ストーンカース
この作品は、自分のHP「たわごと御殿」にある小説を再度投稿したものです。
大陸の中央部にあるボーバル地方には「自分の足跡を追いかける」と言う諺がある。
「当ても無くブラブラ歩き回る」、或いは「道を見失って途方にくれる」と言う意味だ。あまり良い諺ではないが、私がこの言葉の響きが大好きだった。私は正に自分の足跡を追いかけるように旅を続けていたからだ。
新緑に萌える草原に一歩踏み込めば私の足は地面深く沈み、再び足を引き上げると潰れた草の濃厚な臭いが嗅覚を刺激する。
私の荷物を家代わりにしている栗鼠の家族(父親と母親と二匹の子供たち)はその臭いに興奮して私の頭や肩の上を駆け回っている。子供たちは私の体の上で危険なジャンプをして落ちそうになっては、両親たちに危ういところで引き止められるのを繰り返している。
本当に落ちる前に捕まえて荷物の中に押し込めておいた方がいいのかもしれないが、私はもう少しだけ子供たちに好きなようにさせることにした。なんと言っても、これが彼らにとって初めての春だからだ。
私たちが旅をしている大陸北東部にあるスキッティア国の辺境は短い春を謳歌していた。
今、歩いている道の無い果てしない草原にはカラスエンドウやナズナが花をつけ、ベニトリバナが何ともいえない鮮やかな赤い蕾を開こうとしていた。
色とりどりの花に混ざって、コヒツジソウの茂みが見える。コヒツジソウはスキッティア地方のみに生える植物で、その新芽は春の珍味として大陸北東部で広く親しまれている。コヒツ ジソウの新芽は栗鼠たちの好物でもあり、私は小さな旅の仲間のために後で幾つかこの植物を摘んでおこうと心に決めた。
顔を上げてみれば、この地方の名物である龍状雲が青い空を真っ二つに分け、身をくねらせながら遠くに見えるアララティア山脈に消えていくのが目に入った。
麗らかな春の一日だった。
私はこの平穏が今日の日暮れまで続くと信じていた。
だが、そうはならなかった。
最初に異常に気付いたのは栗鼠の父親だった。
突然尻尾を二倍以上に膨らませた彼は私の頭の上に飛び乗ると、甲高い警戒音を上げた。父親の声を聞きつけた母親が子供の一匹を咥えると大慌てで私の荷物の中に逃げ込んだ。父親もすぐに私の頭から飛び降りるとまだ呆然としているもう一匹の子供を連れて母親の後に続く。
「どうしたんだい、お前たち?」と荷物の中の栗鼠たちに問い掛けた時に私も空気中に漂う異臭を嗅ぎつけた。
金くさい臭いだった。
真新しい流血の臭いであり、血に濡れた凶器の臭いであり、争いや殺し合いの臭いだった。
戦争か山賊だろうか?
しかし、最近スキッティアと周囲の国々の関係は良好であり、ここは国境から遠く離れた未開拓地だ。山賊も同様にあり得ない。基本的に獲物が滅多に通らない僻地で山賊という商売は成り立たない。
私は不安そうに布の間から顔をのぞかせる栗鼠たちに言い聞かせた。
「ちょっと様子を見てくるよ。もし、日が傾くまで私が戻らなかったら、鞄の中にある木の実を持って遠くへお逃げ」
栗鼠たちにどこまで私の言葉が通じているのかは分からなかった。だが、長く旅を共にしている間に私たちの間には最低限の意思疎通ができるようになっていた。栗鼠の父親はじっと私の顔を見詰めた後、ちっちっと短く鳴いて荷物の中へ姿を消した。
背中の荷物を肉食獣に見つからないように近くの岩の間に隠すと、私は金錆びに似た臭いの源を探るために再び歩き出した。
もし戦争が起きていたのなら、すぐさま踵を返してその場を立ち去るつもりだった。万が一山賊に捕まった時は何とか説得して見逃してもらおう。少し話し合えば彼らの役に立ちそうなものを私が何一つ持っていないことを分かってもらえるはずだ。
丘を一つ越えるとそこは別の世界が広がっていた。予想通り軍隊も山賊もそこにはいなかった。代わりにそのどちらにも容易に引き起こせそうに無い破壊の爪痕が延々と続いていた。
草原の至るところが爆発で掘り起こされていた。点在する自然岩はくだけて周囲にばら撒かれ、良く見ればその白い表面に乾きかけたこげ茶色の血痕が見える。
恐ろしい戦いの痕跡は数え切れないほどあったが、不思議なことに死者は出なかったのか、草原には屍骸が一つも見当たらなかった。
私は少し躊躇した後に丘を下り、破壊の痕跡をたどりながら焼け焦げた大地を更に進んだ。
しばらくすると景色が更に一変した。先ほどの戦場よりも遥かに恐ろしく、しかし美しい光景がそこには広がっていた。
見渡す限りの草原が、大雪が降った翌朝のようにただ一つの色に染め上げられていた。
雪の色に、骨の色に、そして死の色に……。
私は躊躇いがちに純白に染まった草原に足を踏み入れた。足の下で白い草花が生き物とは思えないような乾いた音を立てて砕け散る。腰をかがんで白い花を手に取ろうとするとそれは本物の雪のように脆く崩れ去り、白い砂となって私の指から零れ落ちた。私はこの草原を襲った悲劇の正体を悟った。
呪いだ。
それも信じがたいほど強力な「石化の呪い(ストーン・カース)」が半径何キビック(一キビックは約一.五キロ)もの草原を冷たい死で満たしたのだ。
顔を上げて見渡せば、白い死が草原の草花だけを襲ったものではないことがわかった。不運な動物たちが数匹、呪いに巻き込まれ、逃げ出そうとした姿勢のまま地面の上で凍り付いている。だが、その他の多くの屍骸は動物ではなかった。
それは人であり、亜人であった。大理石の戦士が大剣を掲げて見えない敵に切りつけようとしていた。
詠唱の途中で呪いに襲われたのであろう、妖精族の魔法使いは永遠に終ることの無い呪文を口にしながら黒曜石に変わっている。戦槌に縋りつきながら緑れん石になった女神の僧侶は果たして仲間を守るための祈りを上げていたのか、それとも自分だけ戦場から逃げ出そうとしていたのか……。
