煙草の香り
目覚めたらいつも一人だった
傍に誰かがいるなんて事、自分にはなかった
それがある日突然、二人になったらどうなるのだろう?
誰かと触れ合う事が今の俺には怖くて
考えるだけで気が狂いそうになる
お願い……
誰も俺の事を見ないで……
――――――――――――煙草の香り
「あぁ、またなくなっちまったよ」
メンソールの匂いが漂うワンルームで俺は煙と共に言葉を吐き出した。
既にフィルターしか残っていない煙草を灰皿へと押し付ける。
火種がない為か、その火はあっさりと消えてしまった。
二十本も入っていた筈の煙草が、僅か一日でなくなってしまう。
嗚呼、俺はいつか肺癌で死ぬんだな。
そんなくだらないことを考えながら重い腰を上げる。
買い溜めしておいたカートンがなくなってしまっては仕方がない。
床に落ちている上着を手に取り、俺は玄関へと向かった。
いつからだろうか?こんな廃人のような生活を始めたのは……
一人暮らしを始め、この小さな部屋に住み始めた当時の俺は、まだ夢も希望もあっただろう。
初めての一人ぐらいに心躍らせ、新品のスーツに袖を通した時の事は今でもハッキリと覚えている。
真新しい衣服の匂いにこれから始まる新しい生活をどんな風に思い描いていたのか。
言える事は一つ、こんな生活になるなんて、当時の俺は塵も思ってもいなかったという事だ。
二十歳になって初めて仕事をした。
今までまともにアルバイトもした事のなかった俺は、社会という世界にどれほど憧れを抱いていただろうか。
スーツを着て初出勤した日、自分と同じ姿の人間が同じビルへと入っていく姿を見た時。
緊張よりも、これから一生世話になるという強い気持ちでいた筈だった。
あれから七年の月日が経ち、会社の経営が悪くなり、俺は気付けば行く宛てをなくしていた。
人件費の削減だなんだという理由でクビを切られ、気付けばこんな生活を送っている。
部屋には常に三袋ほどのゴミ袋が置いてある。
テーブルの上にはいつ飲み終えたのかも定かではない空き缶が転がっている。
床には脱いだままの洋服が置いてあり、所狭しと成人向けの雑誌が山のように積み上げられていた。
袖を通す時、あんなに感動した筈のスーツも、今では床の一部となっている。
振り返り部屋を見渡すと、お世辞にも綺麗と言えない部屋が広がっていた。
テーブルの上の灰皿から吸殻が溢れているのが見える。
親しい友人もいない俺にとって、煙草を吸っている時間が一番の至福の時だった。
こうやって家を出るのも何日ぶりだろうか?
玄関横の棚に雑に置かれている親からの仕送りを、雑紙を握るかのように手に取ると、俺はそのまま家を出た。
―――
太陽の光がやたらと眩しく見える。
部屋はカーテンで光を遮断しているせいか、外は普通以上に明るく感じられた。
目を細めてボロアパートから空を見上げると、雲ひとつない青い空が広がっている。
鳥が鳴き、少し土臭い匂いがした。
なんだか町も知らない町並みに見える。
もう何年も住んでいる町なのに、この町の俺の居場所はワンルームしかないこの部屋だけだ。
近くのコンビにまではそう遠くない。
握り締めていた仕送りに目をやる。
親には昨日来た電話で「上手くやっている」とだけ伝えた。
こんな何の価値もない俺に仕送りしてくれる親の優しさが逆に痛く、重たい。
一呼吸置いて、再び仕送りに目をやる。
これだけあれば三カートンは買えるだろう。
三カートンだとどれだけ持つだろうか?どれだけの間外に出なくて良いだろうか?等と考えながらコンビニへと向かった。
「いらっしゃいませ」
向けられた店員の笑顔に思わず目を背ける。
仕事をクビになってから、俺は人と接する事に恐怖を覚えるようになっていた。
元々、愛想が良い訳でも人付き合いが上手く出来る訳でもなかったが、会社に居た当時は上手くやっていたものだ。
忘年会に新年会、会社で行われる行事には積極的に参加した。
幹事なんてものもやった事があった。
