前世と前回 (2)
コレットが玄関ドアから出ていく後ろ姿を見送り、フェリシエンヌは深くため息をついた。マリウスは先ほどまでの険しい表情を一変させ、気の毒そうに彼女の顔をのぞき込んだ。
「お疲れさま」
「マリウスさまこそ、お付き合いありがとうございました」
「犬舎に行こうか」
「はい」
犬舎では柵の内側で、アローが兄弟たちと元気に遊び回っていた。こうやって仔犬どうしで遊ぶのも教育のうちらしい。ジェレミーも仔犬たちに交じって、一緒に転げ回っていた。
彼は姉の姿に気づくと、駆け寄ってきた。
「あ、ねえさま!」
ところが、いつもなら「一緒に遊ぶ?」と誘うのに、今日は不安そうにあたりを見回している。
「あの人、まだいる?」
「コレットさんのことなら、さっきお帰りになったわよ」
「そっか。よかった」
ジェレミーはホッと安堵したように肩から力を抜いた。フェリシエンヌは弟の態度を不思議に思う。「前回」はコレットに懐いていたはずなのに。
「ジェレミーは、コレットさんが苦手なの?」
「うん。あの人、こわい」
思ってもみなかった答えに、フェリシエンヌは目を丸くした。
コレットがこわいだなんて。話が通じなくて困った人だとは、彼女も思う。けれども初対面の弟がコレットをこわがる理由がわからない。
彼女が首をひねるのと同時に、ジェレミーはジェレミーで言葉を探しながら首をひねった。
「こわいって言うか、気持ち悪い……? うーん。そうだ、気持ち悪くて、こわいんだ」
何やら言い直してひとりで納得しているが、まったくもってわけがわからない。なのにマリウスは、それを聞いて「ふはっ」と盛大に吹き出した。
「ジェレミー、きみは人を見る目があるな!」
「にいさまも、あの人こわいの?」
「うん。気色悪い」
「気色悪いって、気持ち悪いってこと?」
「うん、まあ、だいたい同じ意味だね」
どっちもどっちで失礼である。フェリシエンヌは呆れた視線をマリウスに向けた。ところが彼女が何か言おうと口を開く前に、後ろから声がかかった。
「ジェレミーくん、よく来たね」
「パトリスおじさま、ごきげんよう!」
フォンテーヌ公爵パトリスだ。にこやかにジェレミーに片手を挙げて挨拶した後、フェリシエンヌに尋ねた。
「コレット嬢との話し合いはどうだったかね?」
「わたくしと一緒に魔法の講義を受けたいとのことでした。でも、お断りしました」
「やっぱりそうか。それで?」
「納得して帰ってくださったと思います」
パトリスは意外そうに「ほう」と片眉を上げる。そして問うように息子のほうを見た。マリウスは肩をすくめて、辛辣な口調で補足する。
「散々、屁理屈をこねてごねてましたがね。でも最後はなぜか、機嫌よく帰って行きましたよ」
パトリスは「へえ」と目を丸くした。マリウスはふと思い出したように、フェリシエンヌに尋ねる。
「そう言えば最後、こそこそと彼女が何か言ってたけど、あれは何だったの?」
「わたくしにも前世の記憶があるのかとお尋ねでした」
「なんだそりゃ」
「それって、コレットさんには前世の記憶がおありだという意味でしょう? だからどんな記憶がおありなのかぜひ伺いたかったのですけど、教えていただけませんでした」
マリウスは難しい顔をして「前世か……」と何やら考え込んでしまった。
大人たちの会話が途切れたと見るや、ジェレミーがすかさず声をかけた。大人の話に口を挟まないよう、彼なりに気を遣っていたらしい。
「一緒に遊ぶ?」
「遊ぼうか」
マリウスが応じて、柵の中に入って行った。マリウスはよく、こうしてジェレミーの相手をしてくれる。息子の背中を見送って、パトリスはフェリシエンヌに尋ねた。
「もう少し詳しく教えてもらえるかい?」
そこで彼女は、最初の最初から話した。コレットの来訪時にジェレミーとアローが居合わせたこと、アローが吠えつき、ジェレミーがそそくさと逃げ出したこと。話し合いの開幕に、コレットとマリウスの間で険悪なやり取りがあったこと。その後のコレットとのやり取りから、最後のかみ合わないやり取りまで。
「マリウスさまが女嫌いと初めて伺ったときには、信じられない気持ちでしたけど、今日はちょっと納得しました」
フェリシエンヌの率直な感想に、パトリスは声を上げて笑った。
「あの手合いは、あの子の最も苦手とするタイプだからなあ」
「そうなんですか?」
「うん。図々しくて相手の話を聞かない人間が、あの子は大嫌いなんだよ」
そういうタイプを好む人は、あまりいないような気がする。しかし何ともコメントがしづらく、彼女は曖昧にうなずいた。パトリスは彼女の反応に苦笑してから、どこか遠くを見つめてため息をつく。
「まあ、かなりの部分ははわたしのせいなんだけどね」
「えっ。どうしてですか?」
驚いて尋ねた彼女に、パトリスはぽつぽつと昔話をした。
マリウスがまだ幼い頃に、パトリスは妻を亡くした。彼は再婚することなく、その後は独身を貫いた。ところが王弟の後妻という座は、多くの女性にとって大変に魅力的だったらしい。自薦や他薦による縁談が、引きも切らなかった。
それでも普通に持ち込まれる縁談なら、丁重に断ればよい。しかし普通ではない手段で縁談をねじ込もうとする者がいたのが問題だった。
遠い親戚を丸め込んで、屋敷に入り込もうとする者が後を絶たない。そしてマリウスも、標的にされてしまった。息子に近づいて、父に近づくために利用しようというのだ。そうして幼いマリウス少年は、外出するたびに厚かましい女性たちに捕まる憂き目に遭ってしまった。
しかもそうした女性たちは、自分の売り込みに必死だ。自分を売り込むと同時に、ライバルを蹴落とそうともする。かくしてマリウス少年はこれらの女性に捕まるたびに、自慢話と悪口を延々聞かされるという苦行を課せられる羽目になった。
これでは女嫌いになるのも無理はない。
話を聞き終わって、フェリシエンヌは何ともやるせない気持ちになった。
「そんなの、パトリスさまには何の責任もないではありませんか」
「いや。あの子を十分に守ってやれなかったのは、親の責任なんだよ」
フェリシエンヌには返せる言葉がなかった。だがパトリスは、彼女の沈黙を気にするでもない。ふと表情をゆるめて、言葉を続けた。
「そんな子がね、きみの話をするときには、いつでもうれしそうだったんだ。だから、ありがとう。あの子の求婚に応えてくれて、本当にありがとう」
「いいえ。感謝しているのは、わたくしのほうです」
「そう言ってくれると、うれしいね」
パトリスとフェリシエンヌは微笑み合い、そのまましばらく会話が途絶えた。
紳士と少女は二人並んで、柵の中で仔犬と戯れる青年と少年の姿を眺める。庭木には若葉が茂り始め、春のさわやかな風が吹き抜けて行った。きらめくような木漏れ日の中、ときおりサワサワと若葉を揺らす軽やかな音がする。
幸せな光景がそこにあった。その幸せをかみしめながら、なぜだか彼女の目からは涙がこぼれそうになった。
四月二十九日。冬至の日まで、残り236日。