その装備や逞しい体つきから推測するに、彼らは多分俗に冒険者と呼ばれる山師たちだったのだろう。先ほどの破壊の痕跡からかなりの手練れであったことが伺える。彼らが一体どんな人間で、如何なる理由で戦い、そして誰に殺されたのかは分からない。しかし彼らを襲った死が速やかで、尚且つ情け容赦ないものだったことだけは間違いない。
もうこれ以上ここに留まる理由は何も無かった。普通の人間であればわが身の安全のためにとっくに逃げ帰っている。しかし、私はそうしなかった。
単純な好奇心とは違う理解しがたい衝動に突き動かされ、私は呪いの主を求めてなおも白い死の草原を歩きつづけた。或いはその衝動は運命と言われるものだったのかもしれない。
ほどなく私は四方を丘に囲まれた窪地で草原を襲った惨劇の元凶を見つけることに成功した。
初めて彼女を目にしたとき、私は一瞬傷ついた大きな鳥がそこにいるのかと思った。
しかし、すぐに着ている服から彼女が鳥ではなく、翼を持った人間か或いは人間に良く似た種族であることが分かった。
彼女の目の前には、さっき私が通った草原にあったのと同じ首の無い石化した死体が横たわっていた。彼女はその死体の首を膝の上に乗せるように抱え込みながら、盆地にただ一本だけ生えている骨色の木の根元に腰を下ろしていた。
私の前に広がる大地の中で彼女だけが唯一色を持った例外だった。その中でも特に鮮やかだったのは彼女の腹部を染める深紅であった。深紅は彼女のわき腹に生えている槍の柄からこぼれ出していた。槍はまるで虫のように彼女を木に縫いとめていた。
赤みを帯びた金色の翼が力なく彼女の両肩から垂れ下がり、その様子がまた私に遠い昔に見た蝶の剥製を思い出させた。
白い草の残骸を砂に変えながら、私は彼女に近づいた。歩み寄るにつれ、彼女が古代の巫女のような純白に近い灰色の長衣を身に付けていることに気付いた。
彼女の顔は深く垂れ下がった長衣のフードに隠れ、鼻から上を見ることはできない。しかし、僅か覗く唇や小さな顎はそれだけでも十分整った顔立ちを伺わせた。
眼はフードに隠されていたが、それでも足音で私の接近を察知したのだろう。彼女は顔を上げて眠たそうに問い掛けた。
「誰かある?」
私は返事に窮した。あまりに長い間、自分の名前を聞かれたことが無かったのでなんと答えてよいものか分からなかったのだ。
だが、彼女は私の沈黙を不満と受け取ったのか、力なく笑った後に言った。
「そうか。名乗らずに相手の名前を聞くのは無礼であったな。私はステア。その方、名はなんと申す」
私はステアの名乗りに応えるべく、膝を折り、深く頭を垂れ、可能な限り礼儀正しく彼女の問いに答えた。
「無礼をお許しください、お嬢さま。私のような卑しい旅人に貴いお名前を教えてくださったこと、まことに感謝に耐えません。しかし、私めは既に自分の名を捨てて久しい身。貴方様に名乗るにふさわしい名前を持ち合わせておりません」
私の言葉を耳にすると彼女、ステアはまるでそれが面白い冗談であるかのように小さく肩を振るわせ、
「なるほど、魔女に教える名前はないというわけか……気にせずとも良い。無礼はこちらも同じこと。せっかくの客人にこの頭巾を上げて、顔をお見せすることも叶わない」
そして、不意に笑顔を消し、氷のように冷たい声で聞いた。
「理由はわかるな?」
私は顔を上げ、フード越しに彼女の顔を見ながらはっきりと答えた。
「はい、お嬢さま。貴方は、ステンノ=ゴーゴンなのですね」
ステアの唇が再び三日月型の微笑を形作り、そこから瀕死のものとは思えないほど堂々たる声が飛び出した。
「如何にも、我が名はステア! 『太祖ステンノ』より数えて六代目、ガイアの末裔にして女神フォビアの娘たるステアだ」
それが私の目にした数え切れない死の答えだった。
金色の翼と蛇の髪、そして石化の邪視を持つ亜神、ゴーゴンは大陸でもっとも強力な種族の一つだ。
彼女たちは伝説に名高い最初の三柱のゴーゴンたち、『力のステンノ』、『飛翔のエウリュアーレ』、『智慧のメデューサ』を始祖と崇め、その中でも『ステンノ』を始祖に持つと言われるステンノ氏族は最強のゴーゴン氏族として大陸全土に広く名を馳せている。
他のゴーゴンとは比べ物にならないほど強力な彼女たちの邪視は例え相手の眼を覗き込まなくても、視界に納めたもの全てを命の無い石に換える。
大地の神々を除いて、大陸で彼女たちに匹敵するものは幻獣の王である龍族か、伝説の巨神族、或いは妖魔の貴族である魔神や巨魔たちだけだと言われている。
「さあ、我が身の素性がわかったからには疾くて失せよ。今は下賎なお前の顔など見たくも無いが、何時気が変わって一目覗き見るか分からぬぞ」
「言われずともすぐに立ち去ります。しかし、その前にしなければならないことがあります」
私は身を起こして彼女に近づき、血で汚れた衣服に手を触れようとした。途端に、驚いたステアが蛇のような速さで動いた。
手首が翻り、さっきほどまでの緩慢な動作が嘘だったみたいな俊敏さで私の手を打とうとする。あらかじめ警戒していたお陰で辛うじて手を引くのが間に合った。
危ないところだった。例え弱っていても、彼女の力なら容易に私の腕を打ち砕いただろう。
「ふ、不埒者! 何をするかっ!」
「何と仰られても、治療に決まっているじゃありませんか。私は通りすがりの者ですが、怪我をしている方を捨てて置くわけにはいきません」
「だ、だからと言っていきなり女性の衣服に手をかけるものがあるか! 男として無礼であろう! いや、待て……お前、男なのか? 声しか聞こえないから、しかとは分からぬが」
