第六話ー①
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夏の長期休暇は瞬く間に過ぎ去っていった。
不思議な女性――ユーリィとの出会いを経てから。課題の残っていない夏休みは、開放感に満ちた日々だったのだ。
まあ、暇な毎日だった、って言えなくもないんだけどね。
退屈な夏休み終盤は、感情においていうならば、慌ただしかった。なんか矛盾がありそうだけど。
だって、連日クレアと同じ時間を共有したのだから。
朝、目が覚めてから、夜、目を閉じるまで、ずーっと一緒。
だけどね、クレアといる時間に飽きはこなかった。
予定という一面においては空白で、退屈に見えなくもない夏休み。だけど、クレアとともに過ごすことで濃密な1日となるのだ。
一緒に食材の買い出しに行ったり。お洋服を見せてもらったり。クレアが剣を手入れするのを横で眺めていたり。時には肩を寄せて、本を読んだりもしたよ。
それももう過去の出来事。
昨晩を最後に、終わってしまった夏休み。それを惜しみつつも、再び始まる学園のために、朝は忙しなかった。
もちろん、昨日の夜も学園の準備はしたよ。だけどね、いざ登校! ってなると、何か忘れ物はしていないか不安になるものだ。それがわたしの性なのかな、逆にクレアはいつも通り、余裕綽々、朝の紅茶を嗜んでいる。完全に貴婦人のような居住まいだ。
彼女のたおやかな翡翠色の瞳は、温かな視線を伴ってわたしを見つめていた。
「学校が久々だから、少しわくわくしちゃうよね」
「うーん、そうかしら? 私はちょっとだけ、気だるいかも……」
「あはは。クレアってば天才すぎるし、授業は退屈かもしれないよね」
わたしは制服に皺がないか、鏡で確認をする。姿見越しに見えるクレアは、言葉通り、ちょっとだけ面倒くさそうに物憂げだ。
それがまた、憂鬱な美人に見えるもので、高名な絵画を彷彿とさせるよ。
何してもずるいんだから、クレアってば。
夏休み前と変わったことがあった。
クレアと通学も一緒、ってところだ。
以前は下校のみだったのに。今では2人、同じ部屋から同じ学校へ向かうのである。
その登校風景は、前期とはまるで別物だった。
学園への道のりが変化したわけじゃない。
厳密に言うと、わずかな季節の移り目として、空気や自然物が変わってはいるけれど……。そういうのとはまた違った、新鮮な感覚がわたしに錯覚をさせているのだ。
クレアと2人で手を繋いで、寮室を出て、寮の門をくぐる。たったそれだけのこと。
クレアと一緒に学校へ向かう。その行為は、今日1日が楽しくなりそうだな、って心境に影響を与えてくれるのだ。
それは、まるでおまじないが降り掛かっているみたいになって、いつもと同じ道でも、まったく違った風景にさえ思わせてくれるのだった。
幸せな朝の一時。
早くもなく、遅くもない、学生が一番多い時間帯。
当然ながら、多数の視線はわたしたちに向けられたけれど。そんなこと、もう気にもならないもんね。
妬みやらなにやら、後ろ向きな感情のこもったものがないからかもしれない。
皆一様に、羨ましそうに、または微笑ましそうに眺めてくるだけ。
……まあ、それはそれで、こそばゆいんだけどね。
わたしはくすぐったくなってしまって、あはは、とわざとらしくはにかんだ。そして、自分よりやや高い位置にあるクレアの顔へ向けてみる。彼女も同じことを感じているのか、クレアはふんわりとした花弁が舞っているかのような微笑を浮かべていた。
もう少しで学校へ着いちゃう。
そうなったら、とーぜんだけど、学科が別のクレアとは別れないといけないよね。なんだか、寂しいな。
……あっ。
わたしはこの瞬間に気づいてしまった。
自分の、途方もないほどの感情に。
「どうしたの?」
それが顔に出ちゃっていたのかな。クレアは訝しむような表情でわたしの顔面を覗き込んでいた。
「なっ、なんでもないよ。授業、久しぶりだし、ちゃんとついていけるかなー、って」
慌てて取り繕う。
こんな感情、クレアに知られたくない。いや、隠したい、ってわけでもないけれど……。恥ずかしすぎて、もしかしたら顔が赤くなってるかも。
その正体とは……。
もしかしたら、もっともっと前から存在していたのに、自分ではわからなかっただけなのかもしれない。
クレアという1人の女性。彼女の存在が、わたしにとって、とてつもなく大きくって、かけがえのないものになっている、ってことだった。
