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最期の心残り

 命のともしびが消えかけたフェリシエンヌの耳に、取り乱した青年の叫び声が届いた。


「おい、誰か! すぐに医者を呼んでこい!」


 すでに視界は闇に閉ざされていた。ただ声だけが聞こえる。これはマリウスの声だ。


(────もう、手遅れなのに)


 もはや声も出せない。体は石になってしまったかのようだった。指一本さえ動かすことがかなわない。


「フェリ! フェリ! お願いだ、目を開けて……!」


 フェリシエンヌをかきいだくマリウスの体温を感じる。彼女に呼びかけ続けるマリウスは、最後は涙声になっていた。


(────ごめんなさい。ああ、やり直せたらいいのに。もしもやり直すことができたなら……)


 フェリシエンヌの胸には、後悔ばかりが押し寄せる。脳裏には彼女が不治の病だと知ってもなお求婚してくれたマリウスの、切実な声が蘇った。


『もしも本当に治らないなら、なおのこと婚約してほしい。少しでも一緒に居たいんだ』


 彼女とエヴラール王子の婚約が解消された後、マリウスは何度も繰り返し求婚してくれた。つい先日もだ。そのたびに断ってしまったけれど。あれほど求めてくれたのに。本当に彼女は愚かだった。


 取り返しのつかない悔恨にかられる中、次第にマリウスの声も遠くなっていき────。彼女の目からは、はらりとひとしずくの涙がこぼれ落ちた。


 不思議なことに、音が消えていった闇の中に、白く柔らかな光が差し込んだ。彼女が光魔法の使い手だからなのだろうか。温かく穏やかな光の中に、彼女の意識は溶けていく。


 そうしてデュシュエ伯爵家の長女フェリシエンヌは、十二月二十一日、冬至の日の夕暮れに、十八年の短い生涯を閉じたのだった。



 * * *



「フェリシエンヌお嬢さま、おはようございます!」


 朗らかな女性の声に、フェリシエンヌの意識はふわふわと漂っていた淡い光の中から浮かび上がった。


(え? どうして? わたくしは死んだはずではなかったの……?)


 パチリと目を開く。


 開かれたカーテンの向こうから差し込む朝日がまぶしかった。驚いたことに、そこは見慣れた自室のベッドの上。目をこすりながら身を起こし、声の主のほうを見て、フェリシエンヌは目を見張った。


「アメリー?」

「はい、アメリーですよ」


 それは確かにフェリシエンヌの侍女、アメリーの姿だった。アメリーは半年ほど前に縁談があり、彼女の実家であるバイヤール子爵家に帰ったはずなのに。


 フェリシエンヌが不思議そうに首をかしげると、アメリーは吹き出した。


「おやおや、珍しいこと。寝ぼけておいでですか?」

「そうね。まだ夢の中にいるみたい」

「もう少し寝かせておいて差し上げたいのはやまやまですが、起きてくださいまし。今日は王宮においでになる日ですからね」


 アメリーにせきたてられるがまま、フェリシエンヌはベッドから下りて着替えた。死んだ後にも、夢を見るのだろうか。だが夢にしては、いやに五感がはっきりしている。


「ねえ、アメリー」

「何でございましょう」

「今日は何日?」

「あらやだ、まだ寝ぼけておいでですか? 今日は二月二十四日ですよ」


 くすくすと含み笑いをしながらも、アメリーはすぐに日付を教えてくれた。その間も、テキパキとフェリシエンヌにドレスを着せ着ける手はとめない。ドレスを着せたら、次は髪の手入れだ。アメリーはドレッサーの前にあるじを座らせた。


 目の前の三面鏡に映る自分の顔に、フェリシエンヌは目をまたたかせる。なぜなら目の下にクマがなかったからだ。血色もよい。まるで病にかかる前のようではないか。


(そう言えば、起きてから一度も咳をしていないわ)


 もう何か月も、咳がとまったことなどなかったのに。それに、咳が出ないだけではない。胸も、背中も、どこにも痛い場所がなかった。常にどこかしらが痛かったのに。だが日付を聞けば、納得ではある。この頃にはまだ、具合が悪くなっていなかった。


 不思議な思いで、鏡の中の自分の顔をまじまじと見つめる。父親似の切れ長な目が、鏡の中から見つめ返していた。ゆるやかに波打つクルミ色の髪は、よく手入れされていてつややかだ。


 それはそれとして、二月二十四日という日付と、王宮へ行くという予定には、思い当たるものがあった。日付はうろ覚えだが、この季節だったことは間違いない。


(これ、婚約解消を申し渡された日ではなくて?)


 フェリシエンヌは鏡の中のアメリーに声をかけた。


「ねえ、アメリー」

「何でございましょう、お嬢さま」

「今日の王宮でのご用は何だったか、知っていて?」

「さあ。わたくしは存じません」

「そうよね……」

「旦那さまならご存じなのでは。お父さまにお聞きになってはいかがですか」

「そうね、そうするわ。ありがとう」


 身支度を終え、朝食のためホールに向かう。アメリーを伴って歩きながら、フェリシエンヌは頭の中で現状について、つらつらと考えていた。


(もしかして、これはわたくしの最期の願いをかなえるための夢なのかしら。やり直せるものならやり直したい、という願いをかなえるための)


 もしそうなら、今度は間違えない。絶対に。


 ホールに着くと、ちょうど正面から両親であるデュシュエ伯爵夫妻が並んで歩いてくるところだった。


「お父さま、お母さま、おはようございます」

「おはよう、フェリ」

「おはよう」


 両親と挨拶を交わし、席に着く。フェリシエンヌは食事が始まるのを待って、父ジャン=クロードに尋ねた。


「お父さま、今日のお呼び出しはどのようなご用なのでしょう?」

「わたしも詳しいことは聞いてないんだ」

「さようでしたか」


 このやりとりには、既視感がある。そうだ、あの日の朝にもこんな会話を父と交わした。そしてその後、母サビーヌから衣装についての指示があったのだ。


 そう思い出したとたん、母が食事の手をとめて彼女のほうへ顔を向けた。


「フェリ、今日のドレスはもう選んであるの?」

「いいえ、まだです」

「そう。だったら先月仕立てた、新緑のビロードのドレスになさい。今日は両陛下にお目通りする予定なの。だから落ち着いた色味のものがいいわ」

「はい、お母さま」


 従順にうなずきながらも、記憶どおりの会話であることに笑ってしまいそうになる。


 フェリシエンヌは母の「自慢の娘」だった。もっともあと数時間もすれば、「自慢の娘」どころか「恥ずかしい不肖の娘」に成り下がってしまうのだが。


 かつて彼女は母の「自慢の娘」であり続けるために、必死に努力をしたものだ。でももう、そんな無駄なことはしない。だって時間は有限だ。


 母を大事に思う気持ちには変わりがないけれども、もっと大事にしたいことが今の彼女にはある。自分ではどうにもできないことを何とかしようとあがくような、不毛なことに割く時間はないのだ。


 たとえ夢であれ、せっかくやり直す機会が与えられたのだから。限りある時間を最大限、効果的に活用しようではないか。冬至の日まで、あと十か月ほどある。数えてみたら、奇しくも冬至までちょうど三百日だった。

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