彼女は少しでも良く私の声を聞き分けようと身を乗り出した。私は肩をすくめると、
「一応、男と言うことになっております。分かりました。私はステンノ氏族の文化に詳しいわけではありませんが、もし初めて肌を見せた男に嫁がねばならないとか、そう言う習慣がお有りなのでしたら、直接治療するのは止めておきましょう。代わりに薬草を置いておきますので、ご自分で処置をしていただけませんか? 残念ながら、現在傷薬は底をついて血止めの薬草ぐらいしか残っていませんが、貴方の生命力なら今すぐ治療すればまだ十分助かる余地があるはずです」
長い旅の間に擦り切れた外套の内側に手を入れ、長持ちするように乾燥させた数種類の薬草を取り出してステアに差し出した。薬草の処方を口頭で伝えようとしたが、彼女は手を上げて私の言葉を遮り、
「良い。お前の心遣いは嬉しいが、私はもういいのだ……」
「そうですか。ならば無理強いはいたしません」
手を引いて、薬草を元の場所へしまった。私は怪我人を放置しておくほど無情ではないが、生きる望みを放棄した者を無理やり延命するほど傲慢でもないのだ。
「しかし、お嬢さま、もし、よろしければ今少しの間お側に侍ることを許していただけませんか。私は間接的に貴方を殺すことになるわけですから、せめて最後だけでも看取って差し上げたいのです」
溜息と呼ぶには弱すぎる動作で息を吐いて、ステアは言った。
「お前は本当に変わり者だな。好きにせよ。ただし騒ぐな。今わの際に五月蝿くされるのは耐え切れん」
「分かりました」
私は彼女の目の前で腰をおろし、言われたとおり沈黙した。
一刻(十五分)の時間がゆるゆると過ぎ去り、間もなく二刻(三十分)がその後に続く。
待たせていた栗鼠たちのことはあまり気にならなかった。ステアは目に見えて衰弱し始め、日暮れまで到底持ちそうにないことは明らかだった。やがて私たちの沈黙が三刻の長さに達しようとした時に、ステアが堪えきれずに口を開いた。
「何か喋れ!」
「はあ?」
「何か喋れと言ったのだ! 何故黙っておるのだ、お前は!」
「貴方に騒ぐなと言われたからですよ」
「だからって、何も喋らぬ奴があるか! だんまりが息苦しいのだ! 何でも良いから何か話せ!」
「はいはい、分かりました」
「はいは一回だ!」
「はい分かりました、お嬢さま」
さて困った。私は決して饒舌ではない。いきなり話をしろと言われてもとっさに話題が思いつかない。
大昔、私がもっと人間たちと頻繁に接していた頃、こんな場合はどうしたものだったか? 私は困り果てて、天を仰いだ。顔を上げると春の空が見えた。龍状雲は既に通り過ぎ、この季節にしては珍しく一遍の曇りも無い青天が広がっている。
「いい天気ですね」
「人が死にかけている時に天気の話か?」
「天気のお話が気に入らないのでしたら、私が旅の途中であった南方のパチュパチュ族のお話でもしましょうか? この種族は炎を神として崇めていまして、風変わりな習慣として求愛活動の際に男女がお互いのしかるべきところに火を……」
「もう良いから、天気の話をせい!」
頬を紅色に染めて、ステアがそっぽを向いた。
どうやら、かなりの箱入り娘だったらしい。彼女は俗に言う『寝屋の会話』に全く免疫がないようであった。
ステアの様子があまりに可愛らしくて、私は笑いを堪えるのに一苦労した。風雅で大人びた言葉を使っているが、その幼い仕草からいってまだ少女の域を出ていないはずだ。おそらく人間で言えばまだ十代の半ばなのだろう。
ふと、最後に仕えた主人のことを思い出した。
彼女はステアとちょうど同じ年頃だった。ステアのように少し我侭だが、とても可愛らしい女の子だった。
「そうですね。では私がここまでの旅路で見てきたものでも話しましょうか?」
そうして私は今日一日目にしてきたものを少しずつ彼女に語って聞かせた。
悠々と空をかける龍状雲のこと。
遠くに雄雄しく聳え立つアララティア山脈や、その山を超えることが如何に厳しく困難であったか。今正に盛りにある春の草花のこと等等。
ステアが口を挟んできたのは私がコヒツジソウについて話し始めたときのことだった。
「そうか、もうコヒツジソウの新芽が芽生える季節になっていたのか」
「おや、コヒツジソウのことが気になりますか?」
ステアは少し青みがかって来た唇で微笑んで言った。
「うむ、あれは私の好物だからな」
「それはちょっと意外でしたね」
「なんだ? 私がコヒツジソウのことを食べてはならない理由でもあるのか?」
「いえ、貴方がたゴーゴンが植物を好んで口にされるとは初耳でした。てっきり、肉食中心の生活を送っておられるものとばかり思っておりましたので」
「私たちは人間と同じ雑食だ。美味しいものは美味しい。コヒツジソウの新芽は山羊のチーズを乗せて大蒜と一緒に串焼きにするとたまらない。春になると幼馴染のエウリアが良く作ってくれたものだ」
エウリアと言うからには、おそらくそれはエウリュアーレ=ゴーゴンのことなのだろう。
楽しそうに食べ物の話をする彼女の顔に私は一筋の光のような希望を見出した。
食事のことを気にする余裕あるということは、彼女の中にまだ生きたいと思う心が少しは残っている証だ。
なんとかこれを糸口に彼女を緩慢な自殺から引き止める術は無いものだろうか。
確かにステアは多くの命を奪った。それでも私は若い彼女に死んで欲しくなかった。
蜘蛛の巣が張った記憶を引っ掻き回し、最後の主人のことを思い出そうとした。あのお方が好きなものはなんだったか。あのお方が病に倒れて気弱になったとき、さて私はなんと言って彼女を慰めたものだったか?
