魔鉱の黎明
***プロローグ 蒼き石との邂逅***
金床を撃つ澄んだ一撃が、夜明け前の古都ガルディアに細い尾を引いて消えた。鍛冶工房〈灰色の炉〉の奥、焔の揺らぐ闇の中で、若き鍛冶師エリク・フォージハートは額に滲む汗を拭いもしない。高熱に炙られた鋼をハンマーで潰すたび、火花が星のごとく散り、彼の瞳に宿った蒼い光を際立たせた。その光の源は、作業台の上に据えた拳大の鉱石――蒼天石。夏空の一片を閉じ込めたような透徹した碧青が、炉の赤を呑み込みつつ脈動している。エリクはその鼓動を、自分の心臓と重ね合わせるように感じていた。
『この石が、俺をどこへ連れて行くのか――』
幼馴染のルーク・スミスソンが扉を押し開ける。彼の手には昨夜採掘したばかりの蒼天石の原石がさらに三つ。二人は目を合わせ、無言のまま頷いた。ここから始まる物語を、まだ誰も知らない。外では夜明けの鐘を告げる低い梵鐘が鳴っていた。氷を溶かしきれない春先の風が、路地の隙間を啼くように通り抜ける。ガルディアの国境地帯では昨冬から魔物の活動が活発化し、冒険者たちは強力な装備を求め王都へ押し寄せている。その波は、路地裏の小さな鍛冶屋にも、遅くはあれ届きつつあった。だがエリクの関心は、社会の動向よりも目の前の火と鉄と蒼天石。炎がうねり、石炭の甘い匂いに魔力特有のオゾンが混ざる。金属の唸りと共に彼は、まだ見ぬ未来の扉を叩き続けた。
***
ガルディア王国の西端、石畳の迷路のような裏路地にひっそりと佇む〈灰色の炉〉。かつては名工を幾人も輩出した老舗だったが、今ではエリクとルーク、そして年老いた番犬ブラムのみ。薄暗い店先を照らす看板の銀文字は剥げ落ち、「修理承ります」の札だけが辛うじて客に存在を告げている。しかし裏手の作業場だけは、早朝から金属の匂いと熱気で満ちていた。炉壁に貼りついた炭埃が赤い輝きを反射し、天井の梁から吊るされた無数の道具が小刻みに震える。エリクは蒼天石の欠片を鋼に溶接し、小型の短剣を試作する。蒼石が放つ微細な魔力の揺らぎが刀身に沁みこみ、鋼色の地に淡い青が流紋のように走った。ルークは横で焼きたてのパンをちぎり、まだ熱いままの器に入った豆スープと共に口へ放り込む。細身の彼の指は職人としては白く、しかし手の甲には無数の火傷痕があった。彼は帳簿をめくり、小さく呻いた。
「今月の材料費、これで底だ。炭も鋼材も次の仕入れは無理だな」
「ならば売るしかない。出来は悪くない。王都の露店でなら五十ガルドは取れる」
エリクは短剣を持ち上げる。
「だがその旅費すら無いじゃないか」
二人は顔を見合わせ、同時に笑った。追い詰められた者同士の笑いは、火花よりも乾いていた。刃を冷却槽に浸けた瞬間、ジュッという蒸気音が咆哮に似て響き、木壁を震わせた。刀身に浮かぶ青い紋様が、炉の光を吸い込むように深く輝く。エリクの胸に小さな確信が芽生えた。
「これなら、北のドラグリンクスの鱗も断てるかもしれない」
――だが市場で売れるには、証明と資金が要る。二人の財布には、今日のパンと灯油を買う金すら残っていなかった。その夜、二人は窓辺にろうそくを並べ、街灯の消えた路地を眺めた。行商の馬車が石畳を鳴らしながら遠ざかり、酒場の灯が一つ、また一つと消える。ルークは嘆息する。
「俺たちが望むのは、豪奢な生活じゃない。ただ、創りたいものを創る自由だ」