なのに会社をクビになった途端、全ての人が怖くなったのだ。
いや、正確に言えば嫌いになった。
クビになったその日、自分のデスクの上を整頓している時も、同僚と一度も目を合わせようとしなかった。
見られている事はなんとなく分かってはいたが、どうしようもなく怖くなり、逃げるように会社を後にしたのを覚えている。
聞こえてくる笑い声すら気持ち悪くて仕方なかった。
携帯のアドレスも全て消し、俺の携帯には家族のアドレスだけが残っている。
あの時以来、人は全て敵なんだという認識しか持てなくなっていた。
いい大人が情けないと言われるかも知れない、でもそうする事でしか自分を守る事が出来なかったのだ。
コンビニで適当に雑誌を手に取り、ペットボトルを数本カゴに入れる。
菓子パンやカップ麺も、味や値段も見ずにカゴへと押し込んだ。
溢れるぐらいになったところで、漸くレジへと向かう。
カウンターにカゴを置き、カートンを指差し個数を提示する。
俺がコンビニを出るまでの間、店員の笑顔が崩れることは一度もなかった。
――
「ただいま」
誰もいない部屋に気まぐれに声を掛けてみる。
靴を適当に脱ぎ捨て、俺はそこで漸く違和感に気が付いた。
置いてある靴が綺麗に並べられている事、家を出る前は確かにしていた煙草の香りが一切しない事。
なにより……
「おかえりなさい」
俺しかいない筈の部屋に誰かがいた事。
部屋に入るとワンルームは綺麗に片付いていた。
そしてそこに、見知らぬ青年がコーヒー片手にこちらに笑顔を向けてくる。
「……部屋、間違えてますよ」
咄嗟に出た自分の言葉にびっくりした。
普通、叫んだり、もっと驚いたりするものだろう。
それよりも先に、自分の領域を穢された事が赦せなかったのだ。
何より、泥棒であったとしても、部屋をこんなに綺麗に片付ける奴がいるだろうか?
寧ろ逆が正しい。
泥棒であるなら部屋を荒らして、金目の物を持ち去っている筈だ。
そして、その場を直ぐにでも立ち去っているだろう。
なのにコイツはどうだ?
部屋を綺麗にした挙げ句、呑気にコーヒーなんて飲んで笑ってやがる。
帰ってくるのを待たずしていなくなる泥棒ではなく、寧ろ俺の帰りを待っているかのような態度だった。
そう、例えるなら恋人。
一時期この部屋に出入りしていた彼女が俺にもいた。
彼女は俺が仕事から帰宅する前に部屋を片付け、コーヒーを入れて待っていてくれたのだ。
入社して二年目に出逢った彼女だった。
いや、それにしても……あれだけ汚い部屋を一人で?
まだ他にも誰かいるのだろうか?
「僕だけだよ……」
「え?」
「僕が片付けて、僕しかいない……第一、こんなワンルームに隠れるところなんてないでしょ?」
「確かに……いや、違う。俺が言いたい事はそういう事じゃない……あんた……誰だ?」
凄く冷静だった。
この青年からは何の殺気も感じないし、悪い事をするような奴にはとても見えなかった。
黒いショートヘア、服装はセーターにジーパン。
突いたら死にそうなぐらい体は小さい、声もか細くとても病弱そうに見えた。
こんな爽やかで弱そうな奴を悪い奴と判断するには判断材料が足りなさ過ぎる。
「えーっと……飲む?コーヒー」
「……あぁ、うん……」
何言ってんだ俺、と思った時には遅かった。
まるで自分の部屋のようにソイツは立ち上がりキッチンへと向かう。
立ち上がると一層、ソイツは小さく見えた。
「で?お前は誰なんだよ、この部屋はどうした?どこから来た?親は?家はどこ?」
「一気に質問し過ぎだよ……はい、コーヒー」
クスクスと笑いながら、俺の手元にコーヒーを置いてくれた。
頼んでも居ないミルクと砂糖まで用意してくれている。
ソイツは俺の真正面に座ると、一口コーヒーを口にして、ゆっくりと話し出す。
「僕は貴方が持っているそれです」
「は?」
真新しい煙草に火を付けようとした瞬間、ソイツはそう言ってきた。
煙草……の、事を言ってるんだよな?
