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嘘の世界1

鏡は遅れて映る

作者: ハル
掲載日:2026/02/15

町には、鏡が一枚だけあった。


それは広場の端に立てかけられていて、誰の家のものでもなかった。

割れてもいないし、汚れてもいない。

ただ、映らない。


人が前に立つと、そこには何も映らなかった。

顔も、服も、影もない。


代わりに、鏡は少し遅れて動いた。



遅れた、という言い方が正しいのかは分からない。

人が右に一歩動くと、鏡の中では、さっきまでそこにいた何かが、ようやく右に動く。


人が手を上げると、鏡の中では、もう下げたはずの手が、今から上がる。


最初のうちは、みんな試した。

走ったり、跳ねたり、変な顔をしたりした。

鏡の中の何かは、必ず遅れて同じことをした。


ただし、ぴったり同じではなかった。


走ると、鏡の中では歩いた。

笑うと、鏡の中では口の端が少しだけ上がった。

怒ると、鏡の中では、何も起きなかった。



誰かが言った。

「これは、昨日を映しているんだろう」


別の誰かは言った。

「違う。これは、慣れを映している」


それから、誰も説明しなくなった。


鏡は、町の真ん中にあるのに、用事のついでに見るものになった。

水を汲みに行く途中で立ち止まり、郵便を出した帰りにちらっと見る。

特別なときには、見なかった。



ある日、男が鏡の前に長く立っていた。


男は、何もしなかった。

ただ立って、瞬きだけをしていた。


鏡の中では、何かが忙しそうに動いていた。

手を振り、首をかしげ、何かを言おうとして口を開けていた。


男はそれを見ていなかった。

鏡の横の地面を見ていた。


通りかかった人が言った。

「何か映ってるぞ」


男はうなずいたが、顔を上げなかった。



「見ないのか」と聞かれても、男は答えなかった。


しばらくして、男は鏡の前から離れた。

歩き出すと、鏡の中の何かは、ようやく立ち止まった。

遅れて、遅れて、何もかもが遅れていた。


次の日から、鏡の動きが変わった。


人が立つと、すぐには何も起きない。

しばらくしてから、鏡の中の何かが、ためらうように動く。


前よりも遅く、前よりも小さく。


町の人は気づいたが、話題にはしなかった。

壊れたとも、直ったとも言わなかった。


ただ、長く立つ人が増えた。

何もしないで立つ人が増えた。

鏡の前で、何も起こらない時間が、少しずつ長くなった。



ある朝、鏡の前に子どもが立った。

子どもはすぐに飽きて、石を蹴り始めた。


鏡の中では、何かがやっと顔を上げたところだった。


石は鏡に当たらなかった。

音もしなかった。


子どもはもういなかった。

鏡の中の何かは、遅れて、遅れて、笑おうとしたが、途中で止まった。


その日から、鏡は動かなくなった。

映らないまま、動かない。


町の人は、前よりも長く立つようになった。

何かが起きるのを待っているわけでもなかった。

ただ、そこに立つ時間が増えただけだった。



誰かが言った。

「もう、役目は終わったんだろう」


誰も同意しなかったし、否定もしなかった。


鏡は今も広場にある。


何も映さない。

何も遅れない。

それでも、通り過ぎるとき、足取りが少しだけ変わる人がいる。


理由は分からない。

分からないまま、町は続いている。


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