エリクは黙ってハンマーの柄を撫でる。樫の木目が汗で黒ずみ、掌に馴染んでいた。炎の向こうで蒼天石が瞬き、まるで答えを促すかのようだった。
夕刻。錆びた扉を叩く重々しい音が、工房の静寂を破った。外の街路灯が長く伸びた影を投げ込み、現れたのは冒険者ギルド幹部ダリウス・グレイブ。漆黒のロングコートに金の刺繍、肩章には王国紋章を象った銀の獅子。その佇まいは、この古びた工房には不釣り合いなほど洗練され、同時に計算された威圧感を放っていた。
「君がエリク・フォージハート君か。噂は聞いている。蒼天石とかいう奇妙な石で、面白いものを作っているそうじゃないか」
ダリウスの声は低く、自信に満ちていた。彼はエリクの返事を待たずに工房を見回し、その鋭い灰色の瞳が作業台の上の短剣に留まる。
「ほう、これが例の……。見せてもらおうか」
彼は短剣を手に取ると、まるで値踏みするように軽く振るった。透き通るような澄音が工房に満ちる。刃紋に走る青い光を見つめる彼の瞳が、暗く細められた。それは単なる商機の匂いを嗅ぎ分ける目ではない。自分の野望を実現するための駒を見つけた、支配者の目だった。
「悪くない。いや、これは……使えるな。この石と君の腕があれば、くだらない連中が支配するこの世界を変えられるかもしれん」
彼は即座に出資を提案した。ギルド専属工房〈蒼星の炉〉――その設立資金と最新設備一式、さらに王都広場での展示会開催を約束する代わりに、蒼天石武具の独占供給を求めてきた。彼の言葉には、エリクの才能への期待だけでなく、それを自分の成功の道具とする明確な意図が滲んでいた。ルークは目を輝かせた。だがエリクの胸には、熱い創造の炎とは異なる冷気が走る。この男の野心に、自分の技術が利用されるだけではないのか。しかし腹の虫のように鳴る貧困は、理想を凍えさせる。エリクはハンマーを置き、ダリウスの目を真っ直ぐに見据えて右手を差し出した。
「契約しよう。ただし、品質は俺が決める。俺の基準に満たないものは、たとえギルドの命令でも世に出さない」
ダリウスは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに薄く、侮蔑の色を隠した笑みを浮かべた。
「面白い。その気概や良し。良い鍛冶師は己の基準に厳しいものだ。その頑固さが、結果的に私の利益にも繋がるだろう。よかろう、その条件、呑もうじゃないか」
その晩、エリクはルークとともに契約書にサインした。蝋燭の火が揺れ、ダリウスの影が壁に大きく伸びていた。外では初夏の夜風が鐘楼を揺らし、街の空気はどこか祝祭の匂いを帯びていた。だがエリクの胸の奥では、ダリウスの瞳の奥に見た冷たい光が、警鐘のように鳴り続けていた。
***
半年後、王城通りに面した白壁の新工房〈蒼星の炉〉は、王都の新たな名所となっていた。天窓から伸びる三本の煙突からは夜でも青い炎が吹き上がり、その輝きはダリウスの野心の象徴のようだった。蒼天石を組み込んだ槍、盾、鎧――すべてが軽量で魔力に共鳴し、冒険者たちの渇望を煽った。ダリウスの巧みな営業手腕と人脈により、注文は殺到し、工房には金貨が溢れた。彼は満足げに工房を見渡し、エリクに言った。
「見たまえ、エリク君。これが成功だ。君の才能と私の経営手腕が合わされば、この程度の成功は序の口だ。くだらないギルドの連中も、今頃は私の先見の明に舌を巻いているだろう」
