怪しい妖怪だとでも疑ってたの?」

「怪しい妖怪という言葉もなかなか斬新な響きだけど、うん、まあそうだね。ビャクちゃん、何でか知らないけど倒れてたし」

「……ねえ、さっきから言ってる『ビャクちゃん』って、私のことよね? 何となく私のことを指してるなーって分かったから放っておいたけど」

 あ、そうだ。

「そう言えば君、名前は? それに何であんなところで倒れてたの?」

 それが真っ先に聞きたいことだった。

 それもあんなに腹を空かせて。

「ん、ああ。そう言えばまだ名乗ってなかったわね。私の名前は――」

 と、ビャクちゃんは口を開いたまま固まった。

 そして一度首を傾げ、乾いた笑みを顔に貼り付けながら額に手を置いた。

「あれ……?」

 そう呟かれた声は酷く震え、掠れていた。

「私……名前、何て言うんだっけ……?」

「……え?」

「私、倒れてたのよね……何で倒れてたんだっけ……? 誰か……ううん。何かに襲われたような……それで、どうしたんだっけ……?」

「……………………」

 おいおい……。

 僕は背中に冷や汗が流れるのを感じた。

 誰かに襲われた?

 誰だ?

 いや、それ以前に。

「記憶を……なくしてるのか?」

 紅くんは表情を引き攣らせてビャクちゃんを見た。

 だが何度見ても、冗談を言っていたりフリをしているようには見えない。その蒼い瞳は今にも涙がこぼれそうなほど濡れ光っていた。

 心の底から恐怖している顔だ。

「あの、覚えていないのは自分のことだけですか? ご家族のこととか、ご友人のこととか」

「家族……家族……ホムラ姉様と、あと……誰がいたっけ……? 友達……あれ? 友達なんて、そもそもいたのかしら……?」

 あき子さんの問いかけにも、ビャクちゃんは震える声でしか答えることができなかった。

 ビャクちゃんは戸惑いと恐怖で目を回した。

「あれ……私って……何者なの……?」

 そう呟き、ビャクちゃんは布団に倒れこんだ。

「まずいな……精神的疲労が肉体にまで影響を及ぼしたようだ」

 ハルさんは呟き、再び気を失ったビャクちゃんの触診を始める。

 触診といっても、人間の医者が人間相手にするものとは全くの別だ。

 直接触れることで、精神的状況をより精密に診断できるそうなのだ。

「……これは……!」

 ハルさんは表情を曇らせた。

「何か分かりましたか?」

 姉さんも心配そうに尋ねる。

 するとハルさんは実に言いにくそうに答えた。

「今朝方この娘を診た時に、霊力と言おうか、妖気と言おうか、つまりはその類の霊的生命力が著しく低下していると言ったのは覚えているな?」

「あ、はい。覚えています」

「……ここまで低下するのは異常だと思ってたが……当たり前だ。この娘……魂が半分ほど欠けている。いや……奪われている」



       *  *  *



「土地神」

 姉さんは気を失ったビャクちゃんを背負いながらハルさんに説明した。

「簡単に言えばこの町の守り神ですかね。日本では八百万の神といって万物に神様が宿ると言われているのです。それこそ森の木々から家屋といった人工物まで様々です。土地神は文字通り、土地に宿り土地を守る神様ということです」

「ふむ……。分かったような、分からないような……。特にこれと言って深く信仰している宗教はありませんが、私の国ではとある一神教が主でしたので」

「まあ、こういう日本古来の宗教観念が、日本で色んな宗教がごちゃ混ぜになってる理由だと言ってもいいかもしれないですけどね。実際ホムラ様は土地神だけじゃなく、僕ら『穂波』の守り神もやってくれているわけだし」

 そう言って僕は説明を付け加える。

 世界広しと言ってもここくらいだろう。盆踊りとクリスマスと初詣が混在する国は。

 だがハルさんは小首を傾げたまま訊ねる。

 ちなみに他の面子はお留守番。夕食の準備があるからね。ハルさんだけはホムラ様に会ったことがないので良い機会と言うことで僕らに同行している。

「それで、なぜこの娘をその土地神様のところに連れて行くのだ?」

「さっきも言った通り、この町の土地神であるホムラ様はこの土地に宿っているんです。それはつまり、この町とつながっていると言うことで、土地神は自分の土地で起こったことを全て把握できるんですよ」

