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だい ひゃく わ ~百物語~

 ことことと鍋が煮え始める音が聞こえ、私はコンロの火を弱めた。蓋を開けると、ふわりと煮干しの香りが立ち上り、自然と頬が緩むのを感じる。

 役目を終えた煮干しを鍋から掬い取り、あらかじめ熱湯をかけて余分な油を落とし、細かく切っておいた油揚げを投入する。私の好みに合わせて、たっぷり目に。

 お揚げに出汁が染みてきたら、今度は大量の味噌を溶き、続いてもやしを投下。歯ごたえが残るよう煮えすぎないように気を付けながら火を再び弱め、最後に賽の目に切った豆腐を入れ、蓋をする。火を消し、後は予熱で置いておく。

 その間にもボウルに卵を二パックほど割入れ、泡だて器で一気にかき混ぜる。白身がある程度塊で残っているくらいに混ざったらあらかじめ作っておいただし汁と混ぜ合わせ、隠し味にみりんを垂らす。

 油を多めに塗ったフライパンを熱し、十分に温まったら卵液をおたまで二杯分垂らす。じゅわじゅわと沸騰して浮かび上がる大きな泡を菜箸の先で潰しながら少し硬めに焼き、端から丁寧に巻いて行く。

 巻き終えたらフライパンの余ったスペースに油を薄く塗り、また卵液を注いでどんどん巻く。それを繰り返すことでふんわりとした出汁巻き卵が完成した。


 チン♪


 そのタイミングでオーブンが鳴る。さっきから良い匂いがしていたので頃合いだとは思っていたが、これは蓋を開けるのが楽しみだ。

 かちゃりと取っ手を引くと、中に敷き詰められたふとっちょな鰯の群れからあふれた脂が良い匂いを立ち上らせた。焼き加減も塩加減もばっちりだ。


「ビャクさん、おはようございまーす」

「あ、おはよー」


 そんなところで時間ぴったり、今日の食事当番が起きだしてきた。

「冷蔵庫にほうれん草のお浸しがあるから、小鉢に盛っていってちょうだい。それが終わったら卵も切っておいてね」

「了解でーす」

「うーん、今日も美味しそー」

 食事当番の子たちが慣れた手つきでそれぞれの仕事に取り掛かる。

 その光景にうんうんと満足しながら頷き、私は鰯に取り掛かる。皮が破けないようにそっと箸で持ち上げ、お皿に乗せる。それが終わったらお皿の端に作り置きの大根おろしをスプーンで盛り付けていく。

