郡上八幡 少し昔の話 ~徹君の話~
少し昔、郡上八幡に一人の男の子が住んでいました。少し昔というのは、テレビやお家の電話はあるけれど、まだまだ携帯電話なんて影も形も無かった頃のお話です。
その男の子は、名前を徹君と言いました。お城山のすぐ下にある柳町に住んでいました。徹君には仲良しの友達が何人かいましたが、その中でも一番の仲良しは、博司君でした。
仲良しの二人は、学校から帰ってからもよく遊びました。
博司君には幼稚園に通う妹がいて、家は上ヶ洞といわれる地域で鉄工所をやっていました。一家でやっている鉄工所だったので、徹君が遊びに行くと、いつもおじいちゃんと、お父さんと、おばあちゃんが工場の中にいました。お母さんはいる時といない時がありましたが、工場にいない時は、大抵台所にいました。
博司君のお母さんは、いつも博司君の友達が遊びに来るので、秋になると鬼まんを蒸かしてくれたり、大学芋を作ってくれたり、冬は家の外に練炭火鉢を置いて焼き芋をしてくれたり、家でついた大きなお餅の入ったぜんざいを作ってくれたりしました。夏は冷たい寒天を作ってくれたり、西瓜を切ってくれたりしました。
徹君の家は、お母さんと二人暮らしで、お母さんは病院で働いていましたので、いつも家に帰っても一人でした。なので、徹君は博司君の家に行くのが楽しみでした。兄弟がいない徹君には、博司君の小さい妹も可愛く思えました。
博司君の家の人たちは、子供たちに、工場の中に入って来てはいけないと、いつも言っていました。機械を使っているので、何かの拍子に怪我をさせてしまってはいけないからということでした。徹君は、博司君のお父さんやおじいちゃんが仕事をしているのを見るのが好きでした。薄汚れて曇った窓ガラスの外から、いつも工場の中を見ていました。博司君のお父さんが材料をセットし、機械を動かすと、車だとか飛行機だとかの、どこかに使われるという、小さな部品が出来ました。二人ともいつもの仕事着は、洗っても落ちない油汚れが染みていて、手袋は毎日黒くなっていました。機械は全体に黒ずんでいて、工場の中全てが 、おじいちゃんやおばあちゃんを含めて、年季が入っていると感じさせる風情が漂っていました。
徹君は、博司君のお父さんが、父兄参観日や運動会で、いつもの作業着以外の服を着ているのを見たことはありますが、おじいちゃんは作業着以外の姿は見たことがありません。いつもどこか埃臭いような、機械油臭いような、そんなおじいちゃんでした。いつも一言も口を利かず、眉間に皺を寄せて仕事をしていました。徹君は博司君のお父さんより、おじいちゃんの方が少し怖い気がしていました。
郡上八幡は、郡上踊りと呼ばれる盆踊りで有名な町です。
七月中頃の発祥祭に始まり、九月初めの踊り納めまで続くこの盆踊りは、八月の盂蘭盆会(通称徹夜踊り)が特に有名で、岐阜の山奥にある小さな町に、日本各地から信じられないほど沢山の人が踊りに来ます。
地元の子供たちは、小さな頃から踊りに行く子もいれば、踊りにはちっとも興味がなく、一度も行ったことがないという子もいます。何せ、踊りは毎回始まりが夜の八時、終わるのが十時半もしくは十一時なので、朝早くラジオ体操に行かなくてはいけない小学生たち(この時代は日曜とお盆以外、八月末まで毎日体操があった)は、どの道、お盆でラジオ体操がお休みの時くらいしか踊りには行けないのでした。そのお盆の時期は、盂蘭盆会の徹夜踊りのため、早い時間から沢山のお店が出ています。ろくに踊りには興味のない子供達は、お店だけ見て、踊りが始まる前に帰ってきてしまう子も多いのでした。
徹君は、一度も踊りに行ったことはありませんでした。毎年町の色んな場所が踊り会場になりますが、生まれてこの方、行きたいなんてちっとも思いませんでした。お母さんが帰るのを待って、ご飯を食べながら中日×巨人戦を見ていた方が、ずっと楽しいと思っていました。
学校の運動会でも、フォークダンスは毎年学年ごとに違ったダンスを覚えましたが、最後に全学年一緒にかわさき(郡上踊りの中で一番有名な曲)を踊るのが、徹君は嫌いでした。オクラホマミキサーなんかの明るい曲の後に、いきなりゆっくりのお囃子が流れ、太鼓とか三味線に合わせて踊るのが妙な感じでした。なんでこんな乗りの悪い曲がダンスの締めの曲になっているのかと思っていました。もっと変だと思ったのは、運動会を見に来ているお父さん、お母さん、おじいちゃんやおばあちゃんまで一緒に踊るのです。フォークダンスの楽しい曲では黙って見ているだけのお年寄りが、何とも寂しさを感じるかわさきの曲で踊り出してしまうというのは、徹君には解せない現象でした。
運動会の近付いたある日、徹君はお母さんにその話をしました。
「お母さん、今年の運動会見に来る?」
「うん、今年は休み取れたしなぁ。お弁当何食べたい?」
「何でもいいけど、ご飯はおにぎりにして」
「わかった。
博司君とこは、みんなして見に行くんか?」
「多分、お父さんとお母さんは来ると思うけど」
「そうか。いつも徹がお世話になっとるし、顔見たらお礼言わんならんなぁ。いっつも、いっつもおやつ用意してもらって、なぁ」
「お母さんもかわさき踊るの?」
「そやな、わからんけど、みんなが踊るなら踊ろかな。何で急にそんなこと聞くんや」
「...」
「何?お母さんが踊ったら嫌なんか?」
「お母さんっていうかさ、どしてみんな、かわさきになると踊るんや」
「そら、みんな知っとるでやん。誰でも踊れるし、子供の頃から踊っとるし」
「僕、踊っとらん」
「テレビばっか見て、踊りに行っとらんでやん。まぁ、中学生くらいになったら、行く子は毎晩でも踊りに行きとうなるんや」
「お母さんは?」
「お母さんもそうやった。踊り場で踊るのは、運動会で踊るのとは全然違うでンなぁ。一回行ったら、また行きとうなる」
「お母さん、今は行っとらん」
「そら、今は仕事があるでンなぁ。ご飯食べたら後片付けせんならんし、洗濯したり、乾いたのは畳んだりもせんならんし。
でも、思い出すと楽しい気持ちになってくるもんや。いっぺん行ってみると、ようわかるわ。博司君のおじいちゃんなんか、踊り上手で有名なんよ」
「おじいちゃん?博司君の?」
「そうや。なんよ、知らなんだんか、あんな有名人」
「でも、おじいちゃんの踊っとるとこ、見たことない」
「当たり前や。あの名人は、踊り場以外では絶対踊らん人や。そこがこだわりみたいなんや」