しかし、その成功の陰で、エリクが最も恐れていた事態が進行していた。ダリウスは利益と効率を最優先し、量産のために品質基準を密かに下げさせていた。研削工程の省略、魔力安定剤の希釈。エリクの指先に覚えた違和感は、やがて確信へと変わる。ある夜、彼は炉前で一本の剣を叩き折った。刀身の中央を走る青い筋が不規則に途切れ、蒼天石の結晶が脆く砕け散る。不良品――その言葉が、エリクの胸に重く突き刺さった。
「ダリウスさん、これはどういうことですか! 約束が違う!」
エリクは折れた剣を手にダリウスに詰め寄った。ダリウスは眉一つ動かさず、冷ややかに答える。
「何を騒いでいる、エリク君。多少の品質のばらつきは量産の過程では当然のことだ。完璧主義も結構だが、ビジネスは理想だけでは成り立たない。君はまだ若いな」
その言葉には、エリクの職人としての誇りを軽んじる響きがあった。ルークは事務室で新人職人の教育に当たりながらも、この状況に心を痛めていた。彼は夜半に昔の図面を引っ張り出し、エリクに創業の理念を語りかける。しかし、ダリウスの価値観に染まった多くの若手職人は、ルークを「時代遅れ」と嘲笑し、効率こそが正義だと豪語した。事務机の上には、ダリウスが誇らしげに持ち込んだ月次利益報告書。黒々とした数字は、エリクとルークの理想を飲み干して伸び続ける蛇のように見えた。工房の奥、誰も近づかない物置に古い灰色の炉が保存されていた。エリクは時折そこへ通い、錆びた鉄板を撫でた。そして自問した。
『俺が鍛えたいのは、金を生む道具か、それとも魂を込めた武具か』
***
凍てつく風と共に、北方から銀髪のエルフ鍛冶師リーシャ・シルバーリーフを長とする使節団が王都へ到着した。彼らが持ち込んだ〈魔導具〉は、蒼天石武具を凌駕する軽さと魔力効率を誇った。透彫りの弓が月光を喰むように煌めき、観衆は息を呑む。広場での公開試験。リーシャが放った一本の矢は、遠く設置された鋼板を容易く貫通し、その先の石壁に花のような亀裂を開いた。鋼板は蒼星の炉の最高級品と同スペック。それが粉塵を上げて崩れ落ちる様子を見て、ダリウスの眉間に深い皺が刻まれた。彼の築き上げた成功が、突如現れた異種族の技術によって脅かされたのだ。彼の表情には、焦りと屈辱の色が浮かんでいた。
「エルフ風情が……私の計画を邪魔する気か」
ダリウスは低く呟くと、翌日から職人たちにさらに苛烈な納期と生産目標を課した。彼の指示はもはや合理的な経営判断ではなく、焦りとプライドに基づいた狂気じみたものになっていた。注文書の束が作業台を覆い、炉の火力は限界まで上げられ、工房は夜通し稼働した。熱と焦燥は、職人たちの心を蝕んでいく。安全装置を外された鼓風機が悲鳴を上げ、爆ぜる石炭の匂いが甘い焦げを帯びる。ルークはダリウスのやり方に強く反発し、新規職人との衝突を繰り返した。彼は作業場の隅で拳を握り締め、呟いた。
「これは創造じゃない、ただの破壊だ……ダリウス、あんたは道を間違えている!」
エリクはエルフの技術に対抗すべく、蒼天石に刻むルーン配列の改良に孤独な実験を続けた。しかし、ダリウスが生み出す焦燥と混乱の中で、彼の集中力は削がれ、成果は一向に出なかった。ハンマーは空を打ち、金床に残るのは歪な鉄屑ばかり。焦げた蒼天石が粉状に崩れ、床に落ちた青い砂が夜光虫のように儚く瞬く。彼は拳を握りしめ、拳骨が白くなるまで自責の念に駆られた。ダリウスの野心が、自分たちの創造の場を歪めている。その事実に、エリクは無力感を覚えていた。
