第五話(後編)ー③
空気が変わった。
それは気のせいではなくって、わたしの肌に突き刺さるような、確かな変化だ。
山道を走るわたしは、足を止めるのではなくって、加速させた。
だって、嫌な予感がしたから。背筋がぞくぞくってして、どうしようもない不安が心に蟠る。
このまま麓まで走り抜けられれば、っていう一筋の希望だけが、わたしを駆けさせる。そんな感情の機微が筒抜けだったのか、木々もわたしを煽るかのように、風に揺られてざわめいていた。ざわざわと葉っぱが泣いているかのような音で満たされた山の中は、不安の相乗効果でもあるのか、より一層わたしを焦らせた。
怖いよ、クレア。今更ながら、都合よくクレアに頼っている自分を叱咤する。
でもね、こんな時、クレアがいてくれたら、きっといつもの強気な笑顔で、わたしを安堵させてくれただろうね。
ごめんね、クレア。1人にさせちゃった罰だよね。
心の中で謝罪を続けていたわたしだったけれど、次の瞬間にはそれすらも考えられなくなった。
空気だけの変化だったなら、わたしの思い違いで済んだのかもしれない。
だけどね、次に訪れたのは、何者かの存在だったのだから。
茂みの中を、何かが疾駆するような音。どうやら大きな生物らしいのか、ガサガサっと周辺に響き渡っている。
わたしはここで確信していた。薄々感づいていたけど、きっと魔物に目をつけられたんだ、って。
野生動物なんかでは出せない気配が、危機を如実に物語っていた。
どうしよう。
わたしはひたすらに走り続けることしかできなかった。
当然、準備はしてきてあるよ。腰のポーチには授業でもらった魔道具が詰め込まれてあるし、低級の魔物が1体くらいならば、わたしだって撃退できるかもしれない。
だけど、実戦の経験はクレアに連れていってもらったあの無様な1回だけだし、それに、今わたしを付け狙っている存在は、複数みたいだった。しかも、どんな魔物かわからないときている。
心の中ではすでに白旗をあげているようなものだった。
精神面の弱さが伝播してしまったのだろうか。わたしを追跡する音は、次第に距離を縮めてきている。
走りっぱなしだったわたしは、体力の限界も近かった。それでも、足を緩めたらいけない。息が苦しくなって、肺が酸素を要求してくるけれど、必死になって地面を蹴りつける。
だけど、普段から運動をしていないわたしの身体がついてこれるわけもなかった。
足が何かにつまずいてしまい、盛大に身体を投げ出していた。
この山で転ぶのは2回目だなあ、なんて考えが走馬灯のように脳裏をよぎる。
それすらものんびりと味わわせてくれないのか、音の主たちは機会を得た、といわんばかりに、こぞって姿を現した。
出てきたのは、最初は人間かと思わせた。二足で直立していて、中肉中背。
だけど、皮膚は体毛に覆われており、異形の存在を示している。
そして特筆すべきなのは、その頭部。そこは狼のものとなんら遜色はなく、大きく裂けた口腔からは、鋭い牙がずらりと並んでいる。その牙で血を啜ったかのように赤い瞳は、同じ運命を辿らせようとしているのか、わたしをひたと見据えていた。
図鑑で見たことがある。人狼、と呼ばれる種族の魔物だ。性格は外見の獰猛さからも窺えるように、かなり凶暴。群れで行動をとるらしく、わたしの周りには複数の人狼が取り囲んできている。
もしもクレアがいてくれたなら、この数くらいはなんてことないだろうね。クレアが優れた剣の使い手だというのもあるけど、人狼は熟練の冒険者にとっては恐れる相手ではないから。いわゆる低級の魔物に分類されるのだ。