徹君はものすごくびっくりしました。いつも眉間に皺を寄せて、油にまみれて仕事をしているおじいちゃんに、そんな面があろうとは。あのおじいちゃんが踊るって、一体どういうことなんだろうと思いました。徹君のイメージでは、おじいちゃんはどちらかというと、不機嫌な顔で仕事をしていました。徹君たちの顔を見ても、笑顔を見せることは滅多にありません。前に博司君のお母さんが練炭火鉢で焼いた焼き芋をくれたとき、そのお芋がとても大きくて、一人では食べられそうもないなと思ったことがありました。その時、ちょうど休憩してお茶を飲んでいるおじいちゃんに、半分割って渡したら、おじいちゃんは「ありがとう」と言ってにっこりしてくれましたが、その時以来、おじいちゃんの笑顔は見ていないような気がします。その時だって、おじいちゃんのにっこりに、ちょっとびっくりしたくらいなのですから。
おじいちゃんが踊る。あのおじいちゃんが踊る。徹君は想像ができませんでした。
お母さんからその話を聞いた翌日、博司君に聞いてみました。
「博司君とこのおじいちゃん、踊り上手なんか?」
「どして急にそんなこと聞くんや?」
「昨日お母さんが教えてくれたんや」
「ふうん」
「そんなこと、今まで聞いたことなかったし」
「そうやなぁ、踊りのある日は、おじいちゃんが浴衣着て出ていくのは、当たり前になっとるで。特別なことでもないでンなぁ」
「そうなんか。そんにいっつも行くんか?」
「おじいちゃん、いつも出ていくの遅いで、僕は一緒に行ったことないけどな」
博司君が言うのだから、どうやら本当のことらしい。でも、やっぱり徹君には、あのおじいちゃんが踊っているところは想像出来ないのでした。
その話を聞いた時には、もうその年の踊りは終わってしまっていたので、徹君はおじいちゃんが本当に踊るのか、大きな興味を持ったまま、事実確認は翌年に持ち越されたのでした。
ただ、その話を聞いた後で、徹君は気が付いたことがありました。今まで気に留めていませんでしたが、博司君といると、色んな人に声を掛けられるのです。声を掛けて来た人はみんな、必ずと言っていい程「よしマ元気か?」とか、「よしマんとこの子か?」とか言うのです。よしマというのは、博司君のおじいちゃんのことで、芳次郎というのがおじいちゃんの名前なのですが、みんなはよしマと呼んでいました。
徹君のお母さんは病院で働いていましたから、お母さんのことを知っている人に出会うことはありました。八幡は狭い町なので、珍しい事ではありません。それでも、博司君のおじいちゃんの知名度は、群を抜いているように感じました。
翌年、徹君は小学校の五年生になり、春からお囃子を始めることになりました。博司君がお囃子の笛をやりたいと言い出し、ジュニアのクラブに入ることになったので、徹君も誘われたのです。
本当は、徹君はお囃子になんてまるで興味はありません。それどころか、郡上節は全部で十曲あるのに、まともに聞いたことがあるのは、かわさき一曲だけなのです。
とはいえ、博司君と同じことをやりたい気持ちもあり、なんとなくクラブに入りました。
徹君は、博司君が笛をやるなら、三味線か太鼓のどっちかにしようと思いました。同じ楽器より、違う楽器の方が、二人で練習するときも、楽しそうな気がしたからです。三味線は少し女の人っぽいように思えて、徹君は太鼓をやることにしました。そして、習い始めて初めて知ったのは、十曲のうち、笛、太鼓、三味線の全てが入るのは三曲だけで、太鼓のみがあるのが二曲、あとの五曲は歌のみで楽器が入らないのです。最初にレコードで聞いた時は、徹君は途中で寝てしまいました。徹君が聞きたいと思う音楽とは違って、なんだかお年寄りしか聞かない音楽のように思え、退屈になってしまったのです。なので、当面は太鼓の入っている五曲を覚えればいいやと、思っていました。家には太鼓はありませんから、座布団や柱を太鼓代わりにして叩く練習をしました。
博司君の家には相変わらず遊びに行っていましたが、おじいちゃんも、それこそ相変わらず眉間に皺を寄せて仕事をしていました。ずっと徹君はおじいちゃんの顔を見るたびに、踊りのことを聞きたい気分でしたが、なかなか聞けないまま夏が近付いて来ました。
梅雨に入って数日が過ぎた頃、徹君は野球を見ながらレコードをかけ、菜箸でいつものように、やる気があるのか無いのか分からないような太鼓の練習をしていました。小さなレコードプレイヤーは、隣のおじさんが、徹君がお囃子を始めたと知って貸してくれたものでした。時々針が飛んだりすることもありましたが、徹君の気合いも大したこと無いので、そんなには気になりませんでした。
お母さんが夕食の後片付けをしながら聞きました。
「今年は前座に出れるんか?」
踊りはいつも保存会の生演奏で行われるのですが、保存会の演奏開始前の三十分は、前座タイムなのです。各地域のお囃子クラブや、ジュニアチームが日替りで演奏するのです。
「六年生おるしな。五年生は上手なモンは出してもらえるかもしれんけど、僕は始めたばっかやし」
「そうか。いっぺん踊りに行ってみんか。お囃子やるようなもんがろくに踊れんでは、だちかんろ」
「…」
「嫌なんか?」
「なんか、お囃子って年寄り臭うないか?」
「今頃何言うんよ。大体、踊りにも行かんとお囃子やろうとしとるとこが、もう、だちかん」
「そうなんか」
「当たり前や。踊りに行って、踊りを覚えて、リズムも歌も覚えるうちに、お囃子もやりとうなるんや」
「なら、博司君踊れるんか」
「そらそうやろ。博司君に聞いてみなれ。
そうやな、踊りに行くんなら、徹の浴衣作らんならんな。お母さんも何年かぶりで一枚作ろかな。たまには少しの贅沢しても罰当たらんろ」
そう言いながら、何やらとてもいい思いつきをしたかのように、お母さんの後ろ姿は浮き浮きしていました。
徹君にはお父さんの記憶がありません。徹君がまだお母さんのお腹にいる時に、仕事で出かけた山の事故で亡くなったと聞いたことがあります。記憶にあるのは、ご飯を作ったり、洗濯物を畳んだり、掃除をしたり、いつも忙しそうなお母さんです。
お母さんは、お洒落もしない人でした。参観日でさえ、徹君のお母さんはいつもと同じでした。友達のお母さんはみんな、いつもより綺麗にしてくるので、徹君は以前、何でお母さんはお洒落しないのと、お母さんに聞いたことがありました。お母さんは少し悲しそうな顔をした後で、「絶対に内緒」と言って「お母さんが一番美人やでや」と笑いました。そんなことがあったので、お母さんはお洒落しない人だと思っていた徹君は、浴衣一枚のことでこんなに嬉しそうにしているお母さんは予想外でした。そして、その楽しい気分は部屋全体に漂っていて、徹君は「うん、浴衣買お」と言っていたのでした。