「……! それは凄い! ではこの娘をこんな目に遭わせた者が誰なのかすぐに分かるではないか」

「……理論上はそうなんですけど」

「何だ? 浮かない顔をして」

 まあ、ホムラ様を知らないハルさんがそう言うのは分からなくもない。

「土地神は確かにこの土地を守っています。ですが自ら直接、私たち住人に力を貸すということはしないのです」

「え?」

「神様は基本的に浮世離れしてるんです。守ることには守りますけど、必要以上の災厄に見舞われないよう見守るだけです。飢饉が起きた翌年にはいつもより少し多めに穀物を実らす、と言った具合に」

「それでも助けてくれているじゃないか」

「まあ神様にもよりますけどね。ですがうちの土地神は直接力を貸すことは絶対にありません」

「なぜだ? 住民が困っているのに」

「本当に困ってるなら警察に行けって言うようなヒトですしね……。でもホムラ様も、気まぐれや意地悪で力を貸さないわけじゃないんです。ホムラ様はある強大な力を持った妖狐が神格化した、いわば稲荷の化身ですから。神であると同時に妖怪なんです。そして妖怪には縛りがある」

「……なるほど」

「ホムラ様の縛りは『自分から他者に干渉できない』と言うことです。まあそうは言っても、放っておけば僕ら人間なんて簡単に滅んでしまいますから、八百刀流のような陰陽師に助言を与えて、こう言ってはアレですけど、僕らを駒にして土地を守ってるんです」

 だけど障らぬ神に崇りなし、と言うわけじゃないけど、もしホムラ様に直接危害を加えるような馬鹿が現れたら、そりゃホムラ様も直々に徹底抗戦するだろうけど。

「だからまあ、直接ホムラ様の力を借りることはできないので、助言だけでももらってこようという魂胆です」

 それに今回は、ビャクちゃん自身の言葉を信じるなら、この娘はホムラ様の血縁だ。何かしら有益な情報をくれるかもしれない。

 何だかんだ言って、あのヒトは身内に甘いから。

 ……っと。

「そろそろ着きますよ」

 閑静な住宅街を抜け、僕らの目の前に不意に巨大な竹林が姿を現した。

 そして林道の入り口には古びた朱色の鳥居が。

「……ぅ? 懐かしい……匂い……?」

「あ、ビャクちゃん。気付きましたか」

 ノロノロとした動作で姉さんの背中から降りるビャクちゃん。

 眠気眼というか、まだ顔色は優れないようだ。

「ここは……?」

「土地神、ホムラ様の社の近くだよ。とりあえずホムラ様に相談することにした」

「ああ、そっか……私、記憶飛んでるんだった……」

「……………………」

 記憶をなくしたことを忘れていたのか。

 存外暢気な性格なのかもしれない。

「確かに、姉様なら何か知ってるかもしれないわね。素直に教えてくれるとは限らないけど……」

「だな」

 その辺の見解は共通か。

 目を覚ましたビャクちゃんは、先ほどのように動揺した様子は見せなかった。やはりホムラ様の妹分というだけあって結構な年月を生きているのだろう。二度は失態を見せない心構えでも持っているのかもしれない。

 少しふらついているが自力で歩くと主張したビャクちゃんを連れ、僕達は歩き出した。

 ここの竹林は結構うっそうとしている。竹や笹が密に生えており、普段人が通る部分だけは枯れた笹の葉で敷き詰められた林道となっている。

 そして入り口の物を含めて計九つの鳥居を潜り、ようやく見慣れた社にたどり着く。

 今までの竹の密林が嘘のように開けた広場。そこに古びてはいるが堂々とした佇まいの神社が姿を現した。

 そしてその広場を、一人竹箒片手に掃除をしている老人が目に入った。

「爺様!」

 そう言えばここのところ忙しかったのかここにはいなかったな。

「ん? お。おお! 誰かと思えば我が孫たちではないか!」

「お久しぶりです、お爺様」

「稔まで来てくれたのか! しばらく見ない間にまた可愛くなったなあ! よしよし、お小遣いをあげよう」

「お爺様ったら。私、もうお小遣いをもらうような歳じゃありませんよ」

「とか言いながらしっかりもらうんだ、姉さん……」

 懐から諭吉を三人(!)取り出して姉さんに握らせる爺様。甘やかせ過ぎだろう。

「こっちがユーの分だ」

「……………………」

「ん? どうした? いらんのか?」

「いや、何か一瞬英語に聞こえた」

「そうか? ほれ、受け取れ」

「ども」

 英世一人ゲット……っておい。

「何この差!? 何で姉さんと文字通り桁が違うの!?」

「孫とは言え男に大金を渡す趣味はない!」

「あんた本当に僕の祖父か!? このエロジジイ!」

「おお、こっちのお嬢ちゃんは美人だなあ! よしよしお小遣いをあげよう」

「聞けっ」

「い、いえ……わ、私は……」

「遠慮することはないぞ! ほれ、受け取れ!」

「は、はあ……」

 ハルさん、諭吉二人ゲット……っておい!

