両親
豊饒閣に原稿を受け取りに来たという上杉の担当者が訪れ、ベルの音がなり、佐智子は玄関へと向かった。
「はあ、あの、すみません。秋川勇蔵先生はこちらにいらっしゃいますでしょうか?」
「秋川勇蔵先生ですか?」
佐智子はその名前に一瞬戸惑いを見せるも、上杉のペンネームということにすぐに気がついた。
「はあ、いらっしゃいます。お呼び致しましょうか?」
「そうしてもらえると助かります」
佐智子は担当者を玄関の椅子に座っていただくよう促し、二階へと向かった。
「失礼します。上杉さん。担当者の方がいらっしゃいました」
そう言うと、扉越しに、籠った声が聞こえた。
「ああ、今行くよ」
そして、扉が開き、佐智子に頭を下げると、いそいそと階段を下って行った。
置いてけぼりになった佐智子は階段を少し降り、そこから聞こえる会話に耳を澄ませた。
どうやら自分がいなくてももう、大丈夫なようで、階段を降りると佐智子は二人には敢えて目を向けず、通り過ぎて行った。
茶の間を通ると、祖母が声を掛けていった。
「ああ、さっちゃん」
「何、おばあちゃん?」
佐智子は茶の間に入り、祖母と隣に座った。
祖母の柔らかい匂いが佐智子の鼻をつまやかに誘った。畳の匂いなどと同化したように思えた。
「午後にお母さん達が来るそうだよ」
「そうなんだ」
佐智子は喜びを顔には出さず、冷淡とも取れるような口調で言ったが、声色はいつもより高く、祖母にはどう思われたかはわからなかった。
中庭に日が差し、佐智子は背を屈めて、中庭に当たる太陽を見ようとした。
だが、すぐそばでは上杉が担当者と話をしており、何を話しているかはわからないが、その声は佐智子の耳にも届いていた。
佐智子はすぐさま立ち上がり、何事もなかったように歩き、その場から消えようとした。
中庭は狭く、日陰でいつもは当たっているせいか、物憂げが感じがするのだが、日が当たると、そんな様子を消し去り、影の色をした草は光り輝き、陽の光を反射すらもしている。
一日にほんの少しの時間だけしか見られないのである。
佐智子は普段は忙しくて、それを見ようとはしてもなかなか見られるものではなかった。
良いものを見たと佐智子は心の中で呟き、いつの間にか、上杉の声も聞こえなくなったことには気づかずにいた。
・
午後に祖母が言った通り、佐智子の両親が訪れた。
その前に一組の客が訪れ、部屋へ案内をしたばかりで、すぐにまたベルが鳴り、慌てながら玄関へと向かった佐智子は両親が来ることが頭から離れ掛けていたので、玄関に立っている両親を見て、いくらか面を食らったようであった。
茶の間へ両親を通すと、佐智子は居心地が悪いような気がし、仕事があるからとすぐその場を離れようとしたが、伯母に両親が来ているのだからと止められ、その場に留まった。
「佐智子は迷惑をかけてないですか?」
父はすぐさまそう言い、佐智子にきつく睨まれた。
伯父はその事に気がつき、笑うのを堪えながら
「大丈夫ですよ。さっちゃんは若くて、とても良く働くので、大助かりです。うちは僕と家内もガタが来始めているし、ばあさんなんかも力仕事はあまりしてほしくはないから、さっちゃんにはまだまだいてもらいたいくらいです」
その言葉を聞いて、佐智子は改めて、ここから逃げ出したいように思われた。
「それに元気が良くて器量が良いから、お客さんにも評判がいいんですよ。看板娘なんて言う人もいるくらいです。今滞在している小説家のお客さんなんか、さっちゃんが大のお気に入りで、さっちゃんが学校に行っている間は僕に何時に帰ってくるんだなんて聞きにくるくらいですし」
佐智子は上杉はそんな事をしていたのかと驚いた。しかし、自分がいる中で自分の話題をされるのは顔から火が出てくるようであり、このまま話題が上杉に移ってくれないかと思っていた。
伯父はしばらくすると仕事ために茶の間を後にした。予約した客は今の所はもう佐智子の両親が最後でとりあえずはゆっくり出来る時間ではあった。
佐智子は両親達と色々な話をした後、豊饒閣を後にする客のためにその対応をしていた。
それが終わると、佐智子は両親を自分の部屋へと案内した。
今夜は両親は佐智子の部屋で泊まる予定であった。幸い、三人で寝ることはできる程の広さであった。
佐智子はこの部屋に両親の姿があるのが些か奇妙なように感じられた。
・
伯父が今夜は三人で夕食でも食べたらと言い、夕方辺りに佐智子は両親を連れて、外へ出て行った。
父は豊饒閣なら目の前の鰻屋に久し振りに行きたいと言い、鰻屋へと足を運んだ。
父は豊饒閣で幼少期を過ごし、この鰻屋と店主とも顔見知りであった。佐智子は初めてこの鰻屋へ訪れた時、父になんとなく面影があると店主によく言われていた。
母も父の両親に初めて顔を合わす際、この鰻屋で父の家族と鰻を食べた思い出があった。
家族三人にそれぞれの思い出があり、長い記憶に再び触れようとしていた。
父は店主の顔を見ると、握手を求めた。そんな父の目には涙が見えたような気がした。
佐智子は母と父を横目に見ながら、席に着いた。
「さっちゃん、お父さんとお母さんがお盆だから訪れたんかい?」
「ええ、そうなんです」
そう言ったのは佐智子ではなく、父であった。父は思い出に染まっているせいか、店主の言葉に全て、返事をしていた。
普段見ない父の姿に佐智子は驚きつつも、子供のように見える父が珍しかった。
母に笑い掛けると、母は佐智子の頭を撫でた。その手が暖かく、まだ暑い陽が出ているが不思議と心地が良かった。
・
外へ出てもやはり夏の日は夜になるのがまだ先であった。
玄関の扉を開けると、階段を降りる足音が聞こえた。
佐智子にはその足音を聞いて、階段を降りているのが上杉だと直感で察した。
そしてやはり階段を降りていたのは上杉であり、佐智子は上杉が両親に見られるのが恥ずかしいという気持ちがあり、両親と上杉は顔合わせをしないように気をつけようと思った矢先であった。
「お嬢さん、そちらの方々はご両親?」
「はい」
佐智子は自分でも驚くほど、低く小さい声で言った。
「どうも、佐智子さんのご両親でしたか、私は豊饒閣に滞在している者です。豊饒閣の方々には日々お世話になっておりまして、佐智子さんも良く働いてらっしゃる。素直で真面目なお嬢さんですね」
上杉の言葉に佐智子の父は自分のことのように恥ずかしがり、母も同様であった。
「あの、もしかして、小説家のお客さんというのは」
「主人が仰ったんですね。まあ、私が一応、小説家を生業としています。ただ、本はいまいちなんですが」
両親と上杉はそこで少しの間、話をしていた。長話というほどでもないが、佐智子にはとても長く感じられ、足は少しずつ底から離れていた。
上杉と別れ、茶の間へ戻ると、父は床に座り、佐智子の方を見た。
「お前もここで頑張っているんだな。一日いるだけでよくわかるよ」
父にそう言われ、佐智子は小さく頷いた。
・
朝早く起きると、佐智子は両親を起こさないように部屋を出て行った。そしていつもの朝食を祖母と作り始めていた。
「二人に会えてどうだった?」
祖母がふとそんな事を言い出した。
「お父さんとお母さんの前だと恥ずかしがってばかりだけど、嬉しかったよ。上杉さん達と私の話をしていたのはすぐどこかへ逃げたかったけど」
佐智子の言葉に祖母は笑った。
「そりゃあ、そうだね。でも、悪口を言われているんじゃないからね」
「それはわかってるけど」
それから祖母は何も言わず、黙々と作業をしていた。それが佐智子にも移り、佐智子も無言で、何か話しかけようという気も無くなり、この時期、お盆で滞在客が多くいるため、いつも以上に急がなくてはならなかった。その為か、あまり話さずに作業に集中せざるを得なかった。
七時頃になると、客が起き出す音が聞こえてきた。
「おばあちゃん、魚料理はもうできたよ」
「こっちももう大丈夫」
その時、台所から、母が顔を出した。
「おはようございます。お義母さん、私も手伝います」
「いやいや、もう終わったよ。さっちゃんがよく働いてくれるから」
「そうですか」
母はそう言い、佐智子の方を向くと、笑顔を向けた。その笑顔に褒められ、佐智子は顔を赤らめながらも、無邪気に笑って見せた。
・
その日の午後に両親は豊饒閣を離れることになった。
父は佐智子に伯父達の迷惑にはならないようにと言い、伯父は笑いながら、大丈夫だと言っていた。
佐智子はその言葉に、常日頃から気をつけねばと心に決めた。
両親が扉を開いて、最後にこちらに顔を向けた。そして佐智子と目が合うと二人は歩いて行き、見えなくなっていった。
「さっちゃん、午後は休んでもいいよ」
伯父はそう言ったが、佐智子はそんな気はなかった。
「いえ、私は休みたくないです。まだまだ忙しいのに」
「でも、涙を流してる子を無理矢理働かすわけにはいかないよ」
伯母はそう言い、佐智子の肩に手を掛けた。
佐智子は渋々、部屋へと戻り、そこに微かに残る、両親の匂いを思うと、涙が再び、そして先程よりも流れてくるようであった。
誰もいないからか、涙は遠慮を知らず、佐智子は横になりながら、諦めたように泣いた。
豊饒閣に来た時も寂しい思いはしたが、それでも祖母や伯父や伯母は優しく、寂しさを埋めることはそんなに難しいことではなかった。ただ、久し振りに会い、それも束の間であると、寂しさは強い風のように当たるのである。
その時に、扉を叩く音が聞こえ、伯母がそこから顔を出した。
「珈琲持ってきたよ。飲む?」
「はい」
伯母は机に二人分の珈琲を入れた。
「さっちゃんが寂しかったらお盆くらいは向こうに戻ってもよかったんだよ」
「いえ、私は夏前にはお盆もここに残ると決めたので」
「さっちゃんのそういう真面目で素直なところは良い所だけど、たまには甘えてもいいんだよ。私達は子供がいないから、さっちゃんは子供みたいでかわいいの。だから、遠慮なんてしないでほしいな」
佐智子は自己嫌悪に陥ったが、伯母の顔を見ると、自然と何か物を言う気になれた。
「伯母さん、前に伯父さんが秋辺りにおばあちゃんと箱根に行って来ればって言ってたんですけど、私、伯母さんや伯父さん。お母さんとお父さんもみんなで行きたいです」
「いいんじゃない?紅葉が見頃になったら私も行きたい」
佐智子が豊饒閣で働き始めてから初めての我儘であった。
「芦ノ湖で遊覧船に乗ってみたいです」
佐智子がそう言うと、伯母は更に続けて言った。
「私は温泉に行きたい」
「秋の温泉は紅葉が見ながら入りたいですね」
二人は秋の旅行の話を膨らまし、想像をしながら楽しんだいた。
「そう、さっちゃんに少し、言わなきゃ行けないことがあってきたの」
「なんですか?」
佐智子の鼓動は突然早く打ち始めた。伯母の真剣な様子にあまり良いことではないのだろうと感じていた。
「上杉さん、お盆の終わりにはここを出て行くんだって」
伯母の声には打ち明けなければならない意思が感じられ、佐智子の驚いた少しばかりの声は脆いものであった。




