清き乙女達
佐智子は豊饒閣を出た後、扇ヶ谷にある真理子の家にお邪魔をしていた。
真理子の家には佐智子の他に佳子や真砂子といった学校の友人達が集まっていた。
佐智子達は四人で遊びに行く際はまず、真理子の家に集まる習慣があった。元々は真理子の家が一番鎌倉駅に近く、ある雨の日に真理子が佐智子を他の二人が集まるまで家にいようと誘ったのが始まりであった。
今では当たり前のように真理子の家に集まり、四人が揃ってから出掛けるようになっている。
真理子の家は扇ヶ谷だけでなく、鎌倉でも一番二番を争う程の豪邸であった。長谷の谷戸を切り裂いて建てた前田邸や争明寺にある中庭が美しいことで知られる華頂宮邸と並ぶ洋館とも言われていた。
その日は佐智子が真理子の家に着くと、佳子と真砂子は既に真理子とともに家にいた。
「あら、もうよっちゃんも真砂子ちゃんも着いてたの?」
「そうよ。さっちゃんが一番遅いわ」と真理子は笑いながら言っていた。
「でも、さっちゃんにしては集合時間ギリギリに来るなんて珍しいね」と佳子は手にしていた本を閉じ、バッグの中へと閉まった。
「暑くて、足取りも遅くなっちゃって」
「でも、気持ちはわかるわ。流石に暑いわよね」
真砂子はそう言いながら、手を扇子のように仰いだ。
「さっちゃん、少し休んだらどう?さっちゃんがゆっくりしてからどこに行くか決めましょうよ」
真理子の言葉に佳子と真砂子も賛成であった。勿論、佐智子も賛成でむしろそうして欲しかった程である。
そうして、少し休みながら、佐智子達はどこへ行こうかと話し合っていた。
その結果、西御門の方へ四人で出掛けたことはないと言う話になり、西御門に行くことになった。
佐智子、真理子、佳子は鎌倉に住んでいるが、真砂子のみ、家が藤沢にあった。なので、真砂子は鎌倉で遊ぶ事は大変楽しみにしており、佐智子も鎌倉に住み始めたのはこの年の四月からであるので、真砂子と同様の心持ちであった。
真理子、佳子は幼い頃から鎌倉に邸を構えて過ごしており、庭のようである鎌倉に、今更、楽しむことなどはなかったが、佐智子と真砂子の楽しむ様子を見ながら、表情には出さないが、心の内では楽しんでいた。
また、佐智子と真砂子は鶴ヶ丘八幡や高徳院などの観光地だけでなく、訪れる人も少ないような場所まで全てを辿るように出掛けるので、真理子や佳子も訪れたことのない場所にもよく出掛けた。真理子と佳子はその度に、佐智子と真砂子によってまるで観光に行ったかのような思いをすることもあった。
西御門なども佐智子や真砂子は元のこと真理子や佳子ですらもあまり訪れることない地であった。
西御門は山々がすぐ近くにある地なので、四人の間で避暑地のような扱いになり、日陰を求め、訪れようとしていた。
「でも、やっぱり、海に行きたかったわね」
佳子はそんな事を言いながら、海と逆の方を歩いていたが、時々、海の方角を眺めるように見ていた。
「しょうがないよ。真砂子ちゃんだって水着の用意してないし」
「私のを貸してあげようか?」
「よっちゃんの水着じゃ、私は小さくて着れないわ」
「そんな事ないでしょ?背丈も同じくらいだし」
「違うわよ。女の部分」
真砂子は自分でそう言いながら恥ずかしそうにしており、三人に笑われていた。
「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに」
「さっちゃんにはなんて事ないからね」
「そんな事ないよ。私だって恥ることくらいあるから」
「いつのこと?」
「最近」
「曖昧ね」
真理子は呆れたように言ったが、信じているような口調であった。
少女達は歩きながら西御門を目指していた。どこに行くともなく、日陰を目指していたのだ。四人の心の中には室内にいた方が思いをしないで済むことはわかっているが、出掛けに行くことが室内で過ごすよりも有意義に感じるのであった。
途中、小町通りに寄って、昼食を取った。彼女達は覚えたての珈琲の味を味わい、そこのパンケーキを召し上がり、しばらくはそこに滞在していた。
「ここに入るのは一人じゃ勇気がなくて入れなかったよ。四人だから入れたよ」と佐智子はパンケーキを目の前にするとそう言った。
「よく知ってたわね」
「うちのお客さんが滞在している間はここに行くことがあるって言ってて。今度、私を誘うって冗談だけど、言ってたんだ」
佐智子は上杉がこっそりと言った事を三人に話した。
「男の人?さっちゃん?」
「まあ、そうだね」
佐智子の言葉に真理子が顔を赤くした。
「さっちゃん、恋人でもできたの?」
「そんな訳ないじゃん。ただのお客さんだよ。私を子供扱いするから、そんな事言うんだよ。女の子がみんな甘いものが好きだと思ってるんだよ」
「でも、実際好きじゃない?」
「まあ、そうだね」
