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Envelopment

 雨が降りしきる灰色の世界。

 そこは戦場だった。

 それは降り落ちる雨の雫ですら切り刻むような剣筋。

 斬り付けられた兵士から噴出した鮮血が雨と混ざり地に降り注ぐ。

 レディンの間合いに近付く者あらば、即座に振るわれる斬撃に次々と切り伏せられてゆく。


 数刻前、岩場で寄り添う二人を、ミネルヴァ兵士達が包囲しはじめた。

 気が付いた時には、もう殆ど包囲完了という頃合だった。

 レディンは自分の不覚を呪った。

 急ぎ腕と胸への防具を装備し、説明もなくリムを連れて駆け出したのだった。

 その後は包囲の薄い場所を狙って突撃を繰り返していた。


 初めは奇襲された事に戸惑っていたレディンだが、今は冷静さを取り戻し、包囲を完成させないよう背中にリムを従えて移動と攻撃を繰り返す。

 ミネルヴァ兵達はレディンがリムを護る為に隙が生まれるものだと誰もが思っていた。

 確かにレディンが攻撃している間はリムは無防備である。

 だがしかし、レディンの動きは如何にミネルヴァの精兵だとしても捉えきれはしない。

 迫り来る兵士にレディンは自ら瞬歩で近付くと、一度に数人の兵士の足、もしくは胴体を切りつける。

 息の根は止められないにしろ機動力を確実に奪う為の攻撃に徹している。

 その滑らかで無駄の無い動作と兵士が血飛沫を上げて次々と倒されてゆく光景は、兵士達に戦慄を与えるに十分だった。

 また、負傷した兵を救護するため、健全な兵までも搬送に割かれるのだ。

 前衛の兵士達が及び腰になりつつあると、後続の兵士達が動けなくなる。

 こうして上の斜面から左右に展開される包囲陣の中心となるはずのレディンとリムが絶妙な位置取りで動き回る為、ミネルヴァ兵達はどうしても下方向への展開に遅れをとっていた。

