煉瓦
大学卒業とともに就職したその業界のうちでは最大手の一つであり、当時はまだ一部上場していた会社に意気揚々半分、新入社員らしからぬ冷めた諦め半分で勤めはじめたわたしは、案の定月日を重ねるまもなく、決して一年目だからという理由だけではとても説明のつかない倦怠と苛立ちに始終侵されだし、休日ですら学生時代から貴重な時間を投資するほど大好きな読書にも没頭できない始末で、それならと心機一転、街へ出てあてもなく徘徊しつついつか足の向いた大型書店で整然とならぶカラフルな文庫本の背表紙を目で追いながらときおり抜き出して適当にページをひらき、すぐに閉じて書棚へもどすとこんどは反対側の棚へまわり、抜き出してはひらき、もどす、まわるを繰りかえしながら一向に文字から想像の世界へと羽ばたけないおのれを呪いつつ不憫にもなり、気分転換はついにあきらめて悄然と憂鬱がきれいに混ざり合ったまま帰途へついたことがあった。
明けて翌週、呆然とそれでいて上司の目がこちらへ光らない程度にはきちんと雑務をこなしながら日々を消化するうち休みの前日が来ると、社会的になかば強制な風のある歓迎会等のイベントをのぞいた社内の付き合いには割とドライらしい社風を都合よく利用して、その仕事上がりの夜から次の日の夕方にかけてその頃親しくしていた一つ年上の女性といつもの穏やかで甘美な週末を過ごしたのち、そろそろ夕食の鐘が鳴りそうなころになっても彼女が依然、フローリングに横座りになって部屋の白くぬられた壁に抱き心地の良いやわらかな背をもたせたままあごを軽くひくようにして、床の一点を見つめるともなくぼんやりしている姿に、気づけばすうっと自分自身の心身を重ね合わせていた。するとふいに、
「そろそろかな」と、こちらへリスのように優しく吊り上がって黒目がいっぱいに広がった瞳をむけながら、彼女なりのやり方で宣言すると、こちらの返事も聞かずにそのまま立ちあがる。
カーディガンをとおした肘裏のくぼみにトートバッグの持ち手をかけた右手でドアノブをまわすと、彼女は後ろでたたずんでいたわたしへ顔をふり向けて、
「行きます」と、うなずきながら宣誓した。
その顔が何を期待しているのか明らかだったので、ここはいつもの意地悪をせずに、手をのばして彼女の白くて小さい左の指をにぎり引っ張って、まっすぐに近づいてきた唇ではなく頬にすばやく口づけたのち、離れて、
「そこまで一緒に行こう」と宣言し、部屋に取って返すやすぐさま着がえて、自転車を両手におす彼女とともに地面に降り立った。
煉瓦調の三色の長方形が一見無秩序にしかみえない順番ではめこまれた歩道のタイルを踏みながら、きれいな横並びというよりも両手の空いた身軽なわたしが気づけばすうっと前にすすんでいたり、それを知ったふたりが互いに無言のうちに相手の呼吸へ自分の呼吸を重ね合わせようとして、それが正反対になったりする。
ほどなくして道路をはさんだ向かいがスーパーの地点にたどり着くと、ふたりは向き合って、街灯がつきはじめてはいるものの暮れかけた夕焼けが彼女の半面を薄紅く染めているなか欧風に頬と頬をすりつける別れの挨拶をしたのち、身を離すわたしの一瞬の隙を縫って、唇で唇を奪うと、彼女は、じゃあ行くね、と言いながらこちらに微笑んで自転車のサドルにまたがり、ボタンを全開にしたカーディガンを風にはらませ時に奪われ盛大にひらひらさせながらこぐうち停止する。しばしボタンと格闘しながら丁寧にとめたのちこちらへ振り向き、顔の横でちいさく手を振って安全運転に走りだした。
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