追い詰められたダリウスは、禁断の手段に手を出した。密かにエルフから技術図面を買い取ろうとしたのだ。王国法で固く禁じられた異種族技術の無許可流出。冒険者ギルド本部で開かれた幹部会議。証拠として突きつけられたのは、暗号化された契約書と、エルフの錬金術でしか作れない銀の印璽。ダリウスは沈黙した。もはや言い逃れはできない。彼はゆっくりと帽子を脱いだ。かつての自信に満ちた野心の光は消え失せ、残ったのは運命に敗れた男の深い疲労と、抑えきれない怒りの影だった。彼は、失脚を宣告されながらも、エリクに向けて歪んだ笑みを浮かべ、吐き捨てるように言った。
「理想だけで世界は守れない、か……。違うな、エリク君。この世界は、理想を語る資格すらない愚か者ばかりだ。だから力で支配するしかない。君のような才能も、結局は私のような人間がいなければ輝けないのだ。……まあいい、見ていろ。私は必ず蘇る。そして、このくだらない運命と、愚かな世界を、今度こそ私の手で作り変えてみせる」
その言葉には、彼の歪んだ野心と、エリクへの複雑な感情――才能への嫉妬と、利用価値を失った道具への侮蔑――が込められていた。
その夜、多くの職人がダリウスについて工房を去った。彼らはダリウスの成功に惹かれ、彼の価値観に染まっていた者たちだった。去り際に足蹴にされた工具が床を転がり、薄い悲鳴を上げる。空になった作業台に、冷えた蒼天石だけが残る。炉は沈黙し、煙突から上る火はなかった。エリクの胸には、灼けるような虚無と、ダリウスの最後の言葉が重くのしかかっていた。同じ夜、ルークは利益報告書や契約書の束を燃やした。ぱちぱちと弾ける小火が、金貨の記号とダリウスの名を炙り消す。紙灰が舞い上がり、蒼天石の欠片に降り積もる。灰の下で、石はなお淡く、しかし確かな意志を持って脈動しているように見えた。
***
夜明け前。霞む星明かりの下、ルークは埃を被った初代炉の前に立っていた。昔日の職人たちが残した刻印が鉄板の錆の奥で鈍く光り、足元には削り屑が時を止めたように散らばる。そこへエリクが現れる。憔悴した顔に煤がこびりつき、だが瞳だけは炎を宿していた。二人は無言で火種をくべ、古びた炉に新しい風を送り込む。ふっと紅が灯り、やがて橙、黄金へと色を変える。まるで眠りから覚めた竜が息を吹き返すかのようだった。蒼天石の欠片を置くと、パンッと乾いた音がし、青い閃光が薄闇を裂く。
「思い出すか? あの日の匂いを」
ルークが微笑む。焦げた鉄と樫木柄の汗の匂い。創業の朝焼け。全てが蘇る。エリクは頷き、掌に残った無数の火傷痕を見つめた。
『俺は、ものを創るために鍛冶師になった』
――その単純で鋭い真実が、胸を穿つ。
ルークは炉の脇に古い木箱を持ち出した。中から現れたのは、蒼天石が初めて刀身に定着した記念の短剣、そして二人が最初に売り損ねた錆びたペーパーナイフ。粗削りだが、どれも魂が宿っているように温かかった。
「これが俺たちの初心だ。誰かに必要とされる道具を、誠意を込めて鍛える。それだけで十分だった」
ルークは言った。エリクはハンマーを握る。柄の乾いた木目が手汗を吸い、再び掌に馴染んだ。夜明けの鐘が遠くで鳴り、工房の窓に紫がかった朝陽が差し込む。悟ったような静けさの中で、エリクは決意する――敵ではなく、理解者を探そう。
