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だい なな わ ~橋姫~



「おー」

 久しぶりに帰ってきた。

 だが町の様子は、ぼくが出て行った時と全く変わっていなかった。

「懐かしいなー、月波市」

 そりゃもちろん、十年近く経っているんだ。見覚えのない建物やビルが立ち並び、古く趣のある建築物と混ざり合って、ある種異様な雰囲気を醸し出す近代化の進む町にはなってはいるけど。

 それでも。

 この町の空気というものは全く変わっていない。

 暖かい風が吹き抜け、町の空気がぼくを包んだ。

 この独特の雰囲気。

 ようやく帰ってきたと実感した。

「何も変わってない!」

 子供の頃から過ごした月波市。

 当時の級友たちのほとんどが町を出た。だが親しかった友人の一部は未だにこの町に留まっているそうだ。

「んー!」

 ぼくは背伸びをし、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。

「愛しの月波の町よ! 遊斗(ゆうと)が帰ってきたぞ!」

 やっぱり、ここしかない。

 ぼくが心新たに筆を取る新天地は、やはり妖と人が共に暮らす町、月波市しかない。



       *  *  *



 それにしても、あれから十年か。

 ぼくは昔懐かしの商店街を歩きながら、当時のことを思い出した。

 十年前、つまりはぼくが中学三年生の頃だ。

 絵が得意だったぼくは、とある絵画コンクールに作品を出さないかと当時の担任の先生に誘われたんだった。

 ぼくは一も二もなく承諾し、その時一番綺麗だと思っていたものを一生懸命心どころか魂すらを筆に込めて描いたんだ。

 結果、ぼくの絵は見事コンクールの最優秀賞を獲得。

 さらに運のいいことに、その絵が審査員長であったとある著名な画家の先生に気に入られた。そしてぼくは彼の元で絵の勉強をしないかと誘われたんだ。しかも、進学先の面倒まで見てくれるという。

 我が家は貧乏というわけではなかったが、それほど裕福というわけでもなかった。ぼくどころか、両親すらもこの誘いに食いついたのだ。

 そりゃ、生まれ育ったこの月波市が恋しいと思った。

 この町で生まれ、この町で生き、この町に骨を埋めるものだと幼いながらにそう思っていたし、そう望んでいた。

 だがそれ以上に、先生の下で絵を本格的に学びたいとも考えた。

 そして十年前、ぼくは月波市を離れ、遠い地方の先生のアトリエに泊まりこむこととなった。

 先生はとても優しく、それ以上にとても厳しかった。

 ぼくは睡眠と食事、高校の勉強をする以外はずっと絵を描いていた。

 先生との作風の違いで、衝突もした。

 だけどぼくは先生の下から離れる気はなかったし、きっと先生もぼくを手放す気もなかったのだろう。

 それほどまでにぼくは、いや、ぼくたちは絵を描くのが好きだったのだ。

 お互いがお互いを刺激しあいながら、ぼくたちは絵を描き続けた。

 初めて先生の画廊にぼくの作品を出してくれた時。

 初めてぼくの描いた絵が売れた時。

 初めて先生がぼくを一人前として扱ってくれた時。

 ぼくは言葉に表せないほど、嬉しかった。

 そしてこの春。

 ぼくと先生は師弟の関係を解き、永遠の友情を結び、ぼくはこの町に帰ってきた。

 この町で、ぼくは新たに一人の画家として、再スタートすることになる。

「……何てね」

 そろそろ放課後なのだろう。

 赤いランドセルを背負った小さな女の子が足元を友達と笑いながら駆け抜けた。少し先の、昔はなかったコンビニからは昔ぼくも着ていた月波学園中等部の制服の少年が手にビニール袋を下げて出てきた。

「大層なことを言っても、やっぱりここに帰ってきただけだったのかもしれないな」

 記憶と照らし合わせながら、ぼくは歩みを進める。

 途中、ぼくに気付いた見覚えのあるおばさんがかしましく質問攻めにしてきたりと、色々大変だったが、それでも、ぼくにはそれすらも懐かしく思えた。

 そして懐かしさに浸りながら歩くこと十数分。

「おー」

 ここも全く変わっていない。

 ぼくはとある一軒家の前にいた。

 元は綺麗な白だった壁も、今はすっかり黄ばみ、細かなひびが入っている。屋根には土やら埃やらが薄っすらとこびりついている。

 つまりはどこにでもあるような築ウン十年の一戸建て。

 ひび割れた『秋晴(あきばれ)』の表札も、昔のままだ。

 古びた門扉を開け、中に入る。

「あ」

 ぼくの視界に、見覚えのある車椅子が入る。

 玄関に、絵の具で汚れたエプロン姿の少女がいた。

「お帰り、遊斗」

 少女は小さく笑った。

 その笑顔を見た瞬間、ぼくは本当に帰ってきたのだと心の底から感じた。

「ただいま、遊利(ゆり)



       *  *  *



 遊利とは双子の姉弟である。

 遊利の方が僅かに早く生まれたから、彼女が姉でぼくが弟。でもそんなことなど関係なくぼくたちはお互い気兼ねなく仲良く育ってきた。

 二卵性だから全く似ていない。ぼくは母さんに、遊利は父さんに似ていた。それでも、示し合わせたように同じ仕草をしたり、考え方が似寄ったりすると、「あ、やっぱり双子だ」とお互いに認識し合えた。

 好物はハンバーグ。

 嫌いなものは茄子。

 数学は苦手で、国語は得意。

 それでもやっぱり絵が一番好き。

 そんなところまでそっくりだった。

 外見以外に、強いて似ていないところがあるとすれば。

 遊利は生まれつき、歩けなかったというところか。

「遊利を見て、ようやく帰ってきたなと思ったよ」

「奇遇だね。わたしも遊斗を見て、ようやく帰ってきたなと思ったもん」

「遊利、どこかに行ってたの?」

「ううん。ただ、ようやく自分の半身が戻ってきたって感じがしたんだ」

「あーなるほど。ぼくにも何となく分かるよ」

 完全バリアフリーに徹底されている廊下を、久しぶりに車椅子を押しながらぼくたちは話をした。本当は、遊利の車椅子は彼女が手元のハンドルを操作すれば勝手に動く代物なんだけど、どうしてもと駄々を捏ねるので電源を切って完全に手動にしている。

