お盆
牧丘が旅館を後にした午前のこと。佐智子はその部屋を掃除していた。もうすぐで、お盆になるので、旅館は駅の近くのホテル程ではないにしろ、それでも、普段よりは多くの客が豊饒閣を利用される。
伯父や伯母、祖母もここ数日は忙しそうにしており、佐智子も真理子達とはしばらく会うのは難しいように思われた。
「さっちゃんにもお盆なのに迷惑かけるね。家へ帰省してもよかったのに」
伯父はそう言ったが、佐智子は忙しい時期にいなくなると迷惑をかけてしまうこともあり、またこの場所で働くことにやり甲斐を感じてることもあり、帰省せずに、残って働くことにした。
「私、ここで働くの楽しいですから。皆さん良い人ですし、私なんかお役に立てているのかわからないですが、少しでも役に立ちたいので、ここにいさせてください」
「そうかい、でも、大変な時は休みなさいな。家へ帰って体と心を休めるのも大事だよ」
伯父はそう言っていたが、佐智子にとっては豊饒閣は第二のいえのようでもあり、伯父、叔母、祖母は父と母と同じくらい家族に思っていた。
「でも、伯父さんこそ、大丈夫ですか?昨日は夜遅くまで牧丘さんとお酒を飲んでいたんじゃ」
「まあ、そうなんだけどね。愉快な人だから、僕も切り上げようとしてもどうしても終わらない。ここで切り上げたら、牧丘さんと楽しく酒を飲めるのは来年になってしまうから、ついつい、深夜まで続いちゃって」
伯父の様子からは二日酔いが伺えた。ただ、伯父はそのことを口にすることはなく、ひたすらに働いていた。
そんな伯父を見ていると、佐智子はとても大変などと口にはできるわけがなかった。
牧丘が泊まった部屋を伯母と掃除している際、伯母に電話がかかり、出て行ってしまった。
部屋は広いわけではないので、一人でもすぐに終わるので、佐智子は伯母の分まで急ぎながら掃除をしていると、扉を開ける音がし、伯母が思ったより早めに帰って来たのだと思ってみたら、そこには上杉が立っていた。
「お嬢さん、僕も手伝っていいかい?」
「いや、上杉さんはお客様じゃないですか」
佐智子の言葉を聞かず、上杉は伯母が置いていった箒を手に取り、床を掃き始めた。
「僕は、お客かもしれないが、滞在する身としては気持ちはお嬢さん達と同じなんだよ。ここの人には今日の朝にお酒を頂いたりしたから、僕も感謝の念があるからね」
そして、伯母が戻った頃には掃除は終わり、伯母が戻る前に上杉は部屋を後にしていた。
「ごめんなさい、さっちゃん。さっちゃんのお母さんから電話を頂いてて」
「母はなんて?」
「明後日辺りにここに来て、さっちゃんの顔を見に来るって」
伯母はそう言うと、箒などの掃除道具を片付け始めていた。
「母と父が来るんですか?」
「そうよ。嫌だった?」
「嫌というか、恥ずかしいですね」
「何も恥ずかしがることはないわよ。さっちゃんの働きぶりはお母さん達は知ってるから」
佐智子が恥ずかしがるのは上杉のことであった。なんとなく、両親と上杉が対面するのが背中がむずむずするような痒いような恥ずかしさがあった。
きっと両親は佐智子があまり言われてほしくないことを口走るかもしれない。そしてそれは上杉も同じような気がした。
「さっちゃんが一人で部屋を掃除してくれたおかげで、私も掃除するつもりが何もできなかったわ」
「伯母さんがいない時に上杉さんが一緒にやってくれたんです」
「上杉さんが?」
「私は止めたんですけど、滞在している身だからって」
それを聞いた伯母は部屋を出る際に佐智子の方を見た。
「それなら後で、お礼言いにいって頂戴。きっとさっちゃんのこと気に入ってるから、手伝ってくれたのかもね。さっちゃんの人柄のおかげよ」
伯母はそう言うとそそくさと階段を降り、残った佐智子は誰にも見られないよう、伯母の行った道を辿った。
・
その夜に佐智子は酒を持ち、上杉の部屋を訪れた。
上杉は小説を書いている最中で、佐智子が扉を開けた時はペンを持ちながら、原稿に目を向けていた。
扉を叩く音にも気が付かなかった上杉だが、扉を開けてた佐智子に気がつくとペンを置いて、佐智子の方を見た。
「どうしたの?」
「昼間のお礼です。伯母からお礼をして来なさいって。お酒どうですか?」
「いいね。原稿もとりあえずは終わりそうでね。だけど、あと少しって所でスランプになったのか、あまり書き上げられないんだ」
机には何枚も原稿用紙が重なっていた。
「あれは、ボツだよ。自分らしい文章が書けなくて、だめになったんだ。もう十枚二十枚と原稿を無駄にしてて、余計に焦ってしまうよ」
その原稿を遠くから見ていると、哀愁を感じてくるようだった。
「上杉さんはどうして小説家になろうと思ったんですか?」
そう言って、佐智子は上杉にお酌をし、上杉は最初は遠慮しながらも、結局は佐智子のお酌をしてもらうことにした。
「この酒は美味しいな。良い酒だ」
上杉は酒を窓の方に向けて、じっと見ていた。それにどのような意味があるかは佐智子はわからずにいた。
「僕が小説家になった理由か」と思い出したように上杉は言った。
「昔から物書きが好きだったからとしか言えないな。僕には普通に働いても長続きしないことはわかっていたし、自由にできる仕事の方が自分に合ってたんだ。有名になることは考えていなかった。ただ、好きに話を書き、それなりに金になればと思ってた。もし金にならないまでもなんらかの仕事をしながら小説を書くことはできるしね。僕は金も好きだが、話を書くことがそれよりも好きなんだよ。そんな面白みもない純粋な理由さ」
上杉はそう言ってしまうと、酒を飲み干して、よろめくように右手を床に置いた。そしてそのまま天井を見上げながら、何かに耽っていた。
「お嬢さん、僕の知り合いの小説家に同じような理由で小説を書き出したんだ。彼は僕よりも本が売れて、有名になってね。最初はその溢れた承認欲求に溺れていたが、次第にそんな物じゃ足りなくなったように、次々と本を出していったよ。最初は前作を超えるくらいの売れ行きを出したが、次第にスランプに落ちて、彼はもう酒に溺れ、小説を書くことはしなくなった。僕は彼を間近に見ているから、何もできない自分を情けなく思うし、僕もこうなることもあるのだと学んだ」
天井を見上げていた上杉は佐智子を見た。
「生きてはいるが、もう彼は死んだものと同じと見ている。僕はもう彼に会うのが辛くて、何年も会っていない。今でも純粋な理由を求めなければこうなると僕は時々怖くなってしまうんだよ。僕も今は立派なスランプだ。彼のようになるかもしれないと思うとね」
酒を持つ手は震えていた。恐怖によるものか酒によるものかは佐智子には分かりかねた。
「お嬢さんは好きな人はいるかい?または恋人は?」
沈黙の間になっていた部屋で上杉はそんなことを口に出した。
「いえ、恋人はいないです。好きな人もしばらくはいないですね」
「そうか、若いのであれば愛することを知るのはいいことだ。僕の知り合いがそんなことを言っていた。そんな彼は三回も結婚をしている」
上杉は酒を手にして、こぼしそうになりながらも笑った。佐智子も上杉の笑いに誘われた。
「上杉さんはお付き合いされている方はいらっしゃるのですか?」
「昔に一度だけね。僕と同じように小説家で、今でもしっかり書いていて、僕よりも名の知られた女さ。今はどこにいるんだか」
上杉は酒を飲み終えたようで、煙草を手にした。その後も佐智子は上杉と夜が明けそうになるまで話をした。主に上杉の話を聞いていた佐智子だが、上杉の身の上や、思い出話などは興味深く、作家は人生が起伏そのものであると強く思った。
「お嬢さん、もう寝なさい」
ふと、上杉はそう言い、部屋を出たくない佐智子は後退りすらせずにいたが、上杉はもう一度、先程よりも優しく同じ事を言い、佐智子はしぶしぶそれに従った。部屋を後にする際に上杉に頭を下げ、彼の表情をしかと見た。