エリクは旅支度を整え、リーシャを訪ね森都ルーミエルへ赴いた。雪解け水が川面を銀に染め、白樺の梢には氷の雫が揺れる。森の空気は澄み、遠く霊鳥の囀りが響く。人間の足には馴染まぬ静謐だが、エリクの胸の火は消えなかった。千年守り続けられた熔魔炉の前で、リーシャが待っていた。彼女の肌は月光のように淡く、耳元の翡翠の耳飾りが揺れる。
「あなたはまだ諦めていないのね、人間の鍛冶師」
「諦めるには、叩くべき石が多すぎる」
二人は炉を挟み、互いの思想と技法を語り合った。エリクは火と打撃で金属の性質を変える物理の道を、リーシャは精霊との共鳴により構造を再編成する魔法の道を歩む。方法は対極。しかし目指す未来は驚くほど重なっていた。
夜、炉の青白い炎が二人の影を重ね合わせる。蒼天石とエルフの魔力結晶サルファリアの波長を一致させるルーンの螺旋設計図が、パーチメントの上に浮かび上がった。その線は、異なる文化が交じり合い編まれる一本の縄のように美しかった。
***
新生魔鉱炉の設計図が完成し、ガルディアに戻ったエリクとリーシャは、本格的な魔鉱鍛造術の確立に向けた試行錯誤を開始した。しかし、道はすぐに壁にぶつかった。特に問題となったのは、蒼天石と鋼の鍛接工程だった。エリクが改良を重ねたルーン配列を用いても、特定の蒼天石を使うと、どうしても鍛接面で微細な剥離が発生し、魔力伝導が不安定になるのだ。
「くそっ、まただ! ルーンの制御は完璧なはずなのに、なぜこの石だけ弾かれるんだ?」
エリクは失敗作の刀身を忌々しげに金床に叩きつけた。同じ鉱脈から採れた石でも、一つ一つが異なる「揺らぎ」を持っている。人間の技術――物理的な加工と画一的なルーン制御――だけでは、その繊細な個性を捉えきれないのだ。
リーシャは静かにその様子を見ていたが、やがて炉の前に進み出た。彼女は失敗した刀身の蒼天石部分にそっと手を触れ、目を閉じる。周囲の空気が微かに震え、翡翠の耳飾りが淡い光を放った。
「……この石は、少し臆病なようですね。強い魔力の流れを急に受け入れるのをためらっている。もっと、ゆっくりと……そう、夜明けの光が徐々に満ちるように、魔力を馴染ませてほしいと囁いています」
リーシャは目を開け、エリクに向き直った。
「あなたのルーンは強力ですが、画一的すぎるのかもしれません。この石には、この石だけのリズムがある。精霊の力を借りて、そのリズムに合わせる必要があります」
それは、エリクにとって未知の領域だった。素材に「寄り添う」というエルフのアプローチ。彼は戸惑いながらも、リーシャの言葉に耳を傾けた。次の試作。リーシャは精霊に呼びかけ、蒼天石の微細な魔力波長を読み取り、エリクに伝えた。エリクはその情報に基づき、打撃のリズムとルーン起動のタイミングを微妙に調整する。リーシャはさらに、鍛接の瞬間に精霊術で緩衝材となるような柔らかな魔力の層を作り出し、鋼と蒼天石の間に流し込んだ。カン、カン、と響くハンマーの音。それは以前よりもわずかに間隔が長く、石の反応を確かめるような響きだった。ルーンが起動し、青い光が走る。今度は剥離しない。蒼天石は、まるで安堵したかのように鋼と一体化し、安定した魔力の脈動を始めた。
「……成功、か?」