「遊斗、絵は順調?」

「遊利こそ」

「もちろん。今も風景画を一枚と洋服のデザインを三つ完成させたところなんだ」

「え、遊利、デザインもやってるんだ」

「そうだよ。遊斗は相変わらず人と風景?」

「もちろん。先生のところでもずっとそればっかり描いてたよ」

「それはそれで羨ましいな。何か一つのことに集中できるなんて。わたしなんかはご飯のために色々な絵を描かなきゃいけないもん」

「ぼくからすれば、色んな絵をかけるなんて羨ましいけどね」

「そう?」

 他愛もない雑談。

 お互いに絵を描くのが好きだと認識してから、ぼくたちは口を開けばずっと絵の話をしていた。その度に、根っからの理系だった父さんには苦笑いされたけど。

 十年が経っても、絵について語り合う癖は全く変わっていなかった。

「そう言えば、父さんと母さんはどうしたの? 車もなかったけど」

「あれ? 遊斗、教えなかった?」

「何を?」

「お父さん、転勤で今は九州にいるよ。それで、お母さんはお父さんに付いて行ったの」

「……初耳なんだけど」

「手紙、書いたんだけど」

「このネット時代に手紙?」

「わたし、インターネットとか携帯電話って苦手だもん」

「ぼくもネットは苦手だけど、でもメールくらいはできるよ。ないと不便だしね」

「むー」

「それで? ぼくはそんな手紙、受け取ってないんだけど?」

「えー。ちゃんと書いたんだけどなー。ほら」

「あ、本当だ。へー。父さん本当に九州行ってるんだ――っておい」

「どうしたの?」

「遊利、何でぼく宛の手紙をポケットから出したんだい?」

「……………………」

「…………………………………………」

「おー」

「出し忘れ……?」

「うん、そう」

「はあ……」

 全くもう……。

「ホント、そういうところも変わってない」

「遊斗」

「何?」

「偉そうに達観ぶって話してるけど、わたしが変わってないってことは遊斗もそれほど変わってないってことだよ」

「そうかな」

「そうだよ」

 むー。

 まあ自分では変わってるかどうかも分からないんだけどね。

「じゃあ遊利は今一人暮らしなの?」

「今まではね。ここ一ヶ月くらいかな。これからは遊斗と二人暮らし」

「……母さん、せめてぼくが帰ってくるまでいてくれたらよかったのに。不便だったろう?」

「あはは。遊斗、いつの話をしてるのよ。もうわたし、二十五だよ? いい加減この足とは折り合いつけて一人でも生きていけるようになりました」

「そうなの?」

「そうだよ。多少の不便は、付き合いの長い友人みたいなものだから」

 そう笑って、遊利はペシペシと棒のように細い足を叩いた。

 歩けないため全く筋肉の存在しない、文字通りの骨と皮だけの足。

 それを隠すため、遊利はいつも丈の長いスカートを穿いていた。

「……これからは、不便だったら遠慮なくぼくを呼んでよね、姉上」

「端からそのつもりだよ、弟よ」

 ニコッと、イジワルな笑みを浮かべる遊利。

 あー、言わなきゃ良かったかも。

 こりゃ明日からは散々こき使われるな。

「どうする? 先にアトリエに行って荷物置いてくる?」

「うん、そうしたいな」

 ぼくはここまでずっと引き摺って来ていたトランクを見た。

 中には着替えその他に混じってすぐに使える絵の具と絵筆のセットが入っている。食器や重たいキャンバスは後で先生が輸送してくれるらしい。

 車椅子を押し、ぼくは懐かしの部屋に来た。

 車椅子が進みやすいよう全てがフローリングだった床が一変し、そこだけは無機質なコンクリートが剥き出しになっている。

 そして至る所に飛び散った絵の具が混沌とした奇妙な光景を作り出している。

 だが部屋の一方の壁、やはりそこもコンクリートが剥き出しになっているのだが、そこだけは無秩序な絵の具の嵐ではなく、様々な濃淡の桃色の花弁が舞い散る桜吹雪が描かれている。

 この家を出るときに、ぼくと遊利が三日三晩かけて描いた、最高の一枚だ。

 ぼくと遊利の、思い出の風景。

「本当に……」

 変わってない。

「うん……」

 声に出したつもりはなかった。

 だが遊利は、ぼくの言葉の続きを感じ取って、小さく頷いてくれた。

「遊斗」

「うん」

「お帰り」

「ただいま」



       *  *  *



 明日から散々こき使われるなど、もう涙が出るほど甘い判断だと分かったのは夕食時のことだった。

 自分の荷物もあらかた片付けて、さあ夕飯の支度をしようと冷蔵庫を開けてあらビックリ。

 なーんにも入っていない。冷凍庫には氷すら入っていなかった。

 と言うか、冷蔵庫のコンセントが抜かれていた。

「……何コレ」

「冷蔵庫」

「それは分かるよ。だけどこの中身は何?」

「んー、空気?」

「おい」

 小学生か。

 じゃなくて。

「何で何も食材がないんだよ!」

「だってわたし、お料理できないもん」

「できないもん、じゃないよ!」

 歳いくつだよ!

「え、この一ヶ月どうやって生きてきたのさ!?」

「ん」

 そう遊利が指差したのは、冷蔵庫の横の引き戸棚。

 まさかと思って開けてみると。

「おー……出るわ出るわ。レトルト食品とパックご飯の山……」

「飽きないように一度に色んな種類を買うのがコツね」

「どんなコツだよ! 物臭すぎでしょ!?」

「朝から冷たいご飯とレトルトカレーもなかなかおつよ?」

「せめて温めて!」

 健康に悪すぎる食生活だ!

「しかもこれ、ほとんど食物繊維やらビタミンやらが取れないメニューばっかりじゃないか! 健康に悪いどころか病気になるよ!?」

「大丈夫よー。お野菜はこれでとってるから」

「この暑さで温くなった野菜ジュース!? 冷蔵庫使ってないから美味しくないでしょそれ! それと野菜ジュースは野菜の代わりにならないから!」

「え……そうなの……?」

「何その、今始めて聞きました、みたいなリアクション!」

 こりゃダメだ!

 ダメ人間まっしぐらだ!

「はあ……何のためにシンクが車椅子で座った時にちょうどいい高さになるよう作られてると思ってるのさ」

「お母さんが椅子に座りながらお料理できるようにするため?」

「母さんも母さんで相変わらず物臭だなあ!」

 いくら料理と洗い物が大変だからって、せめて立ってやろうよ!

