デュシュエ家のお客さま (2)
いち早く衝撃から立ち直ったらしき父ジャン=クロードは、幼い息子に低い声で命じた。
「ジェレミー、部屋に戻りなさい」
「やだ。ねえさまばっかり、ずるい! 僕もお出かけしたい!」
ここに至って、ようやく乳母が廊下の向こうから小走りにやって来た。「ジェレミーさま!」と押し殺した声で呼びかけるも、当のジェレミーは知らんぷりである。
実を言うとこの乳母は、正式な乳母ではない。乳母の補佐をするメイドの中から選ばれた、乳母見習いだった。先日、乳母がギックリ腰で倒れたため、急遽代役として抜擢されてしまったのだ。
本職の乳母だったなら、客人の前であろうと有無を言わさずジェレミーを捕獲したのに違いない。ところがあいにくこの乳母見習いはまだ年若く、そうした経験も図太さも持ち合わせていなかった。サビーヌの陰に隠れ、半泣きで事態を見守っている。
ジャン=クロードは小さくため息をつき、先ほどよりさらに低い声で「いい加減にしなさい」と息子を一喝した。父の声音の変化に、ジェレミーはわずかにひるんだ。だが相変わらず、納得した気配は少しもない。
とはいえ、これ以上叱りつけると泣き出しそうだ。フェリシエンヌがハラハラしながら見守っていると、背中に温かなものを感じた。マリウスの手だ。彼は彼女の顔をのぞき込み、にこりと微笑んでみせた。
ジャン=クロードが息子を叱りつけようと口を開く前に、マリウスはスッとジェレミーの前に出て腰をかがめた。そしてジェレミーに右手を差し出す。
「きみがジェレミーくんだね。僕はフェリシエンヌ嬢の婚約者になった、マリウスだよ。はじめまして」
「ジェレミーです。はじめまして」
意外にもジェレミーは礼儀正しく挨拶を返し、マリウスと握手を交わした。
「彼女はうちに遊びに来るわけじゃないんだ。勉強しに来るんだよ」
「そうなの?」
「うん。だからきみがうちに来ても、一緒に遊ぶわけにはいかない。ごめんね」
期待どおりに話が進まず、ジェレミーはわかりやすくふてくされた。その様子にマリウスは頬をゆるめながらも、話を続ける。
「だけど、少し前にうちの犬が仔犬を生んだんだ」
「犬?」
幼い弟は、まんまと興味を引かれたようだ。期待にキラキラと瞳を輝かせて、じっとマリウスを見上げた。
「うん。五匹生まれたよ。まだ仔犬だから、遊びたい盛りでね。ジェレミーが来てくれたら、一緒に遊びたがるかもしれないな」
「行く。行きたい! お父さま、行ってもいいでしょう?」
先ほどマリウスと握手したときのすまし顔はどこへやら、ジェレミーはピョンピョンと飛び跳ねて父にねだった。ジャン=クロードは呆れたように苦笑し、わざとらしくあごに手を当てて思案げな顔をする。
「行儀よくできたら、だな。ちょっとこれじゃ、外には出せないなあ」
「できる。お行儀よくできるよ」
ジェレミーは即座に跳ねるのをやめ、キリッとよそ行きの顔を取りつくろってみせた。その変わり身の早さに、思わずフェリシエンヌは吹き出してしまう。
ジェレミーはじろりと何か言いたげな視線を姉に向けたものの、何も言わないままツンと顔をそむけた。よけいなことを口にして、父に「行儀が悪い」と判定されるのを恐れたのだろう。
その姿がまた、彼女の笑いのツボを刺激する。しかし彼女は、くすくすとこみ上げる笑いをかみ殺した。弟の機嫌を損ねたいわけではないのだ。マリウスは彼女の背中をポンと叩いて微笑みかけてから、再びジェレミーに向き直った。
「じゃあ、明日か明後日、迎えを寄こそう」
「明日! 絶対に明日のほうがいいよ。犬が待ってるから」
どう考えたって、犬が待っているわけはない。しかし賢明な彼女は吹き出しそうになるのをすんでのところでこらえ、沈黙を守った。その横で、マリウスは楽しそうに目を細めて少年に同意する。
「そうか。なら、明日にしよう」
「うん!」
ジェレミーは乳母に手を引かれ、「また明日ね!」と機嫌よく去って行った。
その後ろ姿に苦笑しながらため息をこぼし、ジャン=クロードはマリウスに向かって頭を下げる。
「下の子が、大変失礼をいたしました。しかし、本当にお邪魔させてよろしいのですか?」
「もちろんです。それに、ちょうど仔犬の引き取り手を探しているところなんですよ。もし彼の気に入った子がいれば、一匹いかがですか」
マリウスの申し出は、ジャン=クロードにとって思いがけないものだったようだ。一瞬、眉を上げてみせてから、「それはありがたい」と笑顔で大きくうなずいた。元気のあり余っているジェレミーに、仔犬はちょうどよい遊び相手になりそうだ。
こうしてジェレミーの乱入事件を経て、ようやくフェリシエンヌはマリウスとともにデュシュエ伯爵邸を出発したのだった。
フォンテーヌ公爵家へ向かう馬車の中で、フェリシエンヌはマリウスに礼を言った。
「マリウスさま、ありがとうございました」
「うん? ああ、ジェレミーくんのことか」
「はい」
彼女がうなずくと、マリウスは少しの間、考えをめぐらすように視線をさまよわせてから、ぽつりとこう言った。
「たぶん彼は、寂しかったんだと思うよ」
「寂しかった……?」
「うん。大好きなフェリがいなくなるのが嫌で、すねちゃったんじゃないかな」
「そうでしょうか」
「僕はそうだと思う」
窓の外を流れて行く風景を眺めながら、フェリシエンヌはマリウスに言われた言葉を頭の中で反芻してみた。
(そう言えば『前回』はコレットさんが家にいらしたおかげで、賑やかだったんだわ。今回は逆ですものね)
コレットを預かるどころか、フェリシエンヌまで家からいなくなってしまう。確かにジェレミーにとっては、面白くない事態だったことだろう。
普段、彼女はジェレミーと特別に仲がよいわけではない。対等の立場で仲よくするには、歳が離れすぎていた。それに彼女は弟が小さいからといって、ベタベタ甘やかしたりする性質でもない。それでも毎日、多少は相手をしてやっている。そんな姉が同じ家にいるといないとでは大違い、ということなのかもしれない。
そう考えてから、フェリシエンヌはマリウスの意図に思い当たった。
(仔犬の話をなさったのは、ただ単にあの子の気を引くためではなかったのね)
弟の機嫌をとる目的だって、もちろん多少はあっただろう。けれども一番の目的は、幼い少年の寂しさを埋めることだったのではないか。そう気づいたら、彼女の胸の内がまたぽかぽかと温かくなった。