いや、そうだろう、俺が今手に持っているのは煙草のみだ。
「煙草の事か?」
「はい!!僕は貴方が持っているその煙草です。正確にはその煙草の煙の、更にその煙の妖精的な何かです」
病院に連れて行こう。直ぐにそう思った。
しかし、なんて可愛らしい顔をして笑うんだ、この子は。
そういう趣味があるわけじゃないか、どこか惹かれるものがある。
それと同時に、心が痛くなる。
どんな感情だかは分からないが、この子を見ていると自分までこんなおかしな事を言いそうになるんじゃないかと怖くなった。
「あ、あと、この部屋は僕が一人で片付けました。どこから来たのは、煙草の先端部分からで、親はいません、家もないですね」
「てっきり、フィルターとか言い出すんじゃないかと思った……」
「じゃあフィルターって事でも構いませんよ?僕の事は…好きに呼んで下さい」
ニコニコと楽しそうに話し掛けてくる。
好きに、と言われても。そもそもコイツはいつまでここにいるんだろうか?
それに、経った今、重大な事に気がついた。
人間が敵だと思っているのに、どうして俺は呑気に会話なんてしているんだろうか。
なのに、怖いと感じない。
寧ろ、傍にいてくれると凄く落ち着く。
何度も言うようだが、俺にそういう趣味はない。
「じゃあ……その、煙草、ライター、灰皿……そうだな、じゃあお前の事は灰に猫って書いてはいねって呼ぶ事にする」
「灰は…煙草の灰の事だと思いますけど……猫はどこから来たんですか?」
「お前の存在を信じたわけじゃないからな。家出したって事は行き場なくした捨て猫みたいなもんだろ?だから猫。」
「意外ですね。そんな綺麗な言葉を出されると思ってませんでした。良い名前ですね!!気に入りました。」
「一言余計だ」
とりあえず、俺以外の誰かがこの部屋にいる事は分かった。
そして灰猫がいつこの家からいなくなるのか。
もしかしたらこのまま一生ここに居座る気じゃないだろうな?
いや、灰猫が本当に煙草の煙であると言うなら、俺が煙草を吸わなくなったら灰猫はいなくなるのか?
だったら吸わないまでだ。
吸っていた煙草を灰皿に押しつけ、俺は灰猫を見た。
それについては大して気にしていないらしい。
流石にそれについては聞いておくべきだろうか?
「で?灰猫はいつここから出て行くんだ?」
「僕は、貴方があと一本煙草を吸ったら自動的に消えます」
「どういう事だ?」
「貴方に出逢ってから、それが丁度一万五千本目の煙草になるからです」
「出逢ってから?俺、灰猫に逢った事があるのか?」
「そうですね……結構長い間……」
そう言って、灰猫は少し辛そうに微笑んだ。
あと1本。
つまり、今灰皿に押しつけた煙草は一万四千九十九本目だったと言う事だ。
それより、俺は灰猫のような青年を見た事がない。
寧ろ、ここ数年誰かと深い交流をした記憶がない。
「京介さん、煙草……吸わなくて良いんですか?」
「え?」
「あ、今更、なんで俺の名前を知ってるんだーなんてなしですよ?僕は京介さんから見たら不思議な子っていう存在ですから」
「表札に、長瀬京介って書いてあるから、別に不思議じゃないが……なんで煙草を勧めるんだよ。消えるんだろ?」
「京介さん、一人でいるのが好きみたいだから……僕の言った事は本当ですよ?次の一本で消える予定です。」
そう言われると困ってしまう。
信じているわけではない。
だけどあまりにも泣きそうな顔で笑うから吸うのを躊躇ってしまう。
俺はコーヒーを口に含んで灰猫をじっと見つめた。
どこかで見た事があるような気がする。
いや、気のせいである事は間違いないのだが、斜め下を向いた時の顔や、仕草などをどこかで見た事がある。
「全く……いつまで子守なんてさせられるんだか……」
「失礼ですね。これでも京介さんの一個下なんですよ?」
「嘘吐くな、こんな妖精並みにちっちゃい奴が同い年なわけないだろ?いっても小学生ぐらいだ」
「間違ってないですよ?僕、妖精ですから」
「くそっ、揚げ足を取るな」
「あっ、京介さん」
声を掛けられて気がついた。
俺の右手には、しっかり煙草が握られていた。
そしてゆっくり、煙草の先端から煙が出ている。
やってしまった。
なんで後悔なんてしているんだろうかと思いつつ、楽しそうに俺と笑ってくれる人が今、傍に居る事。
それがなんでだろう、嬉しかった。
今はそればかりが頭をぐるぐると回っている。
灰猫が消えてしまう。
いや、信じてはいない。そう、信じていないんだ。
ましてや人間は嫌いだし、今までだってずっと一人で過ごしてきた。
なのにどうして?
