(8)
オフィーリアは何を言っているのだろう。頭が真っ白になってしまい、言葉が見つからない。
「ねぇ、オズワルドさま」
わたしが黙り込んだのを好機と見たのか、オフィーリアは妖艶に笑ってみせた。
「わたくし達の婚約はどなたがお決めになったのか、お忘れでして?」
忘れてなどいない。そう答えるつもりで開いた口は、なんの言葉も紡がない。
「それからもう一つ。わたくしとあなたさまの婚姻を一番強く望んでいらっしゃったのは、どなただと思います?」
オフィーリアはそんなわたしを気にも留めず、続け様に質問を投げてきた。それも分かっている。
それは、わたしの────。
「オズワルドさまの父君であらせられる、国王陛下ですわ」
オフィーリアはすんなりとその答えを告げた。
そう、そうだ。わたしの婚約者を決めたのは、紛れもなくわたしの父上である。
だからこそ、わたしはこの婚約が許せなかった? ……違う、最初はオフィーリアと結婚できることが嬉しかったはずだ。どこだ? どこで気持ちが変わった?
ニィナと出会ってから? いや、それよりも前から、だんだんとオフィーリアを煩わしく思うようになっていた。……何故?
「わたくしが王家に嫁ぐのはもう決定事項ですの」
自問自答を続けるわたしに、オフィーリアはそう告げた。
そうだ、オフィーリアはアルテニタ国でも珍しい、膨大な魔力量を抱えた聖属性の持ち主。味方になれば心強いが、同時に脅威にもなりうる存在。そのため国は、父上は、オフィーリアを近くにおいておきたくて。
「敬愛する国王陛下からの直々のお申し出ですもの、断るなどありえませんわ」
だから父上は〝王太子の婚約者〟という立場を与え、オフィーリアを手駒にしようとしたのだ。それならその手駒を勝手に捨てようとしたわたしは、一体どうなる?
「ところでオズワルドさま、この婚約破棄のお話は国王陛下には通していらっしゃいまして?」
見計らったようなタイミングで、オフィーリアが質問を投げかけてくる。……答えられない。答えたくない。
「はぁ、なんと嘆かわしい」
大袈裟なほどのため息をついて、オフィーリアは蔑むような瞳をわたしに向けた。
「だから〝無能王太子〟と嘲られてしまうのですよ」
無能……だと? このわたしが? わたしは王太子である、オズワルド・シリル・フロックハートだぞ?
「わたしを愚弄したのか!?」
思わず声を荒げれば、「わたくしは事実を申し上げたまでですわ」とオフィーリアは肩を竦めた。見渡せば、周囲の者達が笑っているのが目に入る。王族に対して無礼だと憤っている者など、誰一人として見当たらない。
つまりこの場にいる者達は全員、わたしのことを〝無能王太子〟と呼び、影で嘲っていたのか……? そんなことがありえるのか……? だってわたしは、王太子なのだぞ……?
「とりあえず婚姻破棄の件、わたくしは承諾致しましたわ」
扇で顔の下半分を隠し、オフィーリアが言った。隠れているが、その口元に笑みを携えているのが見て取れる。
「……ですがここまでのおおごとにされたこと、国王陛下はなんて仰るでしょうね」
あぁ、父上に黙ってこの断罪劇を始めたことは、オフィーリアにはお見通しなのか。さすがは父上が欲しがるだけある。どこまでもできた人だ。
「そこのあなたにもそれなりの罰がくだるでしょう」
続けてオフィーリアはニィナにも視線を向けた。「どうかご覚悟なさって」と告げる声は、ほんの少し優しさが含まれている気がするが、わたしには真意は分からない。
「そろそろわたくしはお暇致しますわ」
周囲が騒がしい。こちらに向かって迫ってくる足音が聞こえる。これはきっと近衛兵だろう。この断罪劇が父上に漏れたのだろうか。
「あぁ、そうでしたわ」
帰り支度を始めていたオフィーリアが、ふとこちらを振り返る。そして鈴を転がしたかのような、可愛らしい声でこう告げた。
「わたくし、妾くらい許しましたのに」
それではごきげんようと、優雅にお辞儀をしたオフィーリアが去っていく。隣でニィナが何やら喚いているのが聞こえてくるが、何も返せない。返す気力が湧かない。
遠ざかっていく背中を見つめながら、わたしはその場に立ち尽くすしかなかった。
△△△
夜会の翌日、わたしは父上達から呼び出されることとなった。勿論、話の内容は婚約破棄と断罪劇についてである。
「……我はお前を甘やかしすぎたのだな」
全ての話を終えた時、父上は小さな声でそう漏らした。そこには失望と、それから後悔の色が伺えた。
「ですからわたくしは反対したのですよ。この子に王座を明け渡すのは無理があると」
母上も額を押さえ、それはそれは悲痛な面持ちでため息をつく。それを間近で見て────わたしはようやくハッとした。
まずい、非常にまずい。なんとかして信頼を取り戻さなければ、このままでは王太子の座が危ういどころか、ニィナとの結婚すら認めて貰えないだろう。愛するニィナを切り捨ててまで王太子という立場に縋りつきたくはないが、王宮にあがることを誰よりも望んでいたのは他でもない、ニィナ自身だ。
考えろ、わたしが王太子で居続けたまま、ニィナと共に生きられるようにする方法が必ずあるはずだ。考えろ、考えろ……!
