一度目の記憶
帰りの馬車の中で、母サビーヌは終始ご機嫌だった。
一回目の婚約解消時には、こうではなかった。馬車の扉が閉まったとたん、涙を浮かべて「どうして婚約解消だなんてことになったの!」と娘を問い詰めようとしたものだ。
そしてまた娘は必死に弁解を重ね、うんざりした様子の父ジャン=クロードからとめられるまでそれが続いたのだった。
夫にとめられた後、サビーヌがフェリシエンヌを問い詰めることはなくなった。代わりに、物思いに沈んでしまった。この悲劇を受け止めかねるように、視線がうつろで、ほとんど口を開かない。娘から話しかけても、うわの空。なんと一週間ほども、それが続いた。
そうして一週間ほどが経ったある日、もうひとりの光魔法の保持者であるコレットがデュシュエ伯爵家にやってきた。王家の指示により、彼女を保護するためである。コレットの実家、グランジュ男爵家では十分な保護が与えられないとして、デュシュエ伯爵家に預けられたのだ。
その日から、さすがにサビーヌも自分ひとりで悲劇の世界に浸るのはやめた。ただし娘に対しては、ぎこちない態度のままではあったが。一方でコレットのことは「王家から預かったお客さま」として扱い、よそ行きの笑顔で愛想よく接した。
おかげでコレットからは、たびたびこんなふうに謝罪されたものだ。
「わたしばかり、本当の娘みたいにかわいがっていただいて。フェリさま、なんだか申し訳ありません」
フェリシエンヌは正直なところ、これには内心、閉口していた。表向きは謝罪の体裁をとってはいる。けれどもどうしても、フェリシエンヌよりもコレットのほうがサビーヌに気にかけられていると自慢されているように思えてならない。きっとコレットには、そんな悪意などないのだろうが。
仕方ないので、その都度「気にしないで」と返していた。
「だってコレットさんは王家から預かっている、大事なお客さまなのですもの」
するとなぜかコレットは眉をひそめ、なぜかショックを受けたかのように「そんな……」と言う。
この件に限らず、コレットのフェリシエンヌに対する言動には、どこかちぐはぐなところがあった。今になって思い返せば、このときのフェリシエンヌの言葉も悪意を持って受け取られていた。
それがわかったのは、だいぶ後になってからのことだ。ある日彼女は、エヴラールからためらいがちにこんな質問をされた。
「コレットが『フェリシエンヌさまから、ことあるごとに〝あなたはお客さま〟とよそ者扱いされて、悲しかった』と言うんだけど、本当に言ったことある?」
フェリシエンヌは一瞬、返答に詰まってしまった。言ったことがあるかないかでいったら、確かにある。けれども、決してよそ者扱いするために言ったわけではない。
どのような会話の流れでその発言になったのか彼女が説明すると、エヴラールは「やっぱりそうだよね」とうなずく。そして困った顔でため息をついた。
「そう説明しても、納得してくれないんだよね……。何か強烈に思い込んじゃってるみたいで。嫌なことを聞いて、ごめんね」
この件に限らず、同じようなことがほかにも何度もあった。
もっとも、フェリシエンヌがデュシュエ伯爵邸でコレットと一緒に暮らしたのは、わずか二か月ほどのことでしかない。なぜならこの二か月ほど後、フェリシエンヌの身は王宮預かりとなってしまったからだ。
あれは忘れもしない、五月一日のこと。王宮で魔術師からコレットと一緒に魔法の講義を受けていたフェリシエンヌは、突然むせたように咳き込んだ。そしてそのときから、咳が止まらなくなってしまったのだった。
感染症を疑われたフェリシエンヌは、そのまま王宮に留め置かれた。念のため隔離の意味もあって、本館すぐ近くの離宮にではあったが。
感染症を疑われている間、見舞いに来たのはマリウスだけだった。見舞い自体はうれしい。けれども他に誰も見舞いに訪れないのは、訪れないなりの理由があるのだ。何度目かの見舞いのとき、ついにフェリシエンヌは意を決してマリウスに告げた。
「マリウスさま、うつる病気だったら困ります。お見舞いはありがたく思いますが、どうかお控えくださいませ」
だがマリウスは「おやおや」と言いたげに眉を上げ、彼女の諫言を歯牙にもかけない。
「僕を誰だと思っているの」
「フォンテーヌ公爵家のご嫡男さまだと思っておりますが」