なぜかといえば、筋力こそは人類よりも遥かに上だけど、俊敏さは狼ほどではなく、人間程度だから。知能も狼よりちょっと勝っている程度なので、驚異となるのは、あの牙と腕力くらいのものだ。
わたしだって、もしもこれが1体だけだったならば、どうにか退けられたかもしれない。
だけど、現状を打破する術は見つからなかった。
わたしは腰が抜けてしまい、立ち上がることもできない。地面にお尻をつけて、ぶるぶると慄いていた。
それが彼らをさらに刺激させてしまったのだろうか。わたしは競売にかけられている品物のように、見定められていた。
ああ、クレア、今頃何しているのかな。わたしの帰りを待っていたりするのかな。そういえば、今日は学生寮の食堂は閉まっているんだっけ。だから、夕飯の献立を考えていてくれるのかもね。クレアと一緒にお料理するのって、とっても楽しいんだよ。
わたしは現実が直視できなくなって、楽しい妄想に耽ることしかできなかった。
人間って生命の危機に陥ると、正常な思考でいられなくなるのかもしれない。
しかしながら、わたしの妄想を打ち切ってくるのも、人狼だった。
彼らは慎重なのか、じりじり、と詰め寄ってくる。だけど、わたしからは抵抗の意思を感じ取れないと見たのか、徐々に大きな足取りで進み始めてきた。
わたしの頬には涙が伝っていた。
どうすることもできない。声をあげることすらも。歯がカチカチと噛み合わない無様な効果音を発生させるのが関の山だった。
人狼たちが間合いに入ってきて、腰を沈める。どうやら、一斉に飛びかかってくるつもりだ。
次の瞬間には、自分はこの世にいないんだ。
わたしは体温がなくなったかのように冷え切って、目を瞑る。死への運命から抗えない自分がいけないのだ。だけど、後悔したところで、時既に遅し。
風が吹いた。
それは、人狼が襲いかかってきた時に巻き起こった死の旋風。だと思いこんでいた。
しかし、その風が運んできたのは、わたしの知っている匂いだった。
はっとなって顔をあげると、間合いにいたはずの人狼たちは、一瞬にして遠くへ退いている。
「やっぱり、これ、とってもいいわねぇ」
風は後方から音色のような美声と、そして甘ったるいお香のような香りを乗せてきた。
わたしが振り向いた先には、傘を差しながら優雅に歩くユーリィ。魔物に取り囲まれた状況だというのに、まるでのんきに散歩道を歩いているかのような、やんわりとした雰囲気を纏っている。
彼女は真っ昼間なのに左目のガーゼが外されていて、紫色の瞳を輝かせている。さらには、太陽の下だっていうのに、妖しさ全開の妖艶な美女に再び変貌していた。くすくす、って楽しげに笑って、わたしを見つめている。
わたしはユーリィの空気に呑まれてしまっていた。人狼のことなんて、すっかり頭から抜け落ちてしまうほどに。
唸り声が聞こえてきて、ようやくその存在を思い出し、彼らに目を向けてみる。
すると、人狼たちは威嚇でもしているのか、牙をむき出しにしつつも、動こうという素振りすらない。
ユーリィは魔物なんて気にもならないのか、わたしへ穏やかに近づいてくる。傘がよっぽど気に入ってくれたのか、手でくるくると回しながら、鼻歌も口ずさんでいた。そして、わたしににっこり、と微笑んでくれる。
その後、緩慢な動作で人狼たちに目を向けた。
再び、風が吹く。
……風?
