5話
怒りのあまり我を忘れたにも関わらず、吹き抜ける夜風が、血の匂いをさらに濃くした。
友梨の身体は瓦礫に叩きつけられたまま動かず、月明かりの下でその髪だけが風を揺らめかせた。義紀は、肺が裂けそうなほどの叫びを上げた。
「友梨……友梨、返事を……!」
だが彼女の瞳は、もう義紀を映していなかった。
数秒、友梨との思い出が頭を巡る。
それは、まだ世界が今ほど壊れていなかった頃の記憶。
空は鈍い灰色だったが、少なくとも雨は降っていなかった。腐った川のほとりで、義紀と友梨は身を潜め、泥をかき分けながら石を動かしていた。まだ憂憂しさの残る手は冷たく震えていたが、二人の眼だけは生きようとしていた。
「いた! ほら、ここ!」
友梨が慌てた様子で義紀を催促。小さな魚が泥の水たまりの中で跳ねた。自ら躊躇なく手を突っ込み、必死にそれを掴んだ。魚は細く痩せ、骨ばかりだったが、それは間違いなく“食べ物”だ。
焚き火を囲み、ふたりと仲間たちは腹を抱えて笑った。こんなに笑ったのは、いつ以来だったのか思い出せない。火に炙られた魚はほとんど味がしなかったが、友梨は「世界で一番おいしい」と言って目をキラキラ輝かせた。煤で汚れた頬が、ほんの少しだけ赤く見えた。
その夜、義紀は言った。
「生きるって、こういうことかもな」
友梨は、驚いたように義紀を見つめ、静かにうなずいた。
「うん……私たち、まだ生きてるんだね」
その言葉は、義紀の心に刻まれた。誰にも気づかれないほど深く、静かに。
あの時、確かに笑っていた。復讐のためでも、怒りのためでもなく。
ただ、生きるために。
友梨が生きていた頃の記憶は、すべて灰色の世界で幸せだったろうに。
数秒の出来事が前触れもなく終わり、現実に引き戻され無性に腹が立った。
喉の奥から込み上げてくるものが、怒号とも嘆きともつかぬ声となって漏れ出す。義紀の視界は赤く染まり、握りしめた爆薬の重みだけが、かろうじて現実に縫いとめていた。
そんなのはお構いなし、と指揮個体は微動だにせず、金属の顎がぎしりと軋む。
「感情反応──想定内。人類、学習能力……限定的」
その冷徹な一言が、義紀の最後の理性を完全に焼き尽くした。感情が高まり、怒り、恨みを敵に放った。
「何言ってんだ! うるさい、黙れよ!」
獣と化した理性に、義紀は爆薬を抱えたまま突き進んだ。瓦礫を蹴り飛ばし、足場の崩れる音もかまわず、ただまっすぐ敵へと向かう。
だが、闇の中で別の影が横合いから飛び出した。
「あぶない! 義紀さん!!」
まさか、海斗とは。
恐怖に震えていたあの青年が、今は迷いもなく義紀の前に身を投げ出す。指揮個体の腕が閃き、圧縮された衝撃波が空気を貫いて。
何もない白。
海斗の身体が義紀を突き飛ばし、その背中に重い衝撃が叩き込まれた。
どこからか、骨の砕ける音がした。
「海斗……!? おい、海斗っ!」
義紀の腕の中で、海斗は苦しい息を漏らした。
「……義紀さん……生きて……くだ……さい……ぼくは役ただずですから……最後くらい……役に……立て……」
言葉がそこで途切れ、身体が力を失った。
義紀の胸は裂け、世界が割れたように思えた。
友梨も、海斗も、皆……。
自分のために死んだ。
それもあっさりと、そんな不合理許されるわけない。
怒りと絶望が混ざり、視界が歪む。指揮個体はゆっくりと片腕を持ち上げ、義紀に狙いを定めた。
「標的確認。排除開始」
脚が動かない。意識が揺らぐ。だが、それでも義紀は歯を食いしばり爆薬を握りしめ続けた。
「……まだだ……終わらせてたまるか……!」
指揮個体の腕が放たれようとしたその瞬間。
闇の中、急に飛び込んできた。
低く、しなやかな影が義紀の前を横切る。
「なんだ?」
黒い小さな体が、指揮個体の顔面へ飛び上がり、鋭い金属爪を弾き飛ばした。
甲高い金属音。
「お前はクロ……?」
義紀が呟いた。
かつて義紀の家に住みついていた黒猫。戦禍の中で行方がわからなくなっていたはずの小さな命が、いつの間にか義紀の足元に戻っていた。
だがその姿は、かつてのただの猫ではなかった。
背中からは細い光条のような機械装甲が展開され、尾には微弱な青光が灯っている。瞳だけは昔と変わらず、義紀を慰めるように柔らかく揺れていた。
「……義紀、守る」
クロの機械声――いや、翻訳機を通したような微かな音が聞こえた。
指揮個体は一瞬だけ動きを止めた。
「解析……対象、小型機械生命……不明カテゴリー」
次の瞬間、クロはしなやかな動きで指揮個体の関節部に飛びつき、装甲の隙間へ小さな光線を撃ち込んだ。
金属が爆ぜる。
指揮個体の巨体がよろめき、義紀の目の前に大きな影が揺れた。
「クロ……お前……なんで……」
黒猫は振り返り、短く鳴いた。
――まだ終わっていない、と言うように。
義紀は震える手で爆薬を拾い上げた。
友梨の死。
海斗の犠牲。
そしてクロの帰還。
「……行くぞ、クロ」
立ち上がった義紀の瞳には、もはや迷いはなかった。
指揮個体は損傷した腕を持ち上げ、低く唸る。
「排除作戦……続行」
夜の高層ビルが立ち並ぶ中で、義紀とクロは闇を裂く光へと再び駆け込んでいった。
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