「地方によっては、コヒツジソウの串焼きにベニトリバナの花びらを付け合せとして出すところもあります。ベニトリバナはご存知ですよね? コヒツジソウと同じ動物性植物で、別名冬鳥夏草とも言いまして夏には花として過ごし、冬になると鳥のように空を飛んで渡りをすることで有名です。ここに来る前に開きかけた蕾を見かけました。もう間もなくこの辺りはベニトリバナの花畑に埋め尽くされることになるでしょうね」
せめてその蕾が花開くまで生きていて欲しいと言う願いを暗に含めた言葉であった。
だが、ステアの返事は私の思いもよらぬものであった。
「そのベニトリバナと言うのはどんな色をしているのだ?」
「え? ベニトリバナと言う名前の通り、大変鮮やかな赤色をしておりますよ」
「では、その赤色というのはどんな色なのだ?」
私はまたしても返事に困って沈黙した。今まで花がどんな色をしているか説明したことはあっても、赤い色がどんな色なのか説明した記憶が無かった。私は必死に頭を働かせながら、なんとかステアが満足できそうな答えを探した。
「ベニトリバナの赤は……なんと言えば良いんですかね。夕日よりも懐かしくて、火よりも暖か、朱よりも深い赤で。ああ、そうですね」
私は躊躇いがちに血で一色に染まったステアの衣服を指差して言った。
「強いて言えば、貴方の服を染めているその赤に良く似た色なのですよ」
ステアは自分の服と同じように血に染まって自分の手を目の前に翳し、ぽつりと満足げな言葉を漏らした。
「そうか……私の中には花と同じ色の血が流れているのか」
「ご自分の目でベニトリバナを見たことが無いのですか?」
慌てて自分の口元を抑えた。
言ってすぐにとんでもない暴言を吐いたことに気付いたからだ。
しかし、ステアは私を責めることもなく、ただ哀しげに口元をゆがめた。
「私が見ると皆死ぬのだ。枯れて石になり、砕けて砂となるのだ」
「申し訳ありません。つまらないことを聞いてしまいました……」
「良い。許す。なかなか楽しい話だった故な。そうだ。私は自分の目で花を見たことはない。それでも少しでも違う景色が見たくてな。砂漠の峡谷からのぞむ夕日とは如何なるものか。雪解け水の滝に本当に手を切るほど冷たいのか。噂に聞く天と海の青が溶け合う狭間を探し求めて私は旅に出たのだ」
遠く、世界の果てを探るように天を仰ぎながらステアは自分が歩いてきた様々な土地のことを話し始めた。その多くは私も一度は見たことがある土地のことであり、また僅かながら私が今まで一度も通ったことも、聞いたこともないような地方の話もあった。
何時しか私はステアが恐るべき半神であることを忘れ、彼女の視点に自分の視点を重ね、彼女の思い出に自分の記憶を重ねていった。
やがて旅の思い出話も終わりに差し掛かった頃、私は募る好奇心を抑えきれずに聞いた。
「お嬢さま。つまらないことを伺ってもよろしいでしょうか?」
「言ってみよ」
「私が聞いたところによりますと、ステンノ氏族のゴーゴンたちは一つの土地に定住して、その地に住む有鱗人や龍蛇人等の種族に女神として崇められながら、自分の土地を守って生涯を終えるそうですね。しかし、今までのお話を聞きますと貴方の生き様はむしろ一生を旅の空の下で過ごすエウリュアーレ氏族に近いように聞こえますが?」
彼女は私の言葉に頷き、しばし思案するように俯いた後、口を開いた。
「お前の疑問はもっともだ。私は一族の中でも変わり者なのだ。旅人よ。私の父親はな……人間なのだ」
「……それは、またなんと申しますか。少々珍しいお話ですな」
少し、と言うのはかなり控えめな言い方だった。実際、それは驚愕すべき事実だった。
氏族を問わず、ゴーゴンは基本的に女性しか存在しない。彼女たちは定命のものや精霊と交わって子孫を残す。
しかも、ステンノ族といえば神話の時代から人間嫌いで有名な一族だ。また戦士の氏族を自認する彼女らは獣人や龍蛇人、或いは鬼神や龍といった強壮な種族を好んで伴侶に選ぶ。貧弱な人間など相手にもしないはずだった。
普通ならば……。
「母上は父について多くを語らなかった。何故私が生まれたのかも話してくれなかった。彼女は確かに良い母親だったと思う。だが、私にとってそれだけでは不十分だった」
ステアが溜息を漏らした。フードに隠れて見えなかったが、その瞼は愁いを帯びてふせられていたに違いない。
「血族、ステンノ氏族は私を差別するようなことはしなかった。人間と違って、我等はそのような卑賤な感情とは無縁だった。だが、漠然と疎遠にされていたことは良く覚えている。私は一族の子供たちと一緒に育ち、ステンノ=ゴーゴンとして教育を受けた。人間は卑しく弱々しく、地を這う虫のように価値のないものであり、私たちステンノ氏族は大地の神々の血を引く貴い一族なのだと教えられて育った。しかし、私に流れる血の半分は人間のものなのだ。私はどうしても老母たちが言うように自分が大地の女神の末裔であるとは信じられなかった。一族の教えを聞けば聞くほど、私は自分が誰なのかわからなくなってしまった。だから旅に出た。世界を端から端までめぐり、多くのものを目にすれば自分が何者なのか分かる、そうな気がした。要するに子供だったのだな、あの頃の私は……」