「おはざまーす」

「わあ、いい匂い!」

 食事当番じゃない子たちも次々に起きだしてきた。私は大豆まみれのお味噌汁を鍋ごと持ち上げながら、「おはよー」と挨拶を返す。

「みんな、手が空いてたらお茶碗を居間まで持って行ってね」

「はーい」

「了解っす!」

 わらわらと厨房に人が集まってくる。毎朝の光景にほっこりと笑みを浮かべながら――ちくりと、私の心に小さな棘が刺さるのを感じた。

 今日もまた、いない人影を探してしまう。


 月波市全部を巻き込んだ、冥府の陰陽分離計画から十年。


 私は行燈館の管理人として、ユタカの帰りを待っていた。



          * * *



「ビャクちゃん」

「あ、ミノリ!」

 みんなの登校を見送り、朝食の後片付けをしていると、行燈館の厨房にミノリがやって来た。

「今日も手伝いに来てくれたの?」

「はい。やっぱり人手はあった方がいいと思いまして」

「もー、私これでも結構慣れてきて手際も良くなったんだからね! でもありがと、嬉しい!」

 ミノリは結婚して行燈館の管理人を辞めてからも、たまにこうして手伝いに来てくれる。……というのは口実で、私のために会いに来てくれているのは、何となく分かっていた。

「ミノリのほうはどんな感じ?」

「なんせ双子ですからね、もう毎日が戦争ですよ。あっちがおぎゃあと泣けばこっちでがしゃんと何かが壊れる毎日です」

「……そんな状態なのに、こっちに来てもらって大丈夫なの?」

「ふっふっふ、ビャクちゃん、今は男も育休が取れる時代ですよ。今日は修二(しゅうじ)さんに丸投げしてきました」

 小悪い風に笑って見せるが、家事から逃げた先で家事の手伝いをしてしまっている当たり、長年の管理人生活の職業病が抜けきっていないと思うんだけど……。

 それでも、やっぱり会いに来てくれるのは嬉しいわけで、私たちは雑談に花を咲かせながらもテキパキと朝食の後片付けを終わらせた。

 お茶とお茶菓子を用意して、居間で一服。

「うーん、やっぱり二人だと楽だね」

「お疲れさまでした、ビャクちゃん」

「ミノリ、今日の予定は何かあるの? シュウジに双子ちゃんを任せてきたって言ってたけど」

「今日は大学の時の先輩と久々にお茶会です。あっちもお子さんが小学校に上がったので日中はほんのちょっぴり時間が空くようになったそうです」

 今から楽しみという風にうきうきと語るミノリに、何だかこっちまで笑顔になるのを感じた。

「ミノリ、もう少し落ち着いたら今度は私とも、どこか出かけようね」

「ええ、もちろんです。それでは私はそろそろ電車の時間なので行きますね」

 言うとミノリは手早く手荷物をまとめ、足早に行燈館を後にした。

 それを見送った後、「さて」と私も外出する準備をする。

 今日は大学組も午後まで講義だから、昼食の準備はしなくていい。私も少し空いた時間を使って、久々に街にくり出すことにしようかな。



          * * *



「お、ビャクちゃん」

「え? あ、ウイ! それにアキラとアライ!」

「……よう」

「何だか久しぶりだねー」

 当てもなくアーケード街をぷらぷらとさ迷い歩いていたら後ろから声をかけられた。振り向くと、巨大な水槽を肩に担いだアライを従えるように、ウイとアキラが近寄ってきた。

「わ、どうしたのそれ」

隈武屋(うち)の玄関周りの模様替えしようって話になってさ、それならでっかい水槽置こうぜって案が出たのよ」

「……それで香川(かがわ)のところの店にレイアウトを頼んだ」

「和風の水槽を組んで金魚か日淡を泳がせたらお店の雰囲気にも合うと思うんだ」

「ニッタン?」

「日本淡水魚のこと」

 首を傾げると、アライが笑って教えてくれた。なるほど、それなら純和風の料亭にもいい感じに合うかもしれない。

「オイカワのオスとか一目で綺麗だけど、テツギョとか渋くてお勧めなんだけど」

「だからそこは金魚でいいってば」

「……すっかり香川もペットショップ店員だな」

 あれ、と私はまたもや首を傾げる。確かアライの働いているペットショップって爬虫類専門じゃなかったかな。

「ああ、実はおれ、二号店を任されることになったんだ。そっちは熱帯魚も置くことになって、今猛勉強中なんだ」

「ええ、じゃあ店長さんになるの!?」

「そうなるかなー。爬虫類部門は引き続きコーナーは設けて、そっちは嫁さんに任せることになるけど。それにしてもおれが店長って、なんだか照れくさいや」

 1メートルはある水槽を肩腕で担ぎながら笑って頭を掻くアライ。相変わらず体が大きい割に控えめな性格をしている。

「いやー、いいニュースを聞けたよ! 久々に街に出てきて正解だった!」

「あ、ニュースと言えば」

 と、ウイが携帯電話を取り出し、画面を操作して私の方に見せてきた。覗き込むと、それはネットニュースで、なんだか見覚えのある顔の並ぶ写真が載っていた。

「あれ、これって!?」

「ね、(きょう)とハルよね!?」

 記事を流し読みすると、干ばつが続く紛争地帯で井戸を掘る日本人男性と、その妻で医療系NGOに従事する白人女性の活躍についてかなり好意的に書かれていた。写真も、たくさんの現地民に囲まれてみんなにっこりと笑っている。