次の日曜日、徹君とお母さんは、二人で呉服屋さんに出かけました。そのお店は、お母さんのお母さん、つまり徹君のおばあちゃんがずっと仕立ての仕事をもらっていたお店でした。戦争でおじいちゃんが死んでしまったあと、おばあちゃんはずっと針仕事でお母さんを育ててくれたのです。何年か前におばあちゃんは死んでしまいましたが、毎年おばあちゃんの家には、春が過ぎる頃になると、巻いた布がどっさり置いてありました。あれは仕立てる前の浴衣の反物だったのだと、徹君は気が付いたのでした。
徹君は着物の柄なんて何にも分からないので、お母さんの横で静かにしていました。
反対に、お母さんは大はしゃぎでした。多分、徹君が今までで見た、一番はしゃいでいるお母さんでした。
最初に呉服屋のおじさんが見せてくれたのは、竜の柄の反物でした。徹君はかっこいいと思いましたが、お母さんは色合いを見て、それでは夜目に目立たないと言って、すぐさま却下しました。もっと、すっきりしていて、夜目に映える、粋な柄がいいと言いました。おじさんはお母さんの話を聞いて、お母さんの好みそうな柄を選んでくれました。沢山の反物の中から、明るめの紺地に、太めの白い線が鮮やかな麻の葉柄と、黒地に大小の色んな色の縞があるのと、濃紺に大きい格子の柄がお母さんは気に入りました。悩んだ挙げ句、最終的な決定権を徹君に譲ってくれたので、よくわからないままに、それでも、徹君は自分で自分の浴衣の柄を選ぶことが出来ました。徹君は麻の葉の柄を選びました。帯も持っていないので、縁に絞りのたっぷり入った兵児帯を買いました。この時代は既製品の浴衣なんてありませんから、みんな自分のサイズを測ってもらって、仕立ててもらわなくてはなりません。お母さんも、結婚前に和裁を習いに行ったことがあって、浴衣くらいは作れるかしらと悩んでいましたが、やはり時間がなくて、踊りの始まる前にできないかも知れないということになり、仕立てに出すことになりました。呉服屋のおじさんが徹君の寸法を測ってくれている間も、お母さんはずっとにこにこして楽しそうでした。
徹君の浴衣一式で、予算オーバーしてしまったので、お母さんは結局自分のを買いませんでした。徹君はお母さんが、自分の物を何も買わなかったので、なんだか少しお母さんが可哀想な気分になってきました。
「お母さん、買わんで良かった?」
「うん」
「でも、僕多分すぐ大きゅうなって、今日買ったの着れんようになるよ」
「そうやなあ、仕立て直しできるように頼んだけど、丈伸ばすと折り目から色変わっとるやろなあ。でもまあ、帯は使えるしな」
「お母さん、今年は踊りに行くんか?」
「一緒に行くか?」
「お母さん、浴衣無いろ?」
「あるわ。昔のやけど」
「お母さん、浴衣着るんか?」
「なんよ、着たらダメなんか?」
「いいけど、なんか、お洒落したお母さんと歩くの恥ずかしいなあ」
「なあんよ、ほんなら、踊り場では別々におったらええがぁ」
母さんは踊りには行く気満々のように見えました。自分の浴衣は買わなかったけれど、お母さんはとても満足しているように見えました。お母さんをこんなに嬉しそうにさせてしまう踊りとは、一体どんなものだろうと、徹君は思いました。
発祥祭(踊りの初日)が近付いて、浴衣が出来上がりました。八幡の縫い子さんたちは、この日に間に合うよう、徹夜してでも浴衣を仕上げるのです。
仕事帰りに浴衣を貰って来たお母さんは、帰るなりご飯の支度も忘れて、徹君に浴衣を羽織らせました。お母さんはやっぱり似合うとか、男は粋でないととか、一人で喋ってはしゃいでいました。徹君は発祥祭が近付いて来るにつれて、少し面倒臭い気にもなっていましたが、お母さんの様子を見ていたら、やっぱり行かないとは絶対に言えませんでした。
発祥祭には博司君も一緒に行くことになりました。お母さんは朝、お米を洗って炊飯器にセットし、徹君に夕方五時半に火をつけるよう言いつけて(この時代、タイマー機能はありませんから)仕事に出かけました。
夕方、六時半頃に浴衣を着た博司君がやって来ました。
「うち、お母さん帰って来るの七時頃なんや。遅うならんか?」
「ええろ。今日は十一時までやし、遅れても、また夏の間に行けるし」
「そやけど、お母さん帰ってから、浴衣着せて貰って、その後でお母さんが着るの待っとると遅うなる」
「なんよ、自分で浴衣着れんのンか」
「博司君着れるんか」
「徹君自分で着たことないんか」
「ない。これ初めて買ってもらったし」
「そうなんか。簡単やで、教えてやるで自分でいっぺん着てみなれ。その帯なら蝶々結びやし」
「ほんとや。博司君の帯、僕のと違うな」
「今年から、お父さんの角帯使えって、おじいちゃんが言ったんや。去年までは博司君みたいなやつの、子供のやつしとった」
「僕のは子供用なんか?」
「はは、違うてぇ。本当は浴衣にはそっちらしいんやけど、踊りの時は、こっちのする人が多いんや。お父さんあんまり踊りに行かんし、勿体ないで博司使えって、おじいちゃんが言ったんや。もう大きゅうなってきたし、お父さんの使えばええって」
確かに博司君は、クラスでも三番目くらいに背が高く、すらりとしていました。その博司君が浴衣を着て、腰の低い位置できりっと帯を締めている様子は、とても大人びて見えました。
博司君は徹君に浴衣の着方を教えてくれました。男は女と違って、「おはしょり」が無いから簡単だと言っていましたが、徹君には「おはしょり」が何だか分かりませんでした。浴衣の下には、襟ぐりのあいた下着を着ないと、襟元から下着が見えてかっこ悪いとか、子供は腹のあたりで帯をするけど、大人の男の人は腰骨の辺りで締めるんだとか、結び目も、女の人と違って真後ろでは結ばず、少し横で結ぶのだとか、徹君が全然知らないことを博司君は知っていました。
初めて着た浴衣に、少しどきどきしながらもちょっと得意になっていた徹君ですが、姿見で博司君と並んだ時に、何とも言えない違和感がありました。同じように浴衣を着ているのに、どこかが違うのです。帯の違いでもなく、柄の違いでもなく、背の高さの違いでもなく、どこがどう違うのか分かりませんでしたが、どこかが違っていました。
少しすると、お母さんが帰って来ました。二人を見ると、お母さんはとても嬉しそうな笑顔になりました。
「なんよ、徹。博司君が着せておくれたんか」
「手伝ってもらって、自分で着た」
「そうか、ありがとな、博司君。さすがに博司君は着慣れとるなあ。堂々としとるなあ」
博司君は照れて、「そんなことないし」と笑っていました。徹君はそこで初めて気付きました。お母さんの言ったように、博司君は堂々としているのです。浴衣を着ていても、いつものTシャツの時と同じように動けるのです。初めて着た浴衣に緊張して、ぎこちない徹君とは、雰囲気そのもの、たたずまいが違うのです。