 いつか遊利が一人暮らしをするかもしれないから今のうちから料理をやらせよう、とぼくたちが小学生の時に父さんが改築したキッチンが、まさかこんな扱いを受けているとは……。

「はあ……」

「遊斗?」

「……いいかい遊利。今日からはぼくがご飯を作るよ」

「え、いいの?」

「これ以上遊利に不健康な食生活を送らせるわけにもいかないからね」

「やったー! あ、でもこのインスタント食品どうしよう」

「とりあえず、賞味期限が近いものから少しずつ減らしていこう」

 しばらくはパックご飯が続きそうだ。

 だが溜息ばかり吐いていられない。もう夕方だ。急いで食材を買ってこないと夕飯の時間が遅れてしまう。

 先生のところにいた時は、夕食はきっちり七時と決まっていた。

 ちなみに、先生の奥さんに料理のイロハは教わった。

「じゃ、ちょっと買い物行ってくるよ。遊利はどうする?」

「んー。今からまた外に出るのも面倒だから、ここでデッサンしてるよ」

「そ。分かった」

 いつの間にか紙と鉛筆を持ち出していた遊利は、テーブルに着いて何やらカリカリと絵を描いていた。

 いってらっしゃーい、と顔を上げずに遊利は見送り、ぼくは買い物袋片手に家を出た。



       *  *  *



 買い物も済ませた帰路。

 全て閉店間際の商店街で済ませたため思ったよりお金も時間がかからなかった。そこでぼくは、そう言えば、と思い出してある場所に向かった。

 商店街と我が家のほぼ中央にある河川敷。

 昔はここで、人間妖怪入り乱れて子供同士で遊んだものだ。

 さすがに今は時間も時間だからか、ほとんど人影がなかった。

 だが用があるのは懐かしの河川敷ではない。

 いや、本当は河川敷も懐かしいため行きたいのだが、どうせならキャンバスと絵の具を持って来たい。

 そうではなく、僕が本当に行きたいところ。

 河川敷の端っこ。

 石造りの小さな古い橋がある。

 ここから見る風景は格段に美しい。霊妙な面持ちを残す山々から下りてくる冷たい辰帰川の水が、蛇のようにうねりつつ静かに流れている。

 近くには年老いた桜の木があり、春になれば老齢に似合わない美しい花をたくさん咲かせるため、知る人ぞ知るデートスポットや告白スポットになる。

子供の頃はよく登ったりもしたっけ。

 ぼくは自然と、その名もない小さな石橋に向かった。

「懐かしいなー」

 石橋は相変わらず叩けば壊れそうなほどボロッボロだった。そしてその隣の桜も、相変わらずよぼよぼだ。だがその枝には若々しい緑色の葉っぱが生い茂っている。

「むー。どうせなら咲いてる時期に来たかったな」

 葉桜と言えば聞こえはいいが、ぼくは毛虫が大発生するため好きじゃなかった。

「そしてやっぱり……いるいる」

 この景色を目当てにくる、大人ぶった地元高校生カップル。

 今日は二組、お互いがお互い同士の世界にはまり込んでお互いの存在に気付いていないようだ。

 変わんないなあ。

 だがまあ、ここに来た本当の理由は、この風景でも桜でも、ましてやカップルの確認でもないんだけど。

「よっと……」

 ぼくは買い物袋が地面に付かないよう高く掲げながら、ゆっくりと慎重に河川敷まで降りていく。

 一見、背の高い草が大量に生い茂っているように見えるが、とある一角だけ、何度も踏み固められたように全く草が生えていない小道があるのだ。

 この小道を知っているのは、ぼくの知る限りはぼくだけだった。

 誰も知らない秘密の小道。

 この先にいるのは、不思議な妖怪。

 とっても綺麗な、女の子。

「おー」

 ぼくは小さく感嘆した。

 吹けば飛んでしまいそうな、石橋よりも桜よりもボロボロな、一見のあばら家。

 草木が邪魔をして、秘密の小道からしか行けない、秘密の空間。

 そんなところに、そのあばら家はあった。

「ん?」

 そしてその前。

 石橋の真下の川辺に、ボロボロの釣竿を垂らす一人の少女。

 ポニーテールを無理やり右にずらしたような、サイドテールとも言えなくもない、奇妙な髪型。

 まるでつい昨日もそこでそうしていたかのような、奇妙な存在感。

 少女は僕の気配に気付いて振り向くも、頭上に疑問符を浮かべて小首を傾げるだけだ。

 どうやらぼくが誰なのか分からないようだ。

「あーあ、薄情だなー」

「……誰サ、君」

「本当に分からないのかい? 昔から思ってたけど、君、いい加減歳なのかもね」

「むむっ!? 失礼な人間サ! いきなり出てきてヒトを年寄り扱いかい!?」

「いきなり出てくるのは君たち妖怪の特権でしょ。いや、そんなことよりも、本当に分からないのか……?」

「え? 何サ? ウチら、どこかで会ったことがあるのかい? ちょいと待ちたまえよ、君。今思い出してるからサ」

「……いや、いいよ。君、昔から人の顔と名前を覚えるのが苦手だって言ってたもんね。思い出したよ」

「むむっ。その口ぶりからすると、ウチと君はずいぶんと前からの知り合いのようだね」

「ああ、そうだよ」

「むむっ。……いや、すまない。やはり思い出せないようだよ、君」

「ま、そうだろうね。あれから十年も経ってるんだ。君と違ってぼくは成長してるから、顔が分からないのも無理はないよ」

「……それで、君は一体誰なのサ」

「はー……いや、分かっているつもりだったけど、こうして改めて言われると結構傷つくな」

「だから早く名乗りたまえよ、君。そうすればウチも一瞬で思い出すサ」

 本格的に頭を抱え始めた少女を見て、ぼくはクスリと笑みをこぼした。

 本当、こいつも変わっていないな。

「ただいま、桜河(おうか)。久しぶりだね」

 クシャリと、その柔らかな髪を撫でてやる。

 すると少女は、一度不審そうに眉を顰めたが、だんだん表情が和らいでいき、最後には満面名笑みを湛えて声を張り上げた。

「お、おお。おおお! 遊斗か! 久しぶりサ!」

「思い出した?」

「もちろんだとも!」

「十年ぶりだね」

「そうか! 君がこの町を出て、もう十年になるのか! 鼻水の代わりに絵の具を垂らしていた小僧が、もうこんなにでかくなったのか! いやいや、年月が経つのは本当に早いサ」