……端的にいって、ものすごく、愛しているんだろうな、って。
それを面と向かっていう勇気は、自分にあるのだろうか……。
少なくとも、今、この瞬間に、っていうのは無理だった。
チキンハートだしね、わたし……。
自分の正直な気持ちに気づいてしまったわたしは、頭と心にモヤモヤとしたものが淀んでいた。
ぼんやりとした思考は、再開された授業中にも及んでしまい、上の空で1日を終えてしまう結果となる。
ああ、もう、こんなんじゃダメダメ。いけない、とは思いつつも、脳裏によぎるのは大切な女性のことばかり。
このままでは、今期の授業は身に入らないよ。
「はぁ……どうすれば良いんだろう……」
最後に受けた授業の教材を片付けもしないで、深い溜息を吐く。机の上で頬杖をつき、目線も虚ろになっているかも。
もしもこれがクレアだったならば、窓辺の美人、として絵になるんだろうけどね。
……はぁ、またクレアのことを考えちゃったね。
幸い、夏の休みを満喫しきった学生たちは、浮ついた気持ちが収まらないようで、そのリハビリとしてか、授業もおさらいのようなものばかりだった。
授業内容がぐんぐんと進む前に、この問題を解決しないとね。
だけどね、どうすればいいのかわからない。
だって、恋愛の経験値ゼロだしね、わたしって。
いや、もしかしたら、クレアと過ごすことで、少しはレベルが上がってるのかもだけど。
相談できる友達がいないのも困りものだ。
女の子同士の恋愛、を聞いてくれる人間が、果たしてこの世にどれほど存在しうるのだろうか。
いくら考えても、答えは出ない。それどころか、四六時中クレアのことを妄想するだけになっていた。
なぜ、こうなってしまったのか。
それは至極簡単、明瞭なことだった。
夏休みは、ほぼ常にクレアと過ごしてきたのだから。彼女と共にいるのが当たり前になってしまったわたし。
しかし、学園が始まってしまったら、たかが半日程度ではあるけれど、クレアとは離れていないといけない。その半日が、わたしにとって、耐え難いと感じるようになっていたのだ。
優しく微笑みかけてくれるクレアが隣にいない。
たったそれだけで、わたしの心はぽっかりと穴が開いてしまったみたいに、喪失感でいっぱいになるのだ。依存、といえるのかもしれない。
気づかないうちに、これほどまでクレアの存在が大きくなっていたなんて。
そして、極度の構ってちゃんみたいにクレアを拠り所にしているなんて。この面倒くさい気持ちを彼女に知られちゃったら、嫌われてしまうかもだし……。
それでもね、もっと、もっと、もっと、クレアと一緒にいたい。
わたしは再び溜息を吐いた。
その息は重たい、っていうより、どよ~んと淀んだ何か、が含まれていそうな、まるで瘴気のような溜息だった。
重い女か、わたしは。
「そういえば、前にもこんなこと、あったっけ」
ぼんやりとした頭が記憶を紡ぎ出していく。
夏も始まる、それほど遡った過去のことだ。
あれは、クレアに告白された次の日に起こった。あの時は、女の子同士で恋愛なんて考えたこともなくって。それでどうすればいいのか、わからなかった。衝撃的な事実に脳が稼働しなくなってしまい、授業が身に入らなかったね。
あれは問題を先送りにすることで解決したのだ。……それって解決、っていえるのかは甚だ疑問だけど。
だけど、今回はその技は使えそうもない。
なぜならば、わたしがやっと気づいた、もしかしたらずうっと前から芽生えていた、恋心、なのだろうから。
クレアのことが好き。
深呼吸して、心の中で呟いてみる。
(わたしは、クレアのことを本気で愛しているんだ……)
誰に聞かれるわけでもないはずなのに、顔が焼かれているのかと思った。
うう、どうしたらいいのよ、この行き場のない感情!
クレアはすごいよね。こんなにも好き、って気持ち、ずっと持っていてくれたんだから。そして、拒絶されるかもしれなかったはずなのに、わたしへとぶつかってきてくれて。
わたしは……クレアほど、強くないから。
切ない感情を、整理できないよ。
授業も終わったのだから、今すぐクレアのもとに駆けつけたい。
だけど、彼女を強く意識してしまった今、会いに行けるのだろうか。
だって、今ならすぐ会える、ってわかっただけで、心臓はもうバクバクとしちゃっているんだから。
今までのように適当な雑談なんて、できるはずもないよ。
教室内に残っている生徒も指で数えられるくらいになったというのに、わたしは机の上で頭を抱いて、煩悶とするしかなかった。




