第五話(前編)ー③
その奇妙なモノ、に気がついたわたしは、自然と足を止めていた。
こんな山奥には不釣り合いなモノだったのだ。わたしは視界の隅に捉えていた"それ"へとぎこちくなく振り向く。
うん、やっぱり見間違いじゃない。
木々の合間から見えたモノの正体とは、古めかしい館だった。暗い山中に、はっきりと映り込むそれは、かなり気味が悪い。
最初はね、こんな山間に不自然なものがあるもんだなあ、って楽観視していた。けれど、徐々に恐怖が芽生えてくる。だけどね、興味だって同じくらい生まれていた。
こんな場所に住んでいる人は誰なんだろう、っていう単純な疑問が、わたしを突き動かすのだ。もちろん、廃墟の可能性は高いけれど、わたしは何故だかその館に惹かれていた。
それにね、クレアがもしもこの館を発見したなら、きっと彼女だって同じようにするだろう。離れ離れになったわたしたちにとっては、目立つ場所に向かうのは自然の道理だから。森の中を彷徨うよりは、はるかにマシだろうしね。
館を目指して進むと、開けた場所へたどり着く。建物の周りに木々はなく、かなり広々とした庭のような空間が存在している。そして、そこから奥は切り立った崖になっており、山の端に位置しているみたい。
崖を覗いてみると、随分下山したはずなのに、まだまだ上方にいることがわかった。
そして、館の外観は長年の風雨にさらされてか、かなりの年月が経っているんだな、って一目で伝えてくる。しかし、それでも元の造りがしっかりとしているのか、崩れそうな雰囲気はいささかもない。
閉め切られた窓からは明かりの類が一切うかがえなかった。
やっぱり、誰も住んでいないのかな。
遠くに煌めく稲光が館の全貌を映すと、背筋がぞくっとするような不気味さがあった。
わたしは館の入り口と思われる巨大な扉の前に立ってみる。人の気配はしない。
「大昔にできたものなのかな? さすがに、こんな場所では生活できないよね……」
興味深げに扉の周りをじろじろと眺めてみる。
おそらくだけど、長年放置されていたにもかかわらず、野生の生物や魔物が巣食っている気配もない。館内となればまた別なのかもだけど、中へ入るのは憚られた。
扉の前ならば雨が入り込んでくることもないし、しばらくはここで雨宿りさせてもらおうかな。クレアが来てくれたら、すぐにわかるだろうし。
そう決め込んで、扉に背を向けようとした瞬間。
「こんな悪天候の夜に、人間のお客さんとは珍しいわね」
美しいメロディのような声が吹きかけられた。
わたしの耳朶を打ったのは、確かな人間の声だった。とてつもないほど艶めかしいような、女性の声。だったはずなのに、わたしは身を凍らせて、体が動かなくなるほどの恐ろしさを体験していた。
だって、だって。人がいるなんて、思いもしなかったから。
だけど、どうにか首を巡らせて、声の主を確認するために全力を出した。多分、女の人の声だったため、多少は危機感が薄れていたのだろう。
わたしの背後に立っていたのは、とびっきりの美女だった。
普段からクレアを見ていて、目が肥えているはずのわたしですら、息を呑んでしまうほどの美人さん。
目の前の彼女は、月を連想させるような妖艶さがにじみ出ていた。セミロングの金髪は緩やかなウェーブになっており、瑞々しい赤色の唇が弧を描いている。整った顔立ちからは年齢を予測させることができないけれど、わたしより歳上なのは間違いないかな。
クレアと比べてみても見劣りしないし、それにジャンルの違う美人なのは明白。クレアがクールで格好良い美女ならば、この人は艷やかで、より女性的な大人の女、って感じ。
彼女の服装は、こんなに暑い夏だというのに白のローブを着込んでおり、素肌のほとんどを隠している。
さらには、服装に湿っぽさは微塵もなくて、雨の降り注ぐ外から来たのではないならば、一体どこから姿を現したのか、不気味な女の人だ。
そんな彼女は、寒気がするような艶やかな笑みを浮かべながら、わたしのことをじっと見つめている。
思わず目を逸らしてしまったくらい、美人すぎるよ。だって、こんな女の人に見つめられ続けていたら、なんだかドキドキとしてしまいそうだから。
おかしいよね、今会ったばかりの人なのに。
「あ、あの、ごめんなさい。こんなところにお屋敷があったから、気になっちゃって。すぐに出ていきますから」
わたしは足早に立ち去ろうとする。だって、きっと、この家の人だよね?