 ぼくの成長を確かめるように、桜河は全身をさするように叩いた。

 中三の段階でぼくより少し背の高かった桜河も、今やすっかり見上げなければぼくと視線を合わせることができない。

「君、一体いつ帰ってきたんだね?」

「ついさっきだよ。夕飯の買い物をしに行った帰りに、懐かしくて寄ってみたんだ」

「そうかそうか! それじゃあ、また一緒に遊べるな!」

「いや、それはどうだろう……」

 あの時は子供だったから、ここの川原で水遊びをしていたけど。

 でもさすがにこの歳では……。

 ぼくの反応が芳しくなかったためか、桜河はどこかつまらなそうに口を尖らせた。

「むむっ……。人間の子供はいつもそうサ。たまにここに迷い込んできたかと思えばすぐにでかくなってウチと遊んでくれなくなる。いつもそうサいつもそうサ……」

 グチグチと何やら呟きながら膝を抱え、川原の石を無意味に積み重ね始める。

 しまった。機嫌を損ねさせてしまった。

 こうなると長いんだよね、こいつ。

「いやね、桜河。確かにぼくはもう川遊びをするような歳じゃないよ」

「……………………」

「でも桜河と遊びたくないとは言ってないんだ」

「……………………」

「ぼくはこの場所が好きだしね。ここにいると落ち着くんだ」

「……………………」

「またぼくはここに通い詰めるつもりなんだ。この町で、画家として再スタートするんだ」

「……………………」

「ぼくはここに絵を描きに来るよ。その時、桜河。また一緒に話をしようよ」

「……………………」

「ぼくは絵を描くのと同じくらい、桜河と話をするのが好きなんだ」

「……本当か?」

「え?」

「それは、本当なのか……?」

「あ、ああ! もちろんさ!」

「うむっ」

 ぼくの言葉に、桜河は満足そうに頷いた。

「遊斗、またここに来てくれるのだな! ウチは遊斗と話すのと同じくらい、遊斗の絵も好きなんだ! 君、またここで絵を描いて、ウチに見せてくれ!」

「もちろん」

 頷くと、桜河はまた満面の笑みを浮かべた。

 にっこりと、その頬を桜色に染めながら。

「じゃあまた明日、ここに来るね」

「むむっ……。もう行ってしまうのか?」

「ゴメンね。うちでお腹空かせて待ってるかもしれない奴がいるからさ」

 ぼくは手を振り、買い物袋を抱えるように土手を駆け上った。

「……………………」

 桜河は、何も言わず、どこか不機嫌そうに手を振っていた。



       *  *  *



 翌日。

 寝起きの悪いぼくたちは遅めの朝食を食べた。メニューは無難にトーストとスクランブルエッグ。それに香ばしく焼いたベーコンと、シャキシャキの生野菜サラダ。飲み物は、本来の仕事を取り戻した冷蔵庫にしっかりと冷やされた野菜ジュースをつける。

「おー」

「どうしたの、遊利」

「こんなに豪華な朝食は久しぶりだよ」

「……………………」

 本当に、どんな食生活を送っていたのやら。

 寝ぼけ眼に寝癖をつけ、ぶかぶかの可愛らしいパジャマ姿のまま遊利は黙々とトーストに大量のバターを塗ったくって口にした。

 バターを付けすぎてトーストがギラギラギトギトに光っている。

 ……今度からマーガリンを買ってくるべきか。

「「いただきます」」

 自然と声が揃う。

 ぼくはあくまでごく少量のバターをトーストに塗る。バターはトーストに塩味を付けるため。遊利の塗り方はまるでバターを食べるためにトーストに塗っているようだ。

 まあこんな偉そうに食生活について語っているが、ぼくも十年前はこんな感じだったが。

 先生の奥さんがかなりのヘルシー思考で、ぼくの食事も薄味なものばかりだった。

「ねえ遊利」

「んー」

「遊利は今日、どうする?」

「んー、とりあえず頼まれてる洋服のデザインがあと何枚か残ってるから、それを仕上げるよ。その後は適当に何か描く」

 パリパリとサラダのレタスを噛みながら遊利は言った。

「じゃあぼくはちょっと外に行って絵を描いてくるよ」

「むー」

「どうしたの?」

「外に行くのはいいけど、お昼ご飯には帰ってきてね。お腹空いちゃうから」

「はいはい」

 作るのはぼくだからな。遊利は放っておけばまたレトルト食品生活に戻りそうで怖い。

 そんなやり取りの後。

 食器を洗い終えたぼくはスケッチブックと鉛筆消しゴムをバックに入れてに抱え、石橋に向かった。

「……あれ?」

 石橋の隣の年老いた桜の木。

 今日も石橋には一組のカップルが景色を眺めていた。

 いやまあカップルと言っても、仲睦まじく純粋に風景を楽しみに来たらしい熟年夫婦なのだが。

 そしてその夫婦も、不思議そうに桜の枝を注視していた。

「つぼみ……?」

 若々しい葉っぱに混じって、幼いつぼみが顔を出していた。

もう花の季節は過ぎたのに変なの、と思いつつ、生い茂る雑草の群れに隠された小道を通り、石橋の下に行く。

 するとやはり、昨日と同じようにあばら家の前で釣り糸を垂らす桜河の姿があった。

 集中しているのか居眠りをしているのか、桜河はぼくが来たことに気づかない。

「……よし」

 イタズラ心というのは、この歳になってもまだ芽生えるものなんだなー。

 どうでもいいことに感心しつつ、足元の砂利が大きな音を立てないようにこっそり近づく。

 そしてゆっくりと桜河の背後に立ち、

「だーれだ」

 彼女の視界を両手で隠す。

 すると桜河は、

「……………………」

 桜河は……、

「……………………」

 桜河……。

「……おーい……」

 む、無反応……?

 まさか本当に寝てるん――

「わぁっ!!」

「うわっ!?」

 突如、背後から轟音の如き叫び声が聞こえてきた。

 ビックリしたぼくは前のめりにバランスを崩し、釣竿を持ったままの桜河と共に川に落ちてしまった。

 この時期の川は、まだ冷たい。

 バシャーンと盛大な音を立てて川に落ちたぼくは全身ずぶぬれ、一気に体温が奪われたような気がした。

 だけど何とか、スケッチブックの入ったバックは死守。

 危ない危ない。

 いや、それよりも。

「桜河!?」

 僕の下敷きになって川底に沈んでいる桜河を助け出す。

 バックを岸辺に放り投げ、バチャバチャと音を立てて冷たい川に手を突っ込む。

 すると指先に布キレのようなものが当たった。

「桜河!」

 気を失っているのかピクリともしない桜河。

 まずい、溺れたか!?

