だい きゅうじゅうなな わ ~鬼~
朝日が山裾から顔を出す頃に目を覚まし、沼地に辿り着いた時には既に全てが終わっていた。彼は湖畔の木の根に腰かけ、幹に背を預けていた。
着物と手にした剥き身の刃は、悍ましいほど朱く染まっている。
「りん」
「識涯……」
咽返るような生々しい鉄のような臭い。
朱に塗れた湖畔の周りには、既に蟲が集まり始めていた。
「何人だ」
「え……」
「お前の生家に連なる者は全部で何人だ」
「…………」
地に転がる骸はよく見れば五体ごとに集められ、分けられていた。慣れない得物で慣れないことをしたせいか辛うじて人型を留めているそれらを、識涯が一体一体どのような思いで丁寧に並べたのかと考えると、背筋が凍えた。
「こいつら、お前の着物に縫われている紋と同じ物を身に着けていた。お前の家の者なのだろう。何人いる」
「……三十二人です。私を、除いて」
「そうか」
十三人も逃したのか。
識涯はそう呟いて顔を上げた。
「りん、あおが死んだ。……殺された」
「……本家から、飢饉を鎮めるために儀を任されたというのは風の噂に聞いていました。そのために幼子を水神の贄に捧げようとしているというのも」
「何でそんなものに俺のあおが選ばれた?」
「誰でもよかった……いえ、嫌がらせでしょう。忌子の私が親しくしている少女をわざわざ選んだということは」
「そうか」
「……私を、恨まないのですか」
私が識涯と関わったから、彼女が贄に選ばれてしまった。彼女が死んだ原因は、私にもある。
しかし識涯はゆっくりと顔をこちら向け、首を傾げた。
「お前を恨んで何になる。お前を恨み、殺せば、俺のあおは戻ってくるのか?」
「…………」
答えられず、目を伏せる。
その時、沼の方から風が吹いた。
「……っ!?」
水底から何やら巨大な気配が浮かび上がってくるのを感じ、反射的に識涯の前に躍り出る。
ばしゃあん!!
沼の水が割れ、巨大な何かが顔をもたげ、こちらを見下ろす。
藤色交じりの黒い鱗に鹿のような角、うねる髭に視線だけで生物を殺しそうな鋭い眼光。
「りゅ、龍……!? こんな所に!?」
そして大きな牙の並ぶ顎の隙間に、見覚えのある着物の裾が引っかかっている。
「あお!!」
それに気づいた識涯が血濡れの刃を放り捨て、私を押しのけて龍に駆け寄る。
すると龍はゆっくりと顔を下げ、口に咥えていた少女の体を識涯に渡した。よもやこの沼に龍が住んでいたとは知らなかった。生家の術者たちはこの龍にあおを捧げたようだが、もしや逆にあおを守ってくれたか――そんな淡い期待は、龍が発した言葉で容易く打ち砕かれた。
『心地よく寝ていたところに塵を落とされて機嫌が悪い。失せろ、人間』
「……っ!!」
識涯があおの遺体を抱えていて良かったと心から思った。識涯は怒りに肩を震わせ、今にも妖刀を拾い上げて龍に斬りかかりそうだった。
識涯が変な気を起こさないよう、妖刀を回収してから龍に問いかける。
「龍よ! 水神よ! この少女を殺めた者たちは飢饉を払ってもらおうと、貴方に贄を捧げたのだ! それを塵とは――」
『貴様らの都合など関係ない。俺はただこの沼で眠っていただけだ。水は多少繰るが、水神などでもない』
「……はは」
笑い声。
見ると識涯が冷たくなったあおの体を抱きしめながら笑っていた。
表情から、感情が読み取れない。
「つまり、あおは無駄死にか。水神でもない龍に捧げられ、その龍に突き返され、飢饉も収まらない」
「識涯……」
『貴様、その小娘の血族か』
「妹だ」
『そうか』
にい、と。
龍が耳元まで裂けた口角を持ち上げ、笑った。
『貴様はその妹を殺した連中がさぞや憎かろう』
「ああ」
『そして俺は眠りを邪魔されて、住処を人の血で穢され機嫌がすこぶる悪い――どうだ、力を合わせぬか』
「識涯!」
叫び、識涯の背中に手を伸ばす。
