犬と少年
咳に疲れて、この日もフェリシエンヌは部屋のソファーでうとうとしていた。
すると廊下のほうから、何やら騒がしい気配がした。その上、ここでは聞こえるはずのない声が聞こえてくる。
「ねえさま、ごきげんよう!」
「ジェレミー?」
「そうだよ!」
驚いてパチリと目を開けてみれば、そこにあるのは本当に小さな弟の姿だ。そればかりか次の瞬間、さらに騒々しくなる。
「ウウウウ、ワン! ワンワン! ウウウ、ワン!」
それはアローだった。壁に向かって吠え立てている。いや、壁ではないかもしれない。壁際に置かれた机に向かって吠えているのかもしれなかった。
さらに遅れて、また別の声がする。
「いったいどうした? ずいぶんと騒々しいな」
なんと父ジャン=クロードだ。母サビーヌもいる。
驚きに目をパチクリさせているフェリシエンヌの前で、ジェレミーはアローと同じ方向へ視線を向けて固まっていた。そして両親の後ろから部屋に入ってきたマリウスに向かって、叫んだ。
「にいさま、見て! 呪いがあるよ! あれは呪いの魔法陣だ」
「何だって?」
思ってもみない言葉に、マリウスは目を見開いた。
ジェレミーが指さす先にあるのは、小さな油絵。書き物机の上に飾られた、花の絵だった。コレットから贈られた、例の絵画である。
「ステファンおじさまと一緒に見たご本に載ってるのと、モヤモヤの色が同じだもん」
「モヤモヤ?」
「うん。祝福だと白っぽくキラキラするけど、呪いは黒いモヤモヤが出てるの。大人には見えないんだって」
このやり取りを聞いて、フェリシエンヌは以前ステファンから聞いた話を思い出した。十歳以下の子どもは、邪法をかぎ分ける犬種の犬と一緒に過ごすうち、犬と同じような鋭敏な感覚を身につけることがある、と彼は言っていた。
そう言えば、ジェレミーはステファンの研究を手伝っていたのだった。古代魔法の文献の中から、呪いの魔法陣を見分けてステファンに教えていた。どうやらその見分け方は、大人には見えない何かによって判別しているらしい。
息子が指さす先を見て、ジャン=クロードは眉を上げた。
「コレット嬢からの快気祝いじゃないか」
「え、コレット嬢?」
コレットの名前が出てきたことに、マリウスは顔色を変える。そして「どういうことですか」とジャン=クロードに詰め寄った。
その鬼気迫る表情に戸惑いつつも、ジャン=クロードはいきさつを説明した。王都のデュシュエ伯爵邸に、フェリシエンヌ宛ての贈り物が届いたので転送したのだ、と。
マリウスは「なんてことだ」と頭を抱える。
「フェリ、ごめん。僕の詰めが甘かったせいだ」
「詰めが甘かった、とは?」
いぶかるジャン=クロードに、今度はマリウスが事情を説明した。コレットが王都の公爵邸に縫い針入りのハンカチを送りつけてきて以降、フォンテーヌ公爵家ではコレットからフェリシエンヌへの一切の接触を遮断していた。
この針でフェリシエンヌが指を刺してしまった後、怒り心頭のマリウスはパトリス経由でエベール侯爵と国王にいきさつを報告した。
なんともご丁寧なことに、エベール侯爵には現物の縫い針を送りつけさえしていた。もちろん、うっかりけがをしないよう、厳重に包装した上でのことである。侯爵は自分の監督不行き届きだとして、平身低頭だったと言う。
マリウスとしては、エベール侯爵自身に対して含むところは何もない。
ただ単に、事情を承知しておいてほしかっただけなのだ。その上で、コレットからフェリシエンヌへの接触を絶つことへの協力を求めたのだった。エベール侯爵が快諾したのは、言うまでもない。
ところがマリウスはこの件に関して、フェリシエンヌの父ジャン=クロードへ知らせるのをコロッと忘れていた。だから父はコレットに前科があることなど知らず、何も疑うことなく荷物を転送してしまっていた。
マリウスは悄然と頭を下げた。
「連絡を怠って、申し訳ありませんでした」
「いやいや。手紙に『公爵邸に送っても送り返されてしまった』と書かれていた時点で、不審に思うべきでした。問い合わせなかったこちらの責です。申し訳ない」
ジャン=クロードも苦い顔で、首を横に振った。
マリウスは難しい顔をしたまま油絵を手に取り、ためつすがめつする。
「それにしても、呪いか……」
「にいさま、そっちじゃないよ」
にらみつけるようにして油絵を検分するマリウスに、ジェレミーが声をかけた。
「モヤモヤしてるのは、こっち側」
マリウスの手から油絵を取り上げ、裏返してみせる。マリウスは「そういうことか」とつぶやきながら油絵を再び手にし、裏蓋を外した。そして息をのむ。
果たしてそこには、魔法陣が描かれた紙が貼り付けられていたのだ。
ジャン=クロードも険しい顔で、マリウスの手もとをのぞき込んだ。
「それが呪いだと言うなら、燃やしてしまいましょう。そうすれば、娘はよくなるのでしょう?」
「いえ。破壊された瞬間に呪い殺すような、たちの悪い呪いもあるんです。うかつなことはできません。これは大叔父に相談したほうがいいな。王都にいるので、ちょっと行ってきます」
マリウスは油絵を手にしたまま、あわただしくきびすを返した。そのまま足早に部屋を出て行こうとするマリウスを、ジェレミーが走って追いかける。
「にいさま、待って! 僕、お手伝いできるよ。お手伝い、いるでしょ?」
「お。頼んでもいいかな?」
「いいよ!」
もちろん、六歳の少年ひとりを付いて行かせるわけにはいかない。乳母も一緒である。今回は乳母見習いではなく、本職の乳母が付き添って来ていた。
ジャン=クロードとサビーヌは、しばらく領主館に滞在することになった。
両親と弟の急な登場に驚いたフェリシエンヌだったが、次第に状況がのみ込めてきた。彼らを呼んだのは、マリウスだった。おそらく医者から、もう長くないと言われたのだろう。だから最後に家族に会わせようと、呼んでくれたのだ。マリウスの心遣いがうれしかった。
夫の後ろで声もなくたたずんでいたサビーヌは、力なくソファーにもたれる娘のすぐ横に腰を下ろした。目には今にもこぼれ落ちそうなほど涙が浮かび、口もとをわななかせている。
「フェリ、フェリ……! こんなに弱ってしまって、かわいそうに。替われるものなら、替わってあげたい」
「お母さま、泣かないで。大丈夫よ。きっとマリウスさまが助けてくださるわ」
ぎゅうっと抱きしめる母の体温で、心まで温まる気がした。
呪いが解けようと解けまいと、たとえ「前回」よりも残された時間が短かろうとも、彼女は幸せな時間を過ごしてきたと自信を持って言える。フェリシエンヌは母の背中に手を回し、そっと抱きしめ返した。
九月十日。冬至の日まで、残り102日。