 しかし、続々と上方向から兵士は押し寄せてくる。

 いずれは人海戦術で大回りしてでも取り囲まれ、疲弊したところを狙われるであろう。

 残された道は斜面を下る他に無かった。

 しかし、レディンのみなら易々と行える方法であるが、今はリムを連れているため急斜面を、それも追撃者を振り払いながら降りるような機敏な動きはできなかった。

 レディンはリムを先行して斜面を下らせ、追撃者を相手に身構えた。

 だが、レディンが見据えた先には、雨降る灰色の世界に浮き彫りにでもしたかの様な存在感を持つ紅い甲冑があった。

 レディンの身体が一瞬硬直する。

 甲冑と同色の大弓を携え仁王立ちするこの男をレディンは知っていたからだ。


 ミネルヴァ飛空船団元帥テルスガイア。

 レディンはテルスガイアが現れた事によってこの包囲網が上部より展開されていた疑問に納得がいった。

 飛行船を用いて山頂付近より降下してきたならば、合点が行くと。

 そして、その事により懸念していた事がより事実として認識されてしまう。

 ロナルティンを無事下る事が出来たとしても、もはや麓では別働隊が包囲網を展開しているであろう事。

 その布陣が完成したからこその、テルスガイア達は追い込み役でしかないのだと言う事を。

 だがしかし、レディンの、この刹那の思考が今後の展開を全て変えてしまった。

 唐突にレディンの横を、雨粒を蹴散らし、空気を切裂いて矢が駆け抜けていった。

 緊迫した戦場では、時間にしてほんの数秒・・・一呼吸にも満たない時間が命運を分けてしまう。

 レディンが思考に気を取られていた、その僅かな間にテルスガイアの弓がしなったのだ。

 その矢が向かう先は、四苦八苦しながらも懸命に斜面を下っていたリムだ。

 レディンは反射的に振り向いた。

 目の前にテルスガイア率いる何百という兵士達がいるにも関わらず、無防備にも後ろを振り向いた。

 幸い矢はリムを捕らえる事は出来なかった。

 しかしリムは足元に刺さった矢に驚いて転倒してしまっていた。

 急斜面な為、転倒するとそのまま斜面を落ちてゆく。

 滑り、転がり、廻りながら自力ではどうする事も出来ず、ただ落ちてゆく。

 そんなリムの姿にレディンの注意が向う。

 転げ落ちるリムに目を奪われたレディンは隙だらけだ。

 テルスガイアにはそれで十分であった。

 幾多の戦場に身を置いてきた、歴戦の勇者とは思えない光景だと、その場の誰もが思った。

 ダンッ、と力強く叩きつけたような音と衝撃がレディンの背後を襲う。

 そこでレディンはようやくリムから目を離し自分の身に起った出来事を認識する。

 軽装とはいえ鉄製の鎧を貫通し、背中、右肩甲骨に深々と弓矢が突き刺さっていた。

 レディンが穿たれた痛みを感じる前に、再び音と衝撃がレディンを襲う。

 テルスガイアによる二撃目がレディンの左大腿二頭筋を貫いた。

 レディンはその衝撃を受け、自分が非常に危険な状況に陥っている事を自覚した。

 だが、それよりも何よりも、転落していったリムが気になり、再びそちらに目を向けた。

 リムは随分と下まで転落していたが、地面より突き出た大岩に衝突する事により、停止していた。

 だが、ピクリとも動かない。衝突の衝撃により気を失っているようだ。

 それを見届けている最中にもテルスガイアによる弓矢は放たれ続けていた。

 テルスガイアとの距離は10mも離れていない、とはいえ雨、風、急斜面と悪条件下での正確無比な筋繊維を狙った射撃。

 背後からという罪悪感を微塵も感じる事無く、三撃目を右大腿二頭筋に撃ち込むと、続けて左上腕二頭筋、右三角筋、左広背筋、左右のアキレス腱、左右のふくらはぎ、そして腰にある脊髄を最後に打ち抜いた。

 合計11本。

 その数の矢が全て放たれるまで僅か十数秒。

 行動に必要な筋肉を貫く神業を放ったテルスガイアであったが、その表情はいまだ険しい。

 それはいまだ倒れぬレディンを睨みつけている。

 背後から11本もの矢を両手足の筋組織に打ち込まれてなお、立ちつづけているその姿に、包囲するミネルヴァ兵達も足を止め、食い入るように見つめる。


 暫く辺りは、雨音のみが存在する静寂に包まれた。

 雨滴の重みに耐え切れなくなったかのようにレディンの身体が前に倒れる。

 その場の誰もが倒れ、崩れ落ちると思っていた。

 否、前傾姿勢を取るとそのまま急斜面を駆け下り始める。

 兵たちはテルスガイアの矢を受けて、気力だけで棒立ちになっているのだと、信じていた。

 だが、レディンは目の前から遠ざかっていく。

 とても信じられなかった。

 あれだけの矢を受けてなお、疾走できるレディンが同じ人間などと信じられなかった。

 レディンは一直線にリムの元へと駆けつける。

 転落し、岩に当たった時に負った傷から血が流れていたが、それはほとんど雨に流されていた。

 おかげでその姿は白く美しいままに思えた。

 レディンはリムを抱え上げると、滑るような動きで斜面を下っていった。

 テルスガイアですらその姿を唖然として見送ってしまった。

 彼にはレディンの動きを封じた確信があった。

 人間がアキレス腱を、大腿二頭筋を矢で貫かれた状態で、あのような動きができるわけが無い。

 ならば、その場で卒倒するはずであった。

 しかし、現実は違った。目の前より逃走されてしまっていた。

 著しく動揺するテルスガイアに、近くの兵士が今後の動きについて問い掛けてきた。

 テルスガイアは数瞬考えると負傷者を治療し、残りの者に通常速度での追撃を命じた。

 ふと予知にも似た予感めいたものが彼の中に湧き上がった。

 急ぎ追わずとも、確実に拿捕できるだろうという事を。


 そしてそれは現実となる。

 テルスガイア達が追撃を開始してから10分と立たずにレディンを発見した。

 リムに覆い被さるような形でレディンは倒れていた。

 弓傷から噴出した血が雨に流されて、辺りに赤い水溜りを作り上げていた。

 二人とも気を失ったまま微塵も動かなかった。

 テルスガイアは兵に命令し、二人を拘束する。

 だが、彼の脳裏にはリムを守るように折り重なって倒れていたレディンの姿が焼き付いて離れることは無かった。

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