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湖上の一族

作者: 暮 勇

 湖面に霧立ち込める、暗い1日だった。

 時刻は正午過ぎ。本来ならば頭上から温もりを与えてくれるはずの太陽も厚い雲に遮られ、ぼんやりとした像を雲に投げかけるだけだった。

 船着場の周囲に人気はなく、ただ遠くの方から近付いてくる船が水を掻き分けてくる音だけが響いていた。

「また、あいつらが来るんすね」

 コートの襟を立てながら、吐き捨てる様にハオが言った。鼻の頭が赤くなり、言葉と共に吐かれた息が白い湯気を立てる。震える体を縮こまらせながら、その船の到着を待ち構えるように真っ直ぐと湖のほうを見つめている。

「おい、誰が聞いてるか分からないんだぞ」

 俺はハオにそう注意をしながらも、内心同じ様な思いを抱えていた。厄介なやつらが来る。そう思いながら、ジャケットのポッケにかじかんだ両手を突っ込んだ。

 あと半刻もすれば、あの船はここに停泊するだろう。

 そして、やつらの相手をしなくちゃならなくなる。

 あの湖に住む、一族の。


 さっきまでの静けさが嘘の様に、数多の商人たちで船着場はごった返していた。売り物は様々で、地域の特産品から靴磨きまで、売れるものは何でも売ろうとしていた。

 どれもこれも、あの船上で生活するたった十数人の為の売り物だ。「湖上の一族」と呼ばれるその人々は、元貴族や王族の末裔などと噂されているが、確かなことは誰一人知らなかった。ただ、彼らが大層裕福であり、この時代ににはまだ世に数隻しかない、鋼鉄製で蒸気駆動の巨大船を所有しているということだけが、湖の岸にへばりつく様に住む人々が知る事実だった。

 彼らは数十年前、突如その船を海よりは狭いが、やたら広いだけのこの湖に建造し、その上で住む様になった。普段は湖の真ん中辺りに停泊し、物資が必要になると湖の岸にある幾つかの船着場のどれかに姿を現す。その着岸に予告はなく、目敏い商人達が船が近付く音に勘づき、船着場に集まってくるのが合図のようになっていた。

 その度、普段小さな漁船相手しかしない船着場の管理者たちは辟易することになる。商人がひしめき合う喧騒。漁師たちが邪魔だと叫ぶ怒号。そして船の貴人の相手。地元にいくら潤いをもたらしてくれるとはいえ、気分の良いものではなかった。


 ハオと俺は船の姿を認めると、凍えた体を難儀そうに動かして、船の接岸の準備をした。タラップ周辺の人だかりを退け、船上の人々が降りられるスペースの確保をする。少しでも機嫌を損ねると、船上の人々は悪態と共に何も買わずに帰ることもあった。帰るのは結構だが、その愚痴を聞かされる自分たちにとっては鬱陶しいことこの上ない。やれ貧乏人が集ってるだの、それ汚らしいなど、言いたい放題の彼らに対し何も言い返せずペコペコ頭を下げなければいけない。惨めもいいところだ。

 汽笛の一つも上げず、その船はやって来た。商人たちはがやがやと船に向かって自分たちの宣伝を開始した。そんな中、タラップから丸々太った小男がのんびり降りて来る。身にまとうコートはハオが着ているような薄っぺらいものではなく、分厚く上等な毛皮が使われていた。

「全く、岸に来るたび、煩くて堪らん」

 男は出っ張った腹を摩りながら、しかし商人たちの活気に満足げに頷いた。

 へぇ、すいやせん。などと言いながら、俺は男の歩みに合わせる。船着場の管理者たちは、こうやって船の人々の付き添いをしなければならないの慣習となっていた。

 男はしかし、無言で手を振って、一人商人たちの間に消えていった。まるで蝿でも追い払うかのような動作だ。

 いつものことだ。

 そう自分に言い聞かせ、やり場のない怒りを腹の底に押し込む。彼らは気まぐれなのだ。一々腹を立ててはやってられない。

 続いてぞろぞろと男の家族と思しき人々が降りて来た。誰も挨拶をする俺やハオに顔すら向けもしない。毎度そうやって全員を見送り、付き添って欲しければ無言で手招きするのだ。

 幸い、今日は誰も付き添いをご所望の方はいなかったようだ。一団が遠のいていくのを見守りながら、俺は胸元から煙草を取り出す。それを口に咥え、火を付けようとマッチを擦った時だった。

「ねぇ、それって美味しいの?」

 声のする左横を見下ろすと、10歳くらいの少女が俺を見上げていた。白いコートを羽織り小さな手には黒い手袋が付いている。陶器のように白い頬には寒さのせいか赤みが差していた。どう見ても岸に住む子供の身なりではない。

 俺が慌てて煙草を仕舞い込むと、少女はガッカリした様子で俺を見た。

「ちぇっ、ちょっと吸わせてもらえるかと思ったのに」

 子供らしく石ころを蹴り上げる少女に、「体に悪いものですんで…」と言うと、少女は更に膨れた。

「お父様やおじ様たちとおんなじこと言うのね!子供の私にはダメって言いながら、大人は体に悪いものを食べ飲みしてるんだから、変なの!」

 そんなことをぶつぶつと言う姿は愛らしいが、何故ここに留まっているのだろう?家族と逸れたのだろうか?