「博司君、ご飯食べてきたか?」
「食べてきた」
「そうか、徹食べとらんで、良かったら今おにぎり作るし、一緒に食べなれ」
「え、お母さん、今日のご飯、おにぎりなんか?」
「時間無いで、仕方なかろ。冷蔵庫に、昨日向かいのおばさんがくれた漬物、たんとあるで、出しなれ」
「漬物とおにぎりって、昼御飯みたいや。おにぎり好きやでええけど」
「帰ったら、また何か作ってやるわ」
「お母さん、今日はお店出とるに」
「踊り始めたら、最後まで踊りたいし。途中抜けてうろうろするうちに踊れん曲が出来るろ」
「お母さん、ずっと踊る気なんか」
「当たり前や。何年ぶりに行くと思うんや。今日は徹夜と違って、十一時までやで。猫の子やさわぎなんか、一回しかやらんで、絶対逃しとうないんや」
そう言いながら、徹君が忘れず炊いたご飯で、いくつもおにぎりを作りました。徹君は冷たい麦茶を三つ用意し、おばさんがくれた茄子ときゅうりのお漬物をテーブルに出しました。博司君にもおにぎりを食べるように勧め、自分も食べ始めました。博司君はお腹は空いていませんでしたが、徹君や徹君のお母さんの楽しい雰囲気に誘われるように、一つだけおにぎりを食べました。
二人がおにぎりを食べている間に、お母さんは別の部屋で着替えて来ました。初めて見るお母さんの浴衣は、紺地に大きな朝顔の柄でした。
「もう、こんに大きな朝顔、ちょっと派手やろか」
「そんなことないろ」
「おばさん、もっとみんな派手やし。全然気にならんて」
「そうか、これ、徹のお父さんと一緒に踊りに行くとき、よう着たんや」
「そうなんか、お父さんの浴衣はあるんか」
「お父さんのは、棺桶に一緒に入れてやったんや。踊り好きやったでな」
話しながら、お母さんは飲み込むようにおにぎりを一つ食べました。麦茶を一気に飲むと、
「行こか」
と、二人に言いました。
三人が会場に着くと、最初の曲が始まっていました。それは古調かわさきという曲で、太鼓は入っていません。徹君が面倒くさがって、まともに聞いたことがない曲です。お母さんは、
「ちょうど始まったとこや。保存会の会長の挨拶なんか終わった後で良かったわ。
今日は人が多いで、もしはぐれたら、帰りに新橋のこっち側で待ち合わせしよ。多分はぐれても踊っとるうちに会えるけどな」
と言いました。徹君は全然踊った事がないので、輪の中に入る勇気が出ませんでした。
「お母さん、もう踊るんか」
「当たり前や。いつ踊るんよ」
「これ、知らん曲やし」
「誰でも最初は知らん曲ばっかやん。踊りながら覚えるんや。踊りは上手な人をお手本にして、見ながら覚えるんやで。博司君の後ろについて踊りなれ」
博司君を先頭に、徹君、お母さんの順番で輪の中に並んで入りました。博司君は目立つ程上手ではなかったけれど、確かに踊りを知っている人の踊り方でした。輪の中で踊っていると、博司君は色んな人に、「今日はおじいちゃん、おいでるか?」とか、「よしマ一緒に来なんだンか」とか言われていました。そういう人に、また別の人が、「よしマは、もっと遅い時間や」「まンだ早すぎるわ」「九時過ぎしかおいでんよ」とか言っていました。大人達に照れくさそうに短い返事をする間も、博司君の踊りは乱れません。もう踊りを覚え切ってしまっているのでしょう。徹君は、浴衣の着方を知っていたり、踊りをスムーズに踊れたりする博司君が、自分より大人に思えました。いつも一緒にキャッチボールをしている博司君より、ずっとかっこよく見えました。
そしてまた、お母さんにも声をかける人が何人かいました。
「なんよ、久しぶりやし!」
「また来られるようになったんか」
「坊、大きゅうなったンなあ」
お母さんも答えました。
「あれ、久しぶり!」
「そうなんよ、今度は子供も一緒なんや」
「大きゅうなったで、連れて来たんや」
お母さんは病院の他は、たまに参観日で学校に行くだけなので、何年も会えない人に久しぶりに会えて嬉しそうです。みんなが自分のことを覚えていてくれるのも、久しぶりに会った人達が元気そうなのも、そんな昔馴染みとまた一緒に踊れるのも、全部が楽しそうでした。
郡上踊りは、激しい踊りは一つもありませんが、ほんの五分も踊ると汗が吹き出てきます。踊りそのものにまだ慣れていない徹君は、三十分程踊ると汗だくになって、休憩したくなってきました。お母さんに言うと、お母さんも久しぶりに踊りに来たので、少し休もうかということになりました。
三人で踊りの輪の近くでかき氷を食べていた時、誰かが「よしマ!」と言いました。その声に反応するように、声のした辺りの輪が乱れ、途切れました。踊り手達が、道を開けたのが分かりました。そこから踊りの中央に入って来たのは、博司君のおじいちゃんでした。
「あ、よしマ来た!」
お母さんがかき氷を食べながら、まるでアイドルの話をする徹君の同級生の女の子たちみたいな目で言いました。普段は絶対に「博司君のおじいちゃん」としか言わないのに。
博司君のおじいちゃんは踊っていました。いつもの、ただ真剣なのか不機嫌なのか分からない、眉間に皺を寄せているおじいちゃんとは、まるで別人でした。おじいちゃんはとてもにこやかでした。ただ笑っているのではなく、幸せそうな顔をしていました。そしてまた、おじいちゃんの踊りは、みんなと違っていました。違うといっても、振りが違うわけではありません。同じ振りで踊っているのに、誰も真似出来ない踊り方なのです。
よしマは、踊りの一番中央の輪にいて、常連の踊り手達みんなに、「こんばんは」とか「久しぶり」とか言われていました。徹君は、博司君のおじいちゃんには、何か別のものが憑依しているようにしか思えませんでした。それほどに、いつもの博司君のおじいちゃんと、目の前のよしマは違っていたのです。
徹君は、いつも太鼓が入っていない曲だからといって、ろくに聞いてもいない曲の中にも、踊り手に人気の曲があると知りました。猫の子という曲では、踊りながら「にゃおーん」と鳴いている人もいて、びっくりでした。他の曲も、みんな踊りながら「こらサ!」とか「とこドッコイ」とか、上手に合いの手を入れていました。最後に、締めの曲まつさかを踊る頃には、徹君はまた踊りに来たいと思うようになっていました。
「博司君、また踊り行くか?」
「そうやな、でも、ラジオ体操ある時は、前の日にまつさかまで踊って帰ると、眠うて朝起きれんのや」
「そうか。なら、体操は日曜休みやで、土曜日の踊りのある日ならええんやな」
「そうや、大抵土曜日はあるでンなあ」
「博司君、全部上手に踊るなあ」
「今まで、徹夜の日しか行ったことないけどな。いっつも、屋形のおじさんたち、かっこええなあと思って。今日、中村さんの笛やったな」
