逃避
夏休みに入って最初の週末。帰省の電車に揺られていた。通り過ぎる車窓の景色を眺めながら、スマートフォンの画面を開く。先輩から送られてきた写真。親戚たちが見たらなんと言うだろう。一年前の葬式のことを思い出し、眉をしかめる。
祖母が亡くなったのは去年の七月。あの頃、同級生たちは就活の準備を始めていた。
「インターン、どうする?」
「○○商事のOB訪問いけた?」
そんなメッセージが飛び交う中、自分だけが前に進めないような感覚。十月には元カノにも別れを告げられた。
実家に着くと、母が玄関から出てくるところだった。
「先に会場に行くから。手伝いがあるの」
母が心配そうに覗き込む。
「髪、伸びすぎてない?」
父が玄関で靴を履いている。
部屋にはビニール袋に包まれた黒い服が吊るされている。一年前、近所の量販店で慌てて買った喪服。母がクリーニングに出してくれていたようだ。袖丈が短いのが気になっていたことを思い出す。黒髪を後ろでくくる。
斎場に着くと、親戚が次々と集まってきていた。白い花が飾られた受付の前を、黒い服の人影が行き交う。一年前の葬式の光景が重なる。あの日、大伯父の会社から大勢の従業員が来ていた。「何で社長の妹の葬式なんかに……」と、参列者がこぼした愚痴が耳に残っている。
「おぉ、来たか」
いきなり背中を叩かれる。大伯父だ。小さな町工場から始めて、それなりの規模にまで育て上げた人物。でも、その古びた経営者としての価値観が、鼻につく。
「なんだ、東京の大学に行ったと思ったら、こんな……」
髪を指差し、大きな声で笑う。
「就職はどうだ? そんなんじゃ、どこも採用してくれんぞ」
父が、茶を濁す。
「まだ学生ですし、それまでには」
法要の後の会食。「○○ちゃんは、△△自動車に決まったんですって」そんな声が飛び交う。大伯父が、また声をかけてくる。
「うちの会社なら、コネで入れてやれるんだが」
笑いながら酒を注ぐ手つきが、威圧的だ。
「心配することはない。みっちり鍛えてやるからな。まず、その長髪を……」
一年前の葬式での従業員たちの表情が蘇る。蒸し暑い中での礼服姿。陰で交わされる会話。その嫌悪感が、就職への意欲を削いでいたのかもしれない。
会場の外の廊下に出て、深いため息をつく。疲れた背中を壁に預ける。冷房の風が、くくった髪を揺らす。
「お兄ちゃん、あんまり飲めないもんね」
気がつくと、妹が立っていた。首元には真珠のネックレス。
「大変だよね」
たった一つ違いなのに、なぜか自分よりも大人に見える。喪服のせいだろうか。
「え?」
「お酒じゃなく。色々言われて」
短い袖から覗く自分の手首には、安物の喪服が似合う気がした。隠すように腕を組む。
「私ね、お兄ちゃんが羨ましかった」
人気のない廊下で、続ける。白い壁に、二人の影が並ぶ。
「まじめで優しくて、期待されて」
廊下の向こうで、大伯父の声が響いている。部下への指示のような口調で、誰かに説教をしているようだ。妹が小さく顔をしかめる。
「でも、一所懸命勉強してるの見て、不自由だなって思うようになった」
黒いワンピースの襟元に手をやる。
「私は、それほどでもなかったけど、家にいると窮屈で」
「さっさと逃げちゃった」
結婚指輪が、照明に反射して光る。
「お兄ちゃんも、もういいんじゃない?」
会場のドアが開く音。親戚の笑い声が漏れ出す。妹は専門学校に進み、すぐ地元を離れて結婚。そうだったのか。自分も、親から離れたくて、自宅から通えない大学を選んだ。兄妹の選択は、ある意味で賢かったのかもしれない。廊下に並ぶ二つの影が、少しずつ形を変えていくように見えた。
***
翌朝。新聞を読む父の横で、母が朝食の準備をしている。
「今日戻るんでしょ。お弁当、作っておいたから」
そんなことしてもらっても、期待には応えられない。
「無理しないでね」
母がタッパーを手渡してくる。
「うん」
曖昧な返事。もっと違う言葉があるはずなのに。
逃げるように、実家を出る。仏壇の花の香りが、最後まで追いかけてきた。
***
真夏の陽射しに照らされたスマートフォンの画面を、思わず二度見る。
「泊まりがけの撮影、どう思う?」
これまでは数時間の非日常。現実に戻るのは容易だった。
「遊泳禁止の砂浜があるの。人も少ないし」
「もしよければ、季節感のある写真を」
先輩の言葉が続く。その言葉に抑えきれない期待と、先輩特有の慎重さが同居していた。
「もちろん、ちゃんと別々の部屋を用意するわ」
続くメッセージに少しがっかりする。それでも、胸が高鳴るのを感じる。丸一日以上、しかも、泊まりがけ。先輩と過ごす時間は、これまでとは比べものにならないほど長くなる。
「ちょっと検討してみて」
慌てて返信する。
「ぜんぜん大丈夫です。お願いします」
「ありがとう」
すぐに返信が来る。
「ただ、少し課題があるの」
次のメッセージを待つ短い間にも、思いを巡らす。日程の都合だろうか。それとも――。
「着替えたまま、車で移動することになるけど」
画面を凝視する。その意味を理解するまでに、少し時間がかかった。――『先輩の好み』の衣装を着たまま外の世界に出ることになる。
「問題ないです」
送信ボタンを押す指に、迷いはなかった。先輩となら、その一線を越えてもいい。画面の向こうで、先輩の息遣いが聞こえるような気がした。
「よかった!」
先輩のその言葉には、喜びが溢れていた。
「衣装、準備しておくね」
「気に入ってくれると嬉しいな」
期待と不安で、自分の心拍が早くなっているのを感じた。自分の中でも、何かが崩れ始めているのを感じる。日常と非日常の境界が、少しずつ溶けていく。
***
「タッパー、持って帰ってね」
電話の向こうの母の声。一周忌の翌日に作ってくれた弁当のことだ。
初盆の席で、親戚たちに取り囲まれる光景が頭をよぎる。
「ごめんね。その日は、帰れそうにないんだ」
「えっ?どうして。就活って言っても、お盆は会社も休みでしょ?」
一瞬の沈黙。
「秋採用っていうのがあって。公務員の試験落ちた人とかも来るから、結構な倍率になるみたいで」
言い訳めいた言葉が、次々と溢れ出す。
「それに、先生から大学院のことも言われて……」
これも言い訳。教授は、進学希望者はいますかと、四年生全員に言っただけだ。
「大学院?」
母の声が曇る。
「進学して、その後はどうなるの?就職できるの?」
無理もない。そもそも大学院というものがよくわからないのだろう。
「うん、それはともかく」
余計な話をしてしまったかも知れない。
「秋採用の方を、ちゃんと準備したいから」
「そう……」
ため息混じりの声。でも、いつもの強い懸念は感じられない。
「それなら仕方ないわね。頑張って」
「納得できるところに行けるといいわね」
納得とは、誰の――。
電話を切ると、肩の力が抜けた。行くべき場所は、もう決まっている。
壁のカレンダーには、先輩との旅行の予定。嘘をついてしまった後ろめたさが消えていく。
窓の外では、蝉が必死に鳴いていた。地上で生きる一週間のために、何年もの歳月を土の中で待つ。目の前の、レンズの向こうの輝きを選び取ることは、そんなに間違っているだろうか。