フェリシエンヌが生真面目に返すと、マリウスは「そういうことは聞いてない」と笑った。
「フェリは知らなかったかもしれないけど、こう見えて、実は王宮魔術師なんだ」
「もちろん存じています」
これにはフェリシエンヌも笑ってしまった。知らないわけがない。マリウスは彼女に魔法を教える講師のひとりなのだから。四属性もの魔法を繰ることができるのは、王宮魔術師たちの中でもマリウスだけだ。しかも彼は特に治癒魔法に長けていて、治癒系はいずれも最上級の魔法が使える。
「だからね、たいていの感染症なら魔法で治せる。フェリには浄化魔法が効かないから、うつる病気じゃないんだよ。心配いらない」
とはいえ、魔法は万能ではない。今まで知られていなかっただけで、浄化魔法の効かない感染症だってあるかもしれないではないか。フェリシエンヌがそう指摘しても、マリウスは一向に気にかける様子がなかった。
半月ほどで、感染症の疑いは払拭された。にもかかわらず、彼女は王宮に留め置かれたままだった。最善の治療を受けるためには、王宮医師の目の届く場所にいるべきだとの判断による。婚約こそ解消したものの、希少な光魔法の保持者に対して、王家は最大限の便宜を図ろうとしてくれた。
感染症の疑いは晴れたと言っても、必ずしもそれはよい知らせではなかった。
マリウスの言うように、感染症であれば浄化魔法が効く。最上級の浄化魔法でも効果がないということは、手の尽くしようがない病、つまりは死病である可能性が非常に高いのだ。
ただし一般的には、病気を魔法で治療することは推奨されていない。特に感染症の場合、薬による治療なら耐性がつくが、魔法で治療すると耐性がつかないためだ。しかし原因不明だったり、他に治療法のないものであれば別である。
そしてそのひと月ほど後、エヴラールとコレットの婚約が知らされた。それは夏至の前日、六月二十日のことだった。日付まで覚えているのは、マリウスのせい。知らせがもたらされたその日のうちに、求婚に訪れたのだ。
「もうこれ以上、エヴラールに義理立てする必要はないだろう? 僕との婚約を考えてみてよ」
けれども彼女は、この申し入れも断ってしまった。
「お気持ちは大変にうれしく思います。でもこのような状態では婚約など、とてもお受けできません。もし治ったときにまだお気持ちがあれば、そのときはよろしくお願いします」
もう治らないであろうことは、フェリシエンヌ自身が一番よくわかっていた。だからこその辞退だった。婚約したって、相手が死にゆく病人ではマリウスが気の毒だ。
なのにマリウスは足しげく見舞いに訪れ、そのたびに求婚していった。
「もしも本当に治らないなら、なおのこと婚約してほしい。少しでも一緒に居たいんだ」
フェリシエンヌが断ると、マリウスは悲しそうな顔をする。
その後も坂を転げ落ちるようにして、彼女の病状は悪化していった。八月には咳にときどき血が混じるようになり、十月には毎日のように咳とともに血が出るようになり、十二月にはついにときおりゴボッと血を吐くようになってしまった。
それでも彼は、最後の最後まで彼女を諦めなかった。
しんしんと外では雪の降り積もっていたあの冬の日にも、マリウスは彼女の見舞いに訪れた。そうして彼は、暖炉の前のソファー近くで大量に喀血して力尽きていた彼女を見つけたのだ。あのときの彼の慟哭は、忘れようと思っても忘れられない。
だから彼女は心に決めた。もう決して時間を無駄にはすまい。
どう頑張ったところで、残された時間は変わらないかもしれない。でも、その時間すべてを彼に捧げることならできる。彼女の持てるすべてでもって、彼を幸せにしよう。それだけでなく、彼は間違いなく彼女を幸せにしたのだと実感させてあげたい。
きっとまた彼は泣くだろう。
それでも幸せな思い出があるのとないのとでは、まるきり違うと思うのだ。できることはすべてし尽くしたと、彼に実感してほしい。彼は間違いなく彼女を幸せにしたのだと知ってほしい。彼に悔いが残らないようにしてあげたい。
そうすればいずれは悲しみを乗り越えて、新しい幸せを見つけられると思うのだ。
せっかく与えられた二度目の機会。彼女は彼に後悔の種ではなく、幸せな時間の記憶を残すために全力を尽くそうと、固く決意したのだった。