「うん、見たことあるおじさんやと思ったら、いつもお囃子教えにおいでる人やと思って」
「屋形におると、かっこええと思わんか?」
「うん、かっこええ」
「春駒の高い音、ぴいって聞こえると、あんな風に早う吹けるようにないたいと思うんや」
「うん、春駒、ええなあ」
「げんげんばらばらは、太鼓難しそうやな。太鼓が遅うなったり速ようなったりすると、みんなが遅うなったり速ようなったりするで。間違えると全員が止まってまうしな」
二人の会話を聞きながら、お母さんが言いました。
「二人とも、早よう上手になるとええンなあ。お母さん、早ようお囃子に合わせて踊りたいンなあ」
帰りにお母さんはたこ焼きを三つ買いました。一つは家に持ち帰るよう、あとの二つは博司君に渡すようにです。
「こんなもんで悪いンなあ。お家の人にいつもありがとうって言っといてくれるか。徹がいっつも世話になって」
「うち、お母さんが、徹君は裕子のこと邪魔にせんでええって。他の子は裕子と遊んでくれんけど、徹君は優しゅうてええ子やって」
「ありがとう。博司君もええ子やな」
家に帰ってから、お母さんが聞きました。
「徹、裕子ちゃんと遊んでやるんか」
「そんにいっつもやないけど。輝夫くんとか来て、三人になると、キャッチボールも交替になるろ。そういう時は、裕子ちゃんがおれば、相手してやるんや」
「何するんや」
「絵描いたり、あやとりしたり。僕あやとりしたことないで、裕子ちゃんに教えてもらったんや」
「ははは。そらよかった。徹は兄弟がおらんで、仲良うしなれ」
「裕子ちゃん、僕の方が仲ええんやで。時々博司君には怒られて拗ねとるもん」
「そうか。裕子ちゃんは大きゅうなったら美人になるやろうな。今も可愛らしいもんな」
徹君は、あの小さい裕子ちゃんが大きくなるというのが、今一つピンと来ませんでした。
その夏、徹君は何度か博司君と一緒に踊りに行きました。なんとか全曲覚えて、上手ではありませんが、間違えずに踊れるようになりました。お囃子は、前座にも出してもらえませんでした。下手なので仕方ありません。
次の年、六年生になって、一度だけ前座に上がることが出来ました。お囃子のジュニアチームには、他にも太鼓のメンバーがいる上に、前座に上がれる回数は限られているため、屋形に上がれる太鼓は一人なので、どうしても交替になるのです。
徹君は、初めて踊りに行ってから、それまでは博司君に付き合って嫌々やっていたお囃子にも熱が入るようになりました。博司君が上手になりたいと言っていた春駒は、最初と最後では速度が違います。段々速くなっていくのです。速度が変わっていくと踊りも盛り上がり、それを見ていると、早く屋形の上で太鼓をやりたいと思うのでした。
翌年、二人は中学生になりました。徹君はブラスバンド部に入って、ドラムをやることにしました。お囃子で太鼓をやっているうちに、叩いてリズムを刻むということが楽しくなってきたからです。博司君は野球部に入りました。二人とも部活で忙しくなり、帰りもなかなか一緒になることもなくなってしまいました。試合の応援に行くときも、野球部とブラスバンド部は目的地は一緒でも、別々に集合して移動しましたので、二人は学校の廊下ですれ違う時くらいしか言葉も交わさなくなりました。
徹君は中学生になってからは、小学生の頃より頻繁に踊りに行くようになりました。反対に博司君は、野球の練習がキツイのか、ほとんど行かなくなりました。お囃子の練習も、在籍はしているようでしたが、顔を出すことは無くなってしまいました。
数年が過ぎ…。
今年二十四歳になった徹君は、高校卒業後働いていました。地元の自動車部品の会社です。大手の下請けで、産業の少ない郡上には、雇用の面でありがたい会社です。
徹君は大学に行くつもりは、少しもありませんでした。中学生になった頃から、お母さんとは会話も少なくなりました。男の子ですから、それが普通なのかもしれません。でも、徹君はいつも、早く働いてお母さんを安心させてやりたいと思っていました。郡上には大学はありません。進学するとなると都会に出ねばならず、徹君の家には、とてもそんな余裕はありませんでした。もともと、勉強も好きではなかったので、テスト前だけ少し頑張って、中の上くらいといったところでした。そのため、先生が進学を勧めてくれても、自分のことを客観的に見て、進学しなくては勿体ない程の成績でもあるまいしと思っていたのです。
そして何より、徹君は八幡で暮らしたかったのです。雪深い冬も、待ちかねた春も、踊りの夏も、紅葉の秋も、手放したくないものでした。都会に憧れる気持ちも少しはありましたが、八幡からすっかり出て行ってしまうことは、考えられないことでした。
徹君は社会人になってすぐ、保存会に入っていました。生まれつきの八幡っ子でお囃子好きの徹君は、保存会の年上の人にも可愛がられました。練習にも真面目に参加していましたので、二十歳になった頃には準レギュラーくらいになっていました。
博司君は、高校も岐阜市の学校にスポーツ推薦で入り、名古屋の大学で野球を続けていました。そのため、徹君とは本当に接点が無くなってしまいました。
「お母さん、博司君のことおばさんに聞いた?」
「聞いとらん」
「社会人でも野球しとるろ?」
「今年の春に怪我してから、本人あんまりやる気ないって、前に聞いたしな」
「お盆、帰って来るやろか」
「来るやろ。徹、徹夜誘ってやったらどうや。お母さんも久しぶりに会いたいし、うちでご飯食べたらどうや」
「うん、お盆に電話してみる」
その年、お盆に徹君は博司君に電話をしてみました。徹夜に誘ってみましたが、博司君はあまり乗り気ではありませんでした。徹君のお母さんも会いたがっていると言うと、とりあえず、ご飯を一緒に食べることは承諾しました。
電話の翌日、博司君は綺麗な女の子を連れて徹君の家に来ました。徹君は博司君の彼女かと思いましたが、その直後にお母さんが「あれ、裕子ちゃんも一緒なの」と言ったので、それが博司君の妹の裕子ちゃんだと分かりました。
「裕子ちゃんか、お母さん、ようわかったな」
「そら、今までも病院で見かけることはあったでな。風邪ひいたり、眼科に来たり、なあ。徹は何年ぶりや」
「わからん。十年くらいは会っとらんかも」
「博司君も裕子ちゃんも上がりなれ。博司君、相変わらずかっこええなあ」
博司君は、もともと大人しい子でしたが、更に静かな大人になっていました。お母さんの作ったご飯を食べながら、しばらくすると博司君は少しずつ話し始めました。
