鏡は遅れて映る
町には、鏡が一枚だけあった。
それは広場の端に立てかけられていて、誰の家のものでもなかった。
割れてもいないし、汚れてもいない。
ただ、映らない。
人が前に立つと、そこには何も映らなかった。
顔も、服も、影もない。
代わりに、鏡は少し遅れて動いた。
遅れた、という言い方が正しいのかは分からない。
人が右に一歩動くと、鏡の中では、さっきまでそこにいた何かが、ようやく右に動く。
人が手を上げると、鏡の中では、もう下げたはずの手が、今から上がる。
最初のうちは、みんな試した。
走ったり、跳ねたり、変な顔をしたりした。
鏡の中の何かは、必ず遅れて同じことをした。
ただし、ぴったり同じではなかった。
走ると、鏡の中では歩いた。
笑うと、鏡の中では口の端が少しだけ上がった。
怒ると、鏡の中では、何も起きなかった。
誰かが言った。
「これは、昨日を映しているんだろう」
別の誰かは言った。
「違う。これは、慣れを映している」
それから、誰も説明しなくなった。
鏡は、町の真ん中にあるのに、用事のついでに見るものになった。
水を汲みに行く途中で立ち止まり、郵便を出した帰りにちらっと見る。
特別なときには、見なかった。
ある日、男が鏡の前に長く立っていた。
男は、何もしなかった。
ただ立って、瞬きだけをしていた。
鏡の中では、何かが忙しそうに動いていた。
手を振り、首をかしげ、何かを言おうとして口を開けていた。
男はそれを見ていなかった。
鏡の横の地面を見ていた。
通りかかった人が言った。
「何か映ってるぞ」
男はうなずいたが、顔を上げなかった。
「見ないのか」と聞かれても、男は答えなかった。
しばらくして、男は鏡の前から離れた。
歩き出すと、鏡の中の何かは、ようやく立ち止まった。
遅れて、遅れて、何もかもが遅れていた。
次の日から、鏡の動きが変わった。
人が立つと、すぐには何も起きない。
しばらくしてから、鏡の中の何かが、ためらうように動く。
前よりも遅く、前よりも小さく。
町の人は気づいたが、話題にはしなかった。
壊れたとも、直ったとも言わなかった。
ただ、長く立つ人が増えた。
何もしないで立つ人が増えた。
鏡の前で、何も起こらない時間が、少しずつ長くなった。
ある朝、鏡の前に子どもが立った。
子どもはすぐに飽きて、石を蹴り始めた。
鏡の中では、何かがやっと顔を上げたところだった。
石は鏡に当たらなかった。
音もしなかった。
子どもはもういなかった。
鏡の中の何かは、遅れて、遅れて、笑おうとしたが、途中で止まった。
その日から、鏡は動かなくなった。
映らないまま、動かない。
町の人は、前よりも長く立つようになった。
何かが起きるのを待っているわけでもなかった。
ただ、そこに立つ時間が増えただけだった。
誰かが言った。
「もう、役目は終わったんだろう」
誰も同意しなかったし、否定もしなかった。
鏡は今も広場にある。
何も映さない。
何も遅れない。
それでも、通り過ぎるとき、足取りが少しだけ変わる人がいる。
理由は分からない。
分からないまま、町は続いている。




