[まなび]を人に還元することで成長した少女の物語
おてまりさんは、驚いた。
父の車が止まるや否や、多くの人々がやってきた。
「よしおや!」
「よしおが帰ってきたぞ!」
人々は、口々に、嬉しそうな声をあげる。
「よしお」とは、父の名前なので、どうやら、父は、かなり、歓迎されているらしい。おてまりさんは、誇らしい気分になった。
「ほんまや!車に乗っとる!」
「えらい出世したのお!」
「子どもも、つれとる!」
「でかした!」
大阪では、少々肩身の狭い小型車ではあるが、父が車に乗ってきたことは、
ここにいる人々の称賛を浴びるにたりていた。
父は、ずいぶん、うれしそうである。
父が、子どもである自分を同伴したことで、褒められている。
おてまりさんは、自分の存在が、親の立場を良くしていることに、少しときめいた。
自尊心というものは、このような出会いを受けて作られていくのだろう。
やがて、父は、車のエンジンを静かにとめ、窓を閉めた。
キーを抜く顔が高揚している。家では見る事のないエネルギッシュな表情であった。
「降りるで」
「うん」
ささやかな親子の会話ではあるが、車の外に出る事に対しての、覚悟のようなものを共有していた。
ドアが開くと、人々は、また、大きな声で話し出した。
「本家の跡取りや!」
「よしおの跡取りや!」
「よしおに、そっくりやなあ!」
父は、一段と、うれしそうである。
子煩悩なので、親子で似ていると言われると、いつも、上機嫌になる。
そんな空気が嬉しくて、おてまりさんは、「ふふっ」と、小さな声で笑った。
人垣の向こうから「ようこそ、お越し。」と言う声が聞こえた。
「分家の奥様」である。
とても、小さな方だが、声に張りがある。
さあっと、人々は、彼女の為に、道をあけた。
「おじょうちゃん、遠いとこ、御苦労さんやねえ」
そういうと、冷たいお茶を入れた湯のみを差し出してくれた。
おてまりさんは、突っ立ったまま、お茶を口に含む。
「おいしいなあ」
心の中で一人ごちして、飲みきると、
「ありがとうございます」と言ってみた。
周りの大人が、どよッと、明るい声をあげた。
「よお、しつけてはるな!」
「さすがやな!」
とにかく、否定がなかった。
驚いたり、褒めたり、と、
表現こそ違っていたが、どれも皆、肯定的な
いわゆる、≪善い≫人のことばであった。
その雰囲気が、おてまりさんの歩みを軽くした。
ほめられるであろう、「ありがとうございます」ということばが
予想通り、うけた。
そうなることを狙って、「ありがとうございます」と言ってみた。
「思い通りになった・・・」
はじめての魔法が成功した魔法使いになったような気がしていた。
どんよりとした、空が低く感じられるこの土地に来ると、空から解放されたくなる葛藤が飛び出してきたものだが、大人が心地よい反応を示すのを狙って発言し、思い通りの結果が出せたことで、心の奥にあった重苦しい感情を払拭できたことが、おてまりさんは妙に嬉しかったのである。
気がつくと、父に従って、毎年お盆に訪問する分家の玄関の土間にいた。
見覚えのある家ではあるが、神棚に白い紙が貼られていて、いつもと何かが違う。
おてまりさんは、葬式に参列していることに気づかないでいた。
現在の日本では見られなくなった、珍しい土葬の習慣を持つ儀式を、自然に体験している最中だった。
実際、おてまりさんは、自然と学ぶ環境に恵まれていた。
産まれた家に、母方の親族が多く同居していた。両親は共稼ぎだったので、祖父や叔母が幼児期の面倒をみてくれた。
母の妹である叔母は、おてまりさんがクラシック音楽が好きな様子を見てとると、蓄音機のそばにおてまりさんの布団を敷いた。
クラシック音楽のピアノ演奏を聴くと、おてまりさんは、すぐに眠くなるところがあって、そこをうまく活かして、叔母は、赤ん坊を寝かしつける手伝いを難なくこなした。これが幸いして、長じたおてまりさんの音感は、人並み外れて優れるようになった。
また、神官である祖父は、昔話を面白おかしく語って、おてまりさんを笑わせた。おてまりさんは、≪お話≫を求めて、やたら、本を読みたがる子供に成長した。それは、≪読書好き≫に見えたが、微妙に違っていて、おてまりさんにとっては、お話が、生活の一部になってしまった為に起こる現象だった。
それでも、学校に進んで、いわゆる「国語」の教科がなじみやすくなったのは、祖父の影響が大きいと言える。
さらに、祖父は、人を咎めずに注意する≪すべ≫を心得ていた。
たとえば、親近感が高じて、母が父を、通常、「おとうさん」と呼びかけるところを、「おとんち」と呼んだことがあって、小姑である叔母が、「ご主人に対して失礼やわ」と言ったことがある。
もともとは、大層立派な出自の祖父であったが、第二次世界大戦後に、親友だと思っていた人物に騙されて、天地がひっくりかえるほどの経済破綻をおこした。
一家の疎開先で叔母の通う学校の教師だった父は、母と出会って結婚すると、祖父母や叔母を自分の家に住まわせた。農家もやっていたので、戦時中とはいえ、食糧難は免れていたことが一因であった。
義理がたい祖父は、≪お嬢さん育ち≫をさせすぎた母が、料理すらしないので、家事一切を引き受け、おてまりさんの子もりの主役も務めた。
担任であり、一家の恩人である父を尊敬していた叔母が、母が父を軽くあしらっているようにみえると怒るのも無理はなかった。ところが、悪気の無いつもりの母は、この抗議にムッときたようで、一瞬ににして険悪なムードが漂った。
台所にいた祖父は飛んできた。どちらの味方になっても面倒な場面だった。
ところが、丸い顔をした祖父が、満面の笑顔をつくって、突然、歌って踊り始めた。
「おとんち」おっしゃるジカリカちゃん
ジカリカ ジカリカ
ジカリカちゃん
「おとんち」とんとん
「おとんち」とん
ジカリカちゃんとは、おそらく母のことなのだろう。
唄は即興、動きはやすき節であった。
あまりの軽妙さに、おてまりさんは夢中になって真似をした。
ジカリカ ジカリカ
ジカリカちゃん
小さな手をかざして、祖父について歌って踊った。
おてまりさんは、どういった状況であれ、父と母が、歌のテーマであることが嬉しかった。
やがて、祖父とおてまりさんの滑稽な歌と踊りが周囲を和やかにしていった。
父も叔母も、歌って踊った。
母も、にこやかな表情になっていた。
祖父は、亭主への娘の言葉づかいを諭し、
世話になっている娘婿を庇い、
批判的な小姑の娘も諫めた。
この「ジカリカちゃん ソング」は、この日から、何かぎくしゃくしそうになると
祖父が歌いだし、おてまりさんともども、歌って踊る習慣を作りだした。
おてまりさんは、祖父からコミュ二ケーションの機微を学んだ。
また、茶華道を教えていた祖母は「まりちゃん、かさかさ、しましょう。」といって、
茶道を、ままごと代わりに教え、生け花も、おてまりさんの大好きな[遊び]となった。
そして、この日も、おてまりさんは、とある「葬式という学び」に向き合った。
はじめは、わくわくした想いで一杯だった。
ところが、ここで、おてまりさんの人生で最も衝撃的な場面に出会う。
おてまりさんが、ここでの一コマ一コマ忘れられなくなった≪恐怖の時間≫も
やってきたのである。