記録されなかった日常
空が、僅かに曇っていた。
北の廃道――そこは、かつて都市と都市を繋いでいた広い街道跡だった。
アスファルトはひび割れ、草が割れ目から顔を出している。
ところどころに、倒壊した案内標識や崩れた休憩所の骨組みが見える。
それらはすべて、記録には残らなかった“日常の名残”。
ヴァルトとフィーネは、無言で歩いていた。
この静けさには、戦闘の気配はない。
だが、それ以上に――言葉を探すには、少しだけ時間が必要だった。
やがて、フィーネが口を開く。
「……ねぇ。あれ、なんだと思う?」
彼女が指差したのは、道端に並べられた小さな石の山。
風雨に削られた丸石が、三段重ねで崩れかけていた。
「子供の遊び……じゃないな。何かの目印か、供養か」
「記録には……?」
「ない。だが、誰かが“残したかった”ものだろうな」
フィーネは近づき、そっと膝をついた。
石に手を伸ばし、少しだけ崩れた積み方を直す。
その仕草はまるで、過去の誰かに対する敬意のようだった。
「誰かの“気持ち”が、あそこにあったんだと思う。
忘れたくない、誰かを想う気持ちが……きっと」
ヴァルトは黒剣の柄に手を置いたまま、その姿を静かに見ていた。
「――記録されていないものが、こんなにも多いとはな」
フィーネが、そっと振り返る。
「じゃあ、残そう。私たちが見たもの、感じたもの。
たとえ過去じゃなくても、“今”を、ちゃんと」
風が吹き抜ける。
崩れた石の間から、ひとつだけ白い小花が顔を出していた。
ヴァルトは歩き出す。
その背中を見て、フィーネも静かに立ち上がった。
もうすぐ、廃道の先――記録庫の入り口が見えてくる頃だ。
だが、ふたりの前に立ちはだかるのは、記録された過去だけではない。
誰かが守ろうとして失われた“何か”。
そして、黒剣に記された記憶が、また新たな問いを突きつけようとしていた。
そのとき――
瓦礫の奥で、鉄が軋む音がした。
「……気配が変わった。さっきまでの静けさじゃない」
ヴァルトが、即座に黒剣を抜いた。
目を細め、前方の薄暗がりを見る。
そこに、確かに“何か”がいる。
だが、それは今までの機械生命体とは違う。
無音。だが、確かな存在感。
記録には――ない“何か”。
戦闘か、対話か。
それすらも、まだわからない。
フィーネが、そっと呟いた。
「……ここから先が、“知ること”の境界線なのかもしれないね」




