酔った一言から始まる恋
金曜日の夜の空気は、どこかほっとする匂いがした。
上司の機嫌取りも、急な資料作りも、顧客からの理不尽な連絡も全部終わって、ようやく解放された。
時刻は20時。街灯がぽつりぽつりと灯り、住宅街に静かなオレンジ色を落としている。
「今日も疲れたな……」
そう独り言を漏らしながら、俺――**佐伯悠(30)**は、借りている二階建てアパートの階段を上った。
仕事帰りの足取りは重い。
早く風呂に入って、適当にご飯を食べて、布団に倒れ込みたい。
そんなことを考えながら、いつものように“202号室”の前に近づく。
――その時だった。
「……え?」
俺の部屋の前に、女の子が座り込んでいた。
いや、“座り込んでいる”という表現が正しいのかどうかも怪しい。
まるでずっと誰かを待っていたみたいに、小さな背中を丸め、スマホを握ったまま俯いている。
制服姿。
白いカーディガン。
膝には大きな紺色のバッグ。
肩まで伸ばした艶のある黒髪。
どこからどう見ても――女子高生だ。
(おいおいおいおい……なんだこれ。俺の家の前だよな?)
見間違いではない。
目の前にいる。
しかも、可愛い。
しっかりした睫毛に、白い肌。
中学ではなく完全に高校生の雰囲気で、そしてなにより制服が眩しい。
しかし、なぜこんな時間に、俺の部屋の前で……?
俺があまりの異様さに声を出せずにいると、女の子がゆっくりと顔を上げた。
そして――ぱあっと花が咲くみたいに笑った。
「あっ……! 佐伯さん!」
俺の名前を知っている!?
「え、ちょっ……え? え?」
「やっと来てくれたぁ〜……! ずっと待ってたんですよ?」
まるで恋人を待ち続けていたかのような口ぶりである。
しかし、そんな関係性は欠片もない。
無いはずだ。
たぶん。
いや、絶対に。
「え、えっと……君は……?」
「ひよりです! SNSでいつも話してた、ひよりです!」
ひより?
SNSの……ひより……?
その名前だけで、脳内にふわりと記憶が蘇った。
(あの、妙に距離感が近くて、やたら明るくて、相談してくる子……?
でも、まさか……リアルで?)
女子高生のひよりは、俺が混乱しているのもお構いなしに笑顔を向けてくる。
「会いに来ましたっ! だって――」
胸の前で両手を握りしめて、少し頬を赤く染め。
「“うち来る?”って言ってくれたじゃないですか!」
――言ってない。
いや、言ったのか?
俺は酒を飲むと、少し気が大きくなる悪癖がある。
「え……え? 俺、そんなこと言った……?」
「言いました! ちゃんとスクショあります!」
ひよりはスマホを操作し、俺に画面を見せてくる。
そこには――確かに俺のアカウントから送られたメッセージがあった。
『もう無理なら来るか? うち来てもいいし』
「……これは……」
「本当に来ちゃいました♡」
にっこり。
笑顔が強すぎる。
破壊力が高すぎる。
「いやいやいやいや、軽く言っただけで、本当に来られても困るんだけど!」
「えー!? 来ていいって言ったのに!」
「いや、言った俺も悪いけど……住所どうやって……?」
「SNSの写真の背景から場所わかりました!」
「おいそれ怖いよ!? なんで推理力そんなに高いの!?」
ひよりは胸を張り、どこか得意げだ。
「だって、佐伯さんの写真、影の向きとか電柱の形とか特徴的で……分析すればわかりますよ?」
「それ普通の女子高生が言う台詞じゃないからな!?」
俺のツッコミにもひよりは全く動じない。
「でも……来たかったんです。佐伯さん、優しくて。話してると落ち着くし、会ってみたいなって……」
その一言が、仕事で疲れ切った心に思いがけず触れてくる。
ズルい。
こんなの、好意を向けられてると言われているようなものだ。
「と、とにかく。立ってると疲れるだろ? 一回、中入る?」
「入ります! やったー!!」
「即答かよ!?」
ひよりを部屋に招き入れた瞬間、俺は改めて“やばい状況”を自覚した。
――女子高生が、俺のワンルームにいる。
狭い玄関でパンプスを脱ぐひよりの姿を見て、思わず喉が鳴った。
制服のスカート、白いカーディガン、肩まで揺れる黒髪。
仕事帰りの30歳サラリーマンには刺激が強すぎる。
「おじゃましまーす……♪」
「いや、そんな軽いテンションで……」
「だって、嬉しいんですよ? 佐伯さんの部屋に入れるなんて!」
天真爛漫という言葉があるが、目の前の少女はその象徴だ。
俺は必死に平常心を保ちながら、バッグの置き場所を示した。
「そこらへんに置いてくれていいから……。とりあえず、座って?」
「はーい。あ、靴下脱いでいいですか?」
「……どうぞ」
制服姿の女子高生が靴下を脱ぐ光景だけで、アラサー男子には破壊力がある。
この状況、いろんな意味で危険だ。
(なんで俺の部屋にいるんだ……いや、誘ったのは俺か……?)
ソファにちょこんと座ったひよりが、ニコッと笑った。
「ねぇ、佐伯さん」
「ん?」
「ほんとに覚えてないんですか? あのメッセージ」
「……いや、正直に言うと……覚えてない」
「えへへ……やっぱり酔ってたんですね」
ひよりはスマホを操作し、ログを開いて見せてくる。
『元気なさそうだな、むりするなよ』
『家きてもいいし、むしろ来い?』
『さびしいなら来るか? うち来てもいいし』
そこには、常識では考えられないほど気軽に「来い」連発している俺の文字が並んでいた。
「……俺、酔うとこんなキャラなのか……?」
「優しいキャラですよ? だって、私の話ずっと聞いてくれて……」
「いや、でも未成年相手に“来るか”はやばいだろ……」
「いいじゃないですかぁ。来て欲しかったんですよ?」
ひよりはクッションを抱きしめ、わずかに頬を染めながらこっちを見上げる。
「佐伯さんは、私が相談するとすぐ返してくれるし、ちゃんと聞いてくれるし……会えたら絶対楽しいだろうなって、ずっと思ってました」
そんなことを真正面から言われたら、30歳の疲れた心は簡単に揺さぶられてしまう。
「あ、でもですね……」
ひよりは急に得意げな顔になった。
「『行っていい?』って聞いたら、佐伯さん“いいぞー”って返事してましたよ?」
「まじか……俺……」
「スクショありますっ!」
彼女は再びスマホを見せてくる。
そこには、明らかに酔ってテンションが上がった俺の返事。
『いーよ きちゃいなー』(誤字多め)
「…………」
「ふふっ、かわいいですよ?」
「可愛いって言われても……俺、三十……」
「三十だから可愛いんですよ? なんか……ギャップというか……」
ひよりはくすくすと笑いながら、俺の方へ体を向ける。
「でも、ほんとに来ていいのかなってずっと悩んだんです」
「いや、悩んで帰るという選択肢もあったろ……」
「だって……佐伯さんに会いたかったんです」
その一言が、ストレートに胸へ飛び込んでくる。
この子は嘘をつかない。
好意も、期待も、そのままの言葉でぶつけてくる。
年齢差なんてものを意識するより先に、心が温かくなる。
(……困る。こんなの、意識しないほうがおかしい)
「それで……帰り遅れちゃって……終電逃しちゃって……」
「それは……まぁ俺が悪いのか……?」
「半分くらい佐伯さんのせいです♡」
「なにその甘え方……」
ひよりは笑いながら、足をぱたぱた揺らす。
「とにかく、今日は……泊めてくださいっ!」
「いや、急にそんな……!」
「ソファで寝ます! ぜったい迷惑かけないから!」
目をきらきらさせながらお願いしてくる。
抵抗しようにも、ひよりの顔が近くて集中できない。
距離が近い。
甘い香りがする。
「……一晩だけだぞ?」
「はーい♡」
即答である。
そして満面の笑み。
本気で嬉しそうで、俺の胸がほんの少しドキッとする。
「じゃあ、あの……ひより。ちょっとは落ち着け」
「落ち着いてますよ〜?」
「いや、絶対落ち着いてないだろ、そのテンション……」
ひよりはふわりと微笑んだ。
「じゃあ、これからよろしくお願いしますね。――佐伯さん♡」
その呼び方が妙に甘くて、俺は耳まで熱くなる。
俺と女子高生・ひよりの“同居(仮)”が始まった。
もちろん、本格的な同居なんてあり得ない。
ただの一泊。
それでも、狭いワンルームで男女が一晩を共にするというだけで、緊張感は十分すぎるほどある。
「佐伯さん、飲み物ありますか?」
「お、おう……。麦茶なら……」
「じゃあそれくださいっ」
キッチンへ向かう俺の背中を、ひよりが椅子に座って目で追ってくる。
その視線がくすぐったくて、なんだか落ち着かない。
(なんでこんなことになってんだ俺……)
麦茶をコップに入れて戻ると、ひよりは足をソファの上で抱えて座っていた。
制服スカートから伸びる白い足。
無邪気に揺らすつま先。
その光景を見て、俺は理性を総動員した。
「はい。麦茶」
「ありがとうございます。あっつい……おいし〜」
「まだ冷たいけどな……」
「佐伯さんち、落ち着きますね」
「落ち着いてもらうのはいいけど……俺は落ち着かないんだが」
「なんでですか?」
ひよりは首をかしげる。
その仕草があまりに可愛くて、心臓が一度大きく跳ねた。
「いや……理由は…………色々だよ」
「ふふっ、もしかして緊張してます?」
「……少しな」
「じゃあ、もっとリラックスしましょ? はい、深呼吸!」
ひよりは両手を広げて、俺に向かって呼吸をリードしようとしてくる。
「吸って〜……吐いて〜……」
「いや、俺は子供か」
「えー、付き合ってくださいよ〜」
しかたなくひよりに合わせて深呼吸をすると、彼女は嬉しそうに笑った。
「はい、佐伯さんちょっとリラックスした!」
「……なんでわかるんだよ」
「わかりますよ。いつもSNSで話してる時より柔らかい顔してますもん」
そんなこと、言われ慣れていない。
ひよりは、俺の反応をひとつひとつ楽しんでいるようだった。
「そうだ。ひより、寝る場所どうする?」
「ソファで寝ますっ! 全然平気です」
「狭いだろ、これ……」
「狭くても佐伯さんの近くがいいです」
「なんでそんな可愛いこと言うの……?」
「え、可愛いって言いました? 録音しとけばよかった〜♡」
「……っ」
ひよりのテンションは明るくて温かい。
暗い雰囲気なんて一切なくて、ずっと笑っていられる。
こんなにも自然に人の懐に入れる子なんて、今まで会ったことがない。
(……やばい。ひよりと会ってると、こっちの心が緩む)
仕事で固くなった心が、ぽかぽかと温まっていく感覚。
しばらく雑談をしていると、ひよりは自分のバッグから、折り畳んだ制服のジャケットを取り出し、膝の上に置いた。
「ここ……来てよかったなぁ」
「そんな簡単に言うなよ。もっと警戒心持て。危ないぞ、普通」
「だって、佐伯さんは絶対危ないことしないってわかってるから」
即答だった。
俺の胸が一瞬だけチクッとする。
“危ないことしない”と信じられていることが、なんだか切なくて、でも嬉しかった。
「佐伯さんは、優しい人です。SNSで相談したときも、誰より親身になってくれたし……今日会ってみても、想像どおりの人で……」
ひよりの声が少しだけ柔らかくなる。
「……もっと、知りたいなって思っちゃいました」
そんなことを言われて平気でいられる男はいない。
その瞬間。
狭いワンルームの空気が、少しだけ甘くなった気がした。
「――ひより」
「はい?」
「……ありがとな」
気づいたら、そんな言葉を口にしていた。
ひよりは少し驚いたように目を丸くし、それからゆっくりと笑った。
「……私のほうこそ、ありがとうです」
沈黙。
けれど重くも気まずくもない、柔らかい沈黙。
どちらからともなく、視線がふっと絡む。
(……まずい。ドキッとした)
ひよりは頬を少し染め、視線をそらしながら言った。
「……佐伯さんの家、あったかいですね」
「お前のテンションに部屋が負けてんだよ」
「えへへ……嬉しい」
その笑顔を見た瞬間、“守らなきゃ”という気持ちと同時に“惹かれてしまう”という感情が静かに芽生えた。
翌朝。
目を覚ました瞬間、昨日の出来事が一気に脳内へ流れ込んできた。
(俺の部屋に……女子高生……泊まった……)
とはいえ、ひよりはソファで寝て、俺はベッド。
健全に決まっている。
それでも“同じ部屋で朝をむかえる”という事実の破壊力は大きい。
ゆっくり身体を起こしてリビングを見ると――
「……すぅ……」
ひよりは丸まった姿勢で、ブランケットに包まれて眠っていた。
寝顔が……可愛い。
昨日のハイテンションが嘘のように、静かで、穏やかで、年相応の無防備さがあった。
(いや……これ見て胸がドキッとするのはやばいだろ……)
しかし誰も見ていないし、声に出さなければセーフだと心の中で勝手に結論づける。
その時だった。
「………ふぁ……あ……」
ひよりが目をこすりながら顔を上げ、そして俺と目が合った。
「……あっ……おはようございます……」
「お、おはよう」
寝起きの声が柔らかい。
髪も少し乱れていて、その姿が妙に女の子らしくて、俺は視線を外した。
「昨日はありがとうございましたっ。めちゃくちゃよく眠れました」
「そ、そうか。ならよかった……」
「佐伯さんの部屋、なんか落ち着くんですよね〜。空気が好きです」
「空気……?」
「はい。なんか、優しい匂いがします」
「……匂い褒められたの生まれて初めてなんだが……」
俺が困惑すると、ひよりはくすっと笑って立ち上がった。
「じゃあ、お礼に……今日どこか一緒に行きませんか?」
「どこかって……」
「相談したいこともあるし、お礼もしたいし……それに……昨日は会えたばっかりで、あんまり話せなかったじゃないですか」
「いや、けっこう話しただろってくらい話したぞ」
「えへへ。でも足りないです」
“会えるだけで嬉しい”という気持ちがストレートに伝わってくる。
そんな目で見られたら断れるわけがない。
「……じゃあ、軽くご飯でも食べに行くか?」
「行きます!!」
即答。
しかも目がキラキラしている。
「そのテンションはなんなんだ……?」
「嬉しいからですよ! 佐伯さんと外で会うなんて……ほとんどデートじゃないですか!」
「で、デート……?」
「違うんですか?」
無邪気な顔を向けてくる。
そこで不意に胸が跳ねた。
違う、と言えばいいのに。
言わなきゃいけないのに。
言えなかった。
「……まぁ、そう聞こえなくもないが……」
「やったぁぁ〜!!」
ひよりは飛び上がって喜び、
俺は顔を覆いたくなるほどの恥ずかしさに襲われた。
◆
着替えて外へ出ると、昼前の爽やかな風が吹いていた。
ひよりは制服から私服へ着替えてきており、
白いブラウスに淡いベージュのスカートというシンプルな格好。
「えっ……めっちゃ似合うな」
「あっ……ほんとですか!?」
一瞬で顔を真っ赤にし、スカートの裾を握って照れている。
そんな反応を見ると、こっちまでくすぐったくなる。
「佐伯さんって褒めるの上手ですね。ずるいです」
「いや、普通に思ったことを言っただけだ」
「それがずるいって言ってるんですよぉ」
頬をぷくっと膨らませるのも可愛い。
俺は何度目かわからないため息をついた。
「ところで、相談ってなんだ?」
「あとでお話しします。ちゃんと話したくて……二人でご飯食べてから、ゆっくりでいいですか?」
「ああ。わかった」
歩きながら話すひよりは、昨日よりも距離が近い。
肩が触れそうなほどの距離で並んで歩き、気がつくと周りの視線が少し気になる。
(いや……どう見てもデートだろ……これ……)
心臓がじわじわ熱くなるのを感じながら、
ひよりが笑った。
「ねぇ、佐伯さん」
「ん?」
「昨日のこと、後悔してません?」
「え?」
「……私に“来るか”って言ったこと」
ひよりは少しだけ不安そうに俺を見上げる。
「だって、迷惑だったかなって……でも……私はすごく嬉しかったから……」
その手が、そっと俺の袖をつまんだ。
「また会えて、ほんとによかったです」
その表情があまりにも純粋で、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「……後悔なんて、してないよ」
言った瞬間、ひよりの顔が花みたいに明るくなった。
「――よかった!」
その笑顔は、昨日よりもっと近くて、もっと眩しかった。
こうして俺たちの“なんとなくデート”は、自然と始まった。
昼下がり。
ひよりと一緒に入ったファミレスは、学生や家族連れで適度に賑やかだった。
午後の柔らかい光が差し込み、テーブルに置いた二人分のランチが温かく湯気を上げている。
「いただきまーす!」
ひよりはスプーンを手に、とても嬉しそうに頬をゆるませた。
虫歯になるんじゃないかと思うほど甘い笑顔だ。
(こうやって普通に食事してるだけなのに……なんでこんなにデート感強いんだ?)
俺は落ち着かない心を無理やり押し込みながら、ゆっくり食べ始めた。
「ねぇ佐伯さん」
「ん?」
「なんか見てませんでした? さっきから」
「み、見てないぞ」
「嘘です。絶対見てます。今も見てます」
「いやいやいや……」
「照れてるのかわい〜」
ひよりはにやにや笑いながらストローをくわえる。
俺は顔をそむけるしかなかった。
「そういえば……学校の子とかに見られたら、まずいんじゃないか?」
「え? なんでです?」
「……いや、大人の男と一緒にいるって、色々言われるだろ」
「いいんです。だって佐伯さん、私の“好きな人”ですし」
「!?!?」
ファミレスのざわめきが一瞬止まったように感じた。
(さらっと何言ってんだこの子は……!?)
俺が固まっていると、ひよりは頬杖をつきながら、楽しそうに覗き込んでくる。
「SNSでもずっと言ってましたよね? “好きだなぁこの子”って」
「あれは……人間として、相談相手として……!」
「えへへ〜、そんな苦しい言い訳してるとこも好きですよ?」
「好き好き言いすぎだろ……」
一度言い出すと止まらないのがひよりだ。
「でも本当に好きなんです。年上で、落ち着いてて、優しくて……話してると安心するし、会ったらもっと……」
そこまで言って、ひよりは恥ずかしそうに指先でグラスをなぞる。
「好きが増えちゃったんです」
その声は、からかいではなく、本物の気持ちそのものだった。
俺の胸にストンと落ちてくる。
(やばい……普通に……可愛い……)
俺は視線を落とし、食べかけのオムライスをいじりながら言った。
「……そんな簡単に言うなよ。軽く聞こえる」
「軽くないですよ。重めに言いましょうか?」
「いや、やめてくれ」
「じゃあ……」
ひよりは両手をテーブルに置き、まっすぐ俺を見つめた。
「好きです。最初にSNSで話した時からずっと。昨日会って、もっと好きになりました」
周囲の喧騒と、ひよりの声だけがやけに鮮明に聞こえる。
俺は深呼吸して、精一杯の理性を保ちながら答えた。
「……ありがとな」
ひよりは少し驚いて、それから嬉しそうに目を細めた。
「……そんな優しい言い方ずるい……。もう……ほんと……もっと好きになっちゃう……」
テーブルの下で、ひよりの足がそっと俺の足に触れた。
偶然かと思ったが、ひよりは照れた笑顔のまま足を動かさない。
(……完全にわざとだこれ)
俺が何も言わないでいると、ひよりはさらに近づいてきて、小声で囁いた。
「ねぇ佐伯さん」
「……な、なんだ」
「私の好意……バレバレですか?」
「バレバレだ」
「よかった♡」
そう言って笑うひよりは、“気持ちを隠す”という言葉を知らないような、まっすぐな瞳だった。
食事を終えて店を出る頃には、ひよりとの距離は昨日よりもずっと近く、まるで恋人みたいに歩幅を合わせて並んで歩いた。
その帰り道。
ひよりは突然立ち止まり、くるっと俺の方を向いた。
「ねぇ、一つだけいいですか?」
「なんだ?」
ひよりは両手を胸の前でぎゅっと握り、恥ずかしそうな笑みを浮かべて言った。
「……佐伯さん、私のこと……どう思ってますか?」
真正面から向けられた好意。
逃げ場のない問いかけ。
胸の奥が熱くなる。
その問いは、まっすぐで逃げ場がなくて、ちょっとだけ怖いくらい真剣だった。
ファミレスを出て、駅へ続く道。
夕方の柔らかい光がひよりの横顔を照らしている。
人通りはあるのに、ひよりの声だけがはっきり耳に残る。
「……どうって……」
答えたいのに、喉がつまる。
30歳の男が女子高生の好意を前にして、簡単に答えてはいけないような気がした。
でも、嘘をつくのも違う。
そんな俺の沈黙を、ひよりはじっと待っていた。
逃げ道をふさぐんじゃなくて、優しく待っている感じだ。
(……この子は本当に……優しい)
「……嫌いだったら、一緒にご飯なんて行かないよ」
「……それは……そうですね」
「SNSでずっと話してた頃から……正直、楽しかったし、癒されたし……」
ひよりの肩が小さく震えた。
「……だから、その……嫌いじゃない。どっちかって言うと……」
そこで言葉が止まる。
ひよりは息を呑み、期待に目を揺らす。
「……好き寄り、だ……」
言葉にした瞬間、ひよりの瞳が大きく見開かれ、次の瞬間、ぱあっと頬が赤く染まった。
「えっ……えっ……?」
「……そんな顔するなよ……こっちが恥ずかしい」
「す、好き寄り……!? 寄ってるんですか!? えっ……!」
「寄ってる。だいぶ」
「だいぶ!!?」
ひよりはその場でくるっとターンしそうな勢いで両手を頬に当てた。
「む、無理……嬉しすぎて……倒れる……」
「倒れないでくれ……怖いから」
「でも……ほんとにほんとに……言ってくれた……」
ひよりは震える指先で、俺の袖をつまんだ。
「……ちょっとだけでいいので……“好き”って言ってください」
「おまえなぁ……」
「だって、さっき“好き寄り”って……“寄り”いらないです……」
「欲張るなって」
「欲張ります! だって……ずっと言いたかったんですから……」
泣きそうなほど嬉しそうな目。
そんなの見たら、反則だ。
「……ひより」
「はい……っ」
「……好き、だよ」
「っっっ!!?」
ひよりの顔が真っ赤になり、両手で顔を覆いながら、足踏みするようにその場でもじもじした。
「ムリ……ムリ……ムリ……っ」
「落ち着けって……」
「ムリです!! 佐伯さんが……思ってた以上に破壊力あって……!」
しばらく暴走していたひよりは、突然ぴたりと動きを止めた。
そっと俺の腕に触れ、小さな声で言う。
「……ねぇ、手……つないでもいいですか?」
俺の心臓が強く跳ねた。
(ここまで素直に好意を向けられて……拒めるか?)
答えは、ひよりの瞳を見た瞬間に決まっていた。
「……いいよ。帰り道ぐらいなら」
「ほんとに……?」
「ほんと」
そっと、ひよりの指先が俺の指に触れ、遠慮がちに絡んでくる。
手が触れた瞬間――
「……あったかい……」
ひよりは恥ずかしそうに微笑んだ。
それだけで、俺の胸がじんわりと熱くなる。
人混みの中、手を繋いで歩く男女。
二人が並んで歩幅を合わせるたび、恋人っぽさが増していく。
(やばい……想像以上に“好き寄り”じゃ済まされなくなってきた)
帰り道、ひよりはずっと嬉しそうで、何度もこちらを見るたびに微笑んだ。
「……佐伯さん」
「ん?」
「言ってくれて、ほんとに……ありがとう」
めいっぱいの想いを込めた笑顔。
その横顔を見て、俺はもう気づいていた。
(……この気持ち、もう“寄り”じゃないのかもしれない)
優しい夕焼けが落ちる中、俺たちは手をつないだまま、ゆっくり家へ向かって歩き続けた。
ーーー
ひよりと手をつないだあの日から、数日が経った。
SNSのやり取りは前より増え、やわらかい恋人未満の距離感が、自然と俺たちの間に流れていた。
――そんなある日の夜。
仕事で少し遅くなった帰り道、ぽつぽつと雨が降り始めた。
街灯の光が地面に反射し、雨粒が白く揺れる。
「うわ……傘持ってくればよかった……」
濡れながら階段を上がり、202号室の前へ向かう。
すると。
「……さ、さえきさん……!」
「!? ひより!? なんでここに!?」
玄関前に、びしょ濡れのひよりが立っていた。
制服スカートは雨で貼りつき、髪からは滴が落ちる。
身体は小さく震えていて、目元が少し赤い。
「……雨、降ってきちゃって……傘……忘れちゃって……」
「お、お前……この格好で……!」
「ごめんなさい……どうしても……佐伯さんに……会いたくて……」
その言葉に、胸が一気に締めつけられた。
「と、とにかく入れ! 風邪ひくだろ!」
「……うん……」
◆
部屋に入ったひよりは、濡れた髪が頬に張り付き、肩を少し震わせていた。
「タオル! ほら!」
「ありがとう……ございます……」
必死にタオルで髪を拭く姿は、弱っているせいか普段よりずっと小さく見えた。
「制服、このままだとまずい……。着替えどうする?」
「……あ、あの……」
「?」
「佐伯さんのシャツ……借りてもいいですか……?」
その言葉に、俺は思わず固まった。
「お、おれの!? いや、それは……!」
「他に着るものなくて……ごめんなさい……!」
「いや、嫌とかじゃなくて……!」
「じゃあ……いいですか……?」
濡れた瞳で見上げられると、断れるわけがなかった。
「……わかった。適当に乾いたの持ってくる」
「うん……」
◆
シャツを貸して、ひよりが脱衣所へ入っていく。
カーテン越しに、水滴の落ちる音が聞こえた。
(やばい……。色々意識してしまう……)
落ち着け。
年齢差。
状況。
色々考えるべきなのは分かっている。
でも――
「……佐伯さん」
「わっ!? ひより!」
振り返ると、着替え終わったひよりが立っていた。
俺のシャツは彼女には少し大きく、袖が手の先まで隠れてしまっている。
スカートは乾いた部分だけそのまま履き直したらしいが……上半身のゆるいシャツが彼女の華奢さを強調していた。
「……に、似合いますか……?」
恥ずかしそうに袖を握る。
頬が赤い。
視線は俺にだけ向いている。
「……やば……」
「え?」
「いや、似合いすぎてるって意味だ……!」
「ほ、本当に!?」
「本当。似合ってる。すごく」
ひよりは胸の前で両手をぎゅっと握りしめ、照れくさそうに笑った。
「……よかった……」
静かに、嬉しさがにじむ声だった。
◆
「さっき……ひより、会いたかったって言ってたよな」
「うん……」
「何かあったのか?」
「ううん……」
ひよりは首を振って、ぽつりと呟く。
「ただ……佐伯さんに会いたいって思って……気づいたらここに来てました……」
素直すぎるその言葉に、心臓がひとつ跳ねた。
「ばか……風邪ひくって……」
「……ひくかもしれないです」
「なんでそんな嬉しそうなんだよ」
「だって……佐伯さんに“ばか”って言われるの、なんか好きです」
「意味わからん……」
「好きな人に言われたら嬉しいんです!」
胸を刺すような甘い言葉の連発に、俺の理性はギリギリのところで踏ん張るしかない。
「……ほら、ソファ座れ。体拭けよ」
「うん……」
ひよりは素直に従い、タオルで髪を拭きながら言った。
「ねぇ佐伯さん」
「ん?」
「今日……泊まってもいいですか?」
「!!?」
「雨、強くて……帰れそうにないし……それに……もっと一緒にいたい……」
見上げてくる瞳が、あまりにも真剣で、あまりにも甘かった。
俺は深く息を吸い、そして――
「……一晩だけな」
「っ……ありがとう……!」
ひよりはぱぁっと笑って、ソファの上で毛布を抱え込む。
その笑顔を見て、俺の胸はまたひとつ熱くなった。
(……どうしてこんなに惹かれるんだ)
考えても答えは出なかった。
ただ、ひよりの存在が心を軽くすることだけは間違いない。
ワンルームの部屋にふたりの呼吸だけが微かに響いている。
「……ふぅ」
ソファに座ったひよりは、俺のシャツ姿のまま毛布を抱き込んでいた。
袖が長くて手が隠れてしまっているその姿が、とんでもなく“守りたくなる可愛さ”だった。
(やばい……。視界に入るだけで心臓が忙しい)
そんな俺の様子を見て、ひよりはゆっくりと笑う。
「佐伯さん、さっきから目そらしてばっかりです」
「……そらさなきゃまずいだろ、この状況」
「どうして?」
「どうしてって……お前……」
ひよりは首をかしげる。
その仕草がまた反則級に可愛い。
「恥ずかしいんですか?」
「いや……まぁ……恥ずかしいというか……」
「照れてるのかわいいです」
「お前が一番人を照れさせてる自覚持ってくれ」
ひよりは嬉しそうに毛布をぎゅっと抱きしめ、少しだけ俺に近づいた。
「……今日、来てよかった」
静かに、真剣に、胸の奥に落ちる声で言う。
「佐伯さんと話すとね……なんか、心が軽くなるんです。学校の友達にも言えないこと言えちゃうし……笑ってくれるだけで嬉しいし……」
目を細めるその表情に、胸が締めつけられた。
「……ひより」
「ん?」
「俺もだよ。お前が来ると……なんか、疲れが全部飛ぶ」
ひよりの瞳が揺れた。
嬉しさに、少し驚きも混じって。
「……ほんとに?」
「ああ」
「……好きって、言ってくれますか?」
「またかよ……」
「言われたいんです……。昨日からずっと……佐伯さんの声で聞きたいって思って……」
ひよりは毛布を抱いたまま、そっと膝を寄せてくる。
距離が近い。
息が当たりそうなほど近い。
(こんな可愛い距離感……反則だろ)
俺は深呼吸を一つして、静かに言った。
「……好きだよ。ひより」
目の前で、ひよりの表情がとろけるように緩んだ。
「っ……好き……。好き……っ……」
俺の胸元に額を押しつけるように近づいてくる。
「そんなふうに言われたら……もっと欲しくなっちゃう……もっと近くにいたい……」
「お、おい……」
ひよりは顔をあげ、ゆっくりと俺の肩に頭を預けてきた。
少し震えているのは、嬉しさか、照れか、あるいは――
「……手、つなぎたいです」
ぽつりと落ちる小さな声。
俺が何も言わずに手を出すと、ひよりはゆっくり、その温かい指で握り返した。
そのまましばらく、ふたりで手を繋いだまま黙っていた。
沈黙なのに、会話よりもずっと気持ちが通じてしまう沈黙。
しかし――
安心しすぎたせいか、ひよりはふっと力を緩めてしまった。
「……あのね、佐伯さん……もっと……くっつきたい……」
「……っ」
「ダメ、ですか……?」
拒否したら傷つけてしまう。
でも、受け入れすぎると距離が一気に恋人レベルを越えてしまう。
そこで俺は、
ひよりの手をぎゅっと握り直して言った。
「……気持ちは嬉しいよ。でも……今日はここまでな」
「……ここまで……?」
「ああ。手、つないで……話して……それで十分だよ」
ひよりはしばらく黙った。
拒否されたのが悲しくて沈んでいるのではなく、俺がちゃんと“線を引いてくれた”ことを受け止めているようだった。
そして、ぱっと表情が明るくなる。
「……優しい」
「いや、これは優しさとかじゃなくてだな」
「優しいです。だって……私の気持ち、ちゃんと受け止めてくれて……でも、大事にしてくれてる」
ひよりは微笑んで、そっと俺の肩に寄りかかった。
「こんなに好きな人、初めて」
雨の音。
ひよりの呼吸。
俺の鼓動。
全部がひとつの空間で混じり合う。
(……やっぱりもう“好き寄り”なんて言えないな)
ひよりの体温が伝わるたび、俺の心はさらに深い場所へ落ちていった。
すれ違いなんて、実はどこにもなくて。
ただ、好き同士が少しずつ距離を詰めているだけ。
雨の夜を越え、翌朝。
カーテン越しのやわらかな光が部屋に差し込む。
ひよりはソファで毛布にくるまったまま寝ており、
少しだけ見える寝顔は昨日よりずっと穏やかだった。
(……可愛いな、ほんと)
昨夜の“近さ”を思い出して、胸があたたかくなる。
手を繋ぎ、肩に寄りかかられ、好きだと何度も言われ――
俺も心の底から返した。
(ひよりの気持ち……しっかり受け止めなきゃな)
そう思いながら、朝食代わりのパンをかじっていると、
「……ん……」
ひよりがゆっくり目を開けた。
「……あ、おはようございます……」
「おはよう。ちゃんと寝れたか?」
「めっちゃ寝れました……。佐伯さんのシャツ……あったかかった……」
「そ、それは……よかった……」
起き抜けのひよりは、昨日よりさらに距離が近かった。
毛布を抱えたまま、とことこと俺の方へ歩いてくる。
「ねぇ佐伯さん……」
「ん?」
「昨日のこと……夢じゃないですよね?」
真剣な目。
そして、少し不安が混じっている。
「……夢じゃないよ」
「……っ」
ひよりの手がぎゅっと胸元を握る。
「ほんとに……好きって言ってくれたんですよね……?」
「ああ」
「……昨日の……全部……?」
「ああ。全部本当だ」
言葉を失ったように、ひよりは俺を見つめた。
涙がにじむほどの笑顔。
喜びなのか、安心なのか、その両方なのか。
「……良かった……っ」
ふわっと軽い音をたてて、ひよりは俺に抱きついてきた。
「わっ!? ひ、ひより!」
「ごめんなさい……でも……嬉しくて……嬉しくて……抱きつかないと無理で……」
腕の中で震えるひよりを受け止めながら、俺の胸もぐっと熱くなる。
「……ひより」
ゆっくり肩に手を置き、彼女の顔を見つめると、驚いたように目が大きく開いた。
「昨日言ったこと……本当だよ。お前といると、心が軽くなる。笑えるし……あったかい気持ちになる」
「……うん……」
「好きって気持ちも……嘘偽りなく、本物だ」
ひよりは唇を噛みしめ、声を震わせながら言った。
「……佐伯さん……ほんとに……私で、いいんですか?」
「お前がいい」
ひよりの瞳から、大きな涙が一粒落ちた。
「……ずっと……ずっと……言ってほしかった……」
涙を指で拭うと、ひよりは恥ずかしそうに笑った。
「……あのね……」
「ん?」
「昨日、言えなかったこと……言ってもいいですか?」
「言え」
ひよりは深呼吸して、俺の目を真っ直ぐに捉えた。
「佐伯さんのこと……最初から……“男の人として”好きでした」
胸がズキッと震える。
ストレートすぎて、逃げ道がない。
「SNSで話してるときも……会いたいって思って……会ったらもっと……好きになって……」
顔がどんどん赤くなっていくひより。
「……昨日、手つないだ時……このまま……離れたくないって思った……」
「……ひより……」
「もっと近くにいたい……。もっと話したい……。もっと好きになって欲しい……」
その想いがあまりにも真っ直ぐで、胸が熱くなるのを止められなかった。
「……俺も同じだよ。ひより」
「……え?」
「ひよりと話すと……俺も離れたくなくなる」
ひよりの頬がまた赤くなる。
「そんなこと……言われたら……」
「ん?」
「佐伯さんのこと……止められないくらい好きになっちゃう……」
「……好きになれよ」
ひよりは一瞬、息を呑んだあと――
「……なります」
涙で潤んだ目のまま、もう一度俺に抱きついてきた。
彼女の体温が胸に伝わる。
腕の中で呼吸が震えているのが分かる。
(……守りたいとか、そんな言葉じゃ足りないな)
ひよりの全てを、大事にしたいと思った。
◆
しばらく抱きしめ合ったあと、ひよりは照れくさそうに顔を離し、小さな声で言った。
「……佐伯さん」
「ん?」
「次会う時……ちゃんと“デート”したいです」
胸にストレートに刺さるお願い。
「……ああ。行くか。デート」
「……ほんとに?」
「ほんとに」
その瞬間、ひよりの笑顔はこれまで見た中で一番きらきらしていた。
「――大好きです!」
その告白に、俺は笑うしかなかった。
「俺もだよ。ひより」
雨の日から生まれた距離はもう戻らず、ふたりの気持ちは“恋人”に限りなく近づいていた。
ひよりが帰ってから数日後。
その間もSNSではずっと会話が続き――
他愛のない話から、次会う日のプランまで、自然と毎日話すようになった。
『土曜日、デート行こ?』
『行く!!どこでもいい!!佐伯さんとなら!!』
ひよりの返信は、いつも“好き”が溢れている。
読んでいるだけで胸が熱くなるほどだった。
(……ついにデートか)
恥ずかしさと緊張と、少しの期待。
そんな感情が入り混じりながら、土曜日を迎えた。
◆
待ち合わせ場所は小さな駅前の広場。
土曜の昼前で、学生や家族連れが行き交う中――
「さ、佐伯さん……!」
ひよりが駆け寄ってきた。
制服ではなく、淡いレンゲ色のニットに白いスカート。
肩のあたりで揺れる黒髪が光に透けて、目が奪われるほど綺麗だった。
「……めちゃくちゃ似合ってるな」
「っ……! そんな……いきなり……!」
ひよりの耳まで真っ赤になった。
「今日のために選んだんです。好きな人に、かわいいって思ってもらいたくて……」
そんなこと言われたら、30歳の男は確実に倒れる。
「……じゃあ行くか」
「行きましょう!」
並んで歩く。
自然に、ひよりの手が俺の手を探してきた。
「つなぎたい……ですか?」
「……お前がつなぎたいなら」
「つなぎたいです!」
温かい指先が、俺の手をぎゅっと握る。
(……完全にデートだな)
◆
最初に入ったのは少しお洒落なカフェだった。
窓際に座り、ソフトクリームを前にしたひよりは、
嬉しそうに足をぱたぱた揺らしている。
「こういうお店……来たことなかったです」
「友達とは行かないのか?」
「行かないです。でも……佐伯さんとなら来たいって思いました」
恥ずかしそうに笑うひより。
今この瞬間、ひよりが“俺との時間を大事にしている”のが、痛いほど伝わってくる。
「ねぇ、佐伯さん」
「ん?」
「今日の私……どうですか?」
その聞き方は反則だ。
「……可愛いよ。どう見ても、デートする相手として最高だ」
ひよりの目が、とろけるみたいに細くなった。
「……よかった……。今日を……ずっと楽しみにしてたんです」
言葉の意味が重くて甘い。
◆
午後はショッピングモールへ。
映画館のポスターを見てひよりがはしゃいだり、
雑貨屋で同じキーホルダーを「お揃いにしませんか?」と提案されたり。
「佐伯さん! これ! これ可愛い!!」
「そんなに走るな、こけるぞ」
「だって見せたくて!」
「わかったから……ゆっくりでいい……」
腕を掴んで引っ張ってくるひよりは、笑顔ばかりで、一日ずっと楽しそうだった。
俺も……楽しかった。
◆
夕方。
ひよりは駅前のベンチに座り、俺の方を向いた。
「今日……ほんとに楽しかったです」
「俺もだよ」
「えへへ……。なんか……夢みたいです。だって、SNSで“この人優しいなぁ”って思ってた相手と、こうやって手つないで歩いて……デートして……」
ひよりは膝の上で両手を握りしめた。
「……ねぇ、佐伯さん」
「ん?」
ひよりは大きく深呼吸して、まっすぐ俺を見る。
「好きです。ほんとに……ずっと。会う前から、会ってからはもっと……今日でさらに……すごく好きになりました」
涙が滲むほど真っ直ぐな瞳。
心臓が熱くなる。
「……俺もだ。ひより」
ひよりが息を呑んだ。
「俺の方こそ……会ってからずっと、お前の一生懸命さにやられてる。嬉しい時の笑顔も、照れた時の顔も……どんどん好きになってる」
「……っ……」
ひよりの手を取り、そっと握る。
「好きだよ。ひより」
ひよりは、泣きそうになりながら笑った。
「……私と……ちゃんと恋人になってくれますか?」
その質問は、今までで一番甘くて、真剣で、胸に刺さるものだった。
「……ああ。よろしくな、ひより」
「っ……! っ……!!」
ひよりは両手で顔を覆い、嬉しさと照れでぐしゃぐしゃになった顔のまま俺に飛びついた。
「佐伯さん……大好き……大好き……!!」
「……はいはい、聞こえてるって」
「嬉しい……っ、ほんとに……っ」
雨の日に出会って、偶然のように近づいた距離は――
ついに、ふたりの正式な“恋”へと変わった。
◆
帰り道。
ひよりは俺の手をぎゅっと握り、
「これから、いっぱいデートしてくださいね?いっぱい好きって言わせてくださいね?」
そう笑うその顔は、過去最高に幸せそうだった。
そして俺も――
その笑顔を守りたいと思った。
これから先、年齢差のことも、周りの目もあるだろう。
でも、それを全部ひっくるめても。
(……ひよりの隣にいたい)
そんな気持ちで胸が満たされた。
夜の風が優しく吹く中、恋人になったばかりの俺たちは、手をつないだまま家へ向かって歩いた。
こんな世界線に生まれたかった(´;ω;`)