 慌てて岸に引き上げる。

「桜河! 大丈……ぶ……?」

 違和感。

 腕を抱えて引き上げたが、その時に触れた肌の感触が、どうもおかしい。

 こう、カチカチと硬い無機質な感触。

 改めて、濡れた髪がへばりついている顔を確かめる。

「……………………」

 顔がない。

 というか、全身が合成樹脂的な何かで固められている。

 それはまるで、ショッピングモールの衣類コーナーに立っているマネキンのような。

 いや、マネキンそのもの。

「……っく……!」

 背後から、押し殺したような笑い声が聞こえてくる。

 ぼくはゆっくりと、振り返った。

「……くくっ!」

「おい」

「ぷっ……く、ひひっ……!」

「おーい」

「ぷはははははっ!! 無理! もう無理サ! あははははは!」

「桜河!」

「あひゃひゃ、ひ、ぷくくくっ!!」

「笑いすぎだ!」

 腹を抱え、爆笑する少女の姿。

 そしてなぜか、顔を真っ赤にして悶絶しながら川原を転げまわる桜河は、下着姿だった。

 凹凸が乏しいとは言え、目のやり場に困るのだが……。

「あははっ! まさか上流から流れてきたマネキン一つでここまで笑えるとは思ってもみなかったサ!」

「むー! 桜河、やりやがったな! おかげでずぶ濡れじゃないか!」

「あ、あそこまでビックリするとはウチも思わなかったサ、君! あははっ! 『うわっ!?』『バシャーン』とはな! あはははっ!」

「このっ……!」

 ぼくはもう一度川に入った。すでにずぶ濡れだから全く気にしない。

「これでどうだ!」

「ぎゃー!」

 両手一杯に水を蓄え、思いっきり振り上げるように水をかける。

 一瞬の虹。

 笑い転げていた桜河は避けることも出来ずに頭から冷たい水を被った。

「やったな、君!」

「お互い様だろ!」

「あはは! うりゃ!」

「わっぷっ!? これでどうだ!」

「冷たっ! お返しサ!」

 しばらくの間、ぼくたちは子供のようにお互い水を掛け合った。

 もう頭の先からつま先まで満遍なくずぶ濡れだが、ぼくも桜河も気にすることなく水遊びを楽しんでいた。

 本当に、まるで子供の頃に戻ったかのようだった。



       *  *  *



「「はっくしょん!」」

 当然、風邪を引きました。

 桜河の焚いた火にあたっていると、勝手にクシャミやら鼻水やらが出てくる。

 ちなみに二人ともバスタオル一枚。ダミー桜河に着せた服は彼女自身の物だったらしく、着替えがなくなったそうだ。ぼくの服共々、焚き火の近くに干されている。

「むー。年甲斐もなくはしゃいでしまった……っくしゅん!」

「あはは! でも楽しかったサ! ……ぶしっ!」

「まあね。……っくしゅん! でも妖怪の君も風邪を引くなんてなあ」

「ウチだって風くらい引くサ。ぶしっ! ……でも君、久々サ」

「ほら、鼻水」

「むむっ。……ちーん」

「あ、桜河。まだ髪が濡れてるよ。ほら、こっち来なよ」

「むむ……」

 桜河を膝の上に座らせ、後ろからタオルで髪を拭いてやる。いつもは結んでいる髪も、さすがに下ろしている。

 ……結構髪の毛が細いな。

 ぼくはなるべく優しく、髪の毛が傷まないように拭いてやる。

 手を動かすと、川の少し泥臭い臭いに混じって、女の子特有の甘い香りもする。

 ちょっと、ドキドキするな。

「それにしても……」

 気を散らすために、ぼくは視線をそらした。

「あれだけ派手に水飛沫を上げたのに、バックの中身が無事だったって言うのは奇跡だよね」

「むむっ。それもそうだな。だがよかったサ。遊斗のスケッチブックが濡れて困るのはウチも同じサ」

「何で?」

「何でって、ウチは遊斗の絵が好きだと言ったではないかね、君」

「そう言えばそうだったね」

 髪の毛を拭き終わると、桜河はバスタオルが落ちないように立ち上がり、バックを拾いに行った。そしてペラペラとページを捲る。

「相変わらず絵が上手いなあ、君」

「これでも一応、絵でご飯を食べていこうとしてるからね」

「そうなのか。……おお! これは綺麗な風景だな!」

「あ、それ、ぼくが通ってた高校の近くの川だね。登校途中だったんだけど銀杏並木がすっごく綺麗で、思わず二時間居座って描いちゃったよ。で、遅刻」

「あはは! 全く君らしいな! むむっ、こっちは誰だね?」

「あ、それはぼくがお世話になった先生の奥さん。先生が奥さんの誕生日に描いてやったらどうだって勧めてくれたんだけど、上手くいかなくてね……。それはたぶん、二、三枚目の失敗作」

「これで失敗作なのかね!? はあ、君、本当に絵が上手いサ」

「どういたしまして」

 褒められて悪い気はしない。

 すごく嬉しそうにスケッチブックのページを捲る桜河を見て、こっちまで嬉しくなってくる。

 桜河は「これは誰だあれは何だ」と、まるで外見相応の子供のようにぼくに聞いてきた。

 ぼくはそれに、一つ一つ答えてやる。

「何なら、君の絵も描いてあげようか?」

「え?」

 キョトンとした表情を浮かべ、その後なぜかすぐにボッと顔を赤く染める。

桜河はジト目でぼくを見た。

「遊斗、君、えっちだな」

「はあっ!?」

 いきなり何を言い出すんだこいつ!

「なんだい、いきなり!?」

「だってそうだろう、君。ウチは今、バスタオル一枚なのだよ? そんな状態の女の子に『絵を描いてあげようか?』などと、聞くものじゃないサ」

「いや、別に裸婦画を描こうって言うんじゃないんだけど……」

 それに言っちゃあなんだが、モデルの女性に変な気を起こすなど、とっくの昔に克服している。

「普通に、普段通りの君を書いてあげようかと言ったんだ」

「むむっ、そうなのか」

「そうなんだよ」

 そう言えば先生のところに行った始めの方は、まともに人も描かせてもらえなかったな。いつも練習用のマネキンにポーズを取らせて描かされたっけ。

「にしても、このマネキンは一体何だい?」

 ずぶ濡れになった原因であるダミー桜河を指差す。

「あ、これかい? 何日か前に上から流れてきたゴミサ。何かイタズラに使えないかと思って取っておいたのサ」

「……その第一被害者がぼくか」

 嫌な名誉だ。

「ここに住んでいれば変なゴミが流れてくるサ。流木に混じって靴の片方とか、ボールとかが多いサ。古雑誌も多いから暇はしないサ。最近は死んだ魚とか」

「まさか食べてないよね」

「君、いくらアチキが妖怪と言っても、ちゃんと火を通してるサ」

「いつかお腹壊すよ……?」

 衛生上よくありませんよー。良い子は真似しないように。

「それにしても遊斗、君、本当に絵が上手いサ」

「そりゃどーも」

「ウチはとてもこうは描けな、い……サ……?」

 ふと、熱心にスケッチブックのページを捲っていた桜河の手が止まる。

 どうしたのだろうと覗き込むと、そこにはつい昨日描いたばかりの絵があった。

「……遊斗」

「どうしたの?」

「……この女は……誰サ……?」

「ん? ああ、遊利だね」

 昨日の夕食後、久しぶりの再会にぼくたちは夜遅くまで起きてこの十年間のことを語らっていた。少しお酒も入って、いい気分になったところで遊利が眠ってしまったのだ。それがあまりにも綺麗な寝顔だったので、思わずスケッチしてしまったのだ。

 スケッチブックには、あどけない寝顔の遊利が心地よさそうに寝息をついていた。

「……このユリという女は……君の……」

「え?」

「君の……大切な人なのかね……?」

「へ? まあ、うん。大切と言えば大切だね。家族だし」

「か、家族っ!?」

「う、うん……」

「……まさか……君にそんな人が……いた、とは……」

 何だ?