しかしほんの数寸指先が足らず、識涯がするりとすり抜ける。そして識涯は龍の鼻先に触れ、ばちんと稲光が奔った。
「りん」
龍と向き合ったまま、識涯が尋ねる。
「お前は俺が満足するまで妖を狩ってくれると言ったな。それは今も違いないか」
「……ええ」
「俺のあおは人に殺されたのではない。人の形をした鬼に殺された」
「識涯……」
「狩り損ねた十三匹の鬼を狩るのを手伝え」
「…………」
識涯の纏う気配は、既に人のそれではなかった。
止めるべきだった。
しかし私は――頷くしかなかった。
* * *
「鬼」
妖刀に貫かれたキシを背後から抱きしめ、小さく呟く。
「悪いもの、恐ろしいものを指す言葉。またはそれに感化され、描かれるようになった魑魅魍魎の総称」
私とキシの腹に刺さった妖刀がぼうっと光を放ち、キシの体内に吸収される。それを見ながら私は「思い出しましたか?」と耳元で尋ねる。
「私たちの報復を恐れて各地に散った家の者たちを数年かけて討ち滅ぼした後、復讐に囚われ、呪いに沈んだ貴方もまた、鬼となってしまったのです」
「ああ……」
「そんな貴方を、私がこの太刀で斬った」
数多の妖の魂魄を喰い続けた私の妖刀はいつしか、斬った者の力と魂を刃に封じる異業の太刀となっていた。鬼となってしまった識涯の魂だけでも、刃を通して救えないものかと咄嗟の判断だった。
結果として識涯の肉体から魂を吸い取り、太刀に収めることはできたものの、これまで私がそうしてきたように、柄も鞘もない太刀では封を保持することができず、識涯の魂は私の前から消えた。
せめて無事に冥府に渡ることができたのだろうか。それを確認する術は私にはなく、識涯が鬼に堕ちるきっかけとなった龍――澪ノ守を腐れ縁として連れ立ち、本家が私に押し付けた術式を手土産に月波の地へと転がり込んだのだった。
そして月波の地で疫病を鎮め、焔御前の元、識涯が鬼となる直前に授けてくれた二人の子宝の成長を見守った後、冥府に渡った私は自分から死神となる道を選んだ。
理由はもちろん、識涯の魂が無事に冥府に辿り着けているか調べるためだった。
しかしある程度覚悟はしていたが――三十二人を殺し、鬼に成り果てた識涯の魂は地獄に落とされていた。
* * *
浄土管理室長に呼び出されたのは、死神になって月日も間もない頃だった。その頃から規模は小さくとも冥府では特待の扱いを受けていた組織が何用かと、多少は緊張しながら足を運んだのを覚えている。
『君がリンだね。人の頃の名前は確か……瀧宮りんだったかな』
南蛮風の庭園の最奥の茶席で、隠形しながらも異様な陽気を放つ人物を前に、私は吐き気を堪えるため口元を手で塞いだ。死神となり、陰の気が強くなった身にとって、男とも女とも老人とも幼子ともとれない怪物の陽気は毒そのものだった。
『君さあ、呼び出された理由分かる?』
「は……?」
『月波……だっけ。あの集落の飢饉を治めたのは君だろう?』
確かに、葛葉狐の記憶の継承の術式と疫病の鎮静を対価にあの地に骨を埋めた。だがしかしそれが何だというのだ。
訳が分からないまま室長の陽気に中てられて膝を折っていると、溜息を吐く気配がした。
『僕は白黒はっきりしてないと気が治まらないたちなんだよね。黒の冥府に白の現世、黒の妖に白の人。だというのにあの集落は白黒入り混じって気持ちが悪い――許せないんだよね、ああいう手合いの土地は』
せっかく飢饉を起こして滅びる手前までいったのに、と室長が嘆く。
「飢饉……まさか、あの地の疫病は……!」
『だってしょうがないじゃない。白黒はっきりしないあの土地が悪いんだから。まあその余波で全国的に病が蔓延しちゃったけど、仕方ないよね』
「……っ!!」
まさか。
まさか、都と周辺に蔓延していた病も、こいつが――!
「ああああああああああっ!!」
こいつさえいなければ、あおは贄にならずに済んだのに!
識涯も、鬼に堕ちなかったのに!!
