奪われた物を取り返しに行ったら見初められた話。
お腹が満たされないことも。
清潔な生活が送れていないことも。
ゴミ箱を漁って、人の物を盗み、殴られ、罵倒され、蔑まれても。
スラムの孤児はこれが普通。
一般的な普通に憧れがないと言ったら噓になるけど、例えば私が空を飛びたいから鳥になりたいって言ったところで無理なのだから、ちゃんと身の程を弁えている。
アビィはそうやって全てを受け入れていた。
目を背けたくなる現実を受け入れて、受け止めきれないことは必死に噛み砕いて飲み込んだ。そうしなければならなかったから。
気が狂いそうになるほど辛くて苦しくてもアビィは全て受け入れていたのだ。
――――――――――――
毒だって少量ずつ口にしていけば慣れていくらしい。
自分の身体もそれと同じ。
今では腐った食べ物も平気で口にできるようになった。翌日吐き気に見舞われることもあるが、それは翌日の自分がなんとかしてくれる。今お腹が減った自分を満たすために今日の私はリスクを冒すのだ。
アビィがゴミ箱から拾ってきた柔らかく黒ずんだ果物を口にしていると、スラム街に相応しくない上質な衣服に身を包んだ男たちがやってきた。
あぁもうそんな時期か。
スラムを歩く場違いな男たちを眺めて頬がぴくぴくと引き攣った。アビィは無意識に腕を掻きむしりながら男たちが向かってくるのを見つめる。
この国は強国と言われているけど、常に争いの絶えない危険な国。だからこの国の王族は身代わりになる人間が必要らしい。そしてその身代わりを探すのにこの場所は最適。争いが続く限り孤児がいなくなることはないのだから。
何かを探すように辺りを伺いながら歩く男たちをスラムの子が縋るように見つめる。
みんな知っている。
彼らがどこから何の目的でここに来ているのかを。
だからスラムの子は自分を選んで、と思って見上げるのだ。
緊張しているのか口の中が乾く。
こっちを向け、と念じたのが通じたのか一人の男と目が合う。口の中は少し痺れていてガリっと腕を引っ掻く手に力が入った。何か言葉を交わした男たちが自分の方に近づいてくるのを見て大きく息を吸い込んだ。
「そこの君」
「……あたし?」
「そうだ。事情は分かっているか?」
無表情の男がアビィに向かって話しかけてきた。
スラムを下に見ているわけでもなく、かといって同情するわけもなく、ただ私たちに向かって淡々と喋る男は初めて見た。アビィもなるべく感情の起伏を見せないように落ち着いて答える。
「もちろん。私は前に選ばれていった子とずっとここで生きてきた。だから知らないわけないでしょ」
「それならいい。次は君が選ばれた。我々と共にきなさい」
「いいの?あんたたちが探しているのは男でしょ」
「次が見つかるまでの繋ぎだ」
「よっぽど……似ているんだ」
アビィは鼻で笑うようにそう言う。女の私を呼びよせるくらいだ。向こうにもそれなりの事情があるのだろう。
小馬鹿にした態度に無表情な男の背後にいた男たちは不機嫌そうな顔をするが、それ以上何も言わず来た道を戻っていく。断られるわけがないと思っているその傲慢さに汚い言葉をぶつけたくなるが、深く吸い込んだ息とともに飲み込んだ。
スラムで生きる人間が王宮の命令に背けるはずもない。
生きるも死ぬも彼らの気分次第。
私たちはそういう人間だ。
アビィが男たちの後をついていくと、スラムの子たちが羨望の視線を向けてきた。新しい身代わりを探しに来たと言うことは前の身代わりが死んだということ。彼らに連れていかれた子が生きてここに戻ってくることはない。それを知ってもなお、スラムの子は王宮を夢に見る。
どうせこのままなんの贅沢も幸福も見出せないまま死んでいくのだ。
それなら一度でもお腹いっぱい豪華な物を食べて、綺麗な衣服に身を包み、清潔な場所で眠りたい。そう望んでも不思議じゃない。
スラムを出てすぐにとある屋敷に入った。
あとはもう成すがまま。