 桜河がなにやらショッキングな表情を浮かべている。

 どうしたのだろうか……?

 と、そんなことを考えていると、バックの中のケータイから着信音が鳴り響いた。

「あ、遊利だ」

 遊利からメールが来ていた。


『おなかすえた』


「……………………」

 多分、お腹空いた、と打ちたかったんだろう。ケータイが苦手とは言え、まさか文字の訂正も変換もできないとは……。

「こりゃよっぽど重症だな」

 いや、それよりも慣れないメールを使ってまでもぼくに救援を求めてきたのだから、よっぽどお腹がすいているのだろう。

「ゴメン桜河。一回家に帰るよ。また午後に来るね」

「……………………」

 急いで干していた服を着替える。

 ……うえ。まだ生乾きだ。

「あ、スケッチブック」

「……………………」

 桜河は黙ってスケッチブックを差し出した。それを受け取り、バックに突っ込む。

「じゃ、桜河。またね!」

「あ……」

 桜河は何か言いかけた。だが「どうしたの?」と振り返るも、彼女は何も言わずに静かに手を振っていた。



       *  *  *



「――と、言うことがありまして」

「はあ……」

 全身生乾き状態で帰ってきたぼくを見て、ご飯はまだでいいから早くシャワーを! と喚いた遊利に背中を押され、ぼくは急いでシャワーを浴びた。

 あの川は水が綺麗だが、それでも多少の泥臭さが全身から漂っていた。

「遊斗、歳いくつよ」

「遊利と同じく二十五歳」

「分かってるじゃない」

 いい大人が、と遊利が溜息を吐くのが聞こえる。

 ぼくはキッチンに立ち、さっきからずっと卵を泡立てていた。わがままな姉上がオムライスを所望したためだ。しかもそこにインスタントでいいからカレーをかけてくれと言うのだから、舌が肥えていらっしゃる。

「そう言えば遊利」

「んー?」

 卵が十分に泡立ったところで、熱したフライパンに薄くバターをひく。バターが溶けてフライパンに満遍なく行き渡ったところで卵を流し入れる。

 ジャーッと心地よい音と共に香ばしい香りがキッチンに漂う。

「……美味しそうな音」

 キッチンの外で待ち構えている遊利がつばを飲んだ。

 どんだけ空腹だったんだ、遊利。

「で、遊斗、何?」

「あ、そうそう。遊利ってさ、桜河と会ったことってなかったっけ?」

「んー。直接はないかな。いつも遊斗の話に出てきたからどんなヒトなのかは大体分かるけど。顔も遊斗の絵で知ったくらい」

「あ、そうだっけ」

「どしたの急に」

「いや、さっき遊利の似顔絵を描いたスケッチブックを見せたらいきなり固まってさ。『この女は誰だー』とか『大切な人なのかー』とか聞いてきてさ」

「……ほほう」

 何やら遊利の目が光った。

「それで、遊斗は何て答えたの?」

「んー。まあ、『大切といえば大切だね』って」

「それから」

「『家族だし』って。そしたら何かすっごく落ち込んだって言うか、ショッキングな表情浮かべて項垂れてた」

「……………………」

「昔からたまに意味が分からないことするやつだったけど、やっぱり十年経っても分からないなー」

「……朴念仁」

「ん? 何か言った?」

「別にー」

 話をしながらも、ぼくの手は留まることなくフライパンの上の卵を回し続けていた。そして卵がいい感じに固まり、まとまってきた所で半熟のオムレツにする。

 それをあらかじめ作っておいた薄味のバターライスの上に乗せる。

「お」

 遊利が期待に瞳を輝かせる。

 スッと、オムレツにナイフを入れる。

 トロッ。

 切れ目からオムレツが裂け、トロトロの半熟卵がふんわりとバターライスを包み込む。

「おー」

「仕上げだよ」

 そこに温めておいたレトルトカレーをかける。

 うん、美味しそうだ。

「おー! 美味しそう!」

「ありがとう」

「遊斗すごいね! シェフみたい!」

「そうかな……」

 実を言えば、ぼくは薄焼き卵を作ってご飯を巻くよりも、オムレツを作って乗せた方が楽なんだけど。

 オムレツを火加減良く作ることができれば、薄焼き卵で巻くよりよっぽど簡単だと思う。

 見た目もいいしね。

「先に食べていいよ。ぼくの分を作ってからだと冷めちゃうから」

「そうする」

 待ってましたとばかりに、遊利がスプーンで掻き込むようにオムライスを口に運んでいった。

 瞬く間にオムライスの半分が遊利の胃袋に収められた。

 本当に、どんだけお腹空いていたんだ……?

 ぼくの分を作り終えるまでになくなってしまいそうだ。

「……いただきますくらい言いなよ」

 だが遊利は無言でオムライスを食べ続けていた。

 結局、ぼくの分のオムライスが完成するとほぼ同時に、遊利はスプーンを置いて「ごちそうさま」と満面の笑みを浮かべたのだった。

 その笑顔が、何か空しい……。

「石橋に連れてって」

「え?」

 昼食を食べ終え、洗い物を済ませると突然遊利がそう言った。

「いきなりどうしたの、遊利」

「どうもこうも、わたしも桜河さんに会ってみたい」

「会ってみたいって……」

 それはいいのだが。

「デザインのお仕事は?」

「午前中で完成」

「あ、そ……」

 一蹴。

 まあいいけどね。

「じゃあ準備してきてね」

「分かった」

 車椅子を運転し、遊利はアトリエへと消えていく。

 ……アトリエ?

「何を持ってくる気だろう……?」

 画材道具かな?