「今、もう野球はしてないんや。好きで頑張って来たけど、僕くらいの程度のヤツ、掃いて捨てる程世の中にはおるんや。頑張っても頑張っても、ドラフトになんか引っかかることもなく、社会人でも、そう簡単にレギュラーなんて無理や。そう思ったら、いつまで野球やるんか、悩んどる時に怪我したんや。そしたら、なあんや、気持ちが切れて…」
「お兄ちゃん、暗いろ。今の仕事、嫌々行きよるんやで」
「そういう裕子ちゃんは、もう幾つなんや?」
「嫌やなあ、徹君より五つ下やんか。忘れたんか。もう今年から社会人やで」
「へえ、どこ行きよるんや?」
「役場の観光課」
「また、ええとこ入ったし」
「たまたま受かったんや。お兄ちゃん、帰って来るかどうかわからんろ。そう思ったら、上の学校行くより、地元の長く勤められるとこに就職しようと思って。運良く受かったし、絶対辞めんよ。
ろくな産業もないとこやけど、踊りは重要な観光資源やで、夏は忙しいけど楽しいことも多いしな」
「裕子のこと見とると、なんか、自分はやる気もなく仕事行きよるなあて思うんや」
幼い頃、博司君は、徹君のいつも一歩先を行く存在でした。得意がることもなく、キャッチボールも、踊りも、浴衣も、教えてくれたのは博司君でした。同級生なのに、お兄ちゃんみたいな相手でした。いつも博司君は飄々としながら、堂々としている、頼もしい友人でした。
何だか徹君は少し悲しくなって来ました。
「博司君、博司君はずっとやりたいことがあって、それが出来とったで、そんなにがっかりするんや。僕なんか、最初から賢くもないし、取り柄もないし、八幡で生活出来るんなら、どこでも同じやと思って就職しただけやでなあ。今の仕事も、やりたくてやっとるかって聞かれたら、そんなことないでな。
ただ、責任持って仕事はするし、もっと覚えようと思うし、先輩のオッサンたち見よると、あの人はすごいなと思う人、たかが下請けの会社でも、確かにおるしな。そんな人も、最初からその仕事やりたいと思ってやってきた訳やないと思うで。
博司君、今が普通なんやと思うで、僕らから見たら」
「親が、っていうか、家族みんなが、寝る間も惜しむようにして仕事して、僕のこと学校行かせてくれたこと思うと、こんなんでええんかって思えて来るんや」
それを聞いて徹君のお母さんが言いました。
「ええに決まっとる。博司君はずっと頑張って来たんやし、みんなは応援してくれたんや。博司君が頑張りもせんと遊んどったら別やけど。
おばさんなあ、徹は自分で大学も行かん、地元に残るって決めたけど、このうちに、もっとお金があったら、やりたいことあったんやないかと思うことがあるんや」
徹君は少し驚きました。そんな風に思われていたなんて。
「僕はもともと大した目標なんて持たん人間やで。なんとか働いて、そのうち結婚したら、なんとか子供育てて、その間もずっとお囃子や踊りをやっていけたら、そんでええんや」
「はは、目標低いな。そうか、ほな、会社が潰れんように、お母さん祈っとくわ。徹が低め安定で満足する子に育ってありがたいな。そやけど、徹の嫁さんも、低め安定で満足してくれる子やないとなあ」
裕子ちゃんが話し始めました。
「うち、おじいちゃん弱って来とるし、お兄ちゃんに帰って来てもらってもええんや。お父さんは、お兄ちゃんが帰って来んなら、お母さんと頑張れるうちは頑張って、出来んようになったら工場は閉めればいいって言ったけど」
「そういや、おじいちゃん、最近踊りにおいでんな」
徹君が言いました。踊り場の名物おじさんの姿が見られなくなって、常連の踊り手たちも心配しているのです。踊りが終わって帰る時など、よしマのことを聞かれることは度々ありました。
「そうなんよ。もう年も年なんやけど、去年、足骨折してから、治りが遅うて家におるうちに、体力も落ちてきてなあ」
「そら心配やな」
「まあ、いつまでも元気なまんまではおれんでなあ」
「博司君、こっちに帰る気はないんか?仕事とか、あんまり大げさに考えなんだら、もっと身軽に動けるし。なんか、今の博司君、元気ないがな」
博司君は黙っていました。帰って来たいようでもあり、また帰りたくないようでもありました。徹君は続けました。
「人にはこだわりってもんがあるで。僕が八幡で暮らすことが第一優先やったように、博司君が一番譲りたくないところはどこかって考えたらええンないか。…帰ってきたら、少しは元気になれるンないか?」
「…。そうやな」
その日はそれ以上、博司君の仕事の話はしませんでした。
徹夜踊りの日は、お囃子も交代で屋形に上がります。徹君は最後の組だったので、それまで三人で踊ることにしました。お母さんは、徹君が屋形で演奏する時間になってから行くので、それまで家で休むと言っていました。
踊り場は人でごった返していました。徹君はいつもの保存会のメンバーと会うと、お互い挨拶を交わしました。踊りの常連さんとも声を掛け合います。その合間に、滅多に会わない同級生や、部活の先輩、後輩に会えば言葉を掛けます。
「徹君、顔広いな。大人になったって感じがする」
博司君が言いました。
「そんなことないて。太鼓やっとるで僕の顔知っとる人が多いだけや。それ以外は学校の時の知り合いと、会社の人だけやで」
「でも、徹君は大人しいイメージやったで」
「今でも大人しいて。保存会でも自分が我先に屋形に上がりたい人は、当番少ないと文句言ったりするけど、僕はそんなことよう言わんでな。
ただ、当番の時は、みんなが楽しゅう踊れるように太鼓やりたいと思うだけや。本当は芸を極めるくらいの勢いで練習もした方がいいんやろうけど、僕はそんな気持ちあんまりないんや。とにかく、踊る人が楽しゅう、踊り易うなかったら、どんだけ上手でも、お囃子の意味ないと思うんや。
こんなこと、大先輩方の前では絶対言わんけどな。ははは」
「そうか、何て言うか…。徹君、八幡にすっかり馴染んどるな」
「当ったり前や。生まれてからずっとここにおるんやで。ここしか知らんのやで。馴染まんでどうするんよ」
「そらそうやな」
「自分のこと、時々頼りないヤツやなと思うんや。僕、すぐ現状に満足するでな。
この町も、近所の目とか、噂話とか、うるさいとこも多いで、嫌なときもあるんや。でもまあ、反対に、昔ながらのご近所付き合いがあって、子供も周りがみてくれるようなとこもあるし、一人暮らしの年寄りも寂しいことないと思うんや。
煩わしい反面、ありがたいことやと思うんや。うちの親の帰りが遅うても、僕が子供の頃、そんに寂しいと思わんで済んだんは、博司君の家族や、近所のおばさんたちのお蔭やと思うでな」
「徹君は、八幡好きなんやな」
「鬱陶しいことも多いけどな。まあ、どこにおっても、全部満足ってことは無いでンなあ.