普段飲んでいる水より綺麗で濁りがない水が温められ身体を洗うためだけに使われる。あぁこれが“普通”な人の“普通”なのか。アビィは惜しみなく使われる水を前にして歯を食いしばった。
身体の汚れを落とし、傷んだ髪以上に耳辺りまで躊躇なく切られる。
鏡に映った自分を見て大きく心臓が跳ねた。あまりにもどくんどくんと動く心臓に、王宮に入る前にこのまま止まってしまうんじゃないかと不安になるほど。アビィはぐっと手の平を胸に押し当て、「まだダメ。落ち着け」と何度も自分に言い聞かせる。
袖を通したのはこれまた上等な衣服。見た目を整えれば今までスラムで生きてきたとは思えない。本当にそれっぽく見えるのだから不思議だ。鏡の中の自分から目を逸らしたアビィは男たちが待つ場所へと向かう。
「ずいぶんらしくなったな」
「おかげさまで」
「おい言葉遣いはちゃんとしろよ。これから王宮にいくんだぞ」
一人の男がそう詰め寄ってきたがアビィは態度を変えることなく笑って見せた。
「言葉遣い?……何言ってんの?ちゃんとしないといけないのはそっちでしょ。私は仮にもこの国の王子の身代わり。あんたたちよりも偉いってこと」
「スラムのガキのくせに生意気だぞっ」
「おい、やめろ」
掴みかかってくる男の腕を、無表情の男が止める。
アビィは苦々しい顔をする男から目を逸らす。別に一発くらい殴られても良かったのに。
無表情な男は多分この中で一番偉いのか、彼に止められた男は納得がいっていないことを舌打ちで紛らわせながらアビィから離れた。
「お前も無駄に敵を作るな」
「なに?代わりなんていくらでもいるでしょ」
足りなくなったらまたスラムから連れてくるだけ。
アビィがそう返事をすると男はやはり無表情のまま「あぁ」と肯定した。
「代わりはいくらでもいるが、そう何度も探して回るほど俺たちは暇じゃない」
淡々とそう言われ言い返す気力もなくなった。
「分かった」と適当に返事をして会話を切り上げる。
それからさらにあっという間に物事は進んでいき、アビィは王宮へ入った。それこそ初めて見るものばかり。もうそんなことをしなくてもいいと分かっているのに、無意識のうちに調度品を値踏みしどうやって盗み出そうか考えてしまう。
「着いてきなさい」
「っ、なんだよ」
「王子に挨拶にいく」
王宮に入ってからも無表情の男だけはずっとそばに居た。
話を聞けば、名をケントルという彼は王子のお付きらしい。王子のお付きが自ら身代わりを探しに来るなんて聞いたことはないが、それほど切羽詰まっていたのだろう。
ケントルに連れられて初めて王子と対面したアビィは一瞬声をかけそうになったが、慌てて平伏する。王子の視線が下賤な物を見る目そのものだったから――。
「次はこいつか」
「はい」
ケントルが返事をすると王子はアビィの元へ近づいてきた。
「あんなところで暮らしていた人間が王族である俺たちに似ているだなんて……」
無理やり顔を上げられたアビィは王子と目を合わせないように視線を床に落とす。王子は「まぁいい」と言ってすぐにアビィから離れていった。
「いいか?お前も最後にいい夢を見させてやっているんだ。感謝して盾になるように」
「……もちろんです」
再び平伏しながらそう答えると王子は手で追い払うような素振りを見せる。意外と女だということはバレていないらしい。そもそもあまり興味もなさそうだったが。
ケントルは頷きアビィを立たせると部屋を出るように促した。
ここは部屋が多すぎる。どっちから来たか分からず一人廊下で途方に暮れているとケントルもすぐに部屋から出てきた。
「お前の部屋はこっちだ」
アビィを一瞥したあと先頭に立って歩き出したケントルの後を慌てて追う。こんなに広いのに廊下には誰もいない。アビィは「あのさ」とケントルに問いかけた。
「ケントルは私の前にいた身代わりの子も知っている?」
「あぁ」
「その子は……どんな生活を送っていた?」