だが、そう言って微笑む彼女の顔にはまだ幼子のような稚さが残っていた。
「次はお前の番だ、旅人よ。答えよ。お前は今までどんなところ旅してきたのだ?」
「おおよそ、この大陸であればどこでも」
「何時から旅をしている?」
「四季が十回巡るのを超えてからは数えることをやめました」
「お前の旅は良いものであったか?」
「辛いこともありましたし、楽しいこともありました。両方足して合わせて比べて見て、どちらが多いかと問われれば……そうですね。今も旅を続けていることが答えになるでしょうか?」
ステアは懐かしそうに笑って頷いた。
「私もだ。幼馴染のエウリアに何度助けてもらったが、旅を始めたばかりの頃はとにかくトラブル続きだった。しかも、そのほとんどが人間がらみでな。最初は女の一人旅と言うことで盗賊どもに付け狙われ、それを片付けて名が売れ始めると今度はもう少し腕の立つ奴らが寄って来た」
「冒険者たちですね」
私はここに来る途中見かけた石の屍の数々を思い出した。
「それもあるが、時には国一つに狙われたこともある。奴らめ、始祖メデューサを殺した男に習ってこの私の首を刈るつもりだったらしい。ステンノ族のこの私を!」
「それは戦士の氏族としてさぞかし充実した毎日だったでしょう」
「充実しているものか! あんな奴らは羽虫も同然だ! 叩けば脆く潰れるくせに、後から後から湧いてきて鬱陶しいことこの上ない!」
拗ねたように口を尖らせる。きっとそれは彼女にとって失望の毎日だったに違いない。人間の血を引く自分とは何者かを探すために旅に出たのに、人間の暗部ばかりを見せられてきたのだから。
「それでも悪いことばかりでもなかった。羽虫どもと戦ってきたお陰で、こいつに会うことが出来たのだからな」
その言葉で私はようやく彼女が石になった人間の首を抱いていることに気付いた。
初老の人間の首だった。半分を傷と髭に覆われているものの、その顔には凛々しかった若者の面影を留めている。私と話している間も彼女の手はずっと愛おしげにその首を撫でつづけていた。
「他の人間たちとは違い、随分親しげにされているようですね」
「長い付き合いだからな。最初にこいつに会ったときはほんの子供だった。私を母と父の仇と呼んで戦いを挑んできた」
「本当に彼の両親を手にかけたのですか?」
「それはわからぬ。言ったであろう? この身を狙うものは羽虫のように多かったと、その中にはこいつの父や母がいたかもしれないし、いなかったかもしれない。私は自分を狙った者の顔を誰一人覚えていない。私に顔を見られた時には皆死んでいたからだ。それでもこいつは私を仇と呼び挑んできた。馬鹿正直に名乗りまであげて……。あまりの威勢のよさに殺す気も失せてな。まだ子供であったし、適当に叩きふせてこれに懲りたらもう襲ってくるなと釘をさした。だがあいつは凝りもせずにまた私に挑んできた。何度打ち負かしても諦めない。しかも必ず一対一で正々堂々と挑戦してくる。何でもそうしないと騎士だった父の汚名を晴らすことは出来ないとか。本当に、面倒くさくなってな。何度殺してやろうと思ったことか。でも今回だけは見逃してやろうと思って一年、もう次はないぞと言い聞かせて二年、十年以上経つ頃にはもう立派な腐れ縁になっていた……」
ふうっと息を吐いて、ステアは石の木に寄りかかった。顔色は青を通り越して既に紙のような白に染まっている。だが、彼女は間近に迫る死など意に介していないように見えた。
「時間が経つに従って、ようやく自分らの努力が無益なものだと悟ったのか、私の命を狙うものの数は減っていった。でも、こいつだけは何時までも私の後をついてきた。気がつけば、何時の間にか振り返って、あいつがついてくるのを確認することが私の日課になっていた。たまにこいつと刃を交わし、それ以外の時間は全てこいつを想うことに費やした。山を越え、海を渡り、砂漠を彷徨い、平原遥か。こいつはどこまでも何時までも私についてきた。私たちはいつも……いつも一緒だった」
二人の関係を語る彼女の言葉は決して多くなかった。だが、それゆえに如何なる言葉よりも切なく私の心を絞り上げた。私は二人が過ごした時間を想像した。
自分の呼吸の音しか聞こえないような静かな夜がある。孤独な夜に不意に泣きたくなると、遠くに暖かく点る焚き火が見える。その微かな明りだけを頼りに、火の近くにいるであろう男のことを想う。
千尋の闇に浮かぶたった二つの明り。
かけがえないのないただ一つの温もり。
近寄ることは出来ず、だが決して遠ざかることもないその距離。
それは一体どんな日々だったのか……。
「そんな日が何年も、何十年も続いた。私は何時までも同じ日々が続くと信じていた。だが半年前、急にこいつの歩みが遅くなった。今まで私がどんなに早足で歩いても必ずついてきたのに、時々立ち止まっては小休止まで取るようになった。私もその都度立ち止まってあいつが再び歩き出すのを待った。やがてこの草原に辿り着いた頃、こいつは一つの場所に留まって、そこから動かなくなった。私は迷った。近寄って様子を見に行くべきか、それとも放っておくべきか。今まで自分から近寄ったことは一度もなかったからな。何日も躊躇った末、ようやくこいつに会いに行く決心を固めた。そして、その途中で待ち伏せに会った」