エリクは息を呑んだ。人間の技術とエルフの知恵、物理と魔法、制御と共感。二つの異なるアプローチが融合した瞬間だった。この経験は、エリクに大きな衝撃を与えた。鍛冶とは、単に素材を打ち鍛えるだけではない。その声を聞き、個性に合わせて形を与えることなのだと。この最初の成功を皮切りに、彼らはさらに試行錯誤を重ねた。刃の共鳴音が半音ずれれば即座に溶解炉へ戻し、鍛接面が千分の一でも歪めば叩き壊して粉にした。それは依然として狂気にも似た道程だったが、以前とは異なり、確かな光が見えていた。その日の深夜、エリクは独りで炉に向かった。周囲は皆眠り、薪の爆ぜる音だけが深い闇で脈打つ。彼は蒼天石を掌に置き、そっと問いかけた。
『お前は、何を望む?』
石は答えない。ただ青く揺らぎ、彼の心臓の鼓動と同調した。エリクは気づいた。鍛冶師とは素材の声を聴く通訳であることを。素材が語る望み、その性質、その未来図。それらを聞き取り、形にする者。彼はハンマーを取り、静かに振り下ろした。打撃のたびに火花が散り、宙に描く円弧は薄氷を砕くように脆く、そして美しかった。やがて刃が形を成し、炉の炎は淡い紫へと沈静した。完成した刃は彼の頬を映し、微笑む自分自身がいた。恐れではなく、確信。これが黎明を切り開く剣だと。
***
ガルディアに戻った時、エリクは残った職人たちと旧蒼星の炉を解体し、新たな工房として〈魔鉱工房〉を立ち上げた。いま、エリク達と残った職人たちは一心不乱に魔鉱を鍛え上げていた。リーシャは精霊への負担を減らすため、魔力フローの数学モデルを洗練させ、ルークは職人たちへ瞑想法だけでなく、素材との対話を促す心の持ち方を教えた。忙しかった時期に、知人のつてで工房に入ってきた見習い職人のミナは持ち前の几帳面さを発揮し、各工程の温度や湿度に加え、使用した蒼天石の「個性」に関するリーシャの所見も記録する。一旗あげようと街に出てきたところで以前の工房立ち上げ時に入り、奇特にもそのまま工房に残ったドワーフの鍛冶師グリムは、持ち前の嗅覚で金属だけでなく、魔力の「焼け具合」まで判別するようになった。
石と蔦を絡ませた煙突からは淡い青緑の煙が立ち上り、日光に透けて虹を孕んだ。リーシャが注いだ精霊の水が火床を洗い、ミナが調合した溶媒が蒼天石を柔らかく溶解させる。ルークが刻んだ古語ルーンが金床に散り、エリクの一撃がすべてを束ねた。金床に置かれた蒼天石複合鋼は硬質な鳴動と共に紫紺へと転じ、中心に銀色の脈を浮かべた。
それは魔鉱――魔力と鉱物が等価交換を成した新物質だった。硬度はダイヤを凌ぎ、魔力伝導率はクリスタルの数倍。鍛冶師たちは息を呑み、その瞬間、世界の地図が静かに書き換わる音を聞いた。試作品第一号の片刃大剣〈黎明〉。柄に埋め込まれた蒼天石の鼓動は、握る者の魔力を吸い上げ、刃へ流す。エリクが試しに空を斬ると、刃紋から走る銀青の光が真空の軌跡を描き、天窓の板硝子をすっと薙ぎ、音もなく割った。その残響に混じり、誰かのすすり泣きが聞こえた。職人たちが感極まっていたのだ。
***
王都前の試技場。蒼白く凍った冬の空気の中、観衆はざわめき立った。魔鉱製〈黎明〉を担いだ王国近衛隊長が、魔物の擬造装甲を模した七層鋼の盾に斬り付ける。軽い打音の後、盾は二つに割れ、断面が鏡のように滑らかに光った。青銀の余光が夜明け空を裂き、観衆は一斉に喝采の嵐を上げた。王国技術院は即座に魔鉱鍛造術を王立技術と認定し、ガルディア王は工房に黄金の勲章を授けた。市場は沸き、人々は魔鉱を「黎明の金属」と呼んだ。だがエリクは浮かれなかった。技術は剣でも秤でもない。使う者の心が刃を研ぎ、社会を測る。彼は壇上で言う。