勝手に敷地内に入ってしまったのだから、わたしはぺこりと頭を下げて足を前に突き出す。
彼女は笑みを崩さず、くすくす、って忍び笑いを漏らしていた。
何かおかしなことでも言っちゃったかな? なんだか、ちょっとだけ気味の悪い子だな、って思っちゃう。
「うふふ、可愛らしい子ね。でもね、出ていかないでもいいのよ。この雷雨、また激しくなるから」
わたしはびくっとして立ち止まる。
頭上を見上げると、雨は弱まったままだし、彼女の言葉を信じていいものかどうか判断できない。でもね、下山しようとして、また激しい雷雨に見舞われたら悲惨だよね。
わたしが思い悩んでいると、彼女は続けて口を開いた。
「今夜はうちで過ごしたらいかが?」
彼女はそれが自然な表情だというように、笑みを作ったまま勧めてくる。
うーん……どうしよう。
わたしが即答できなかったのは、見ず知らずの人の家に泊めてもらう、ってこともあるけれど。この女の人を信用しちゃっていいのかなあ、って直感的に思ったから。
それに、クレアはまだ山の中で1人だろうし……。
「お誘いはありがたいのですが……」
わたしが言いよどむと、彼女は目つきを細めた。真剣な面持ちになった眼前の美女は、鋭利な刃物のような双眸でわたしを見つめる。
ゾワゾワと全身に寒気がして、今すぐにでも立ち去りたい気にさせられた。
「今夜は……もう1人、お客さんが来そうね」
「え……?」
ふと出た彼女の独白は、なんのことなのかさっぱりわからない。
もう1人っていったら、クレアのことがぱっと思いつくけれど……。この人がクレアのことを知るわけないだろうし、一体なんなの、この女の人。
彼女に対して、疑念しか湧き出てこない。どうにも、関わってはならないような、怪しい人物にしか思えないよ。
「そんなに怖い顔しなさんな、エリナさん」
「……?」
再び、蠱惑的な唇を笑みに形作る美女。
わたしは口を半開きにして、違和感の拭えないなにかにムズムズする。
しばらくして、あ、わたし名乗ってない、って気づくのだった。お馬鹿にもほどがあるね、わたしって……。
「うふふ。私の名前はユーリィよ」
美女――ユーリィは、楽しげに名乗ると、館の入り口である巨大な扉を開けた。
中からは独特な匂いが風に乗って流れてくる。館内は薄暗くて、ここからはどんな景観をしているのか覗くことはできない。
「どうするの? お食事もあるのよ」
言われてみて、自分はお腹がすいている、ってことを思い出した。だって、お夕飯なんて食べている場合じゃなかったしね……。
食事、って単語に、お腹の虫が反応しそうだよ。
だけど、餌で釣られる前に、状況を整理することに決めた。
ユーリィは確かに、とっても怪しさ全開。でもね、悪意は感じないんだよね。むしろ、好意でわたしを誘っているふうに見えなくもない。
それがなんでか、って問われると、はっきりと言えないのだけれど……。もし、何か悪巧みをしているのだとしたら、丁寧に自己紹介をするかなあ?
それに、彼女の言葉を信用するなら、もう1人のお客さん……きっとクレアが、ここに来る。
そして何よりもね、こんな不自然な場所に住んでいるユーリィっていう女性に、興味をくすぐられるのだ。
「じゃ、じゃあ……ちょっとだけ、お邪魔します」
決してご飯に釣られただとか、ユーリィが美人さんだから、って理由だけじゃないよ。うん。
「いらっしゃいな」
わたしの邪な考えなんてつゆ知らず、ユーリィは館内に潜り込むと、手招きした。
遠慮がちに、彼女の住まいへと足を踏み入れる。
館の内部は明かりがほとんど灯されておらず、視界がかなり悪い。
それに、お香でも焚いているのか、甘ったるい香りが充満していた。広々としたロビーには、絵画や壺といった芸術品が、そこかしこに点在している。とてつもなく豪奢なお屋敷だね。
「あの。そういえば、どうしてわたしの名前、知ってたんですか?」
わたしは意を決して問いただす。……モヤモヤとしたものはハッキリさせておかないと、居心地が悪くなっちゃいそうだしね。
玄関の扉を丁寧に閉めていたユーリィは、あぁ、と思い出したように頷くと、またも忍び笑いをした。
「これよ、これ」
彼女は懐をまさぐって、1つの手帳を取り出す。なんだか、とーっても見覚えがあるんですけど。
「落ちていたわよ。大事な物なのでしょ? お返しするわ」
ユーリィはにこやかに、わたしへそれを返却してくれた。手元に戻ってきたモノをまじまじと見つめる。
うん。わたしの学生手帳で間違いなかった。
「い、いつの間に落としたんだろ……。ありがとうございます」
「そんなにかしこまらなくても、いいのよ。お部屋用意してあげるから、こっちにいらっしゃいな」