この前なんか、家具屋のご主人、まったく気の毒やったんやで」
「なんかあったんか?」
「見慣れん名古屋ナンバーの車が、長いこと停まっとるって、それだけでもう早や噂や。誰が聞いたんか知らんがよ、すぐに、どうもカツラ業者の車やったらしいって」
「ははは、八幡らしいわ」
「そんだけやないで。納品に来たら来たで、近所のモンの方が、おー、来た、来たってなもんで。町内の有線放送で『これから、家具屋のともさんがカツラを被ります』って、しゃべられて」
「ええっ。それはないやろ」
「それがあるのが八幡や。わかるろ」
「まぁ、らしいといえば、らしい話や」
「まったくよ。結局、御主人、カツラは被る意味ないがな。そんにばらされたら。やで、堂々とはげよる」
「ははは」
「まぁ、そのくらい、見て見ぬふりの出来んとこやってことや」
その夜、徹君の太鼓を聞きながら、博司君と裕子ちゃんは明け方まで踊っていました。博司君は、同級生何人かに声をかけられて、照れくさそうにしていました。途中からは、眠そうな徹君のお母さんも来て、最後のまつさかまで踊りました。
帰りに博司君が言いました。
「なんか、同級生に会うと帰りとうなるんなあ」
「まあな。でも、今日会った半分くらいは、こっちにおらんでなあ。盆やで帰って来とるだけで」
「そうなんか」
「そらそうや。こっちは田舎やし、出て行ったもんは多いでなあ。やけど、辛い思いして帰ってきたやつもおる」
「そういう時、帰りとうなるんもんなあ」
「都会で頑張っとるやつも、たまに帰ってくるのは、元気になりたいでやないんか」
徹君と博司君のやり取りを聞いて、お母さんが言いました。
「いつでも帰って来なれ。頑張ることも大切やけど、病気になるほどは無理しなれんな。身体も心も」
「そうやな、いつでも帰って来られると思えば、もう少し頑張れそうや」
博司君はそう言って少し笑いました。もう明るくなり始めた朝の空気の中、博司君の笑顔も少し明るくなったように徹君には見えました。
その日以降、裕子ちゃんはよく踊りに来るようになりました。徹君は太鼓の当番ではない時も踊りに行っていたので、裕子ちゃんが来た日はいつも送っていきました。裕子ちゃんの住む上ヶ洞は暗いので、徹君は柳町の自分の家を通り越して、裕子ちゃんを家まで送って行きました。
踊りの後、いつも一緒に歩いて帰る二人のことを、みんなは噂するようになりました。なにしろ、八幡は狭い町です。裕子ちゃんは役場でも評判の美人でしたし、徹君は平均年齢の高い保存会の中で若手のホープだったので、保存会のおじさんたちによくからかわれました。
でも、踊りシーズンが終わると、また裕子ちゃんとは会わなくなりました。八幡ではよくあることです。そしてまた、翌年になって踊りが始まると、踊り好きたちは同じように集まるのです。
よしマは踊りに来られなくなってから、二年ほどして亡くなりました。
徹君は、初めて踊りに行った時、多分よしマがいなかったら、こんなに踊り好きになってはいなかっただろうなと思うのでした。お囃子が楽しいのも、もしかしたら、こんなにこの町が好きなのも、あの日が境だったような気がするのでした。
そうして幾つかの夏が過ぎ、毎年一年ぶりに会う裕子ちゃんは、その度に大人の女性になっていきました。
徹君は裕子ちゃんがそろそろ結婚するんじゃないかと思っていました。美人で元気な裕子ちゃんは、とても人気がありました。すらりと背が高く、まとめ髪に浴衣を着ているとモデルさんのようで、観光客から写真を撮られたりするほどでした。踊りの時はいつも楽しそうな笑顔だったので、踊りの常連からは、「さすがよしマの孫やな」と言われていました。常連の若者の中には、裕子ちゃんを狙っている男の子が何人もいるのを徹君は知っていました。なので、そろそろ決まった相手がいても当たり前だと思っていたのです。
とは言っても、裕子ちゃんは、いつも一人で踊りに来て、最後まで踊っていました。常連の誰かが声を掛けて、並んで踊ったり、帰り際に立ち話をしていたりしても、徹君が帰りかけるのを見つけて、裕子ちゃんの方から話しかけるので、なんとなく徹君が毎回送って行くことになっていました。
徹君はというと、同級生たちが次々に決まった相手を見つけていく中で、自分がそういう相手を見つけるということが、まだまだ遠い未来のような気がしていました。趣味はほぼお囃子だけで、夏は釣りもしましたが、だからといって、女の子を呼んで川原でバーベキューをしようとか、自分から言い出すような人間でもなかったのです。
ただ、付き合いはいい方なので、声がかかれば、徹君はそういう集まりにも参加していましたし、穏やかで真面目な徹君は、中肉中背といったところでしたが、優しい性格がそのまま顔つきにも表れていて、そこそこ女の子にはモテていました。年上の女の人からは特に可愛がられていました。
ある時、バーベキューに誘われた徹君は、集まった何人かの中に、裕子ちゃんがいることに気付きました。他にも何人か役場職員が来ていました。
徹君は、ここ数年浴衣の裕子ちゃんしか見ていないので、半袖のTシャツからすらりと伸びた白い腕に、ちょっとどきどきしてしまいました。目のやり場に困って、川に釣糸を投げました。朝早くから来ていて、みんなが集まった頃には今日の分の鮎は釣れていました。なので、もう釣りをする必要はなかったのですが、なんとなく、徹君は輪から外れて糸を垂らしていました。
火がおきて、準備ができたようだったので、徹君も釣りを止めて輪に入りました。
「裕子ちゃんの、優しい徹君登場」
誰かが言いました。徹君は何のことか分からず、きょとんとしていました。裕子ちゃんの友人らしき女の子が言いました。
「お兄さん、知らんと思うけど、お兄さん役場で有名なんやで。太鼓のお兄さんは、裕子ちゃんの優しい徹君やって」
「ちょっと、やめて」
裕子ちゃんが慌てています。そんな裕子ちゃんを同僚たちは更にからかい始めました。
「ええがな。坪井君も田中君も池戸君も、裕子ちゃんに脈がないのは、優しい徹君のせいやって怒っとるんやで」