ケントルは一瞬歩くスピードを緩め後ろを振り返る。ドキドキしながら返事を待つアビィに「部屋に戻るぞ」とケントルは言った。無駄話はしないということだろうか。答えを聞いてもどうにもならないことを知っているのに、それでも気になってしまう。アビィはキュッと唇を結んで再びケントルの後について行った。
「ここだ。私の許可なくこの部屋から出ることは禁じられているが、場所だけは覚えておくように」
「分かったよ」
別に逃げはしない。そもそも外には警備の者もたくさんいて、土地勘もないアビィが逃げ出せるはずがない。適当に返事をしながら部屋に入ると何故かケントルも一緒に部屋に入ってきた。
「彼は穏やかに過ごしていたはずだ」
「え?」
一瞬何の話をしているのか理解が追い付かなかったが、すぐにさっき自分が問いかけたことに対する答えだと気付いた。
「それじゃ幸せだった?」
「他人が幸せかどうかは俺には分からない」
「そう……最後は苦しかったのかな」
「それも本人でないと分からない。ただ……」
それまで淡々と喋るケントルが口ごもった。ケントルの顔を見上げるとやはり何を考えているのか読めない表情で口を開く。
「泣いてはいなかった。綺麗な死に顔だった」
「そう……」
死に顔。
込み上げてくる気持ちを抑え込んでアビィは「ありがとう」と続けた。
「次は食事の時間に迎えに来る。それまでこの部屋で好きに過ごすといい」
アビィが頷くとケントルは部屋から出て行く。
大きなベッドに飛び込んだアビィは枕に顔を押し当てた。何を考えているのかさっぱり分からないが、ケントルはいい人なのかもしれない。想像していた何倍も良い返事が聞けたことに涙が止まらない。
これで安心して自分の役目を果たすことが出来る。
―――――――――――――――
身代わりの役目は常に王子の先手をいくこと。
王子がどこに行くときも先を歩き、食べる物も、飲む物も先に口に入れる。座るところも寝る場所もまずアビィが先。一瞬とはいえ私が入ったベッドで眠る方が嫌そうなのに、そんなに命を狙われるものなのだろうか。考えすぎだと思うが実際身代わりは何人も変わっている。アビィが知っているだけで六人は王宮に行ったはずだ。
食事以外でも喉が渇いたと聞けば王子の元に向かう。
王子の部屋の前には給仕の姿があり、ケントルとアビィそして給仕は三人揃ってから部屋に入った。部屋に入ってくる三人に目もくれず王子はお気に入りの女性を侍らせたまま。最初は驚いたが3日も経てばこの光景にも慣れた。アビィは視線を合わせないように指示があるまで壁際で待つ。自分で呼んだくせに王子には王子のタイミングがあるらしい。
権力というか立場のある人間のやることはスラムで生まれた私には分からない。
まぁ分かりたくもないけど。もちろんジッと見ることなど許されないので豪華な絨毯の端を見つめながら、彼女たちが王子を狙うことはないのかとケントルに聞いたことを思い出した。
彼女たちはその言葉通り、王子によって身体の隅々まで調べられ、王子の目の前で用意した衣服に着替えるようだ。もちろんケントルが事前に武器などを所持していないか確認をした身元がしっかりとした女性らしいけど。
それならそこまでチェックするのはただ王子の趣味なのでは?と口に出すのは流石に止めた。ただ衝撃的でなおかつケントルが言葉を濁すことなく淡々と答えてくれたので、印象に残っているのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを思い出しながら高笑いの声を聞いて今日は充分上機嫌だな、と感じた。この様子だと小一時間待たされてもおかしくない。王子は側近のケントルでさえ下賤な者という認識をしている。王族とそれ以外。そうやって明確に立場を分け傲慢に振舞っているのを度々見た。
色々思い返しながらも、ただぼーっとしていることを苦痛に思うようになった自分に少し驚く。たった数日で自分もこの生活に馴染んだ証拠だろうか。
「おい」
しばらく声がかからないであろうと思っていたアビィは、突然王子が呼びかけてきて思わずビクッと反応する。