「あの二人、元気そうでなによりだわ」

「……人魚の感知能力で水脈を当てて、鬼の怪力で穴を掘っているのか」

「なるほど効率的」

 友人二人の活躍にうんうんと満足げに頷く三人。あの二人、よっぽど忙しいのか滅多に連絡してこないから不安だったんだよね。場所も場所だし、何かあったんじゃないかと思うこともあったが、この様子なら大丈夫そうだ。

「じゃあね、ビャクちゃん。わたしらそろそろ行くわ」

「うん。またね、ウイ」

「……あいつが帰ってきたら、隈武屋(うち)に飯を食いに来い」

「うん――必ず行くよ」

「またね」

 三人に手を振り、私は歩き出す。

 さて、そろそろお腹も空いてきたし、あのお店に向かおうかな。



          * * *



 昼から「居酒屋迷子」と書かれた提灯に明かりが燈るお店の暖簾を潜ると、今日はいつもよりも人が多かった。元々は文字通りの隠れた名店だったんだけど、ここ最近はじわじわと口コミでその存在が知られるようになってきたらしい。

「ふふ……お腹いっぱいで寝ちゃいましたね。ぷにぷに……可愛い……」

「目元はあき()さんそっくりですけど、眉毛は旦那さん似かな。……うちも、もう一人くらい作ろうかな」

愛美(えみ)さんのところは、上はもう初等部っスか? ボクもそろそろ欲しいっスけど、(くれない)くんの仕事が落ち着いてからっスかねえ」

 奥のテーブルで、見知った顔がお昼の女子会を開いていた。席はいっぱいだし、ちょっと入りにくい話題で盛り上がっているところに突っ込む勇気もなく、遠くから小さく手を振るに留めて、少し離れた手前のテーブルに着いた。


 カチャン


 すると即座に食べたいと思っていたきつねうどんと稲荷寿司のセットがテーブルに出現した。お出汁の香りがなんとも心地よい。

「いただきます」

 写真映えも何もない、本当に食べたいものを食べるだけの昼食。

 それがいつもなら至福の瞬間なんだけど。

「…………」

 さっき奥から聞こえてきた話題が耳に残っているのか、ちくりと、心が痛んだ。

「ご一緒してもいいかな」

「え?」

 稲荷寿司を一口齧っていると、後ろの席に座っていた人から声をかけられた。ぴしっとスーツを着こなした、髪の長い美人さんだけど……はてな、どこかで会ったっけ……?

 無意識で警戒気味に耳を立てていると、件の美人さんは無表情のままくすくすと笑い、髪を束ねて短く見せ、「僕だよ僕」と抑揚のない声で自分の顔を指さした。

「え、あ、え!? もしかしてササキ!?」

「いえーい。みんな大好き永遠の美人OL須々木(すずき)沙咲(ささき)ちゃんだよ」

 言いながら、食べかけのおっきなどんぶりに入ったかつ丼を持って、私の席に移動してきた。

「びっくりした! 本当に久しぶり! 高等部卒業以来?」

「そうだね。僕は大学は他県に行っちゃったから八年ぶりか」

「いつこっちに?」

「この春。転勤でこの街に戻ってくることになったよ」

 もりもりとかつ丼を食べる手は止めず、近況を軽く報告するササキ。彼女も食べたい物を食べるクチらしく、周囲の目を気にせずどんぶりを持ち上げてわんぱくに頬張っている。ものすごく美人に成長しているだけに、そのギャップがすごい。

