初めての行儀見習い (1)
フォンテーヌ公爵家に着くと、マリウスはまずフェリシエンヌを上級使用人に引き合わせた。
「家令のジェロームと、侍女長のマルトだよ」
どちらもデュシュエ伯爵家の使用人に比べて、ひと回り近く年長のように見受けられた。
ジェロームは、家令にしてはずいぶんと体格がよい。初老ながらも、見るからに筋肉質だった。
マルトは中肉中背で、壮年の婦人。侍女長という肩書きの割に、堅苦しさがない。上品で温かな笑顔に、フェリシエンヌはひと目で好感を抱いた。
「デュシュエ家より行儀見習いにまいりました、フェリシエンヌです。どうぞよろしく」
彼女が挨拶すると、ジェロームとマルトはあたかも合図で合わせたかのように、きれいにそろってお辞儀した。
「どのようなことでも、どうぞお気軽にお申し付けくださいませ」
「ありがとう」
午前中は、荷ほどきをしただけで終わってしまった。彼女に割り当てられたのは、二階の客室だった。
昼食の席で、パトリスはフェリシエンヌに尋ねた。
「フェリシエンヌ嬢、何か不自由していることはないかい?」
「いいえ、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」
「うちはもう、長いこと男二人で暮らしてきたからね。若いお嬢さんの世話には、何かと不手際がありそうだ。何かあれば、遠慮なくジェロームかマルトに言ってくれたまえ」
「はい、ありがとうございます」
パトリスは現在、独身だ。そして息子はマリウスひとり。だから使用人を除けば、二人暮らしなのだ。夫人はマリウスが幼い頃に亡くなったと聞く。しかしパトリスは、再婚しなかった。縁談はいくつもあったに違いないが、すべて退けてきたのだろう。
パトリスは家で仕事があるらしく、昼食が終わると「では、また」と挨拶してすぐに出て行ってしまった。一方マリウスは、特に仕事を抱えている様子がない。
彼は昼食後、フェリシエンヌに屋敷の中を案内して回った。
ひとつひとつ、すべての部屋をくまなく見せて回る。広い屋敷なので、すべて見て回るのにはかなりの時間がかかった。マリウスは部屋の案内だけでなく、飾られた絵や彫刻の説明までしてくれる。ちょっとした美術館ツアーだ。
当主の私室だって、息子の彼には遠慮がない。マリウスは申し訳程度にノックして、返事も待たずに当たり前のようにドアを開けてしまった。中で部屋の主が書類仕事をしていようが、おかまいなしである。
「ここが父の部屋」
室内に招き入れられたフェリシエンヌは、パトリスの姿を目にして固まった。まさか在室中とは思わなかったのだ。
しかしパトリスは、息子と同じくらいに部屋の出入りには無頓着だった。書類から顔を上げたのは、一瞬だけ。彼女に向かって笑顔で片手を挙げて挨拶し、すぐにまた視線を書類に落とした。
仕事の邪魔をしないよう、彼女はそそくさと部屋から退出する。そうしながら、フェリシエンヌはふとあることが気になった。
「マリウスさま」
「うん?」
「そろそろお出かけしなくて、よろしいのですか?」
「お出かけ? どこか行きたいところがあるの?」
マリウスからのトンチンカンな返事に、フェリシエンヌは目をまたたかせた。会話がかみ合っていない。
彼女としては、仕事の心配をしたつもりだったのだ。マリウスは王宮魔術師である。フェリシエンヌとコレットに魔法を教える講師のひとりでもあり、そして今日は講義のある曜日だった。
彼女は勘違いを解くために、言葉を足した。
「いえ、そういうわけではありません。でもマリウスさまは、王宮でお仕事がおありでしょう?」
「ああ。もうない」
「え?」
フェリシエンヌは当惑した。もう仕事がないとは、どういう意味だろうか。
「フェリがうちに来てくれることになったから、辞めてきたんだ。昨日のうちに、引き継ぎまで済ませてきた」
「えええ?」
うろたえたあまり、思わず大きな声が出てしまう。はしたなさを誰にとがめられたわけではないが、彼女はあわてて口を押さえた。
フェリシエンヌが自宅でのんきに荷造りしている頃、マリウスはあっさりと王宮魔術師の職を辞してきていたのだと言う。魔術師団の中でトップの魔力量を誇り、若いながらも次の団長と目されていた人物が、である。
辞めるつもりだと聞いてはいた。でもまさか、こんなにすぐとは。
「閣下や陛下は、反対なさらなかったのですか……?」
「父はもともと諸手を挙げて賛成だし。せっかくフェリがうちに来るから家を空けたくないって話したら、伯父も『それでは仕方ないな』って同意してくれたよ」
パトリスはともかく、国王は渋々だったようだ。フェリシエンヌはめまいを感じて、額に手を当てた。
よく考えてみたら、あまりにも軽率だったかもしれない。婚約の解消を告げられた次の日に、すぐまた別の婚約を結ぶだなんて。王家への当てつけのように受け取られたって、不思議はなかった。
フェリシエンヌが顔色を失ったことに気づき、マリウスは焦ったように早口で続けた。
「別に辞めることを渋られたわけじゃないし、ましてやフェリのせいだとか絶対思ってない。ただ祝福してくれただけなんだ」
「そうなのですか?」
「うん。僕には結婚する気がないんじゃないかって、ずっと心配されてきたからね」
確かにマリウスには、「前回」を含めて浮いた話を一度も聞いたことがない。
もっとも「前回」は、あとふた月もすれば彼女は療養のために離宮に留め置かれていた。うわさ話が耳に入るような環境ではなかった、という事情もあったかもしれない。
思考の海に沈みかけた彼女に、マリウスは探るような目を向けた。どうやら心配させてしまったようだ。フェリシエンヌは気持ちを切り替え、彼に微笑みかけた。
「時間は心配いらないとわかって、ホッといたしました」
「そうか。ならよかった」
マリウスも安堵の息を吐き、笑みを浮かべる。その顔を見つめているうち、フェリシエンヌの頭の中には突然、脈絡のない感想が浮かんだ。
(マリウスさまは、ずいぶんまつ毛が長くていらっしゃるのね)
なぜだか急に落ち着かない気持ちになり、彼女は彼から視線をそらしたのだった。
二月二十七日。冬至の日まで、残り297日。