「先ほどの冒険者たちですね」
「うむ。こいつが雇ったらしい。中々の手練れだった。私もしばらく戦いから離れていた故、少しばかり梃子摺った」
「お怒りになりましたか?」
ステアは静かにかぶりを振った。
「いいや、不思議と怒りは湧いてこなかったな。それよりも心配になった。あれほど父の財産と騎士の矜持を大事にしていたものがその全てをかなぐり捨てるなど尋常ではない、と。必死にあいつの気配を探し回った。そしてこいつを見つけた時に全て分かった……」
ステアの声が抑えきれない感情に震え始めた。石の首を抱く指に力が篭る。私は彼女が首を握りつぶしてしまうのではないかと、一瞬心配した。
「ずっと邪視の及ばぬ距離から見守っていたから分からなかった! 自分から近寄って初めて気がついた。地面を踏みしめる足音の弱さ、槍を握る手の震え、何より奴の息遣いから、眼で見なくともはっきりと分かった! こいつは病に冒されていた。労咳だったんだ……」
石となった男の顔は無数の古傷と皺に覆われていた。長い年月が刻み込んだ爪痕であった。
二人で過ごした何十年と言う月日、それは半ば神であるステアにとってほんの二、三年程度の時間に過ぎなかったのかもしれない。しかし、一人の少年の体から若さと健康を奪い尽くすには十分すぎる時間だったはずだ。
人よりも遥かに老いるのが遅く、病に煩わされることもないステアはそのことが理解できなかった。そして、気付いた時には……。
「全てが、手遅れだった。私はステンノ族だ。望めば龍も鬼も殺してみせる。だけど、命を助けることだけは……こいつは助けることだけは出来なかった」
乾ききった石の草原に小さく水音が響き渡る。石の首の白い表面に黒い染みが生まれた。一つ、また一つ、それは増殖していき、やがて男の顔の皺を伝い流れ落ちていく。こぼれる雫はまるで石の涙のように見えた。
「もうどうしようもないと分かった時、初めて気がついた。こんなにも長い時間を共に過ごしたのに、私はこいつの名前を知らない。顔を見たことがない。触れたことさえも・・・・・・そしてもうすぐ全てが叶わなくなると分かった時、私は、私はっ!」
魔が差したのだ、と言って彼女は自分を責めた。
だが、誰がステアを責めることが出来るだろうか?
彼女は何も特別なことを望んだわけではない。ただ最後の最後に、一目だけ愛しい人の顔を見たかったのだ。
完璧なステンノ族であれば湧き上がる衝動を抑えることが出来たかもしれない。普通の人間の少女なら何の問題もなかったはずだ。強大な女神の力と人間の脆い心を同時に持って生まれたこと、それがステアの悲劇の発端だった。
「こいつは少しの間だけ生きていた。そして、私に笑いかけてくれた。少し歳を取っていたけど、私が想ったとおりの……ううん、それ以上に美しい顔だった。それから死んだ。他のものと同じように。だから、思った。もう良いと。これからずっとこんな死と灰色の世界を見続けるぐらいなら……もう、何も見えなくてもいいと、そう思ったのだ」
もうステアは嗚咽を隠そうとはしなかった。こぼれる涙を注ぎながら、男の首を必死に抱きしめた。
男の槍は頑強なゴーゴンの体を貫き、彼女を石の木に深く縫いとめた。最後の力を振り絞ったそれは恐ろしい一撃だったに違いない。しかし、ステアはその一撃を弾くことも、避けることもできたはずだ。彼女はそうしなかった。自分の命よりも想い人を抱きしめることを選んだのだ。その致命的な一撃と共に。
しばらくして顔を上げてステアが言った。
「良く最後まで聞いてくれた。不思議な奴。お前は私が恐ろしくないのか? 死が恐ろしくないのか?」
「その答えは是でもあり、否でもあります。死は恐ろしいですが、貴方は恐ろしくありません。貴方がその気になれば、私はとうにあの冒険者たちと同じ運命を辿っていたでしょう」
その完全に血の気の失せた顔から私は彼女に残された時間ももうほとんどないことを悟った。ステアは青白い顔を空に向け、しばらくの間何事か思案した後に再び口を開いた。
「勇気のある奴。その勇敢さを称えて褒美をやろう。と言っても、今の私に与えられるものは一つしかないが……旅人よ、私の首を持っていくが良い。死ぬ間際にお前のために瞼を閉じておいてやろう。首が重たいと言うのならば目だけを持っていってもいい。見るもの全てを石に変える瞳だ。その力を使って、神でも悪魔でも好きなものになるがいい」
私は腰を上げて、長衣のフード越しにはっきりと彼女の目を見据えて言った。
「お嬢さまの申し出は真に嬉しいのですが、私には貴方の首も瞳も必要ありません。その代り一つだけ許していただきたいことがあります」
「何だ、申せ」
「貴方の涙を拭わせてください」
「何とっ!」