上杉はこの場所に例のK先生達と訪れるそうである。
上杉に見つかったらしたら、どうしようかと、周りを見渡したが、上杉の姿は見つからなかった。
四人はパンケーキを召し上がると、その場を後にした。そして鶴岡八幡宮を越え、西御門へと着いた。
暑い中であるが、距離はさほど遠くないので、すんなりと着き、佐智子と真砂子はなんとなく拍子抜けをした。
「こんなに近くなのね。今が夏じゃなかったらもっと早く着いたんじゃない?」
真砂子はそう言ったが、真理子や佳子はかなり疲れたようで、道の端に座り込んだ。
佐智子と真砂子も疲れてはいたので、二人を間に挟みながら座り込んだ。
「この先に何かあるのかしら」と真砂子は言った。
「八雲神社っていうのがあるからそこまで行って、しっかりと休憩しましょう」
真理子がそう言い、三人はそれに従った。
西御門は坂道になっており、それが彼女達を疲労させた。せめて、坂道で無かったならば、こんな距離は辛いものではないはずであると佐智子は身に染みて感じた。
それでもなんとか八雲神社につき、四人は腰を下ろした。
「もう何にもする気も起きないわ」
真理子の言葉に佐智子は深く頭を頷いた。目的自体は済んだことで、後はもう、戻るだけなのだが、佐智子は物足りない気持ちにかられていた。
道の方では男の人が一人で歩いており、佐智子達に目もくれずにいた。八雲神社の木の影に隠れるように座っているせいなのか、それでも神社の方に目もくれないのは地元の人なのかもしれないと佐智子は思っていたが、やがて、その人物に見覚えがあり、その人物は上杉であった。
佐智子は大声を出し、慌てて、上杉の元にまで走っていった。
「あれ、お嬢さん?」
上杉は佐智子に驚き、また息切れをしている佐智子を心配もした。
「上杉さん、何故ここに?」
「僕はこの先にある。S先生のお宅にお邪魔をする予定なんだ。お嬢さんこそ、こんな所に、ここらは特に女の子が楽しめるようなものはないけれど」
佐智子は上杉にこの場所に来た事を説明した。上杉はしばらく笑っていたが、佐智子と奥にいる少女達を見て
「S先生のお宅にお邪魔していいか聞いてみるよ」と言った。
その言葉を聞いて、佐智子は我慢していた疲れが休めると知ったからかどっと出た。
佐智子達は先を行く上杉の後をついていった。
「さっちゃん、この方はどなた?」
「うちのお客さん」
「S先生って小説家の人よね?」
「そうだよ。上杉さんも小説家だから」
佐智子の言葉を聞くと、三人は上杉の方を見て、感激した声を上げた。
上杉はその声と目線を後ろ頭から感じながら、余計に汗をかいた気がした。
S先生のお宅はライト風の洋館であった。真理子の家よりは流石に広さや大きさでは劣るが、豊饒閣の近くにある佳子の家とは同じような格式であり、庭は佳子の家の方が広いが、洋館と離れに和館があるところは共通していた。
佳子もその事を感じていたらしく、うちのようだとこっそりと小さい声で佐智子の耳元で囁いていた。
まず、上杉は少女達を家の前で待っていてもらい、先にS先生のお宅へとお邪魔した。
「どうも、遠い所から」
「ああ、奥様。お久しぶりでございます」
上杉はそう言ってS先生の細君に頭を下げたが、その時に細君から女性らしい流れるような声が聞こえ、上杉は少女達に細君が気付いたのだろうと思った。
「上杉さん、その子達は?」
「一人は僕の知り合いで、僕が滞在している旅館の子で、後の三人はその子のご友人です。八雲神社で暑い中、休んでいた所見つかってしまって、ついて来まして」
上杉はあくまでも自分の意思ではない事を細君に伝えた。自分の自分勝手な思いで、軽々しくS先生のお宅にお邪魔させるなどは到底できてるものでは無かった。なので、嘘をつく形にはなるが、なんとかそう言って、四人もS先生の家に入れてもらおうと思っていた。
「そうですか。主人に聞いて参ります。とりあえず、暑いですが、お待ちいただいてもよろしいですか?上杉さんだけでもお入りに」
「いえ、僕だけ入るわけには行きませんので」
「はあ、では少々お待ちください」
細君はそう言って扉を閉めた。蝉の声がこだまし、この時間から暑くなり始めるのだろうと上杉は思った。
上杉は後ろを向き、少女達に一度顔を向けた。
その期待や不安が混じった顔はなんとも十代の大人に近づく女の子そのものであった。
しばらくすると細君はS先生と姿を見せた。
「上杉先生、向こうの少女達も是非お入りになってください」
S先生はそう言って佐智子達に手招きをした。上杉は少女達を先に家に通した。そして最後に入り、扉を閉める際にS先生と目があった。
佐智子達は先に入ったはいいが、結局は上杉の後についていき、応接室へと通された。その重厚感のある洋室に佐智子はたじろぎ、真理子ですら、緊張した顔をしていた。
