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現実

 鏡の中の自分が、他人のように感じられる。ボタンを締めると黒い布地が肩から浮き上がる。無愛想で落ち着きのない表情で、猫背になっている誰か。


「お客様、サイズの方はいかがでしょうか?」


 店員の声に、現実に引き戻される。


「あ、はい。でも、もう少し考えさせてください」


 試着を続ける気力を使い果たし、今日はもう買わなくてもいいやと思う。息苦しさを感じ、ネクタイを緩めた。


 そのまま百貨店を出る。リクルートスーツに身を包んだ学生たちとすれ違う。彼らは、やる気に満ちた明るい声で会話を交わしている。自分はスーツさえ準備できていない。大学四年生、もう五月にもなるというのに。


 近くのカフェに逃げ込む。ノートPCを開くと、エントリーシートの下書きが睨みつけてくる。


「貴社の経営理念に強く共感しました。常に刺激を受けながら、夢を実現させたいです」


 就活本から丸写しした文章。どの企業にも通じそうな、でも誰にも響かなそうな言葉の羅列。画面に並ぶ文字列は、借り物の理想を並べ立てているだけ。でも、その建前を演じることで、やる気とコミュ力を示すしかないという滑稽さ。


 メールボックスには未読のメール。募集要項や企業説明会の案内。中には締切が過ぎてしまったものもある。


 長くなった前髪が、視界に入る。美容院の予約を入れなければ、と思う。でも、それすらも億劫で後回しにしている。就活用の髪型に変えることへの、漠然とした抵抗感。それは単なる面倒くささではない気がする。


 スマートフォンが震える。サークルの仲間たちのグループチャットは、就活の進捗報告で賑わっている。まるで実績を競うように、企業名と選考状況を報告し合っていた。そのメッセージには、不安と期待が交錯しているように見える。


「○○商事、ES通過!」

「おめでとう!」

「俺も一次面接までいけたよ」

「私も頑張らなきゃ!」


 続く言葉を追う気力が失せる。画面の向こうの彼らにとって、就職は攻略すべき対象なのだろう。スーツを着こなし、面接官に気に入られて、内定を勝ち取っていく。その自信に満ちた姿は、たとえ演技が含まれているとしても、自分には到底真似できそうにない。


 周囲が確かな足取りで前に進んでいく中、自分はただ仕方なく、押し出されるようにのろのろと動き、取り残されている。


 卒業していったサークルの先輩たちも、就活を乗り切り、就職していった。フォトギャラリーに保存されている集合写真。二年前の卒業式。きれいな笑顔を見せるあの先輩の姿に目が引き寄せられる。袴姿の、気品を感じさせる佇まい。きっと今は、社会人として活躍しているはずだ。


 先輩の視線に吸い込まれそうになる。特に目立つ存在ではなかった。場をまとめるわけでも、面倒見がいいわけでもない。だけど、ただそこにいるだけで場の空気を変える、不思議な雰囲気のある人だった。初めてのコンパで、まだ周りに馴染めてなかった自分の隣りに、さりげなく座ってくれた。今でも、その時の先輩の香水の香りを覚えている。


 画面をスクロールする。同級生の元カノとの写真。


「私には、もっと頼りがいのある人が必要なの」


 最後の一言が、また不意に胸に突き刺さる。半年経っても、まだ鮮明に残っている別れ際の表情。最初は優しくて繊細な性格がいいと言ってくれていたのに。いつからか、物足りない、頼りない、に変わっていった。


 あれからというもの、仲間たちの会話にも、どこか馴染めない。就活やバイト、恋愛の相談。愚痴の聞き役になることはあっても、自分も頑張ろうという気持ちになれなくなった。いつからこんなに、曇った気分を感じるようになったのだろう。


 エントリーシートの画面に戻る。自己PRの欄は、まだ空白のまま。就活セミナーでの指導を思い出す。「もっと強みをアピールしてください」「積極性が感じられない」「リーダーシップの経験は?」


 夕暮れが近づき、カフェ内の照明が徐々に明るくなっていく。結局、ほとんど書き進めることができなかった。


 またスマートフォンが震える。画面を見て、思わず息を呑む。

 懐かしい先輩からのメッセージ。


「ちょっと、お願いがあるんだ」


 続けて届く文字列に、目を疑う。


「実は、モデルをやって欲しくて」


 思わず声が漏れそうになる。


「モデル? 自分が?」


 何度も見直してしまう。先輩からのメッセージは続く。


「明日、もし時間があったら会えないかな。詳しく説明したいの」


 土曜日は予定がない。というより、この話が気になって他のことは考えられそうにない。自分には無縁なはずの「モデル」という言葉。先輩の仕事で、大学生男子の画像が必要なのだろうか。でも、どうして特に何の取り柄もない自分なのか。


 でも、先輩が声をかけてくれたことが、嬉しい。返信する指先が、なぜか少し慎重になる。


「はい、大丈夫です」


 送信ボタンを押す。心臓が少し早く打ち始める。すぐに返信が届く。


「ありがとう。じゃあ、明日14時に……」


 大学の近くの、レンガ造りの壁に蔦の絡まる、落ち着いた雰囲気のカフェ。

 密かに憧れていたあの頃の先輩の姿が、目の前の空席に重なった。

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