もっと一緒に居たいだなんて思うんだ。
「灰猫!!悪い!!今すぐ消すから」
「駄目です京介さん!!……それも、本数に含まれてしまうんです」
「だって……お前……」
「……その煙草は結構長持ちしますから……あと少しだけ、京介さんの傍にいさせて下さいね?」
「灰猫……」
「部屋、片付けなきゃ駄目ですよ?新しい仕事も探して、新しい出逢いもして下さい。ご飯もちゃんと食べて下さいね?」
本当に最後のように灰猫はまるで母親のように俺を叱った。
そんな筈はない。
灰猫はただの家出青年なのだ。
偶然、俺の部屋を見付けて潜り込んできただけ。そうなんだ。また気まぐれに逢う事だって出来る筈。
なのに、考えてる事とは裏腹の言葉ばかりが出てくる。
「灰猫……本当にお前……」
「はい。僕はもう行かなきゃならないんです」
「ここにいても良いんだぞ?なんだったら養ってやっても…」
「駄目なんです!!……僕は……その一本しか生きられない」
「生きられない?」
「……前の彼女さんは優しかったですか?」
「前の彼女?」
恐らく、入社二年目で付き合った由紀恵の話をしているんだろう……。
でもなんで突然……。
確かに、灰猫が言うように、良い彼女だった。
身の回りの世話を全てしてくれて、笑いかけてくれた。
こんな情けない俺に、ずっと、何度も、毎日……。
好きだった。いや、今もずっと好きだ。
なのに、由紀恵はある日をきっかけにいなくなった。
(さよなら……京介の事、大好きだよ)
そんな小さな紙切れ一枚を残して。
俺は灰猫の言葉を待たずに、財布に入れたままにしていたその紙切れを取り出した。
もう数年経っている為、文字も霞んで読めなくなっている。
「まだ、持っていたんですね」
「……お前、由紀恵を知っているのか?」
「はい。凄く近くにいました」
「今どこにいるんだ?元気なのか?その、楽しくやってるのか?」
「本当、京介さんは焦りすぎですよ」
そう言って灰猫は微笑んだ。
煙草はどんどんと短くなっていく。
「……亡くなりました」
「え?」
「亡くなったんです……つい、一時間前に……」
「どうして……そんな事を灰猫が知ってるんだ……」
「僕が、由紀恵だから……」
紙切れがひらりとテーブルへと落ちる。
それと一緒に、灰が灰皿へと落ちた。
由紀恵が……死んだ?