「前に池戸君が、『保存会の太鼓の兄さん、裕子ちゃんの彼氏なんか?いっつも一緒に帰るけど』って聞いたら、『違うけど、うちの周り暗いで、家まで送ってくれるんや。徹君、優しいんや』って言ったらしゅうて」
「あん時、池戸君、怒りよったもんな。なんで彼氏でもないヤツのこと、あんなノロケるような顔してしゃべるんやって、なあ」
「あれ以来、踊りに行った人は、裕子ちゃんの徹君、昨日屋形の当番やったな、とか言うもんな」
「坪井君なんか、保存会の人に、わざわざお兄さんの当番の日聞いて、その日は踊りに行かんようにしとるんやで。『優しい徹君の太鼓では踊りとうない』とか言って。悔しいで 」
「役場の益田さん、知っといでるろ?この前、飲み会で一緒やったろ?あの後役場で、優しい徹君は、他の女の子にも優しい徹君やったぞとか、わざわざ裕子ちゃんにしゃべりに来たんや。そしたら、その日一日、暗いんやて。あんまり暗いで、みんなから益田さん、おまん、裕子ちゃんに何言ったんよって責められて、後から謝りに来たんやで。いじめるようなつもりで言ったんでないで、とか言ってな」
「あいつはいつも要らんことしか言わんでな。鬱陶しいで今日も誘わなんだんや」
裕子ちゃんの顔は真っ赤になっていました。夏の日差しで焼けたせいばかりではありません。
「裕子ちゃん、あんまりこういう集まりには参加せんのやけど、今日は徹君が来るはずやって言ったら来たんやで」
徹君は裕子ちゃんが困っているようだったので、少し口を挟みました。
「なかなか遊びに行かんのは、工場が忙しいでや。おじいちゃん亡くなったし、おばあちゃんも年取ってきて、実質ご両親二人でやっといでるでな。休みの日はいつもお母さんの手伝いせんならんのやろ」
裕子ちゃんがほっとしたように付け加えました。
「そうなんよ、おじいちゃん死んでから、おばあちゃんもがっくり来たんか、弱ってきて。ずっと工場で仕事も一緒、ご飯も一緒やったで。あんまりしゃべらんおじいちゃんに、おばあちゃんが一方的にしゃべっとったような夫婦やったけど。年も年やで仕方ないけど、最近は仕事も前のようには、ようやらんのや。やで、休みの日くらいは、私も家のことやらんと、お母さんの休む時がないんや」
同僚がまたそこで言いました。
「そうなんか、今日はたまには行っといでって、お母さん許してくれたんか」
「ほら、お母さんも、徹君がおいでるなら行きなれってことやろ」
「もうええて。他の話にして」
徹君は楽しい気分になっていました。裕子ちゃんがみんなに好かれているのがよくわかりましたし、裕子ちゃんが好かれているから、自分もその仲間に好意的に接してもらえるのだと思いました。
その日の夕方、裕子ちゃんのことは、踊りの時のように、当然であるかのごとく徹君が送っていくことになりました。
「裕子ちゃん、役場に誰かええ人おらんのか」
「…おらん」
「そうか、なら、うちに嫁に来とくれるか?」
突然の言葉に、裕子ちゃんは驚きました。暑さのせいで、徹君が少しおかしくなったのではないかとさえ思いました。
「みんなが色々言ったでって、気にせんでええよ。徹君、私と付き合っとるわけでもないし」
「子供のころから付き合いは長いで。お互いに、そこらのカップルより、よっぽど分かり合えとる気がする」
「でも、それと結婚したいと思う気持ちは違うろ?」
「今日ずっと考えた。なんかな、考えるうちに、裕子ちゃんの他にはおらんような気になってきたんや」
「一生のこと、もっと慎重に考えなぁ…」
「裕子ちゃんが嫌なら、この話はもうやめる」
「…嫌やない。でも、私が考えたのは今日一日と違う。もっとずっと前からや」
「ずっと前から考えて、今どうしたいと思っとるんよ」
「…、もうずっと前から、徹君のとこしか行きとうない」
「なら、よそになんかやらん。うちに来たらええ」
「でも、徹君は、他の人でもええと思っとるろ?」
「思っとらん。裕子ちゃんは、どこでも人気者やったで、とっくに誰か決まった相手がおると思っとったんや。僕でええんなら、もっと早うお願いすればよかったな」
「高校生の時、たまに踊りに行っても、徹君、私のことちっとも気付いてくれなんだ。屋形の徹君、かっこよかったし、楽しそうやし、みんなと仲ええし、私も早う大人になりたかった。徹君が他の人と結婚したらどうしようと思っとった」
「なんよ、高校生なら、五、六年か、七、八年も前か?」
「違う。一番初めは、二人であやとりしたときからや。徹君は覚えとらんろ」
「よう覚えとる。僕のあやとりした相手は、後にも先にも裕子ちゃんだけや」
その日の夜、徹君は太鼓の当番になっていたので、屋形に上がっていました。裕子ちゃんも浴衣に着替えて来ていました。
徹君はお囃子に出かける時に、お母さんに、裕子ちゃんが嫁に来てくれるかもしれないと言って出て来ました。お母さんは、言葉も出ないほど驚いた顔をしていました。今日は帰ったら質問攻めは間違いありません。
踊りが終わったら、今夜もまた、裕子ちゃんを送っていくことになるだろうと思いながら、家族がもし起きていたら、裕子ちゃんとのことは、認めてもらえるように話をするべきだろうか、いやいや、夜更けに、保存会の浴衣のままでそんな話をするのは、いくら親しい間柄でも失礼だろう、いや、そんなことにケチをつけるような人たちではない、とはいえ、親しき仲にも礼儀ありだし、なんて、あれやこれやと考えるのでした。それはとても悩ましくもあり、また楽しいことにも思え、なんとも落ち着かないのでした。
博司君はまだ都会で働いています。徹君は明日にでも博司君に電話を入れようと思いました。徹君と義理の兄弟になるかもしれないなんて知ったら、博司君はどう思うだろう。低め安定で満足する男では、妹は幸せに出来ないと思うだろうか、それとも、見栄も無ければ、高望みもしない男だから、まずまず気楽に過ごせると、安心してくれるだろうかと、一番評価の気になる相手でもあるのでした。
「郡上はナァ 良いとこ 住み良い所 水も良ければ人も良い」
少し秋の気配を感じる八月の夜、歌の一節を聞きながら、平凡に過ぎていくこの町の暮らしに、この上ない幸せを感じる徹君なのでした。