001 プロローグ①:絶頂
謁見の間で、ガブリエル国王が私に言った。
「すべての集落に上下水道を整備でき、その結果、各地の衛生環境は劇的に改善された。マリア・ホーネット、そなたのおかげじゃ。国民の模範たる貴族にふさわしい活躍だったと言えよう」
国王は立派な白い髭を指で撫でてご満悦の表情を浮かべている。
私はひざまずいたまま、「ありがとうございます!」と声を弾ませた。
(本当に長い8年だった……)
今から18年前、私はマリアとしてこの世に生まれた。
産声を上げた瞬間には、前世の記憶が蘇っていた。
こことは違う世界――地球での記憶を。
この世界は、前世に比べて文明水準が大きく劣っていた。
産業革命が起こる前……もっと言えば中世ヨーロッパのようだ。
最初は不便さも感じたが、すぐに気にならなくなった。
しかし、一つだけ不満な点があった。
上下水道が整っていないことによる衛生環境の悪さだ。
挨拶代わりに疫病が発生するし、飲み水を調達するのも一苦労である。
自分の生死にも関わる問題だ。
そこで私は、前世の知識を駆使して上下水道を整備することにした。
当時10歳だった私は、大都市の市長を務める父に強く訴えた。
最初は相手にされなかったが、何度も食い下がって承諾してもらった。
父が治める都市で上下水道が整うと、衛生環境は大きく改善された。
これによって上下水道の評判が瞬く間に広がった。
ついには国王陛下も重い腰を上げて、上下水道の整備を命じた。
そして、8年越しの今日、王国全土に上下水道が整備されたのだ。
「そなたには我がヴァレンティン王国で最高の栄誉である特別名誉勲章を授ける。授与式は数日後に執り行うとしよう。一刻も早く父親にこの吉報を知らせてやるといい。きっと喜ぶぞ」
国王が笑顔で言う。
「はい! ありがとうございます! 陛下!」
私も笑顔を浮かべた。
(ん?)
顔を上げたとき、目の端に一人の男を捉えた。
青い髪をした20歳の青年――ライル・ブリッツだ。
私の婚約者であり、伯爵令息である。
(ライル様、また不快そうな顔をしている……)
ライルと私の関係は政略的なものだ。
すなわち親が決めた婚約なので、恋愛感情は互いに持ち合わせていない。
私の父が病床に伏せている都合もあって、この数ヶ月は住まいも別だった。
とはいえ、婚約者は婚約者だ。
不快な顔をしていれば気になるし、政略結婚でも仲良くしたい。
◇
私は謁見の間を出ると、近くでライルを待っていた。
しばらくすると、多くの貴族がぞろぞろと出てきた。
他の議題も消化されて、会議が終わったのだろう。
その中にライルの姿もあった。
「ライル様!」
私は笑みを浮かべてライルに駆け寄った。
ドレスの裾を持ち上げて小走りすることにも慣れたものだ。
「……マリアか。まだ残っていたんだな」
「ライル様の様子が気になりまして」
「俺の様子だと?」
「この一年ほど、いつも不快そうな顔をされていますよね。何かお悩みを抱えているのではありませんか?」
ライルと婚約したのは、今から数年も前のことだ。
現在でも結婚していないのは、先日まで私が未成年だったからだ。
この世界では、18歳未満は未成年として扱われ、結婚できない。
「たしかに悩みはあるが……お前にだけは話したくない」
そう言うと、ライルは足早に去って行った。
(婚約者に弱みを見せたくないってことなのかな)
このときは、そう思った。
◇
王城を出ると、馬車に乗って王都を発った。
向かうは伯爵領の第二都市〈モルディアン〉。
我がホーネット家が代々市長を務めている大都市だ。
今は私が市長代行として都市を運営していた。
本来であれば、勲章の授与式までは王都に残るべきだ。
しかし、今は父が重篤なため、特例的に戻ることにしていた。
「マリア様、到着いたしました」
御者が馬車の扉を開けてくれる。
私は礼を言うと、急ぎ足でホーネット家の館に入った。
貴族の家にふさわしい立派な館内を駆け足で進む。
「お父様!」
ノックすることなく、父の寝室に飛び込んだ。
「マリア様……」
担当医が私の顔を見る。
その表情は暗く、事態の深刻さを物語っていた。
「まさか、間に合わなかった……?」
父の姿は、私の位置からは見えない。
天蓋から垂れる濃紺のカーテンに遮られているからだ。
「いえ……。ですが、もう長くはないかと……」
「…………か……」
ベッドから、かすかに父の声が聞こえた。
どうやら「マリアと二人にしてくれ」と言ったようだ。
担当医は了承すると、立ち上がって部屋を出て行った。
私は入れ替わりで担当医が座っていた椅子に腰を下ろした。
青白くて生気を失った父の顔が見える。
それだけで胸が苦しくなった。
「マリア……よく戻ったな……陛下は……喜んでおられたか……」
父が力のない笑みを浮かべて、こちらに手を伸ばす。
私はその手を両手で包み込みながら、涙目で頷いた。
「はい! 特別名誉勲章をいただけることになりました!」
「それは……すごいな……さすがわしの娘だ……ゲホッ! ゲホッ!」
父がむせる。
ただ咳き込むだけではなく吐血していた。
「お父様、無理に話さないでください!」
「いいや……話す……わしの命は……ここで尽きる……だから……後悔しないように……ゲホッ! ゲホッ!」
「……わかりました。お父様のお言葉をお聞かせください」
父は「ありがとう」と笑みを浮かべ、咳き込みながら話した。
「マリア……親としての責務を……満足に果たせなくて……すまなかった……恋愛をする暇も与えず……婚約させて……すまなかった……」
「そんなことありません。お父様は私を大切に育ててくださいましたし、最大限の自由をくださいました。婚約の件も、私の将来を思ってのことでしょう?」
父が私に婚約を命じたのは、母が死んで間もない頃だった。
私は一人っ子で、そのうえ親戚と呼べる人間もいない。
父が死ねば、私は文字どおりの孤独になってしまう。
「ああ……そうだ……わしが死に……お前が嫁入りすれば……ホーネット家がなくなる……そうなれば……市長の任も解かれる……今後は……ブリッツ家の人間として……国民の模範となる貴族として……しかし……自由に生きるんだ……」
それが、父の最期の言葉だった。
普段は泣かない私だが、この日は涙が枯れるまで泣き続けた。
◇
父の死によって、特別名誉勲章の授与式が二週間ほど延長された。
その間、私は悲嘆に暮れる暇もないほどの激務に追われていた。
葬儀や市長就任の手続きなど、やることが山積みだったのだ。
嫁入りすれば市長を解任されるが、それまでは市長である。
ただ、忙しいことで気が紛れたので、かえってよかったかもしれない。
両親のことが大好きだったので、忙しくなければ心が壊れていたはずだ。
「マリア様、いってらっしゃい!」
「新市長様! 頑張ってください! 俺たちが支えますから!」
〈モルディアン〉を発つとき、多くの市民が温かい言葉をかけてくれた。
ホーネット家は昔から市民との関係が良好だが、父の代でますます絆が強まった。
上下水道が整備されてからは、私も街の人気者になっていた。
「みんな、ありがとう! 特別名誉勲章を授かったら思いっきり自慢しちゃうから楽しみにしていてね!」
私は馬車の窓から身を乗り出し、フランクな口調で市民たちに応える。
最高の笑顔で手を振りながら、王都に向かった。
しかし――
――――……。
「マリア・ホーネット、そなたを極刑に処す」
謁見の間で待っていたのは、特別名誉勲章の授与式ではなく断罪だった。
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