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うんぬん 【掌編小説集】  作者: ナユタ
◆フリージャンル◆
11/21

 平日の早朝、制服にマフラーと手袋を加えた格好の男子生徒が自宅を発った。玄関を一歩出ると別世界が広がっている。

 冬の空気は身に付けているもの全てを貫通して肌に突き刺さる。体温と気温の差だけ、呼吸をする度に放たれる息は曇っていた。積もるほどではないが、今日は珍しく雪が降っている。

 彼は早足でいつもの道を歩いていく。やがて大通りに出て、脇の歩道を無心のまま進んだ。

 敢えて彼が今、何か考えながら歩いているとするならば、駅までの距離と時間だけ。早くこの身を切るような冷風から逃れたい一心だ。

 惰性の思考は無心と何ら変わらない。彼は動物の如くただ駅に向かい、人が密集する電車内の方が幾分マシだろうと思った。

 視線は常に斜め下。万が一に知人と鉢合わせでもしたら、次の電車に間に合わない。首は他人とぶつからない、且つ表情を伺わせない絶妙な角度に保たれている。

 しかし、視界に余計な存在が勝手に入り込んできた。

 百円玉。完全に落とし物だ。

 魅惑の照りは彼の無心に動く足を止めた。斜め下を向いていたせいで気付かなかったが、近くに自動販売機があった。確かに絶好の落としポイントと言える。

 百円玉は誰にも相手にされていない。このままでいることに誰が得するというのか。

 ......だったら。周りに人目がないことを確認すると、彼はさっと百円玉を拾い上げる。

 臨時収入に心がほくそ笑み、再び歩き始めようと顔を上げた。

 ーー今度は、交番とその前に佇む警官が勝手に視界に入ってきてしまった。見られていた可能性がなくもない。

 体裁と良心が笑みを浮かべていた心を同時に殴った。

 咄嗟に彼は、何が最も得策かを惰性でなく真面目に考える。これはよくある、正直者が得するパターンを狙える。具体的に何、とあるのではないが、もう仕方ない状況だ。

 体裁と良心を前にして笑うことをやめたポーカーフェイスの心であったが、心の更に内心は意地悪く微笑していた。

 彼はおもむろに交番に近付くと、警官に百円玉を差し出した。

「あの、これ、そこに落ちていました」

「あ、はい。若いのに偉いね」

「いえ」

 見られていなかったらしい。三十代ほどの警官は落とし物を預かり、学生はその場に立ち尽くした。見返りはさすがに何もないようだ。当たり前と言えば当たり前。幼い子供が届けたなら警官がお駄賃をくれたりすることもあるだろうが、もう常識と割り切るべき年齢である。

 動かない彼を見て、警官は付け足した。

「何処に落ちてたとかは記しておく必要もないよ。財布ならまだしも、百円玉じゃあさすがに持ち主は解らないからね」

「え? あぁ、そうですね」

 彼は適当に取り繕ってそこを後にした。体裁は保った。それだけで十分だと、あの面倒な百円玉のことを忘れようと努めた。


 電車内は混雑していたが、外とさして温度が変わることはなかった。乗客は通常より多い方で、吊革に掴まる人も少なくない。彼はなんとか座席を陣取り、電車は動き始める。

 学校付近の駅まで、少し寝ていようと目を閉じる。だが、何故かすぐに瞳孔を開けた。

 正面に八十代ほどのお婆さんが、杖をついて立っていたのだ。足が悪いのだろうに、加えてこの寒さ。前者は自分が解決させてあげられる。

 そこで心を小突いたのは、良心ではなくて体裁だった。思わずそんな自分を恨む。今日は何かと運に味方してもらえない。......いや、こんな風に思う時点で......それ以上、考えるのはやめた。

 代わりに身体を動かした。二つ左の席の女の人が彼と同時に譲ろうと動いていたが、もう遅い。正面に座る自分の方が立つのは当たり前だと、溜め息混じりに言い聞かせた。

「ここ、どうぞ」

「まぁ、ありがとうねぇ」

 お婆さんは頭を下げてから座席に腰を慎重に下ろした。それを眺めていた彼は吊革に掴まっておらず、停車準備に入った電車の中で一人よろけた。

 朝から気分は沈んでいる。





「そういえば今日、百円玉を届けに来た学生がいたよ。ちょろまかしても誰も気付かないだろうに、今の若者も捨てたもんじゃないねぇ」

「へー、珍しい」

 仕事帰りの居酒屋で、男性が同僚と話していた。会話は続かなかったが、話を切り出した方の男性は、いつものように上司の愚痴を語り合うよりも酒が旨かった。


「異常はありません。いつも通り、痛み止めを処方しておきますね」

「ありがとうございます。ここに来るまでの電車で、学生に席を譲ってもらっちゃったのよ。いい子がいるものねぇ」

 病院の診察室で、老いた女性がかかりつけの医者とこんな会話をした。自分の息子のことを思い出し、久しぶりに電話を掛けてみようと考えた。




 学生はその日、学校に着いても何となく気分が乗らなかった。あの警官には正直な学生だと思われ、電車内に居合わせた人からは親切だと思われたはず。

 得したことなんて何もない。それに良心よりも下心が身体をつき動かしていた。

 ただ、誰もそれに気付いていない。大事な体裁は守った。損した人なんて誰もいない。

テーマは「人助け」。例えその人助けが良心からでなかったのだとしても、してもらって本心からなのか、などと疑ってはいけませんね。行動に移した方が正しいに決まっています。

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