「言ってくれたらお出迎えしたのに」

「それはありがたいお話だ。でも月波市は広くはない街だからね。そのうちばったり会った時にびっくりさせてやろうって黙っていたわけじゃないんだからね」

「はいはい」

 まんまとびっくりさせられました。

「ああ。でも。朝倉(あさくら)ちゃんには真っ先に会いに行ったよ。なんせ三年間同じ部屋で暮らしたルームメイトだしね」

「マナも教えてくれたらいいのに……って、口止めしたんでしょ、どうせ」

「分かっているじゃないか」

 苦笑を浮かべながら私もうどんを啜る。

 それからしばし、無言が続いた。

 ササキはお昼休みにご飯を食べに来ただけらしい。手早くかつ丼を食べ終えると、「ごちそうさま」とお代をテーブルに置いた。

「そうだ。僕がこの街に戻ってきていることはまだ瀧宮(たつみや)ちゃんには内緒にしていてくれないかな。エンカウントしてないんだ」

「え、まだ会ってないの? それなら急いだほうがいいよ」

「うん?」


「アズサ、もう少しでこの街から引っ越すから」



          * * *



 ササキの変わりぶりにも驚かされたけど、あの頃仲良く一緒に遊んだメンバーで、一番変わったのは誰かと言われたら、間違いなくアズサだろう。

 戦闘狂(サディスト)、じゃじゃ馬娘、苛烈が制服着て歩いているような女子高生、抜身の刃その物――あの頃は散々言われていたけれど、高等部を卒業する頃には、これまでが嘘偽りの姿であったかのように、なりを潜めた。

 まるで思春期の反抗期であったかのように、年月とともに大人しくなった。……大人になった。

「張り合いがなくなった」

 それが本人の語るところだった。

 その本意がどうなのかは本人にしか分からないけれど、あれだけ活発的だったアズサが、今や和装を好んで身に着け、花を生け、茶を楽しむ深窓の令嬢のように様変わりした。一度は男の子のように短くした髪も、今は私よりも長く伸ばしているくらいだ。

 そんな彼女は、月波大学卒業後、二年間の大学院生生活を送った後――中学校の教師となる道を選んだ。

「妖怪退治家業は全部白羽(しらは)ちゃんに譲ったからね。今度はわんぱくな中学のクソガキどもを相手に戦うのもいいかなって」

 そう言って笑ったアズサは、やっぱり本質は変わっていないらしく、ほんのちょっぴり昔に戻ったようだった。

 それも、二年前のお話。


 月波学園中等部に勤めていたアズサの次の勤務地は――紅晴市というらしい。


 そんなことを思い出しつつ、私は引き続き街をぷらぷらと歩いていた。

 気の趣くまま足を運んでいると、無意識に、あるお店の前で立ち止まった。

 お店の名前は――雑貨屋「WING」

 開店から十年の時を経てくすんできた白い浮彫の店名が逆に趣を醸し出している店頭を少し眺めた後、私はドアノブに手をかけ、ゆっくりと押した。

 チリンチリンとベルが鳴り、店内に流れる落ち着いた雰囲気のレコードが耳に入る。

 ともすればお洒落なカフェにも見える店内には相変わらず様々なインテリアが置かれているが、この数年、品層に変化があった。

 店の奥に行くと、カウンターの奥に開店当時はなかった大きな本棚が聳え、そこに判読できない文字で綴られた背表紙の分厚い本がぎっちりと並べられていた。

 そしてカウンターには、黒髪をショートカットにした眼鏡の女性がうつらうつらとうたた寝をしている。

『あ、いらっしゃいませー!』

 と、彼女の周囲を漂っていた翡翠色の光の玉が人型となり、私の前の前まで飛んできた。

「久しぶり、フィー。ちょっとお邪魔するね」

『はいですー! マスター! ビャクちゃんがおいでですよー!』

「マナ?」

「…………」

「マーナ」

「……ん……あ、ビャクちゃん、いらっしゃーい」

 目をこすってようやく目を覚ましたマナは、ふにゃりと笑って迎えてくれた。

「待っててねー……今お茶淹れるから……ふわぁ……あ、それとも食材の注文だった?」

「ううん、今日は大丈夫。ちょっと寄っただけだから」

 そっかぁ、と緩く笑い、彼女は一度浮かしかけた腰を再び椅子に下ろし、こっくりこっくりと舟を漕ぎだした。

 ……十年前のあの事件の後、マナはよく眠るようになった。

 今彼女の魂には、彼女自身の物も含めて三つの人格が宿っている。それが体にかける負担は大きいらしく、隙あらばこうして休眠状態に落ちてしまうのだ。

 そんな彼女が、旅に出たまま滅多に帰ってこない、帰ってくるたびに新しい傷を作ってくる()()()に代わってこの雑貨屋を引き継ぐこととなった時、不思議と、誰も心配はしなかった。