「納得いかないっ!!」

「喧しいそユー。そんなんだから女の子にモテんのだ」

「さも昔は自分はモテたみたいに言うんじゃない! バツ五が!」

「ぬおっ!? それを言うか孫よ! だがそれはワシが五回は結婚に成功したぷれいぼーいという証拠じゃないか!」

「カタカナを平仮名発音しない! ウザいから! だが全くその通りだチクショウめ!」

 だけど同時に五回も嫁に逃げられているということなんだけどね。

 ちなみに僕らの婆様は爺様の六人目の妻だそうです。結婚から半世紀が経った今でも尻に敷かれてます。

 普通は嫁に逃げられたとか表現するんだろうが、爺様の場合は嫁から逃げられなかったとか。

 って、そんなことより。

「今日はホムラ様に呼ばれたから来たんだけど」

「む、そうだったな」

「それに……ちょっとこの娘について相談もあって」

「ぬ?」

 そう言って僕は呆然と僕らのやり取りを見つめていたビャクちゃんを前に押し出す。

 キョトンとした表情を浮かべるビャクちゃんは、相変わらず耳と尻尾が出たままだ。じい様はそれ見るやいなや顔を顰め、納得いったという具合に頷いた。

「ユーよ。お前は人外萌えに目覚めたか」

「違うからね!? この場面は明らかにギャグパートじゃないからね!? て言うかよくそんな言葉知ってるなあんた!」

 それにそれを言ったらこの町の住人の大半が人外だ。

 ああもう! そろそろシリアスパートに移行したいのに全く話が進まない!?

「と、とにかく! これからホムラ様に会いに行くから。爺様も来る?」

 できれば来ないで欲しい。

 そんな願望が通じたのか、爺様は首を横に振った。

「いや。ワシはまだやることあるからな。遠慮する」

「そう。わかった」

「だがなあ……」

「ん? またギャグパートに移る気だったら問答無用で章を変えるよ?」

「何をわけの分からんことを……。そうでなくな、今ホムラ様は……いや、直接行ってその目で確かめたほうが早い」

「は?」

「じゃあな」

 シュッとやけに綺麗なフォームの敬礼をし、爺様は竹箒を持ってどこかに消えていった。

 何なんだ、あの老人……。

「それにしても……」

 ホムラ様、何かやってるんだろうか?

 まあいいか。それこそ、爺様の言った通り直接確かめた方が早い。

「じゃ、行こうか」

「そうですね」

 この展開には慣れている姉さんはごく自然だが、残る二人は呆けたまま付いて来た。

 社の前まで行き、古びた大きな鈴を鳴らす。

「ホムラ様―。入りますよー」

 ……………………。

 沈黙。

 返事がない。

「あれ? 今日来るようにって言ってたよな……?」

 まあ知らない仲じゃないし、勝手に入ってもいいか。

 そう判断し、扉に手をかけた時だった。

「……………………れぃ……とのま……」

「……………………めなあい……」

 ……ん?

「何だ、いるじゃないですか」

 姉さんが小さく呟いた。

 確かに中から微かに、聞き覚えのある女性の声が聞こえた。

 だったら遠慮はない。僕は躊躇うことなく扉を開けた。

「……………………」

 空けた瞬間、沈黙した。

「ほれ、ミオ。こっちの酒も呑んでみぃ」

「えぇ~。もうわたし、呑めないわよ~。でも美味しそ~。呑んじゃおっ」

「どうじゃ? その名も『妖酒・龍殺し』じゃ」

「え、龍殺し? どうしよ~。わたし、殺されちゃうの~? でも美味しい~!」

「じゃろう? 儂のとっておきじゃからな!」

「あ、でもこれ、後から結構くるわ~。けど……」

「悪い酔いではない?」

「その通りよ~! やっぱりホムラちゃんのお酒の選択は最高だわ~」

「はっは! そう褒めるでない!」

 二柱の神の酒盛りだった。

「……………………」

 で、僕が取った行動と言えば。

「何してんですか!?」

 掴んで。

 極めて。

 絞めて。

 投げる。

 ドターンと豪快な音と共に二人は床に転がされた。

「何すんじゃあ!?」

「いった~い……」

「ただ御主らが来るまで少し呑んでおっただけじゃろうが!」

「そ~よ。横暴よ~」

「どこの世界に人を呼びつけといて酒盛りして待ってる神様がいますか!?」

「「ここにいる」」

「うるさい!」

 爺様の災厄が過ぎたと思ったら、今度はこのヒトたちか!