「用意しろ」
「っ」
珍しい。この部屋に女性がいるときはたいてい長引くのに。まぁなんでも王子の気の向くままなのだから仕方ない。
言われた通りアビィは給仕からお茶を受け取ろうとしたが、彼女の顔が青褪めていることに気が付く。
「どうした?」
「あ、……今日はお召し上がりになるまで時間がかかるかと思い温度が」
給仕がカタカタと小さく震えだした。
「おい、早くしないか」
アビィと給仕が小声で言葉を交わしていると王子から催促の言葉が投げられた。今にも泣き出しそうに顔を歪めた給仕が震える手でコップにお茶を注ぐと、見るからに熱そうな湯気が上がる。それを見た王子が不機嫌そうに声を荒げた。
「おいっ!給仕のくせに茶の温度も分からないのか!」
「も、申し訳ありませんっ……」
「それとも毒の味を分からなくするために温度を上げたのか」
「そんなっ!私はそんなこと絶対にいたしませんっ」
「ハッ、どうだか。まぁいい。仮にそうだとしても代わりが毒を口にするだけだからな」
それはそうだ。
ここまで徹底的に守られている王子を毒殺するのは普通に考えたら無理だ。
身代わりが口にしたものしか王子は口にしない。それでも相手は万が一を狙っている。だからこそ身代わりは変動が激しい。
「王子失礼ながらバルコニーへ続く窓を開けてもよろしいでしょうか?」
「窓?」
若干苛々してきた王子にケントルが問いかける。
「今から新しいものを用意させても適温になるのに時間がかかります。それなら今日は風もあるのでこちらを冷やした方が早いかと」
「チッ、……まぁなんでもいいから早くしろ」
王子の許可が下りた。
だがバルコニーは王子の横を通らないといけない。震えが止まらない給仕が慎重に歩き出そうとするが、アビィはそれを止めた。
「俺がいくよ」
「え」
「大丈夫。少し風に当ててくるだけだろ?……それに戻ってくるまでにその震えどうにかしないと、コップに注ぐときに溢しでもしたら大変だ。ケントルもそれでいいよな?」
アビィが一応ケントルに確認を取ると彼は小さく頷いた。
お盆を受け取り「ありがとうございます」と何度も頭を下げる給仕に笑って見せる。ケントルが先頭に立ち王子の横を通り過ぎてバルコニーへ向かった。たしかに窓を開けると室内に風が吹き込んでくる。
背後で王子が再び女性たちと談笑をする声が聞こえた。
チラッと振り返るとすぐそこにケントルの後姿が見える。王子に背を向けられないのかこちらに背を向けたケントルは、王子とアビィのちょうど間に立っていた。そのおかげでアビィは完全に王子の死角に入っている。
ティーポットの蓋を開けると湯気と共に茶葉の香りがふわっと漂った。たしかにこれは熱そうだ。ごくりと唾を飲み込んだアビィは風に当てながらそっとポットの中に薬指の指先を入れた。「熱っ」と声に出さないようにギっと歯を食いしばる。そして親指を使って薬指の爪の間をなぞった。熱さはすぐに麻痺していく。ただいつケントルが振り返るか分からない。まさかこんな早く決行できるとは思っていなかったが、ここまでは非常に順調だ。何度かなぞったあと指を出し濡れた指先を袖の内側にこすりつける。
「もういいかも」
「……そうか」
ケントルにそう声をかけると彼はすぐに窓を閉めた。そして給仕が待つ壁際に戻る。何事もないフリをして給仕にお盆を返しお茶を注ぐのを見つめる。用意されたティーカップは二つ。ティーポットの中身は二つに分けられ一つは王子に、そして一つはアビィに渡された。
まずはアビィが口にする。
アビィがティーカップを口元に持ってきたときだった。
「ちょっと待て」
突然王子に声をかけられ危うくカップを落としそうになる。動揺を見せてはいけない。ゆっくりと王子に視線を合わせると王子は目を細めながら自分のティーカップを指差した。
「交換しろ」
「え?」
「あの給仕がこっちを持ってきたからな。コップに細工があるかもしれない」