ううん。違う。これ、風じゃない。風じゃないんだ。
だって、風が凪いだなら、木々はざわめくはずだもの。
今になってようやく、わかった。
わたしが全身で受けた風のようなものの存在に。
これはユーリィが発している圧倒的な威圧感。
彼女から放たれている気配が、強風のように、わたしの肌を突き刺しているのだ。
全身から嫌な汗が吹き出てくる。本能が逃げろ、と警鐘を鳴らしているみたいだった。これが本当の恐怖だ、って心に刻み込まれているようにすら感じる。
ユーリィは物凄く強い。
こんなへっぽこなわたしにでも、彼女の片鱗が窺えるくらいには。
それに、わたしはクレアほどの凄腕剣士を間近で見てきたこともあるんだから。あの実戦場で戦っていた時のクレアが本気だったかは知らないけれど、それを遥かに上回るプレッシャーがユーリィからは感じ取れるのだ。
ユーリィに視線を向けられた人狼たちは、今すぐにでも逃げ出しそうな怯えきった表情を浮かべている。しかしすぐに立ち去らないのは、身体が動かないからなのか。さっきのわたしとおんなじ心境のように思えた。
「エリナさん、1人で魔物を相手にできないのなら、こんなところに来てはダメよ」
ユーリィは自身がそんな威圧を放っている、なんて素知らぬように、いたずらをした我が子を諭しているような穏やかな口調だった。
「ご、ごめんなさい……」
わたしはユーリィが相手だったから、ようやく声を絞り出せた。けれど、それは自分でも予想以上に震えており、しっかりと相手に伝わったかも謎だ。人狼たちによる恐怖が残っていたのもあるだろうけれど、今、ユーリィはそれ以上に畏怖する存在だった。
ユーリィは笑みを崩さず、外見だけならば、さっき会ったばかりの彼女と何ら変わらない。
途端、笑顔の光る美女は、急にきりっと顔を引き締める。双眸が細められ、眼光だけで身を引き裂かれそうなほどだ。その視線が貫くのは、人狼たち。
「失せなさい」
人狼たちはそれで時間を解放されたかの如く、一斉に逃げ出していった。ユーリィに睨まれたので、本能が彼らを動かしたのだろうか。
魔物の気配が霧散すると同時に、心臓が鷲掴みにされているかのような緊張感も消失していく。辺りは一瞬にして、静寂で、どこにでもあるような普通の山に戻っていた。
だけど、わたしはすぐに元の状態を取り戻せず、いまだに心臓がばくばくと音を立てている。ふつう、ってなんだっけ。みたいな感情だった。
ユーリィはわたしの傍らにまで歩み寄ってくると、しゃがみ込んできて、わたしの頬に顔を忍ばせてくる。相変わらずの美人さん。今は紫色の瞳が開眼されているので、大人のお姉さんモードをいかんなく発揮させている。だけど、妖しさとか、えっちさとかは秘めていない。優しそうな柔和な笑みだった。
だからなのかな。恐怖でドキドキとしていた心臓が、ユーリィに恋をしているのかと勘違いしそうになっていた。
視線1つで魔物を追い払って、それが何でも無いかのように、わたしへ微笑んでくれる。それに加えて、わたしに好意を持ってくれているのかな……? クレアの影を重ねてしまいそうになる。
ううん、違うよね。ユーリィは生まれつき女の子が好きでえっちなだけだよね。
そんなことを考えていると、わたしの気持ちも落ち着いてきていた。
だけど、どっとした疲労もおまけされている。
「うふふ。こんないい傘、もらっちゃったものね。気分がいいわ。でもね、この辺はエリナさんには危ないのよ。だから、今度は、私がそっちに行くわ」
わたしに優しく語りかけたユーリィは、またもや傘をくるくると回しつつ、立ち上がった。そして、緩やかにわたしから離れていく。
木々の合間に溶け込むかのようにして去るつもりのようだ。
「あ、ありがと、ユーリィ! また会えるってことだよね?」
「ふふ。お迎えがきたわよ。またね、エリナさん」
彼女は振り返りもせずに、手をあげて応答する。
そして、ユーリィの存在が幻だったかのように、ふわっと消えてなくなった。
きっと、余りにも悠然とした動きだったため、山と一体化したように目が錯覚したのだろう。
彼女の痕跡はあっという間に無くなっていた。
わたしは彼女の別れ際の台詞がよく理解できていなかったけど……きっと、今度は山を降りて遊びに来てくれる、ってことだよね。
お迎え……はなんのこと? まさか、わたしがもう死んじゃってるってこと?
ほっぺたをつねってみるけれど、痛いだけだ。
わたしは頭にクエスチョンマークを大量に浮かべながら、その場にへたり込んでいた。だって、腰が抜けちゃったままで、しばらく立ち上がれないんだもの。
少しの間、呆けた時間が続いていた。