 と言うよりなぜここにミオ様がいる!?

 しかもよく見れば二人とも人化が解けかかっている。

 ミオ様は頭から長い角が生えているし、藤色の羽織袴から覗く手足にはうろこ状のものが浮き出ている。さらにホムラ様に至っては、自前の巫女服の裾から金色の九本の尻尾、頭には耳と、出るもの全部が出ていた。

 どんだけ呑んでんだ。

「……この方が、土地神様か……?」

 どこか胡散臭そうな視線を僕に向けるハルさん。

 その視線はもっともだけど、これが現実なんですよ……。

「はい……。月波市の土地神で、我が家の守り神でもあるホムラ様。隣が『瀧宮』の守り神のミオ様」

「初めまして、じゃな。儂がホムラじゃ」

「ミオで~す」

「は、初めまして……」

 ホムラ様はともかく、ミオ様のテンションに半ば引き気味のハルさん。

 まあ酔っているということもあるんだろうが、それでもいつもこんな感じな気もする。

「……で、一体何のようだったんですか?」

「おお、そうじゃったな」

 だがこれ以上突っ込んでいては話が進まない。

 ここはある程度のことはスルーしなければ。

 ホムラ様はハルさんのそれにも劣らない見事な金髪を整えながら座り直す。ようやく本題に入れるかと思ったが、ホムラ様はその焔を閉じ込めたような紅い瞳を細めた。

 視線の先には、どこか緊張した面持ちのビャクちゃん。

「……久しぶり、姉様」

「ふむ。確かに久しいが……何じゃ御主。その貧相な姿形に魂は」

「……………………」

「御主がこの町に来ておったのは知っていたが、まさかそこまでとは思わなんだ」

 してやられたようじゃの、と。

 ホムラ様は牙を見せながら嗤った。

「しかし解せんのう。御主ほどの白狐がそう易々とやられるとは思えなんだが」

「……油断、というよりは単に力量不足だったと思うわ。ここ数百年で、私の力もずいぶんと衰えているようだし」

「だからあれほど、憑く人間か守る土地を早く見つけろと言ったのじゃ。……例え神でも、崇められねば死ぬ運命じゃ」

「分かっている……つもりだわ」

「所詮は『つもり』じゃろうが。今回はいつまでも放浪の神を気取っておった御主の自業自得じゃ」

「……ええ」

「いつ消えたっておかしくない状態なのじゃぞ? 分かっておるのか」

 ホムラ様の睨むような紅い眼光に、ビャクちゃんはじっと俯いていた。

 ただひたすら、無言で俯いていた。

「……近こう寄れ」

「……?」

 不意に手招きをするホムラ様。

 言われるがままに近づくビャクちゃん。

 だが次の瞬間。

 パン、と。

 乾いた音が響いた。

 僕らが驚く中、ビャクちゃんは頬を押さえて倒れこんだ。

「愚か者が! 己の力量を弁えずに死ぬところじゃったのだぞ!? それでも八百万の神々の一柱かっ!! 恥を知れ、恥を!」

 叫び、ホムラ様はビャクちゃんに手を伸ばした。

 また叩くのかと身構えた僕だったが、ホムラ様は予想に反してギュッと、ビャクちゃんを抱きしめた。

「……なぜ、この町で襲われたにもかかわらず儂に助けを求めなかったのじゃ……。いくら儂が自分から手を出すことができぬ神でも、妖怪でも、大切な家族の危機には駆けつけるわい……! 求められれば、儂も力になれたものを……!」