ぐるぐると懸命に思考を巡らせ、ひとつの策に辿り着いた時────身体に電撃が走った。否、そのくらいの衝撃が駆け抜けた。そうだ、これだ。これが最適解だ。
「お……恐れながら、父上!」
わたしは頭を垂れたまま、必死に続ける。
「今回、わたしの独断で、あいつ……いえ、オフィーリア嬢に婚約破棄を突きつけたのは事実です。ですがそれはあくまでも口頭で告げただけであり、書面上の婚約破棄は行われていない。そ、そうだ! オフィーリア嬢と婚約を結んだ時の書類は王宮に保管されていますよね? つまり、オフィーリア嬢はまだわたしの婚約者であるはずです!」
「……ふむ、それで?」
父上が静かな声で続きを促す。いいぞ、このまま言いくるめられるかもしれない。
「この度、父上達がお怒りなのは国の宝となり得るオフィーリア嬢を蔑ろにしたことと、平民であるニィナを王妃……即ち正妃に迎え入れようとしたことだと存じております。ですが、わたしが愛しているのはニィナただ一人なのです! 愛しい彼女を諦めることなど、わたしには到底できません!」
「ほぅ? で、お前は何が言いたいのだ? 簡潔に申せ」
「はい! ニィナを公妾として迎え入れるというのはどうでしょう?」
わたしは自信満々にそう答えた。
公妾というのは王家公認の側室、端的に言えば浮気相手みたいなものだ。勿論わたしの心はニィナにあるが、こうでもしない限り、現状ではニィナを王宮に入れるのは難しい。今のアルテニタ国にはしがらみが多すぎるのだ。
特に平民差別に関しては根深い問題であることがよく分かった。わたしが国王になったら、たとえ平民でも正妃になれるように法を改めようと思う。だが今はまだ無理だ。少なくとも、現国王である父上が生きているうちは。だからそれまでの間は。
「そしてオフィーリア嬢とはこのまま婚姻を結び、正妃になって貰うのです」
オフィーリアを仮りそめの正妃に、そしてニィナを形だけの公妾に。
自分を虐め抜いた奴が正妃になるなどニィナは嫌がるだろうが、これが今のわたしにできる、最善の方法のはずだ。きちんと説明すれば、きっとニィナも納得してくれるはずだろう。
「どうでしょう、父上!」
たった今思いついたばかりだとは思えないくらい完璧な答えに、わたしは内心でほくそ笑みながら顔をあげた。
父上は────無表情だった。
「言いたいことはそれだけか?」
予想外の展開だった。冷水を掛けられたかのように体が芯から冷えていく。ど、どうして……これ以上にないくらい、素晴らしい考えだと思ったのに。
「あなたは本当に何も分かっていないのですね」
母上は再び大きなため息をついた。
「確かに王族であるあなたが平民に入れあげたことも問題です。けれどね」
そこまで言うと、母上は鋭い眼光をこちらに向ける。
「ろくに調べもせず、お粗末な言葉を並べ立ててあの場でオフィーリアさんを糾弾。その挙句に反証され、王家の恥を晒したことが一番良くないのです。しかもオフィーリアさんはまったくの無実……これが問題にならないと、本気で思っていたのですか」
「な……!? では母上はニィナが嘘をついていると申すのですか!」
思わず声を張り上げてしまったが、母上は気にも止めず、「えぇ」とあっさりと頷いてみせた。
「オフィーリアさんがやったという罪の数々を、あなたは本当に調べたのかしら?」
「し、調べましたよ! ニィナに詰め寄るオフィーリア嬢を目撃した人がいますし、何よりニィナ本人がオフィーリア嬢に虐められたと……」
「エリオット」
「はい」
母上はわたしの話をぴしゃりと遮ると、弟の名前を呼ぶ。父上と母上の傍で控えていたエリオットは懐から羊皮紙を取り出した。