 見ればいつも眠っているのに、いつの間にか数々の魔導書を書き上げ、世に出す彼女のことを、いつからか人々は「眠りの魔女」と呼ぶようになっていた。

「そう言えばさっき、ササキと会ったよ」

「……ふわぁ……あ、会えたんだ。えへへ……びっくりしたでしょ」

「うん、すっごい美人になってたね」

「ねー……」

 半分眠りながらの彼女と、途切れ途切れの会話を交わす。行燈館の食材の注文はこの店を通して発注しているため今でもよく話す友人の一人なのだが、すっかりこの会話のテンポにも慣れた。

「それでね、アズサがあっちに行っちゃう前に、月波市に残ってるメンバーで送る会をやらないかって、さっきササキと話してね」

「あー……いいね、それ……うん、その時は是非呼んでねー……」

「もちろん。その時は行燈館で、ね」

「うん、うん……。…………」

 と、マナが長く沈黙する。

 ふと、彼女の表情が影った。

「その頃には、()も帰ってくると良いね」

「…………」

 私は、ちくりとしたものを心に感じながら、苦笑して応えた。



          * * *



 思ったよりもマナのお店で話し込んでしまった。時刻を見ると、午後三時。そろそろ初等部の子たちが戻って来てしまうと、慌てて行燈館に帰る。

「ん?」

 玄関に鍵を差し込み回すと、すかっという軽い手応えが返ってきた。

 鍵が開いている――それ自体は不思議なことではない。下宿生の皆には合鍵を配っているため、私が外出して鍵を閉めていても自由に入れる。しかしみんなが帰って来るよりも早く着いたつもりだったのだが、先を越されてしまったのだろうか。

 ――それとも……?

「…………」

 私はごくりと唾を飲み、手の平に狐火を浮かべてゆっくりと扉を開く。

 そして私の心配は杞憂だったと胸を撫で下ろす。玄関に、見覚えのある小さい靴がきちんと並んでいたのだ。

「あれ?」

 しかし、その隣の黒いブーツと編み上げサンダルには見覚えがない。きちんと並べて脱いでいるため不審者ではないと思うが、来客の予定などあっただろうか。

「……あ!」

 すんと鼻を利かせると、懐かしい匂いが居間の方から漂ってきた。私は急いで履物を脱ぎ、揃える手間も惜しんで居間へと駆け出した。


「よっす。悪ぃが、勝手に茶もらってるぜ」

「お久しぶりです、ビャクさん」


「ハクロ、モミジ! 久しぶり!」


 居間に三人がくつろいでお茶を啜っていた。

 顔の右半分を大きな眼帯で覆い、左頬に一文字、その上からさらにいつの間にか左目の上を通るように縦傷をこしらえて十字傷になった黒ずくめの男――ハクロ。そして彼と同じく黒い衣装に身を包んだ柔らかな雰囲気の女性――モミジ。彼女の膝の上には、二人の愛娘で、行燈館でお世話しているユカリが、一心不乱にお土産らしいお菓子を頬張っている。

「帰ってきたんだ!」

「ああ、娘の顔を見にな。……悪いな、本当なら俺らが面倒見なきゃいけないのに」

「もぐもぐ……ごくん。大丈夫ですパパ。(ゆかり)はパパがいなくても寂しくありません」

「……お、おう」

「でもママに会えるのはとても嬉しいので、もっと帰ってきてもいいですよ」

「あらあら」

「…………」

 無言で目頭を押さえるハクロ。世界に悪名轟かせる最悪の黒も、娘のこの一言には多大なる心傷を負ったらしい。

「あれ、でもちょっと待って……二人が帰ってきたってことは……」

「ん、ああ」

 顔を上げたハクロが、軽薄に笑う。


()()()は今、焔稲荷神社に帰還の報告に行ってるぞ」


「……っ!!」

「お留守番は私たちに任せて、行ってらっしゃい、ビャクさん」

「行ってくる!!」

「管理人さん、てらー」

 見送る三人に背を向け、私はいてもたってもいられず駆け出した。

 途中、行燈館に帰ってくる途中の下宿生と何人かすれ違ったが、挨拶もそこそこに一心不乱に神社を目指す。


 やっと――やっと帰ってきた。


 ようやく、彼と会える!!