アビィが給仕を見ると彼女は激しく首を横に振る。けど実際それはどっちでもいい。アビィは言われた通り王子のティーカップと自分のティーカップを入れ替えた。
王子の目の前で同じティーポットから注がれた二つのティーカップ。
用心深い王子はそこまでしないと気が済まないのだ。アビィは交換したティーカップに口をつけ適温になったお茶を一気に喉へ流し込んだ。最後の一滴まで飲み干して空になったカップを王子に見せる。
「君、お茶のお代わりを頼む」
「あっ、はい」
ケントルの呼びかけで給仕が部屋を出て行った。よかった。先に疑われた彼女の目の前で事が起きれば、たとえ本人に思い当たる節がないとしてもトラウマになってしまう。アビィはケントルの言動に感謝しつつ足を踏ん張った。
表情は変えずいつも通り。
にじみ出てくる汗は上質な衣服が吸い取ってくれる。
頬や瞼の痙攣はこの距離なら王子にバレることはない。隣に立つケントルにさえ気付かれなければ大丈夫。少し量を間違えたかな。こみあげてくる吐き気を気力で押し込めて王子がティーカップを口にするのを待つ。
気が遠くなりそうだが、でも初めて口にして死にかけたあの日に比べたら……。
王子の指がティーカップをつまむ。
早く、早くしてくれ。
念を込めて見つめるその前で王子がとうとうティーカップに口をつけた。一口、二口、王子の喉が動くのを見届けたアビィは床に膝をついた。
「うっ、……な、なぜっ」
それと同時に王子は苦悶の表情を浮かべソファからずり落ちる。両隣にいた女性は異様な光景を目にしても声を一言も上げずただ立ち上がった。
喉を掻きむしる姿を見せた王子の焦点はもう合っていない。言葉にならない声を上げながらビクビクと身体を震わせ、そしてしばらくしてその動きは止まった。
右側にいた女性が王子の首筋を触り「死んでいます」と言う。
その言葉を聞きながらアビィは信じられないといった顔でケントルを見上げた。
床に膝をついた瞬間、隣にいたケントルに身体を支えられたのだ。苦しむ王子を放っておいて懐から小瓶を取り出した彼は、アビィを支えながら無理やり口にその中身を注ぎ込んだ。ごくりと飲み込むとまだ汗はひかないが、吐き気はだいぶ収まってきたように感じる。タイミング的にどう考えてもアビィが飲まされたのは解毒薬の類だろう。
王子の側近である彼は、何故解毒剤を王子ではなく私にのませたのか。
「王宮の外にライネを待機させてあるから彼と共に先に戻れ。途中給仕には王子に部屋を追い出されたからと伝えるように」
「はい」
王子が侍らせていた二人の女性はケントルの仲間なのだろうか。すぐにそう返事をした女性は部屋を出て行った。女性が部屋を出て行ったと知れば給仕がこの部屋に戻ってくることはない。しばらくこの部屋には誰もこないということだ。
「お前」
「な、なんれ?」
まだ舌が痺れて言葉を上手く発せない。
質問の意味は分かっているはずなのにケントルはそれには答えずアビィを抱きかかえた。
「これから先いいと言うまで口を開くな。ぐったりと全体重を私にかけるように」
「そえって……」
「簡単に言えば死んだふりだ。いいか、絶対に動くなよ」
そう言うとケントルは抱きかかえたまま王子の部屋を出る。まだ毒が残っているから言われた通り手足を脱力させるのは簡単だった。途中何人かと擦れ違った気配がするが誰も声をかけてこない。
そうか。
ここでは身代わりがこうして運ばれていくのは日常的な光景なんだろう。
言われた通り目を閉じてジッとしているとどこかのドアを開ける音がした。そしてケントルがようやくアビィの身体を下ろす。
見たことのない部屋の中には、透き通った綺麗な水が入った冠水瓶が何本か用意されていた。ケントルは床に座りこむアビィに「この水を全部飲みなさい」と言う。
「全部!?」
「君が使ったのはアリカモメの毒だろう」
当たっている。
まさか言い当てられるとは思わなかったアビィが目を見開いた。