「ニィナ嬢ですが、兄上を含め、少なくとも五人の令息と親密な関係にありました。中には肉体関係に及んだ者も居たようですが、いずれも夜会の数日前に突然、ニィナ嬢本人から『好きな人がいるので関係を終わりにしたい』と言われたとことです」
肉体関係だと? ニィナは手を繋ぐことすら恥じらっていたのだぞ。そんなことなどありえない。それにあの時、ニィナの友人だと言っていた男子生徒はそんなこと、ひとことも言っていなかったぞ。
「因みに兄上が証言を取ったという彼は、ニィナ嬢と一切肉体関係が無い単なる友人……いいえ、上級貴族に近付くための踏み台の内の一人だったようです」
わたしの心を読んだかのようなタイミングで、エリオットはあの時の彼についてを語った。
「可哀想なものですよね。友人だと思い込んでいたのは彼だけで、ニィナ嬢の方は彼を利用して上級貴族と接触し、体を許していたのですから。まぁ、今となってはそれで良かったのでしょうけれど」
そこまで言うと、エリオットは「話を戻しますね」と再び羊皮紙に視線を落とした。
「ニィナ嬢の発言に対して、五人の内のほぼ全員が不服を申し立てたようです。が、ニィナ嬢の意中の相手が兄上と知って身を引くしかなかった、不義を知られるのが怖くて抗議できなかった、と証言しておりました」
「そうであったか」
父上は深いため息と共に呟く。そんな、そんなはずは。
何か言おうと口を開いたものの、乾燥しきっているせいか、なんの声にもなりはしなかった。
「王太子の寵姫に手を付けていたともなれば彼ら貴族家の存続に関わりますし、己の婚約者に不義が露見すればそれこそ婚約破棄騒動になる。これは確かに、泣き寝入りするしかないでしょうね。────以上がニィナ嬢と関係のあった令息達の証言です」
エリオットは羊皮紙を父上達に差し出した。
「彼らには今回の件は目を瞑ること、またそれぞれの婚約者に内容を漏らさないことを条件に、証人になって貰いました。こちらがその署名です」
「ふむ……また随分と格式高い家の令息ばかりであるな」
父上は呆れ返ったような声をあげる。横から羊皮紙を覗き込んだ母上が令息達の名前を挙げては「上級貴族の子息ともあろう者達が揃いも揃って情けない」と嘆いていたが、その家名を聞く限り、王家とも密接に関わり合うような貴族家子息が多いようだった。
中にはわたし自身とも付き合いがある令息もいる。確かにニィナがよく話しかけていたが、ニィナは彼らを友人だと説明していたし、彼らの方だってそんなことは一度も。
「しかし兄上は本当に分かりやすい人ですね」
エリオットは面倒くさそうに頭を掻いた。
「分かっていないようなのでお教えしますが、普通は隠すんですよ。婚約者がいる者が結婚前に、しかも婚約者ではない平民の女性と情交があったなど、とてもとても言えたものではないのです。実際、彼らは婚約者にも『あの子は友人でしかない』と伝えていたようですし、そもそもニィナ嬢を正妻にするつもりは毛頭なかったのですから」
「……公妾か」
エリオットの話を聞いていた父上がそう呟く。エリオットは「えぇ」と頷いた。
「ニィナ嬢自身が狙っていたのもそこでしょうね。ですがよりによって兄上が、正妻になって欲しいと持ち掛け────言い換えれば王妃の座を約束してしまった。そのためニィナ嬢は他の令息達を切り捨て、兄上を選んだのでしょう」
「まぁ……なんてこと。いえ、その向上心だけは見事なものですけれど」
母上達の声が遠くに聞こえる。
あぁ、わたしの知らないニィナの姿が、露わになっていく。