ユーリィは右手側にある長い廊下へ、するするっとした足取りで向かっていく。
とっても広い館内は薄暗さも相まって、ユーリィを見失ったら迷子にでもなってしまいそうだ。わたしは慌てて彼女の後を追った。
いくら歩を進めても、眩しさとは無縁が続いている。廊下内に灯されてある光源は明かりを最小限に絞られていて、窓から時折覗かせてくる稲光のほうがチカチカするくらいだ。
「あの、どうしてこんなに暗くしているの?」
気になったなら、聞かずにはいられない。わたしは、おそるおそる尋ねていた。
ユーリィはぴたりと足を止める。
何かまずいことでも聞いちゃったかな……。
彼女はくるっ、てわたしに向き直ってきて、ずいっと近寄ってくる。
わたしとユーリィの鼻がくっつきそうなほど、至近距離。
突然の急接近に、心臓がドキンと高鳴った。
だって、だって、ユーリィってば色っぽいんだもん。こんなにセクシーなユーリィが顔を寄せてくるのだから、キスされちゃうのかと思ったよ。それに、クレアと同レベルの美人さんだしね。わたしってば、美少女に弱いのかな……。
「きゅ、急にどしたの、ユーリィ」
ユーリィは、じーっとわたしの目を見据えている。彼女は一向に目を逸らそうとせずに、わたしに何かを訴えかけているかのように、微動だにしない。
彼女の瞳に吸い込まれてしまいそうになりながらも、見つめ返していると、あることに気がついた。
ユーリィの瞳は、それぞれ色が違っているのだ。薄暗くって今まではわかんなかったけど、わずかに光源のある屋内で、さらにここまで近寄ってもらえて、ようやく視認できた。
彼女の右目は深い青色をしていて、左目はとっても珍しい紫の瞳だった。両の目とも深淵の光を発していそうで、その甘美さに吐息が漏れちゃいそう。
「綺麗な目……」
「綺麗、ね。うふふ、褒めてくれて、ありがとう」
ユーリィはその言葉とは違い、欠片も嬉しくなさそうに言った。
「この目のせいなのよ」
「へ?」
何気なくそう語るユーリィは、どこか寂しげに見えた。抱きしめてあげたくなるような、物哀しげな少女のように思える。
「私の体……というより、この目、特殊な体質みたいでね。明るいものは、この左目で見ることができないのよ。左目に映る全てのものが紫色に見えちゃって、鬱陶しいの。夜だったり、暗かったりすると、あんまり気にならないのよね。だから暗くしているの、ごめんなさいね」
自身のことを他人事のように告白するユーリィは、そこで言葉を止める。
息の吹きかかる距離にいるユーリィを見据えながら、わたしは信じられない気持ちでいっぱいだった。
だって、そんな体質、聞いたこともないし。
でもね、ユーリィは嘘をついているようにも見えない。それに、ぎゅってしてあげたくなっちゃうくらい、庇護欲をそそられる。だから、彼女はその体質で苦労しているんだろうな、って感じ取れた。
「だからね、私はこの目と、お昼がね、大嫌いなの」
ユーリィの言葉は、その部分だけ強い感情が込められていた。嫌悪に満ちた台詞は、憎しみすら見え隠れしている。
わたしはそれが悲しくって、しんみりとしてしまう。
「……大変なんだね、ユーリィって」
「ふふ、心配してくれるのね。やっぱりとっても可愛い子ね、エリナさんって」
ユーリィはさらにわたしへ身体を寄せてくる。
わわ、ほんとに唇が触れちゃいそう。
そ、それに。ユーリィのお胸が、ぐにゅ、ってわたしのそれに押し付けられてきた。
……すごく柔らかで、ずっしりとした質感。クレアよりも立派なモノをお持ちのようで。
ゆったりとしたローブのせいでスタイルがわかんなかったから、その衝撃は計り知れない。
おっきな胸をわざとらしく、ぐにゅぐにゅって擦りつけてくるものだから、変な気分になってきてしまう。どことなく、ユーリィの吐息も荒くなってきているような……。執拗なユーリィのおっぱい攻撃に、なんにも考えられなくなってしまいそうだった。
で、でも、ダメだってば! わたしには……クレアがいるんだから!
わたしは慌ててユーリィをそっと引き剥がした。彼女は残念そうにしていたけれど、逆らうつもりはないようだ。
「気にかけてくれて、ありがとう。でも、この生活にはもう慣れっこだから。気にしないで」
ユーリィは気楽にそう言って、前方を指差した。
そこには小綺麗な扉があって、どうやらここが案内先らしい。彼女が先立って入室していくので、わたしはホッとした。
あのままユーリィがわたしを誘惑してきていたら、どうなっていたか、わかったものじゃないよ。
決して、わたしの心が浮ついている、ってわけじゃないからね。
ユーリィが美人すぎるのがいけないんだ。
わたしは自分の気持ちに蓋をして、彼女に倣って室内へ続いた。