その瞬間、時間が止まったような気がした。
「僕は由紀恵の心の投影なんです。最後の最後まで、京介を忘れる事が出来なかった。」
「でもお前は女だろ?どうして男なんかに……」
「ふふっ、最初にいた病室にね?小さな男の子がいたんです。その子は本当に病気なのか疑うぐらい、毎日病室を走り回ってて……あんな風にはしゃぐ事が出来たら良かったのに……生まれ変わったら、あんな風に走り回れる男の子になりたいって思ってたんです……そしたら……ね?」
「そうか……それより!!今、どこにいるんだ?」
「この近くの病院です。京介の元を離れたのは、僕が病気になったから……」
「どうして……言ってくれなかった?」
「京介に心配掛けたくなかったから……だって、京介って包丁でちょっと指を切ったぐらいで大騒ぎするんだもん。でも、何年経っても忘れる事が出来なかった…心配で心配で、目が覚めたらここにいた。実感したんだ。僕、死んじゃったんだ……って。でも最後に京介に逢いたかった。」
「もっと連絡……携帯!!」
「いっぱいメールしたのに、京介ったら返事くれないんだもん。差し当たり、迷惑メールがいっぱいで、携帯のメール見てなかったんでしょ?」
俺は慌てて携帯を充電器へと差し込んだ。
開いた携帯のウィンドウにはメールが数百件届いているのが見える。
フォルダを開くと、フォルダ分けしていた彼女のフォルダに数十件のメールが届いていた。
自然と、それを読む手が震える。
「あ、もう時間ですね…」
「灰猫!!……いや、由紀恵!!待ってくれ、まだ言いたい事が沢山!!」
「……仕事、ちゃんとしなきゃ駄目だよ?」
「由紀恵…俺は……」
「何も言わないで?全部、分かってるから……今度は本当のさよなら、京介の事、大好きだよ」
あまりにも無邪気な笑顔で、あまりにも残酷な言葉だった。
真実を受け止められないままでいる俺に、優しく微笑んだ灰猫は、煙草の灰が落ちるのと同時に、姿を消した。
重い静寂が部屋に残る。
抑えきれなかった涙が止め処なく溢れ、携帯の画面を濡らす。
由紀恵が俺に残したメールには、自分が病気になった事、同室の子供の事、天気の事。
そんな些細な事が日記のように綴られていた。
日に日に、文が短くなるメール。
最後のメールに一言だけ。
「生まれ変わっても、どうか、私を見付けて下さい。その時はまた、京介の彼女になりたいな」
たった一言……そう打ち込まれていた。
煙草の残り香が、部屋から消えてくれない。
いや、消えないでくれ。
俺は顔を埋め、膝を抱えて泣いた。
何年ぶりだろうか?由紀恵が居なくなった時もこんなに泣かなかっただろう。
こんなに胸が痛いのは何故?
俺はどうして由紀恵を捜そうとしなかったんだろうか……。
携帯をどうして確認しなかったんだろうか……。
そしたらもっと、ずっと長い間一緒にいる事が出来て、由紀恵に楽しい思い出をいっぱい作ってやる事が出来たのに。
どうしてこんな廃人のような生活をしていたんだ。
由紀恵……ごめん。
ごめん……。
ごめんね……。
……ごめん……なさい……。
―――
数日後、俺は近所の病院を手当たり次第に訪問した。
俺の家の目と鼻の先にある救急病院に、由紀恵は入院していたらしい。
話を聞いて、俺は由紀恵の墓へと足を運んだ。
「……立派な墓だな……」
真新しい墓の前で、涙腺が必死に緩むのを感じで、必死に堪える。
由紀恵、俺も言いたい事があるんだ。
「由紀恵の事、大好きだ……一緒に、幸せになろう」
俺は墓石にそっと手を触れる。
目を閉じると、由紀恵の笑顔が脳裏に浮かぶ。
俺は手を離し、ゆっくりと背中を向けた。
今日もあの部屋に帰ったら、嗅ぎ慣れた煙草の匂いがするんだろう。
もしまた由紀恵に逢えるのなら、今度はちゃんと言おう。
新しい仕事も探して、二人だけの家を購入して……。
そして言うんだ、白いドレスに身を包んだ由紀恵に……。
「……由紀恵……結婚しよう……」
って……。
そんな事を考えながら、また今日も一本、俺はその煙草に火を付けた。
煙草の香りED
ふと自分が吸っていた煙草の灰皿を眺めていたら思いついた作品です。
何かのきっかけで、人は前向きに生きて行けるんだと信じています。