 住宅街にぽつんと存在する竹林の奥、九つの鳥居を通り抜けた先――古びた素朴な社。

 そこに、ホムラ姉様と話をしている白髪の美しい女性に成長したシラハと、黒衣の少女――死神になりナツと名を改めたアヤカがいた。彼女たちと会うのも随分と久しぶりな気がするが、それよりも、その隣。すっかりと背が伸びてがっちりとした体格となった青年。

 私の大切な人――


「ユタカ!!」

「ビャクちゃん!?」


 駆け寄り、思わず飛びつく。

 久しぶりに――本当に久しぶりに会ったユタカは私をしっかりと抱き留めてくれ、ぎゅっと、抱き返してくれた。


「ユタカ! ユタカユタカユタカ! ユタカぁ……!」

「ビャクちゃん……! やっと、やっと会えた……! もう離さない! ずっとそばにいるよ!!」


 ユタカの胸に顔を擦り付ける。

 硝煙の匂いがこびりついた、懐かしい香り。

 そして私たちの再会に居合わせたホムラ姉様とシラハ、アヤカは――


「あははー、あっついねー」

「あー、盛り上がってるところ悪いんじゃがの」

「さも十年ぶりの再会みたいに抱き合ってますが、羽黒(はくろ)お兄様の仕事の手伝いでたかだか十日ほど街を離れていただけですわよね!?」


 心の底から、呆れ返っていた。



          * * *



 十年前の、冥府の陰陽分離計画が失敗した直後。

 浄土管理室の指揮系統がめちゃくちゃになった結果、とりあえず発端となった現世からの侵攻者を捕えようと動いた天使たち。それを足止めしたユタカはあっさりと天使を蹴散らしたものの、その時には帰るための次元の穴は閉じてしまい、一人冥府に取り残されてしまった。


穂波(ほなみ)(ゆたか)、すまないが貴様をすぐに帰すわけにはいかない」

「え、それって捕虜的な?」


 どうしたものかと冥府をうろついていたところ、死神のキシと合流したはいいものの、その言葉に流石のユタカも冷や汗が出たという。

 しかしキシは首を横に振り、事情を説明した。

「今この世界は、現世と冥府の次元の壁が極端に厚い周期に入っている。それだけならば多少複雑な術式を用意すればこじ開けられるのだが、死神局も計画の片付けに居残った幽霊共の管理にとやることが山積みでまだ混乱の最中だ。この混乱が治まるのが先か、次元の壁が薄くなるのが先か、見通しが立っていない」

「あー……」

「そういうわけで、しばらくは貴様を現世に戻すどころか、現世に伝令を飛ばす人手も割けんのだ」

 本当に申し訳なさそうに謝罪を口にするキシに、ユタカは苦笑しながら「まあ、そのうち帰してもらえればいいですよ」と答えた。

「それより、何か手伝えることはないですか? 黙って客人扱いって言うのも、なんか居心地悪いし」

「……貴様はつくづく、お人好しだな」

 そういうわけでユタカはしばらくの間、冥府で死神たちの手伝いをした後、思ったよりも早く混乱が収まったとのことでゴールデンウィーク明けにはキシと共に現世に戻ってきた。

「……まあ約束したからな。時期は逃したが、まずは部活探しから手伝え貴様ら」

 研修は終わったものの、高等部卒業までという任期付きで月波市の担当になったキシの帰りを、私たちは盛大に歓迎したのだった。


 そしてキシが無事、二年間の学園生活を目いっぱい満喫したのを見守った後、月波大学に進学したユタカと私は、そのままの流れで籍を入れた。


「まあ、そうだろうな」


 それが周囲の反応だった。……シラハだけは、最後まで泣きながら反対していたけど。

 そして大学卒業を目前としたところで、ちょっとした一悶着があった。

 元々穂波家はホムラ姉様のお世話をしつつ、葛葉(わたし)の記憶を継承、守護するのがお役目だったわけだけど、そのお役目が終わりを迎えたのは知ってのとおり。つまり実質、ホムラ姉様のお世話と街の守護以外は特に何もない、暇なお家となってしまったのだ。

