婚約祝い
翌日、コレットからは本当に贈り物が届けられた。
エベール侯爵家から、遣いの者が持って来たと言う。いかにも少女の好みそうなかわいらしい柄の包装紙に包まれ、つややかで派手なピンク色をしたサテンのリボンで飾られていた。いったい何が入っているのか、小さい上に平たく軽い。
婚約祝いとして贈られたものなので、包みを開ける前にマリウスに声をかけた。
「マリウスさま、コレットさんからお祝いの品が届きました」
「ふうん」
心底どうでもいいと思っていそうな声色である。
「婚約祝いのお品なので、一緒に開けませんか」
「そうしよう。きみひとりで開けて、何かあったら困るからね」
マリウスの言葉に、彼女は内心で首をかしげた。
(何かって、何かしら……)
だが、疑問を口にするのは控えておいた。だってマリウスの表情は、いかにも皮肉たっぷりだ。尋ねたところで、おそろしく辛辣な言葉が返ってくる予感しかしなかった。
居間のソファーに、二人並んで座る。フェリシエンヌはリボンをほどき、包み紙を丁寧に開いた。中にあったのは、二枚重ねの厚紙。手のひらよりもひと回りほど大きい正方形の厚紙が、間に何かを挟んで重ねられていた。厚紙の間にあるものこそが、祝いの品なのだろう。
上の厚紙を取り除けば、品物が現れる。手の中にあるその品を見て、フェリシエンヌは言葉を失った。だがマリウスは、容赦がない。
「何だこれは」
「たぶん、ハンカチだと思います」
たぶんとしか言えないのは、ハンカチにしては妙に厚みがあったからだ。しかも、しわだらけである。だからといって、まさか布巾や雑巾を贈り物にするとは思えなかった。だからこれはハンカチなのだろう。
厚みがある原因は、ハンカチ全体に施されている刺繍だった。刺繍と呼ぶには、いったい何をモチーフにしているのか謎ではある。それでも刺繍糸を使ってなにがしかの模様を描いているのだから、刺繍なのだ。たぶん。
ただし刺繍にしてはピンピンと糸の端がはみ出しているし、はみ出した上に玉結びになっている糸さえあるし、絡まって団子になっている糸もある。たとえ刺繍経験のない者の手による初仕事だとしても、出来映えがひどすぎた。
「ハンカチとしては使い物にならないだろう。練習用の端切れを送りつけてきたようにしか見えないんだが」
「うっかり表と裏を間違えて梱包しちゃったのかもしれませんね」
フェリシエンヌは思いつく中で最も可能性のありそうな理由を挙げ、布地の端を持ち上げて裏側を確認した。そして、そっと元に戻した。裏は、やはり裏だった。こちらが表としか思えないほど、裏側はさらに糸の処理がひどかった。
これほど対処に困る贈り物を受け取ったことは、いまだかつてない。
マリウスはまるで汚物に触れるかのように、二本の指でハンカチの端をつまみ上げる。たたまれた布が広がり、刺繍の全容が見えた。
正方形の布地の中央に、人間の顔のようなものが山吹色で大きく刺繍され、真っ黒な糸で縁取りされている。
その顔には不自然に大きく丸い目が白く刺繍され、目の中央に小さく瞳が黒い糸で刺繍されていた。髪はなく、鼻もない。ただぽっかりと開いた口らしきものが黒く刺繍されていた。余白部分には、原色の赤と青の糸でジグザグに謎の模様が描かれている。
忌憚なく言ってしまうと、どうにもグロテスクなデザインだった。
それでもフェリシエンヌは、長所を見つけようと言葉を探した。何とかひねり出したのが、この感想だ。
「コレットさんは、斬新な感性をお持ちなのね……」
だがマリウスは鼻で笑う。
「まがまがしいにもほどがある。呪われた遺跡からの出土品と言われれば納得の不吉さだ」
彼女もうっかり同意しかけてしまった。
だが、すんでのところで踏みとどまる。どれほど出来映えがみすぼらしかろうと、たったひと晩でこれだけのものを手作りしてくれたのだ。その気持ちだけは、むげにすまい。
この贈り物には、小さなカードが添えられていた。
『フェリさま、ご婚約おめでとうございます。ぜひ普段使いしてください』
これまた反応に困る内容だ。正直なところ、この布はハンカチとしては用をなさない。ほぼ全面にくまなく刺繍が施されているのだから。しかもその刺繍部分が、なぜか分厚い。
それでいて、使わなかったら「使ってくれない」と責める理由を与えてしまいそうだ。あまりうがった見方はしたくないのだが、「前回」のコレットの行動を思うと、その可能性が否定しきれなかった。
マリウスは忌々しそうに舌打ちをした。
「これは僕が処分しておくよ」
「いいえ、せっかくの贈り物ですもの。普段使いは難しいけれども、せめてしまっておきましょう」
フェリシエンヌはマリウスの手からハンカチを受け取り、丁寧にたたむ。そのとき、チクリと指に痛みを感じた。
「いたっ……」
「フェリ! どうした?」
不思議に思ってハンカチから手を離すと、彼女の人差し指にはぷっくりと血が盛り上がっていた。ハンカチの刺繍にも、小さく血の染みが付いている。
「どうしましょう。汚してしまったわ」
「そんなことはどうでもいい。ちょっと見せて」
マリウスは彼女の手を取り、すぐさまポケットからハンカチを取り出した。そのハンカチで血を拭いてから、きれいな面を下にして傷の上に置き、上からギュッと押さえる。
フェリシエンヌはおとなしく手当てされていたが、不意にあることに気づいた。マリウスの顔が近い。眉根を寄せた端正な顔が、息がかかりそうなほど近くにあった。そう気づいたとたん、ドキンと心臓が痛いほど大きく跳ねた。頬が熱くなったのを感じる。
「ありがとうございました」
「まだダメだよ。血がとまるまで五分ほど、しっかり押さえておかないと」
彼女は何だか急に恥ずかしくなり、礼を言って手を引き抜こうとした。だがマリウスは離さない。
カチ、コチ、カチ、コチ────時計が時を刻む音だけが室内に響いた。
ドキドキと、彼女は気持ちが落ち着かない。なのに彼ときたら、真剣な表情のままだ。ときおりチラリと時計に視線を向ける以外、じっと彼女の指を見つめていた。落ち着かないのは自分だけかと思うと、フェリシエンヌはちょっと彼が憎らしくなる。
やがてマリウスは「よし」と手を離した。
「もう大丈夫かな」
「どうもありがとうございました」
礼を言う彼女に、彼は微笑んで「どういたしまして」と返す。そして彼女の膝の上に置かれていたハンカチを取り上げた。それをためつすがめつした挙げ句、細く折ったり丸めたりする。ほどなくして彼は、目当てのものを見つけたようだ。
「針だ」
「え? 針?」
驚く彼女の目の前で、マリウスは刺繍の糸の下に隠れていた縫い針を取り出してみせた。この針の先端が、彼女の指を刺したらしい。
「狙ってやったなら、悪質すぎるな」
「針仕事には慣れてらっしゃらないみたいだから、うっかりなさったのではないかしら」
「どうだか」
マリウスは鼻を鳴らし、憤懣やるかたないとばかりに吐き捨てる。
「こんなもの、祝いの品でも何でもない。ただの呪いの品だ」
そのままゴミ箱に直行しそうになったハンカチを、フェリシエンヌはマリウスをなだめすかして何とか救い出した。ハンカチに罪はない。
四月三十日。冬至の日まで、残り235日。
ハンカチの刺繍は、ムンクの「叫び」っぽい何か。