 数分後、遊利は筒状の何かを抱えて戻ってきた。

「何それ」

「んー。桜河さんにあげるの」

「え、何?」

「遊斗には秘密」

 むー。

 焦らすなあ。

 気になるじゃないか。

「教えてよ」

「ダメ。気になるなら桜河さんに聞いて」

「ケチ」

「何とでも言いなさい」

 頑なに教えてくれない遊利。

 スッゲエ気になるんですけど……。

「さ、行くよ」

「持ち物はそれだけ?」

「うん」

 頷く遊利。

 ぼくは車椅子を押し、玄関を出た。

 道中何としても筒状の何かの正体を知りたく問い詰めたが、遊利は上手いこと話題をはぐらかし続けた。



       *  *  *



「……あれ?」

 車椅子を押しながら、ぼくたちはのんびりと石橋を訪れた。

「どうしたの?」

「んー。人がいない」

 人、と言うか、いつもは何組かいるはずのカップルがいない。

 おかしいな。まだ遅い時間ではないし、いつもなら誰かしらいるのに。

「あ、誰か来たよ」

 遊利が指差す。

 すると橋の向こうから一組の恋人同士と思われる男女がやってきた。大学生くらいだろうか? 仲良さげに、女の子のほうは男の子のほうにしな垂れながら歩いてくる。

「はー、仲が良さそうで何より」

「だね」

 そう頷きあうぼくら。

 だがその大学生カップルが石橋に足を踏み入れた瞬間。

「あれ?」

「どうした?」

「ゴメン。財布忘れてきたわ」

「あー? じゃあどうすんだよ。いったん戻るか?」

「えー、面倒臭い。奢ってよー」

「何で奢んなきゃなんねーんだよ」

「いいじゃない別に。けち臭いわね!」

「あっ!? けち臭いって、お前何様のつもりだ!」

「けち臭いからけち臭いって言ってるのよ! 何よ、コレくらいで大声上げて。財布も小さければ器も小さいわね!」

「……んだと?」

「……何よ?」

 そのまま痴話喧嘩……と言うより本格的に口論を始める二人。

 いきなりの仲違いにぼくらの方が困っている間にも、二人はさらに声を荒げていった。

「な、何事……?」

「さ、さあ……?」

 首を傾げる遊利。

 あまりにも雰囲気が一変したため、止めるべきなのかさえ迷ってしまう。

 そしていくつか罵声を浴びせあった後。

「大っ嫌い! もう好きにすれば!?」

「こっちのセリフだ、ボケ!」

 顔を怒りで真っ赤にした女の子が、踵を返して元来た方へと足早に去っていく。

「……………………」

 そして男の子のほうも、その背中を面白くなさそうに睨み付け、石橋を渡って僕たちが来た方へと歩いていった。

「えーと……」

「うん……」

「何だったんだろう……?」

「わたしに聞かれても……」

 そりゃそうだ。

 いきなり、仲が良さそうだった二人が目の前で口論し、喧嘩別れしていった。

 そう一言で片付けられるのだが、正直、見ていて気持ちのいいものではなかった。

「あれ……?」

 ぼくはあることに気付いた。

「どうしたの?」

「んー……」

 ぼくは車椅子を押して石橋を渡る。

 石橋の反対側。

 年老いた桜の木。

「おかしいな……」

 太く見事な枝から張り巡らされた、無数の小枝。

 そのどこにも、若葉の姿がなかった。

 いや、それ以前に心無しか、いつもに増して年老い疲れているようにも見える。

「何だ……?」

 さっき見た時は若葉どころか、つぼみすら付けていたのに。

「……んで」

「え?」

 背後。

 どこか涙ぐんだ、少女の声。

 ぼくは慌てて振り返る。

「何で……橋を渡ったのに……」

 見覚えのある、ポニーテールを無理やり右側に移したような奇妙な髪型。

 石橋のど真ん中に、彼女は立っていた。

「何で喧嘩もしないのサ!」

「桜河……?」

「何で声も荒げないのサ!」

「桜河……」

 綺麗な顔を、涙でグチャグチャにしながら、桜河は叫んだ。

「何で何も起きないのサ! 何で別れないのサ! 何で縁が切れないのサ! 何で……!」

 零れ落ちる涙を拭おうともせず、桜河はその場にへたり込んだ。

 そして呻くような呟きを溢す。

「ウチは……そういう妖怪なのに……!」

 嗚咽。

 桜河は声を上げ、泣き続けていた。

「桜河……? い、いきなり……」

 さっきのカップルといい、桜河といい、今日は一体何なんだ……?

「遊斗」

「ん?」

「ちょっといってくるね」

「え?」

「待ってて」

 パチンと、遊利は車椅子の電源を入れる。すると電子音と共に車椅子が手動からハンドル操作に移行する。

「たぶん、遊斗じゃ話をややこしくするだけだから」

「ちょっ……」

 ニッと、遊利はどこか諦めたような笑みを浮かべた。

「甲斐性無しで朴念仁な弟のために、お姉ちゃんが一肌脱いであげます」

「え、ねえ……」

 車椅子を操作しながら、ゆっくりと桜河に近づいていく。

 二人が何やら話し始める。

 だけどここからだと聞き取れない。

「何を話してるんだろう……?」

 だが表情は何とか読み取れる。

 最初こそ、不貞腐れたように遊利の顔も見なかった桜河だが、次第に驚きと焦りを浮かべ、桜河の話に聞き入っていた。

 そして最後には、顔を真っ赤にして何度も遊利に頭を下げだした。

 ……何を話したんだろう?