『何、怒ってんの』
「ぐ、ぅっ……!?」
無意識に取り出した魂を刈り取る大鎌が弾け飛び、消滅する。構えも振るいもしていないのに、得物が使い物にならなくなる。
『あ、そう言えば。死神ってさあ、現世で罪を犯した者に対する懲罰でもあるんだよね』
良いことを思いついた、とでも言うように室長の声が弾む。
『リン、君さ、僕に協力してよ』
「何を……!」
『僕は将来的にこの世界を白黒はっきりさせたいと思ってるんだ。そのお手伝い。でもいきなり本番って言うのもちょっと不安だからなあ……そうだ、あの集落で実験しよう。確か何百年か先に、あの集落周辺で次元の壁が極端に薄くなった後、極端に厚くなる周期が来るんだけど。その時に合わせて試しに陰陽をきっちり分離させてみようかな』
「だ、誰がそんなことを……!」
『瀧宮識涯』
「……っ!!」
室長の口から洩れたその名前に、私は拒絶の言葉を呑み込まざるを得なかった。
『確か、君の旦那さんだよね。今、阿鼻地獄で呵責を受けてる』
「…………」
『僕の権限で彼を引っ張り上げてあげようか』
呼吸が止まるかと思った。そんなことができるなら願ってもない――それと同時に、恐怖する。
室長にそのような権限があるということは、この提案に拒絶したら彼の魂に何をされるか分からない。
良くて刑期の延長、下手をしたら魂の消滅。
その手札が室長にある以上、私に選択肢はない。
私は頭を垂れた。
「……分かりました」
『賢い子は好きだよ。……ジズ』
ばさりと何かが降り立つ気配がした。顔を上げると、茶席に黒翼の猛禽が一羽、止まってこちらを見ていた。
『この子はジズ。またの名を見つめる者だ。この子を君との連絡係に憑けることにしよう』
「…………」
監視役の間違いだろうと、毒づくほど蛮勇ではなかった。
『それじゃあよろしくね、リン。僕は細かいことが苦手だからさ、計画の詳細は丸投げするつもりだから頑張ってねー』
言うだけ言うと、室長の気配が消えた。充満していた圧迫感からようやく解放されたと思った矢先、体内に異物感が宿るのを感じた。
目の前から、ジズと呼ばれた猛禽が消えているのに気付いた。どうやら私に取り憑いたらしい。
「……仕方ない……仕方ないことだった……」
そう自分に言い聞かせながら、私は浄土を後にした。
* * *
「それから室長に引っ張り上げられた貴方と再会した時、私はどうしようもなく世界を呪いたい気分でした」
「俺が全てを忘れていたからか」
「はい。……まったく、都合の良い脳みそです。いえ、悪いのでしょうか。物事を悪い方にしか考えられない。地獄の底で受けた呵責により記憶を失ったのではなく、現世に置いてきただけだと、気付けなかった」
今やキシと完全に融合した妖刀【鬼哭】――その異能は、斬ったものの魂と「力」の吸収。なれど魂を留めておくことはかなわず、力のみがその刃に宿る。
人にとっての力とは、魔力や霊力を練る異能ではなく、積み重ねてきた生きた証――記憶だということから、私は目を背け続けてきた。
「……あおは」
「ん……」
「あおは、どうなった」
「彼女は数ヶ月ほど賽の河原で石積をさせられただけで、その後滞りなく現世に転生していましたよ」
「調べておいてくれたのか」
「もちろん。貴方の……私たちの、大切な妹ですから」
「そうか……」
キシが、胸に回していた私の手をそっと外し、向き直る。
――パチン!
稲妻が奔るような小さな音が聞こえた。
見ると、キシの右腕から最後の鋳薔薇の棘が消えていた。
「随分と世話をかけた」
「本当ですよ。……これからどうなるのでしょうね」
「形はどうあれ、室長の計画を破綻させたんだ。何らかの報復は覚悟しておくべきだろうな。……また地獄に落とされるかもな」
「その時は、一緒に」
キシの手を握る。するとキシはむっつりと顔をしかめ、照れくさそうに、そっぽを向いた。
「あー、二人の世界になってるところ悪いが、ご先祖様よ」
「「あ」」
声のする方を向くと、羽黒が居心地悪そうに頭を掻いていた。
「二人で地獄に落ちるのは、この騒動を片付けてからにしてくれないか」
羽黒が指さす陰陽分離の実験区画は、あちこちから噴煙が立ち上り、閉じ込められていた妖たちの歓喜の叫び声があちこちから木霊していた。
「あら、まあ」
「妖怪共の現世行きの切符は俺がもう用意してあるんだが、それを天使に邪魔されねえように手伝ってくれや」
「ええ、いいでしょう」
「貴様にも迷惑をかけたな」
「……お前さんが殊勝だと調子狂うな」
「何だと貴様」
悪態を吐くキシは、それでもどこか柔らかな雰囲気をまとっていた。