「初めて会った時からアリカモメの中毒症状に似た部分がある気がしていた。さっき飲ませたのは気休めにすぎない。あの毒は解毒剤がないからだ。だからとりあえず胃を洗浄しないと」
「で、でもこれくらいなら大丈夫だ。だって俺は」
「もう王子は死んだんだ。男のフリをする必要はない」
たしかにそれもそうか。
アビィは、んんっと咳ばらいをしてケントルを見上げる。
「私はこの日の為に耐性をつけてきた。それに王族殺しだ。あの場で一緒に死ぬ覚悟はしていたし、仮に死ねなかったとしてもこんなことした私が碌な死に方出来ないことは分かっている。それなのになんで……」
助けてくれた理由が分からない。
側近にまで命を狙われていたのか?それならケントルは誰側につく人間だろう?この国の跡継ぎは王子と王女が一人ずつ。ただ縁者もその席を狙っているとしたら。それかいっそ隣国の……。自分なりに思い当たることを脳内で並べていると、ケントルはやはり淡々と口を開いた。
「それは君に味方がいないときの話だろう」
「は?」
「君はこの国では犯罪者だとしても、俺たちの国では英雄だ」
怪訝な気持ちが表情に出た。
眉を顰めるアビィにケントルはコップに水を注いで渡す。これ以上断るのは野暮だろうか。素直に受け取って口にすると、常温の水は喉をスッと流れていき胃に落ちていくのを感じた。空になったコップにすぐに水を注がれ再び飲み干すとさらに注がれる。何瓶も空になっていき、とうとう逆に気持ちが悪くなったアビィはもういらないと意思表示をするが、ケントルは手を止めない。
お腹がパンパンに膨れた途端、急に吐き気が込み上げてくる。
アビィの異変に気付いたケントルはすぐに机の下に置いてあった桶を取り出して差し出した。優しく背中を撫でられ一気に胃の中の物を戻す。気持ちが悪い。胃酸で喉が焼けるように痛み勝手に涙が滲んだ。唾液だけしか出なくなるまで戻しきったアビィはぐったりと床にへたり込んだまま。ケントルは桶を横にずらし、アビィの身体を支えると綺麗な水で口をゆすがせた。
「これは飲まなくていい」
こんな綺麗な水を吐き出すなんてもったいないと思いながらも、言われた通り口をゆすいだ水を桶に吐き出す。二、三回繰り返すと「気分が悪くならない程度に飲みなさい」と再びコップが手渡された。
もうこれ以上一滴も飲めない、とそう思っていたのにヒリヒリと痛む喉に水が染みわたるのが心地よく感じる。アビィは喉を鳴らしながらコップに注がれた一杯を飲み切って大きく息を吐き出した。
完全に毒が抜けきったとは思わないが、瞼と頬の痙攣が治まり心なしか手足の痺れも減ったように感じる。
「……あ、りがとう」
「少しは落ち着いたか?国に戻ったら薬師に診せよう」
「さっきも言っていたけどケントルが言う国って……」
「俺はジョンロ国の人間だ」
薄々そんな気はしていた。だけど実際その名を聞くとやはり驚きが隠せない。
ジョンロ国とヴァンロ国は元々一つの大きな大国だった。ただ百年ほど前に内部分裂が起き二つの国家が形成された。だからこそ常に争いが絶えなかったのだが……。
「前国王の時代からジョンロはこの国を再び一つにしようと考えている。それも争いではなくあくまで平和的に。ただヴァンロはそれを良しとしない。三十年以上話し合いを続けてきたがいつも一方的に話は切り上げられヴァンロは戦をしかけてきた」
アビィはずっとヴァンロのスラムで生きてきた。
学なんてもちろんないが、それでもこの国が戦ばかりするのも、その度に孤児が増えスラムが広がるのも、全てジョンロが悪い、我々はそんなジョンロから国民を守る為に戦っているのだと、あの国ではそう信じられている。
スラムにいた頃ならジョンロの人間が騙そうとしていると思ったかもしれないが、アビィはそう言い切れなくなっていた。
知ってしまったのだ。
王宮に来て王子の暮らしぶりとその傲慢さ、人を物のように扱う彼らが、本当に私たち国民の為に戦っているのだろうか……。