 と、事態に付いていけずにボーっとしていると、遊利が満足そうにこちらに戻ってきた。

 手にしていた筒状の何かは、桜河の手に渡っている。

「何を話したの?」

「んー。わたしと遊斗の関係?」

「はあ」

「それじゃ、わたし、先に帰るね」

「え、もう?」

「うん。もうわたしがいなくても大丈夫ろうから。これ以上はどうやっても話はこじれません。大団円まっしぐらね」

「はあ……?」

「じゃあね。あ、お夕飯はエビフライがいいな」

「う、うん。分かった」

「じゃ」

 ピッと、何を思ったのか戦前の軍人のような綺麗な敬礼をし、遊利は車椅子を操作して離れていく。

 そうか今夜はエビフライかー、などとどうでもいいことを考えつつ、ぼくは石橋の上に一人残された桜河を見やる。

 桜河も桜河で、どうすればいいのか分からずにオロオロとぼくを見ていた。

 だが、その胸にはしっかりと筒状のものが抱かれている。

 えーと……。

 とりあえず、話しかけなきゃ。

「お、桜河?」

「な、何だね、君!?」

「声が上ずってるよ」

 相当動揺している。

「えーと、遊利と何を話してたの?」

「や、えっと、その……遊斗と、遊利の関係……?」

「それは前に話したじゃないか。家族だって」

「きょ、姉弟だとは聞いてないサ!」

「そうだっけ?」

「そうサ!」

 憤然と怒鳴り散らす桜河。

 ご機嫌ナナメ。

 うーん……。

「あ、そう言えば」

 ぼくは桜河が大事そうに抱えている筒状の何かを指差した。

「これ、何?」

「え? ……これはさっき、遊利から貰った物サ」

「ううん、そうじゃなくて。これ、一体なんだろうね」

「むむっ。君、聞いてないのかね?」

「うん」

「いや、ウチもさっき押し付けられるように貰ったからサ。何なのかは知らないサ。ただ……」

「ただ?」

「『テーマは一番綺麗なもの』と言われたサ」

「うーん。何だろう」

「分からないサ」

「じゃあ開けてみようか」

「うむ」

 その筒状の何かは丁寧に梱包されていた。ぼくと桜河はゆっくりと梱包紙を剥がす。すると中から、どこかで見たことのあるものが出てきた。

「あ……」

 桜河が声を洩らす。

 梱包紙が外れたことで、筒状の何かは一枚の画用紙に戻る。

 描かれていたものは、一本の年老いた満開の桜の木。

 小さな古い石橋。

 そして石橋の袂で、綺麗な笑みを浮かべる一人の少女。

「これ……」

 紛れもない。

 ぼくがこの町を出て行くキッカケとなった、一枚の絵。

「へえ……コンクールから返ってきた後、どこに行ったかと思ったら、遊利が持ってたんだ」

 テーマは一番綺麗なもの。

 ぼくが一番綺麗と思ったもの。

「これ……」

「んー?」

 桜河が呟く。

「これって……ウチ?」

「そうだよ」

 ぼくは微笑む。

「この絵のおかげで、ぼくは先生の下で勉強できたんだ」

「ウチの絵で……」

「そ。言い換えれば、桜河のおかげ」


 ありがとう。


 ぼくはそう口にし、そっと桜河の柔らかな髪を撫でた。

「これ……貰ってもいいのかね?」

「んー。いいんじゃない? 遊利が桜河にあげたんだから」

「そうではなく。遊斗、君が描いた絵だろう? 君が持っていなくていいのかね?」

「別にいいよ」

 あっさりと頷くと、桜河は少し困ったような表情を浮かべる。だが手にした絵に視線を下ろすと、すぐに嬉しそうに笑った。

 その笑顔。

 その綺麗な笑顔が、この絵を描かせた。

 ありがとう、桜河。

「あ……」

 ぼくはふと顔を上げた。

 石橋の隣の桜の木。

 微妙に季節はずれな桜が、満開に咲き誇っていた。

「遊斗……」

「んー?」

 桜河が俯きがちに声をかけてきた。

「えっと、その……」

「どうしたの?」

「え、いや、その、サ」

「うん」

 ぼくは頷く。

 桜河は今にも消え入るような声で、呟いた。

「また……ここに来てくれるか……?」

「もちろん」

 ぼくは一瞬の間も置かずに、そう答えた。



       *  *  *



「橋姫」

 キッチンで姉上御所望のエビフライを揚げていると、車椅子で近寄りながら遊利がそう手にした本を読み上げた。

「古くは古今和歌集にも登場する古い妖怪ね。宇治の橋姫なんかでも有名な、嫉妬深い鬼女だったり女神だったりするそうよ。牛の刻参りも橋姫が発祥だとする説もあるし、縁切りの神様だったりするし。あ、でも必ずしも悪い妖怪でもないんだって。橋の守り神として扱われることもあるそうよ」

「ふーん……」

 橋姫、ねえ。

 そう言えば桜河が何の妖怪かは聞いたことなかったな。でも、聞いてもわかんなかったろうな。橋姫なんて、聞いたことないし。

「それにしても、デートスポットに縁切りの神様、ねえ」

「桜河さんの場合は半ば神格化しつつあるよね。さっきの喧嘩別れした二人も、たぶん桜河さんが原因だろうし。もう何十年何百年もあの橋の下にいるんでしょ?」

「そうらしいよ。でも中身は外見相応の子供だけど」

「……中身が子供だからこそ、素直に伝えられないのかしらね……」

「何か言った?」

「別にー」

 車椅子を操作し、居間に戻る遊利。そしてテーブルに付いて夕食を待ち構える。

「そう言えば」

「んー?」

「桜河さん、何か言ってた?」

「別にー。『またここに来てくれるか』ってくらいかな」

「……一応、いつかは伝えるつもり、と言うことかな……」

「何か」

「言ってないよ」

「……せめて最後まで言わせてよ」

「えー」

 イタズラっぽい笑みを浮かべる遊利。

 その間にもエビフライは香ばしい匂いと共に次々に揚がっていく。今夜は特別に自家製のタルタルソースも付けてやろうと思う。

 普通のソースでもいいけど、これは先生の奥さんもお気に入りのタルタルソースだから、是非とも遊利にも食べさせたかった。

「遊利」

「んー?」

「遊利はエビフライはソースとタルタル、どっち好き?」

「両方」

「……………………」

「両方付けてくれるとさらに嬉しい」

「はいはい」

 わがままな姉上だ。

「遊斗」

「んー?」

「わたしと桜河さん、どっち好き?」

「ぶっ!?」

 いきなりなんだ!?

「……何、その質問」

「いいから」

「いいからって……まあ、二人とも好きだよ。遊利は大切な姉上だし、桜河も大切な友達だし」

「友達?」

「友達」

「はあ……」

 何やら溜息が聞こえた。

「……これは、桜河さんを義姉(あね)と呼べるようになる日は当分先だなー」

「え? 呼びたければ呼べばいいじゃない。お姉ちゃん、って。でも外見的にも性格的にも遊利の方が大人だと思うよ?」

「そう言うことじゃなくって……はあ、もう。……この甲斐性無しの朴念仁……」

「何」

「も言ってないよ」

「……………………」

 チクショウ!

「でもさ、どうして桜河は橋を渡る人たちを別れさせようとしたんだろ? 今まではそんなことしなかったのに。それにぼくらに対しても。姉弟の縁が切れるわけないのにねー」

「……それが分からないうちは一生朴念仁ね……」

「な」

「にも言ってないから、ほら、遊斗。早く早くー。お腹空いたー」

「……はいはい。もう少し待っててね」

 そんなに急かさなくても。

 嫌味と言ってはなんだけど、腹いせに大量にエビフライ揚げてやろうか。幸い、エビは冷凍保存分を含めて大量購入してきているし。

 ……余ったら明日、桜河のとこに行く時のお弁当に入れればいいか。

 そうと決まればさっさと揚げてしまおう。

 エビフライの食べすぎでお腹壊しちゃえ。


「ご馳走様ー」

「……………………」

 なぜだ。

 あれだけ揚げたエビフライが一匹も残らない……?

 遊利、いつの間にか大食いになっている!

 歩けないのに、一体カロリーはどこで消費しているのだろう……。




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