「私めは神でも魔でもなく、ただの旅人に過ぎません。時を巻き戻して過ちを取り消すことも、貴方の愛しい人を生き返らせることもできません。ですから、貴方の涙を拭うことを許してください。せめて、貴方様何かにして差し上げたいのです」
ステアの顔から全ての表情と言葉が消えた。沈黙は十を数える間続き、私が居たたまれなくなり始めた頃、彼女は辛うじて聞こえるような弱弱しい言葉で、
「許す……」
と言った。
私はステアの服の裾を手にとり、彼女の頬を拭った。本当なら自分のハンカチで拭いてあげるべきなのだろうが、私は随分昔に自分のハンカチを持ち歩く習慣を無くしていた。
後から後から頬を伝い落ちる雫を拭き取るうちに、ステアは私の手の甲に自分の手を重ね。私の掌に自分の頬を押し付けた。
「初めて生きている人間に触れた。暖かいのだな、お前は……」
そのまま彼女は静かに泣きつづけ、そして最後に「ありがとう」と小さな声で言い残して私の手の中で息を引き取った。
その後は大変だった。
私はステアの遺体を石の木に寄りかからせると、一端栗鼠たちが入っている荷物をとりに石の草原の端まで戻った。私がいない間、相当心配していたのだろう。栗鼠たちは私の足音を感じると荷物の中から飛び出して、私の体を駆け上がり顔にしがみ付いた。
興奮した栗鼠たちを宥めながら、私はまず冒険者たちが立ち並ぶ場所へ戻り、彼らの遺骸を埋葬した。
冒険者たちの装備品には明らかに魔力を帯びているものもあったが、どれも私にとっては無用の長物だった。私は二枚の盾を除いて全ての品物を彼らの主と共に石の草原に埋葬した。私が最後に残した二枚の盾はどちらも美しいミスリルめっきが施され、その表面は鏡のように磨き上げられていた。
可哀想に……。
始祖メデューサを殺した英雄にあやかろうとしたのだろうが、この盾の持ち主はゴーゴンの視線が自分自身に効かないことも、始祖メデューサよりも遥かに強力なステンノ氏族の視線の前には鏡の盾など何の意味もないことも知らなかったに違いない。
滑らかな盾の表面に自分の顔を映してみる。
そうか、私はこんな顔をしていたのか。随分長い間鏡を見ていなかったから、まるで別人のように見えた。
私は少し躊躇いつつも、盾を地面におき(この盾を作った鍛冶屋に心の中で謝りつつ)その上に自分の足を置いた。それから荷物から取り出した紐を使って盾を簡単な「かんじき」に変えた。「かんじき」と言うのは雪原を歩く時に足が沈まないように雪国の人間が考えた道具で、私も雪深いアララティアの山頂を越える時に随分と世話になった。
二、三歩あるいて「かんじき」の具合を確かめ、何度か紐を調整した後に私はステアのいる盆地に向かった。
彼女を木に縫いとめていた槍を引き抜き、ステアとその想い人の体を壊さないように気をつけながら抱き上げると私は石の草原を後にした。
「かんじき」を履いたのは地面に足跡を残さないためだった。この季節、草原の植物は生え変わるのが早い。だから少しぐらい草花を踏み潰しても、二、三日経たない内にその跡は新しく萌え出る緑の大波に飲み込まれて消える。
しかし三人分の体重が乗った足跡(しかもとびぬけて体重の重いものが一人いる!)はそうもいかない。腕利きの猟師ならば草原の草を掻き分けながら、容易に私の足跡を追いかけることができるだろう。
私はもう誰にもステアたちの眠りを妨げて欲しくなかったのだ。
草原を二刻歩き、臭いの跡を辿れないように道の途中で有った小川をまた二刻かけて遡った。岸から上がってしばらく歩いた後、私はベニトリバナの群生地に辿り着いた。
一面に広がる紅色の花畑。夕日よりも懐かしくて、火よりも暖か、朱よりも深いその色。彼女が自分の眼で見たがっていた色、彼女の血と同じ色。私はすぐにそこにステアたちを埋葬することを決心した。
地面を掘るのにはここまで「かんじき」代わりに履いてきた盾を使うことにした。一刻と経たずに人間サイズの種族を二人に納めるのに十分な大きさの穴が完成した。穴の底に石の首を抱いたステアの体を横たえ、その隣に首のない彼女の想い人の体を置いた。それから少し躊躇った後に、ステアの手を取り男の手の上に重ねた。
穴を掘った時の半分の時間もかからずに二人の埋葬は終った。
ステアたちを埋め終わった後、何か祈りの言葉を上げようとしたが結局やめた。私はゴーゴンたちが奉じる三柱の女神についてほとんど何も知らなかったし、大陸で崇められている如何なる神も信仰していなかった。
墓標はどうしようかかなり迷った。墓荒しに見つけられるような目印はつけたくなかったが、しかしこのままただ彼女たちを埋めて終わりにするのも何か寂しい気がした。
さんざん悩んだ末に、結局荷物の中にあったキジンレンゲの球根を墓標代わりに植えることした。手持ちのキジンレンゲの球根を全て植え終わった後、日は既に西の方向へ大きく傾いていた。
夕日の赤光とベニトリバナの開花しかけた蕾が天地を赤い色彩の溶鉱炉の中に溶かし込んでいく。もうすぐ海から龍状雲の大群がやってくる。海で濃い水蒸気をたっぷり吸って肥えた雲の龍たちは、身を軽くしてアララティアの丈高い山々を超えるために大量の雨をこの地に落としていくはずだ。