 そもそも穂波家は瀧宮家等と違って妖怪退治家業だけでは食べて行けず、かといって規模も小さいため、他四家のように大々的に表家業で食い扶持を稼ぐということもできず、社会の歯車として細々と繋いできたのだが、それに目を付けたのが誰であろう、ハクロだった。

 ハクロは自分の仕事のサポートとしてユタカを何度か連れ回し、その報酬として私たちが食べていくには十分な金額を支払った。それは素直に生活の糧として助かったのだが、それが数年続き、気が付けば、穂波家……というかユタカは世界的にも上位ランクのフリーの術者として地位を確かなものとしてしまい、傭兵紛いの仕事に引っ張りだことなってしまった。

 結果としてユタカはハクロ家共々家を空けることが多くなり、私は寂しい思いをすることになった。

「いえ、羽黒お兄様と比べたら全然腰落ち着いてますし」

「何なら家にいる時間の方が多いよねー」

「かかか、いつまでも熱くて何なによりじゃ」

 ササキとは別方向にすっかり美人に成長したシラハと、死神となったアヤカ、そしていつまでも変わらずお酒片手に街を見守り続けるホムラ姉様が呆れ半分に私たちを見やる。

「これは次代も期待しておるぞ」

「「そ、それは……」」

「くっ……」

 ホムラ姉様の爆弾発言にあたふたする私たちと、それに歯噛みするシラハ。今回は大きな戦場ということで修業がてらシラハもユタカたちの仕事に同行したようだが、まだ完全に諦めきれてはいないらしい。

 ふふん、ユタカは渡さないもん。


「瀧宮白羽(しらは)!!」


 と、社の扉が乱暴に開かれる。何事かと思って振り返ると、白衣を着た青年――シラハの担当医のカイトが青筋をおっ立てて睨んでいた。

「げ! 工藤(くどう)快斗(かいと)!?」

「貴様何度言ったら分かる! 街に戻って来たならば真っ先にこの俺のところに検査に来いと言っているだろう!!」

「もう十年も異常は出てないのですからもういいでしょう!? 貴方過保護が過ぎますわよ!?」

「黙れ問答無用だ! 間取(あいとり)!」

「はぁい、了解です教授~」

 背後に控えていた助手のアヤメが糸を繰り、シラハをがんじがらめにして手繰り寄せる。

「きゃー!? 人攫いー!!」

「攫われたくなければ自らの足で来ることを覚えろ!」

「出発ですぅ」

「……はは、じゃあね白羽ちゃん」

 嵐のように去っていく三人の背中をユタカと眺めていたら、アヤカも「あははー、それじゃあウチもそろそろ冥府に戻ろうかなー」と笑った。

「もう戻っちゃうの?」

「うん、今日は仕事の合間に甥姪の顔を覗きに来たついでに、皆とちょっとお話ししに来ただけだから」

「……アズサが引っ越す前に送る会をやるから、アヤカも来てね」

「お、いいね! もちろん来るよ!」

 それじゃあまたね、とアヤカは指を振って紋を刻み、冥府への扉を開いて姿を消した。

「かか」

 と、ホムラ姉様が笑った。

「色々と変わったが、変わらぬな、御主らは」

「変わりませんよ、僕らは」

()きかな。今日も平和で、酒が美味い」

 盃にお酒を注ぎ、ホムラ姉様がくいと煽る。完全に一人酒モードに入ったのを見て、私はユタカの手を取る。

「ユタカ」

「ビャクちゃん?」

 腕を組み、私はユタカをその場から連れ出した。


「さ、帰ろう。行燈館に」

「――うん!」


 私たちの日常は、こうしていつもどおり、回り続ける。



          * * *



「百物語」

 私は日記に、こう綴る。

「人と妖怪、幽霊、ときどき神様が織りなす――ひゃくの、ものがたり」


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