「ヴァンロの人間はジョンロが悪いと教えられている。スラムにいる私たちですらそう思っている」
「あぁ。それがこの国のやり方だからな」
「……それでケントルはこの国を滅ぼそうと思ってここにいるの?」
「違う」
結局王子は死んだ。
私が殺したのだが、でもよく考えるとさりげなくケントルが気を回してくれていたと今になって気付く。
アビィがそう尋ねるとケントルは即座に否定した。
「この国の第一王女であるビクター王女は我々と対話の余地があると言ってくれている。ただ現国王と彼の生き写しだと言われている第一王子にその思想は全くない。ビクター王女ですら彼らの存在を畏怖していたくらいだ。だから第一王子を消すことが俺に課せられた任務だった」
「任務……」
「現国王は戦好きの性格もあって自ら戦場に出ることも多い。だけど王が死んでも跡継ぎとなるのは第一王子だ。彼が生きている限り争いは続くだろう。それに彼は傲慢で臆病で誰よりも疑り深い。だから俺は何年も月日をかけて機会を伺っていた」
あれほど疑り深い王子の側近になるまで近づけたのは凄いことだと思う。念入りに時間をかけて必ずことを成し遂げられるようにというケントルの強い意志は感じた。そしてケントルが言っていることが全て真実だとして。いや、それが真実のように聞こえてならないが、それならばなおさら……。
アビィはギリっと下唇を噛んだ。
ケントルがしようとしていたことは将来的にこの国の為になるだろう。争いがなくなれば孤児は圧倒的に減るだろうし、そもそも国だって豊かになるのかもしれない。分かっている。私にだってそれくらいちゃんと理解できる。長い目で見ればそれは……。
是だ。
「その間に、犠牲になる人間は……必要、だった、と?」
「……」
アビィが知る限り、王族の身代わりとして連れていかれたのは六人。
その六番目はアビィの双子の兄ロエルだった。
こんなこと言ってもしょうがないのに喉を閉じようとすればするほど、身体の奥から溢れた言葉は無理やり喉をこじ開けしゃがれた声となって世に出てしまう。
口を噤んだケントルにアビィの瞳が濡れた。
「なんで私たちだったんだ。なんで、国の大義の為にロエルは、……死ななくちゃならなかった。返して、ロエルを、私のたった一人の、……家族を返してよっ」
ケントルは嗚咽と共に吐き出した言葉を黙ったまま受け止めて、アビィと視線を合わせるように床に膝をつく。
「俺の立場からすると、仕方がなかった、としか言えない。ただお前にとって、大多数の是は関係ないということも理解している。俺のしてきたことはお前にとって否だ。……巻き込んでしまって本当に申し訳ない」
あっさりと認めないでほしい。
是だ。と言い切ってくれたらもっと罵ってやったのに。
だってこんなのは言いがかりだ。仮にケントルがこの場にいなくても身代わりの風習はあった。王子でも王女でもこの国の王族として生まれれば疑り深くなって当然。そのたびにスラムの子がその役目を担うのもまた当然のこと。
それなのにそんな風に謝られたら、私はもう……。
「うわあああ」と声を上げたアビィは床に蹲るようにして泣いた。
ロエルを取り返したい。
行き過ぎたその思いは復讐となって私の生きる目的で理由になった。もちろん生きてまた会えると思うほど楽観的ではなかったけど、顔が似ているというだけで連れていかれたのなら次は私かもしれない。もしそのときが来たら、何か一つでも自分が知らない王宮にいたロエルの面影を取り戻せればせめてもの救いとなる。
いつの間にか添えられていたケントルの右手の温もりを背中に感じながら、心の奥にしまい込んだ思いを全て吐き出すようにアビィは獣のように泣き続けた。
――――――――――――――――――
「それで、あの量の毒が効かないということはいつから摂取しはじめたんだ?」
ケントルが用意した馬車に乗り二人は国境を超えていた。
「王子が人払いをした。しばらく誰も部屋に入らないように」そうケントル自ら周りに声をかけていたこともあって、彼の死はまだ気付かれていないかもしれない。