「この技は、争いを終わらせる鍵にも、永遠の闘争を呼ぶ扉にもなりうる。選ぶのは、我々の意思だ」
一瞬の静寂の後、リーシャが小さく微笑んだ。それは、技術が人の手に委ねられたという重みを分かち合う者の笑みだった。
***エピローグ 広がる地平***
三年後。ガルディア西郊の丘に、石と晶鉱で築かれたアーチが立つ。そこには〈魔鉱工房〉の紋章――交差するハンマーと蔦の剣――が朝陽を受け輝いていた。工房はかつての数倍の規模に拡張され、人間、エルフ、ドワーフ、獣人の職人や弟子たちが、それぞれの言語と技術を持ち寄り、炉の周りで汗を流していた。火花の音と金属を打つ響きに混じり、精霊の囁きやルーンの詠唱が聞こえる。ここでは魔鉱だけでなく、衝撃を吸収する粘り強い合金や、髪の毛ほど細くても魔力をロスなく伝える鋼線など、異種族協力によって生まれた新素材が次々と形になっていた。
魔鉱技術の波及は、工房の外の世界も大きく変えつつあった。王都の夜は、魔鉱灯の柔らかな青白い光で以前よりずっと明るくなり、人々の活動時間を延ばした。新素材で作られた軽量高効率な輸送馬車や帆船が、遠方の都市や国々との交易を活性化させ、ガルディアの市場には南方の珍しい果物や東方のエルフ工芸品が並ぶようになった。一方で、従来の重装鎧を作っていた古い鍛冶工房の中には、時代の変化に対応できず廃業するところも出始めていた。魔鉱技術者は新たな時代の寵児となり、その社会的地位は向上したが、古くからの貴族階級との間に見えない軋轢も生んでいた。蒼穹協定の下で技術共有は進められているものの、水面下では国家間の競争や、軍事転用を巡る駆け引きも始まっている。蒼天石鉱脈の採掘はさらに大規模になり、リーシャからは時折、森の精霊たちが地脈の乱れに憂慮を示しているという報告も届いていた。
そんな喧騒の中、エリクは工房の一角で、新米の獣人鍛冶師に手を取り、基礎打ちを見守っていた。火花が舞い上がるたび、彼は初心を思い出す。鋼の硬さと同じくらい柔軟に、炎の熱さと同じくらい優しく、そして、素材の声に耳を澄ますこと。そこへルークがやってきた。彼は山積みの書類――新素材の特許申請書や、遠方からの共同開発依頼、そして王国技術院からの飛空艇プロジェクトに関する報告書――を脇に置き、工房の活気を見渡して微笑んだ。
「王都から正式な知らせだ。魔鉱エンジンを搭載した試作飛空艇『スカイランス』、ついに安定飛行に成功したそうだ。これで本当に空の時代が来るな」
「ああ。だが、空には空の道とルールが必要になるだろうな。それに、あの翼が何に使われるか……それは俺たちが決められることじゃない」エリクは空を見上げた。
「それでも、俺たちは創り続けるしかないんだろう?」ルークはエリクの肩を叩いた。「問題が起きれば、また知恵を出し合えばいい。俺たちには、これだけの仲間がいるんだからな」
ルークの視線の先では、ドワーフの親方がエルフの若者に新しい合金の熱処理法を教え、人間の少女がミナに連れられて魔鉱の品質検査記録の付け方を学んでいた。草の根レベルで始まった異種族間の知識交換は、着実に根付き始めていた。
「そうだな」
エリクはハンマーを肩に載せ、再び蒼く澄んだ空を仰いだ。蒼天石の輝きが、彼の瞳に宿る。技術は光も影ももたらす。だが、創造の先に広がる地平を信じ、仲間と共に進むしかない。
『創造の旅に終わりはない。黎明は常に、今、ここからだ』
(了)