「……姉様……」

「ここから見ておった。聞いておった……。御主、魂と一緒に記憶も奪われておるのじゃろう……?」

「うん……」

「怖かったろう……? 自分が何者なのか分からぬということは……」

「うん……!」

 そう答えた声は、涙で湿っていた。

 けど、とビャクちゃんは続けた。

「けど、姉様のことは……覚えてた……。家族も友人も、自分のことも忘れちゃったけど……姉様は、覚えてた……」

「ふふ……可愛い『妹』よ……」

 そっと、ホムラ様はビャクちゃんの長い白髪を撫でた。

「儂を許しておくれ……御主をこんな目に遭わせた奴が誰なのかは分かっておる。だがそれを教えられる儂を……」

「大丈夫……大丈夫だから……」

「……じゃが……一つだけ、伝えられることがある」

「え……?」

 ビャクちゃんは小さく小首を傾げた。

 ホムラ様はビャクちゃんを放し、紅い視線を僕に向ける。

「ユー坊」

「はい」

 僕はその視線を真っ直ぐに受け止めた。

「率直に言おう。儂が今日、御主を呼び出した用件とこやつの事情は繋がっておる」

「繋がっている……?」

「御主も噂で聞いておろう。数日前に起こった不審火じゃ」

「ああ、それなら宇井ういさんから聞いてます。何でも、黒い炎がいきなり現れて建物を腐敗させたり触れた者の気力というか、生命力を吸い取っていたとか……」

「それじゃ」

「それ、って……まさか……」

「そうじゃ。黒炎を放った下手人と、こやつの魂と記憶を奪った者は同一人物じゃ」

 誰がそんなことを……。

 僕はその一言を何とか飲み込んだ。

 言えるものなら、行動に移せるものなら、ホムラ様がとっくにそいつを始末している。

 そいつは間違いなく、神に障ってしまったのだから。

「黒炎は人間や妖怪に限らす、木々や人工物に宿る生命力をも吸い取っておった。……黒炎の術者が何を企んでおるのかまでは分からぬが、どうせ碌なことではあるまい」

「そして一つ言えることは、そいつは生命力、さらに言うなら魂を集めているみたいなの~」

 ホムラ様の説明に言葉を付け足すミオ様。

「すでに『瀧宮』は動き出してるわ~。そこでホムラちゃん以外で犯人が分かっていない今は、とりあえずの対処として妖怪たちに力の封印を施すらしいわ~。……妖怪たちの反発は避けられないかもしれないけど、我慢してもらうしかないわね~……」

 チラリとミオ様はハルさんを見た。

 ハルさんは心得たとばかりに頷いた。

「つまり、僕ら八百刀流がさっさとその犯人を捕まえればいいわけですね」

「そういうことじゃな。現実問題、いつ死人が出てもおかしくない。と言うより、未だに死人が出ておらぬことが不思議なくらいじゃ」

 そしてもう一つ、と。

 ホムラ様はそっとビャクちゃんの頭を撫でた。

「御主にはこやつのお守りも頼みたい」

「え?」

「姉様?」

 素っ頓狂な声を上げる僕ら。ビャクちゃんもいきなりの提案に驚いているようだった。

「こやつはこの通り、力がだいぶ衰えている上に魂を半分以上奪われておる。いつ存在が掻き消えてもおかしくない状態じゃ。実質的に八百刀流の分家筆頭である御主に託したい。……幸い、狐と『穂波』の食い合わせは悪くないしの」

「……つまり、私がこいつに憑けばいいの?」

「嫌か?」

「嫌か嫌じゃないかって言ったら、別に嫌じゃないけど……。でも人間にずっと助けてもらうっていうのは何か釈然としないわ。……これでも、一柱の神だし」

「だったら今回のゴタゴタが片付いた後に恩を返せばよかろう。その頃には御主の力もある程度は戻っておるじゃろうて」

「……そうだといいけど」

 ちらっと、ビャクちゃんは僕を見た。

 僕はその蒼い瞳を見つめ返す。

「ふーん……」

 ……?

 溜息をついたビャクちゃんは、そっと手を差し出した。

「何かそういうことになっちゃったみたいだから、しばらくよろしくね」

「あ、うん。こちらこそ……」

 差し出された手を握り返す。

 まあ僕も嫌か嫌じゃないかって言ったら、別に嫌じゃないし。

 つまりはビャクちゃんの欠けている力を僕が補ってあげればいい話だろ?

 問題はないね。

 それに記憶を失っているとは言え、被害者の一人であるビャクちゃんのそばにいれば犯人の姿も見えてくるかもしれない。

「ユー坊……いや。八百刀流陰陽道『穂波』二十代目党首代行、穂波ほなみゆたかよ」

「はい」

 ホムラ様の声に、僕は姿勢を正す。

「此度の黒炎の真相の追究、及びこやつの魂を奪った者の捕縛を御主ら八百刀流に一任する。本家分家問わずいくら陰陽師を借り出しても構わん。早期解決に努めよ」

「……もちろんです」

 僕は厳かに頷いた。


「……そう言えば、時にユー坊」

「ホムラ様、どうしました?」

「今回、稲荷寿司はどうした?」

「「……………………」」

「待て。御主ら二人して何故黙る」

「こいつが全部食いました」

「ちょっと!? 私を売る気!?」

「ほほう……」

「……えへっ♪」

「後で話がある。残れ」

「ひいぃっ!?」

「……………………」

 せっかく格好がついたのに、台無しだった。




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