成長の速いキジンレンゲの球根はその雨を吸って芽を出し、花を咲かせる。ベニトリバナに負けないほど鮮やか赤い花はこの血色の絨毯に空いた虫食い穴のような埋葬の跡を完全に覆い隠すだろう。
キジンレンゲは別の名をリコリアと言い、これは大陸南部で信仰されている海の女神と同じ名前であった。ステアたちの始祖は元々海の神の娘だったと言う。祖先と同じ名を持つ花が長く彼女の眠りを守ってくれることを私は願った。
これでするべきことは全て終った。私に出来ることはもう何もないはずだった。私はステアたちの墓に背を向け、この場を立ち去ろうとした。
だが、できなかった。
私の胸の中に言葉があった。ステアが生きているうちに口にするべきだったその言葉は、行き場を失って体の中に重く蟠り、私をその場に釘付けにした。
この言葉を抱えたままでは到底旅を続けることは出来ない。東の空が藍色に染まるほど迷った末に私はようやく重たい口を開いた。
「お嬢さま……私は貴方に嘘をついておりました。貴方に話すべきだったのに、貴方に話していないことがあります。お嬢さま、私は人間では有りません。生き物ですらありません。私は……」
ただの言葉に過ぎないはずのその一言はまるで生き物のように私の中で荒れ狂った。呼吸など必要ないはずなのに私はあえぎながらその一言を苦労して搾り出した。
「私は、ストーン・ゴーレムなのです」
辛うじて人間の輪郭を留める体を擦り切れ薄汚れた旅人用の外套で覆い隠した石の塊、それが今の私の姿だった。
最後の主人であった病弱な姫君を亡くした後、私は世界を見て回りたいと言う彼女の夢を背負ってあてのない旅に出た。長い旅の間にかつて美しく造形されたと言う私の体は見る影もなく風化した。
私の体には長い時をかけて植物や苔が根を張り、鼻はかけ、片方の耳は旅路のどこかで落としてしまった。右手の小指の第一関節と中指の第二関節から先を除いて、手は辛うじて原形を留めていたが、酷使しすぎた足の指は磨耗して足と融合し跡形もなくなってしまった。
もちろん、この岩の手に人の体温等宿るはずもない。今わの際にステアが感じたと言う温もりが何だったのか、それは私には分からないことだった。
「ですから、お嬢さま。私は貴方が思っていたよう危険を何一つ犯していませんでした。貴方の首を頂くどころか、貴方に感謝をしていただく謂れもないのです。それどころかお嬢さま、私は完全な善意から貴方に手を差し伸べたわけでは有りません。私は孤独な貴方に全ての時から置き去りにされた自分を重ねていたのです。私は貴方を救うことで……自分をこの石の呪いから救いたかったのです」
ステアの墓に跪き、彼女を埋めた土の指を食い込ませる。この土の下にいる彼女のことを想う。もっと早く、もう少し早く出会っていれば私たちは良い友人になれただろうか?
よそう……。
もう考えても無意味なことだ。ステアは冷たい骸となり、この土の下に眠っている。
だが、待て。本当に全て手遅れなのか?ステアは自分の首を私に譲るといったではないか? ならば、彼女の首は私のものだ。
今からでも遅くない。
この土を掘り起こし、彼女の首を切り、それを持って旅に出るのだ。
昼に歩き、夜に彼女の首を取り出して一日の出来事を話し上げよう。
そうすれば私は、もう……。
囀りのような小さな鳴き声が私を正気に戻した。振り返ると栗鼠の親子たちが太陽の最後の明りを背に一列に並びながら、私を見上げている。真赤に灼熱した気持ちが瞬く間に冷えた。自分の中に生まれたおぞましい考えに身も心も震える。
私は、何と言う恐ろしいことを!
永すぎる放浪の日々がついに体だけではなく、私の心をも蝕み始めたのか?
いや、違う。違うと思いたい。きっと魔が差したのだ。
夜明けと夕暮れには現世と幽世が交叉すると言う。ましてや浮世離れしたこの美しい花畑の中では人ならざる石の心に一時魔が忍び込んだとしても不思議ではない。
ステアは彼女の想い人と共にこの地で眠ることを選んだ。私もそれを良しとした。
だから、このまま彼女たちを置いて去るべきなのだ。何よりも、
「彼女を連れていては、貴方たちと旅は出来ませんからね。さあ、おいで。もう出かけますよ」
跪いて手を差し伸べると、栗鼠たちは私の手を駆け上り、荷物の中に飛び込んだ。
孤独と悲しみに満ちたステアの旅は終わり、彼女の道はここで途絶えた。
だが私の旅はまだ終っておらず、目の前にはこれから歩くべき道が果てしなく続いている。
顔を上げてこれから自分が歩く道を見据える。
ステアを喪って世界はほんの少し彩りを失い、しかしいつもと変わらぬ激しさで命の宴に興じていた。食いつ食われつ、果てしなく続く螺旋の連鎖。自分の手が決して届かないその奔流に少し疎外感を感じつつも、魅了されながら私はまた歩き始めた。
今までと同じ一歩を踏み出し、さらにもう一歩を重ねる。
同じ動作を繰り返し、自分の足跡を追いかける旅を再開する。
私の体は強く、私の足はまだ疲れを知らない。
だが、それにしても……
ああ、この美しい呪いは何時まで続くのだろうか……。