 まるでこちらの疑問を察知したかのように、少女はむくれっ面をこちらに向けた。

「迷子じゃなくてよ。あたくし。ただ、あなたお話したかったの」

「俺と、ですか」

 そう!と少女は嬉しそうに微笑んだ。

「だって、お父様やお母様は『岸の人と話しちゃいけません』ってうるさいんですもの。悪い言葉がうつるからって」

 それじゃつまらないわ!と少女は腰に手を当てふんぞり返った。

「船の上はつまらないことばっかり。だから岸にいる時くらいは楽しいことをしたいもの」

 つまらないんですか?と尋ねると、敬語はやめてとピシャリと言われてしまった。「私、子供なのよ?岸の子達と同じように扱って」

 俺は周囲をさっと一瞥する。周囲に船上の人々はいなかった。

「わかった。船上はつまらないのかい?」

「つまらないわ。毎日同じお稽古に、お食事。バンドの演奏。変わらない風景…」1つ1つ数えるように彼女は言っていく。

「だから、つまらない」

「そう。大人たちは口や態度は悪いけれど、ここに来るのが楽しみなのよ。だって船の上に飽き飽きしてるんだもの」

 「じゃあ他の大人たちみたい楽しんでくればいいじゃないか。どうして俺なんかと…」

「ねぇ、それより2人でお菓子を買って、もっと目立たないところでお話ししない?ここじゃいつかお父様に見つかるわよ」

 確かに彼女の言う通りだ。船のタラップの横にいては見てくれと言っているようなものだ。現に、数人の商人がこちらをジロジロと見ている。

「わかった。じゃあ休憩所に行こう。今なら誰もいないし、ここみたいに目立ちもしない」

 まぁ楽しみ!と彼女は大袈裟にはしゃいだ。


 船着場の外れにある小屋に入り、暖炉に火を焚べる。隙間だらけの小屋の中は外と変わらないほどに冷えており、その上雑多だった。椅子とテーブルが乱雑に置かれ、吸い殻が満載になっている灰皿や新聞、食べかけの食事などでテーブルは溢れていた。

 まぁと驚きながらもこんな様子が物珍しいのか、丸々とした黒目が部屋を舐め回すように動く。そして嫌がることなく、手近な椅子に座った。

 俺も向かいに座り、胸ポケットを弄り、躊躇したが一本取り出した。ただでさえこうやって管理者の小屋に彼女を連れて来ただけでも船上の人々に咎められるだろう。ならば彼女の前で煙草を吸うくらいなんだと言うのだ。

 彼女はそんな俺の様子などお構いなしに、船に住む家族のことを話し始めた。一族が遠い東にある小国からやって来たこと。裸一貫から巨万の富を得たこと。そして、湖に船を浮かべて住み始めたこと。まるで教科書に載っている歴史を読み上げるように淡々と、彼女は話し続けた。

 俺はその話を静かに聞き、煙草を燻らした。

「つまらないこと以外は、順調なのよ。でもね、最近面白いことが起こってるの」遠くを見つめていた彼女の目がこちらを向く。「赤ちゃんがね、変なの」

「変?」俺は急に話題が変わったことに、そしてその内容が秘密めいていることに興味を惹かれた。

「そう、変。お兄様とおじ様の子のハナコお姉様間の赤ちゃんなんだけれども、どうやら耳が聞こえてないんですって。この前お医者様が言っていたわ。おじ様は船で生まれたんだけど元々病気になりやすくって、ちょうどその子が生まれた時も病気をされてたから、それが移って悪さをしたんじゃないかって」

 さも可笑しな事のように、彼女はにやけながら言った。

 俺は何も言えず、ただ彼女の顔を見つめていた。確かに、彼女の言う可能性もあるだろう。しかし、もしかしたらもっと悪い可能性がある。

 船上で他者と交わらない一族、血縁的に近しいもの同士の婚姻、そしてー

「そろそろ、お戻りになられる様ですよ」

 いつの間にか入り口に立っていたハオが、少女にそう告げた。「まぁ、いけない」と彼女は立ち上がり、俺に挨拶もせず船に向けて駆けていく。

「よくやるよお前。こんなところにお偉方の娘っ子連れ込むなんてよ」

 見つけた俺の身にもなってくれと、ハオはため息混じりにコートを脱ぐ。どうやら船上の人々は去っていったらしい。

 俺は生返事を返しながら、考える。

 今は盛っているが、岸の経済は船の一族に頼り切っている。そして、その一族は、もしかしたら長くはないのかもしれない。

 船が水を掻き分ける音が遠ざかっていく。

 俺はここ出て行くことを、静かに決心した。

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