「ロエルが王宮に連れていかれた日からだよ」
「それだと十五ヶ月になるが」
「うん。けっこう長い方だったよね」
「身体は大丈夫なのか?」
「どうだろ?最初の頃は本当に死にかけたけど意外と丈夫みたい。ほんの少しずつ毎日口にして、そのうちに痺れも痙攣も気にならなくなってきた」
「……そうか」
「爪の間に塗り込んだ時も最初は手の感覚なくなっていたけど、徐々に慣れてきたし人間の身体ってすごいよね」
「いや、それはたまたま運が良かっただけだと思うが」
「そう?まぁでもロエルがその間少しでも幸せを感じていたら言うことないんだけどな」
「“他人が幸せかどうかは俺には分からない”前にそう言ったが、……あの子はいつも妹のことを話してくれた。あの子はこれが好きそうだ。と言い、自分がいなくても元気にやっているか。と気にかけていた」
「……これ以上泣かせるな、ばか」
また鼻の奥がツンと痛んで窓の外を見る。
そうか。ロエルもずっと私のことを気にかけてくれていたのか。まさか兄の為に毒を身体に慣らしているとも知らないで。でもそれでいい。ずっと守ってもらっていた。双子なのに自分が兄だからといつもアビィを優先してくれる優しい兄。
「……それで、私はジョンロで暮らせるのか?ヴァンロからの移民は受け入れていないって聞いているけど」
「たしかに受け入れていない」
「でも、王子を殺せたから特別ってこと?」
流れる景色から再び視線を戻しケントルの顔を見ると、彼は一瞬口ごもったあと首を横に振った。
「いや、あくまでそれはごく一部の人間しか知らないから、それで押し通すのは難しいだろう」
「じゃどうするの?」
「俺が任務中に伴侶を見つけた、という話でいこうかと」
「は、伴侶!?」
素っ頓狂な声を上げるアビィにケントルはほんの少し眉を下げた。
「任務を遂行する最中に彼女と出会い、彼女のおかげで想定より早く事が片付いた。これは嘘ではないだろう?」
「それは、そうかもしれないけど」
「君の勇敢さと度胸と覚悟に惹かれた。まぁこれは私の勝手な気持ちだ。だから君の気持ちを無理強いするつもりはない。仮で良いんだ。そういう話で進めれば君もジョンロで暮らせる。俺はそれくらいの我儘を言える権利があるからな」
惹かれた?
今はっきりとケントルはそう言った。自分には縁遠い話だと思っていたから突然のことに言葉が出てこない。
「な、なるほど」
「大丈夫。悪いようにはしないよ」
とりあえず適当にそう返事をするとケントルがそのままほんの少し表情を緩めた気がした。あまりにも無表情で何にも心を動かされないのかと思っていたのに、初めて見るその顔に何故か呼吸を忘れてしまう。
息苦しさにハッとして大きく深呼吸を繰り返すアビィにケントルは窓の外を指差した。
「そろそろ城下町に入る」
アビィが指の先を追って窓を見ると、ヴァンロとは違う賑やかな店通りが視界に飛び込んできた。国境を超えるだけで雰囲気がこんなに変わるのか。ヴァンロの国民は誰ひとりこのことを知らない。やっぱり国は一つになるべきなのかも……。
「今日から君が暮らす国はここだよ」
「……はん、りょ。にするとか言うけど、ケントルは君とかお前としか私のこと呼ばないよね。名前も知らないのによくそんな恥ずかしいことを」
「アビィだろ?」
自分で聞いておいて何だが逆になんで知っているんだ?ぽかんとした顔でケントルを見ると彼は首を傾げた。
「名前で呼んでいいのか?」
「え……」
「それならアビィと呼ぼう。アビィには俺と家族になってほしい」
「っ~!……や、やっぱり呼ばなくていいっ」
なんだか急に身体がむず痒くなる。頬を赤く染めてそう言い返すアビィにケントルは僅かに口角を上げたのだった。
皆様の反応がいつも励みになっています。最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました!