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食堂から出た私達は、どこに向かうでもなく、入り口から少し離れたところで向かい合っていた。
目の前の彼は、河野さんから「佐野君」と呼ばれていた。
私は彼のことを知らないが、彼は私の名前を知っていた。どこかで、知り合ったことがあるのかもしれない。
「あの、これ」
彼から渡されたのは、水色のパスケースに入った私の学生証だった。
「昨日、食堂に置き忘れてました」
彼の手の中にあるパスケースを見ながら、私は心に張りつめていた緊張がほぐれていくのを感じた。でもそれは、無事に学生証が戻ってきたことに対してではなかった。
彼が私の名前を知っていたのは、学生証を拾ったからだった。どこかで知り合っていたからでは、なかった。
「ありがとうございます」
「いえ。もっと早くお返し出来れば良かったんですが」
ホッとしながらも、仮面が剥がれないように気を付ける。
笑顔がぎこちなくならないように、受け取る手が震えないように、視線が揺らがないように、全てに意識を向けて、学生証を受け取る。
彼の視線を正面から受けながら、震える手を押さえて、自然な仕草で学生証を受け取った私は、頭をフル回転させる。
(次に、私が取るべき行動は……)
このまま、もう一度お礼を言って立ち去るのがいいのか。それともお礼をするべきか。ただ、私と彼は初対面、のはず。無理にお礼しても、返って迷惑になる。それなら、
「あの、本当にありがとうございました」
「ああ、いえ」
「もしよろしければ、お礼に何か御馳走します」
ここが食堂の前でよかった。ちょうど近くに自動販売機がある。飲み物1つくらいなら、迷惑に思われる可能性は低い。必要なくても、飲み物くらいなら断ることができるだろう。断れないとしても、無駄にはならない筈。
「それなら、缶コーヒーをいいですか?無糖で」
「もちろんです」
自動販売機に近づいて、お金を投入し、無糖の缶コーヒーを選ぶ。ガコン、と音を立てて出てきた缶コーヒーに触れてから、心臓が大きく音を立てた。
私が選んだ缶コーヒーは、ホットだった。
「あの、ホット、でしたが、大丈夫でしたか?」
10月にはなったが、昼間はまだ暑い日が続いている。良く晴れている今日も、陽射しは眩しく、屋外にいると肌が焼かれそうだ。
もっとちゃんと確認しておけばよかったと後悔しながら問いかけると、彼は何でもないというようにコーヒーを受け取った。
「ああ、大丈夫ですよ。そこの自販機、コーヒーはもうホットしかないんですよ」
どうやら、彼はそれを知っていて、その上で無糖のコーヒーを望んだらしい。
そもそも、この自動販売機に無糖のコーヒーは1種類しかない。彼の言葉に、初めてその事実に気付く。それなら、私は気にしない方がいい。
「そうだったんですね。よく、ここでコーヒーを飲まれるんですか?」
「まあ。毎日ではないですが、ここを使う時は、つい買っちゃいます」
なんでもない、記憶に残らないような、とりとめのない話をする。その間に、どうこの場から立ち去るか、どうしたら一番自然に立ち去ることができるか、思考を巡らす。
早速缶コーヒーを開けた彼は、壁にもたれかかってぼんやりとコーヒーを飲んでいる。それなら、ひと言声をかけて去ってもおかしくないのではないか。
そう思ったところで、電話がかかってきた。私のスマホだった。
「あ、すみません。あの、学生証、本当にありがとうございました」
「ああ、いえ。お気になさらず。コーヒーごちそうさまでした」
電話がかかってきたのは好都合だった。
もう一度頭を下げ、彼から離れて電話をとる。
相手は、バイト先の店長だった。
『篠崎ちゃん、突然ごめんね! 今日渡辺さんが体調不良で来れなくなっちゃって、夜だけでも入ることってできそうかな?』
「19時からでしたら、入れます」
『本当?! わー、すごい助かるよ。じゃあ19時からよろしくね!」
「はい。失礼します」
電話を切って目をあげると、佐野さんの姿はなかった。
ふぅ、と息を吐き出し、手の中にパスケースがあることを確認して食堂に戻る。
河野さんと田辺さんは、変わらず動物の動画を見て、キャアキャア歓声を上げて盛り上がっていた。




