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015 ライル:娼婦の失態

 マリアが〈ドーフェン〉の町長に就任してから、3ヶ月が経とうとしていた。


 彼女が円卓会議で打ち出した「衛生環境の改善策」は、あっという間に王国全土に波及した。

 郵便事業と違ってノウハウを提供する必要がないため、他領での展開が容易だったのだ。


 今では、どの領でも洗口液による口腔ケアが義務化されている。

 また、どの公衆浴場にもシャンプーとボディソープが設置されていた。


 マリアの思惑どおり、庶民の衛生環境は大きく改善されていた。

 髪と体は綺麗になり、全身から漂う酢の臭いが消えていた。


 とりわけ貢献度が高かったのはボディソープだ。

 ハンドソープや洗濯用洗剤としても利用されていた。


 上下水道の整備、印刷用紙とボールペンの普及、衛生環境の改善……。

 マリアの功績は、もはや王国の誰もが認めるところだ。

 通りを歩けば、どこかしらから彼女の名が聞こえてくる。

 マリアを一目見ようと〈ドーフェン〉を訪れる者まで現れるほどだ。


 そんな中、マリアの躍進に悔しい思いをしている男がいた。

 かつて彼女と婚約していた男・ライルだ。

 彼は今、新たな苦境に立たされようとしていた――


 ◇


「もうすぐ市長になって3ヶ月か……」


 ライルは馬車の中で呟いた。

 馬車はゆっくりと〈モルディアン〉の大通りを巡っている。


 これは、彼がイメージ向上のために始めた視察だ。

 マリアが市長不在でも問題ないシステムを構築していたため、ライルにはすることがなかった。

 だから、この何の役にも立たない形だけの巡回で市民に媚を売っていた。

 ただの「仕事をしていますよ」というアピールだ。


(ここまで実績なし……。むしろ、増税する羽目になってしまった……)


 しばらく前、〈モルディアン〉では課税が強化された。

 観光客の数が戻らないため、税収減を賄うためには仕方なかった。

 当然ながら市民の反発はあったものの、最終的には受け入れられた。


 その理由は三つある。


 一つ目は、先の集団食中毒における伯爵の火消しが巧みだったから。

 ライルの全施策を即座に撤回して謝罪行脚をしたことが奏功した。


 二つ目は、〈モルディアン〉の税率が全国的に見て低かったから。

 〈モルディアン〉よりも低税率の集落は、小さな村ばかりだった。

 それ以外では無税の〈ドーフェン〉くらいだ。

 ゆえに、市民には多少の増税を受け入れる余裕があった。


 三つ目は、ライルがマリアの婚約者だったから。

 二人の婚約解消は、双方の合意に基づく円満なものと認識されていた。

 そして、マリアは〈モルディアン〉で絶大な人気を誇っている。

 そんな彼女の元婚約者という立場が、市民の反感を和らげていた。


(どうしてマリアばかり……。ユニークスキルが使えれば、俺だって活躍できるのに……。女のくせにずるいだろ……)


 馬車の中で一人、ライルはため息をつく。

 こんなときこそ、隣にメアリーがいればと思った。

 しかし、


 (めかけ)のメアリーと一緒に外へ出ることはない。

 彼女との関係は来年まで伏せておくようにと父・ローランドから命じられているからだ。


(いや、ないものねだりをしている場合じゃない。どうにかして〈モルディアン〉に観光客を呼び戻さねば……)


 ライルは再びため息をつく。

 窓の外では、露天商が退屈そうにあくびをしていた。


 ◇


 ライルが馬車で視察という名の巡回をしている頃――


 メアリーは、一人で衣服のアトリエに来ていた。

 この世界のアトリエは、現代で言えばブティックのような存在だ。

 店内は小さめで、上質な素材で作られた高価な衣服が売られている。

 入店にはドレスコードが必要だ。


(はぁ……。なんで仕立屋じゃなくてアトリエに来ないといけないのよ。ライルをものにしたらアトリエとはおさらばできると思っていたのに)


 メアリーはすまし顔でドレスを見ながら、内心ではげんなりしていた。


 仕立屋とは、オーダーメイドを専門とする店である。

 大貴族に認められた一流の裁縫師だけが看板を掲げられる。

 一着ずつあつらえるため、既製品を並べるアトリエよりもはるかに高い。

 最上級の格式を誇る、貴族の中でも上位の者しか利用できない高級店だ。


「お! このドレス、いいじゃなーい!」


 不機嫌そうだったメアリーの顔が明るくなる。

 目をつけたのは、襟ぐりに白い毛皮が縫い込まれた深紫色のドレスだ。

 そのエレガントな見た目に加えて、大きく開いている胸元も気に入った。


「このドレスの価格は?」


 メアリーは指を鳴らして店主を呼んだ。


 小太りな男の店主は、すぐさまメアリーに駆け寄った。

 完璧な営業スマイルを浮かべて、揉み手をしながら距離を詰める。


「こちらは3万2500ルクスでございます!」


「3万2500ルクス……」


 メアリーは腰に提げている財布袋を握った。

 袋はパンパンに膨らんでいるが、総額は4万ルクスしかない。

 大銀貨を多く入れることで、大金を持っているふうに装っていた。


(買えない額ではないけど、このドレスを買うとお金がなくなるわね。娼婦の頃と違って大した稼ぎもないし……)


 〈モルディアン〉で生活するにあたって、メアリーは娼館を辞めていた。

 現在の収入源は、ライルから支払われる毎月2000ルクスのお小遣いだけだ。


(仕方ない……やっちゃうか!)


 メアリーは大きく息を吐くと、店主に体を密着させた。


「あのぉ、もう少し安くならなぁい? おねがぁい、値下げしてよぉん」


 元娼婦に相応しい色仕掛けによる値下げ交渉だ。

 ライルとの関係が表沙汰になっていないからできる荒業(あらわざ)でもある。


 しかし、残念ながら彼女の交渉は失敗した。

 店主は真顔になり、メアリーから距離を取ったのだ。


「悪いね、ウチは良心的な価格でやっているんだ。この素材でこの価格のドレスなんて、他所じゃ絶対に手に入らないよ。それを値切ろうだなんて冷やかしもいいところだ。他所に行きな」


 店主は露骨に怒っていた。

 彼の言うとおり、この店は良心的な価格が売りなのだ。

 メアリーの選んだドレスは、他所だと3割増が相場になるだろう。

 そのことはメアリーも理解していた。

 しかし――


「なんなの、客に向かってその態度! わかってんの? こっちは客よ!」


 メアリーは逆上した。

 理由は値下げ交渉が失敗したからだけではない。

 色仕掛けがまったく通用していなかったからだ。

 要するにプライドが傷ついた。


「あんたは客じゃねぇよ」


 店主が言い返す。


「はぁ!?」


「ウチの客は商品の価値を理解している人たちのことだ。あんたみたいなのは客じゃなくて冷やかしっていうんだよ。それにその派手な服と化粧……あんた、娼婦なんだろ? 俺は娼婦が嫌いなんだ。とっとと失せな」


 店主の言葉は、メアリーの神経を逆撫でした。


「言ってくれるじゃないの! こっちは将来の市長夫人、ゆくゆくは伯爵夫人になる女よ! せっかく恩を売るチャンスだったのに、そんなこともわからないなんて商売人として二流……いや、三流以下のカスよ! カス!」


 怒りに任せて、メアリーは言ってはならないことを口にした。

 しかし、彼女は感情が昂ぶっていて気づいていなかった。


「市長夫人? 伯爵夫人? 何言ってんだ?」


「私はライル・ブリッツの女よ! あんたみたいな見る目のないカスでも、ライルが誰かはわかるでしょ? この都市の市長様よ、市長様! 私がライルに頼めば、こんな店を潰すくらいわけないのよ!」


「なに言ってんだよ。ライル様は少し前までマリア様と婚約していたんだぞ。お前みたいな女を相手にするものか」


「そのマリアから私が奪ってやったのよ! ライルは〈リベンポート〉にいるとき、娼館に入り浸っていて私に夢中だった! 嘘だと思うなら〈リベンポート〉の〈エクスモーション〉って娼館で聞いてみなさいよ! そうすれば、このメアリー様がライルを寝取ったってわかるわ!」


 メアリーが具体的に話したことで、店主の態度が変わった。


「もしかして……今の話、本当なのか?」


「当たり前じゃないの! なに? 今さら謝るつもり? でももう遅いわ! 家に戻ったらライルに言いつけて――あっ」


 勝利を確信して気が緩んだ拍子に、メアリーは自らの失言に気づいた。

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