話は基本的に、S先生と上杉が文学や仲の良い、小説家のことなど、佐智子達からしたら随分と難しい話をしており、佐智子達は時折、細君から学校のことや、四人の間柄について聞かれ、佐智子は上杉とS先生の話は聞かないようにして、うわずった声で話していた。
一時間程して、上杉はその場を佐智子達と後にした。本来であったならばもう少しS先生の元にいたのであろうが、佐智子達を気遣ったようで、それに気づいた佐智子は上杉のそばにより軽く頭を上杉にだけ伝わるように下げた。
上杉は他の三人にも気づくような笑顔を向け、煙草を吸った。
上杉は佐智子達にこの後はどこか行くのか聞いたが、四人はもう疲れているので、それぞれ家に帰りたいと言い、鎌倉駅に着き、真砂子が電車に乗るため、そこで別れると、真理子も扇ガ谷の邸宅へ向かうため、佐智子達と別れた。
「あの子は、扇ガ谷の豪邸の子か。お嬢さんは凄い友人を持っているんだな」
上杉はそう言い、佐智子は真理子の家を上杉が知っていることに驚いた。その様子に上杉は有名だからねと言った。
佳子の家は佐智子の家と近い場所にあり、長谷の古い神社のすぐそばにあった。
佳子の家は欧米の物語に出てくるような洋館とそれと対をなす明治時代のような和館が印象的で、佳子の家に初めて訪れた佐智子はその家を気に入り、散歩で目の前を通ったりして、時々、佳子の家に心を奪われながら見惚れていた。
そして佳子ともその神社へ続く道で別れ、佳子はその細い道を佐智子達に手を振りながら進んでいった。
「あの子はK先生の家のご近所さんか、あの家はこの前、先生の家を訪れた時に、目に入ったよ。なんだこれはって思ったね」
「私、よっちゃんの家が好きなんですよ。生まれ変わるんなら、あんな家で朝を迎えたいものです」
「僕は豊饒閣も立派だと思うけどね。むしろ日本人だからか、洋館よりも豊饒閣みたいな和風な建物が僕は好きだね」
「あの家には和館もありますよ。私は気分次第でどちらでも住めるのが羨ましくてしょうがないんです」
「ふうん」
上杉は感心したように言った。昔ながらの建物があり、それでいて洋風文化も取り入れる所がなんとも鎌倉を象徴する建築だと思い、豊饒閣と真理子の邸宅を混ぜ合わせるのを想像した。
そのまま県道を進み、県道の行き止まりの先の長谷寺に続く細い道を進み、二人はようやく豊饒閣へと到着した。
時間は十五時を過ぎ、まだまだ夕日は姿を見せなかった。
お出掛けも早い時間に帰ってきたように佐智子は思ったが、今は一刻も早く、家に入りたかった。
扉を開ける時、牧丘とすれ違った。
「おかえりなさい。おお、そちらの方は?」
「豊饒閣のお客様です。たまたま出掛けてる時に出会って、一緒に帰ってくる所でした」
「そう、それは偶然やね。お疲れのようやからゆっくり休んでな。そちらのお客さんも」
牧丘はまるで自分は客でないかのような言い方をしており、佐智子は自分の方が客のような気分を味わっていた。
「今の方は昨日、来られたお客様です。明日までいらっしゃるようで」
「そうなんだ。僕が、雨で帰れない時に来たんだな」
「毎年来られるそうです。私は初めてお会いしました」
上杉は牧丘に自分と似たような雰囲気を感じていた。恐らくはその楽観的な性格であるが、上杉は自分は楽観的であるもどこかに弱みを持ちそれを誰かに見せたくなる性格であるが、牧丘はその弱みを自分程は持ち合わせないように思えた。
上杉は牧丘とは話し合えばすぐに仲良くなるような気がした。彼も長く滞在するのなら今日の夜でも酒を飲み交わしたいという気持ちに襲われた。だが、仲良くなったところで明日には別れるのであるならば、やめておこうという自制が働いた。
「彼は小説家か何かなのかな?」
「さあ、どうでしょう」
佐智子は何故、上杉がこんな事を言ったのかはわからなかった。
・
その夜に佐智子は近所を少しだけ散歩していた。
散歩とはいうものの本来は髪をとかすために散歩をするのだった。
というのも、髪をとかしていると洗面台には髪がすぐに落ち、それを取って捨てるのが面倒だということ。そして時々、取って捨てることを忘れ、家族の者に怒られる。更に夏場は暑いせいで髪がベタつき、とかす所でなくなってしまう。そこで佐智子は外で髪をとかしていた。観光地であるが、鎌倉の夜は人がまず見えない。更に長谷寺付近は観光客は皆、旅館などに泊まり、外へ出ることも中々ないので、髪をとかしていても気づかれることはあまりないと思えた。夜風を浴びながらとかしていると汗をかくことはまずなく、それに落ちた髪を拾う必要もない。だが、それでも旅館の前でそんなことをするのはよくないと家族に怒られ、中庭でやろうとも思ったが、草だらけの中庭ではまず足の踏み場が見えず、蚊に刺されそうでもあるし、よくわからない虫もいそうであるので、敬遠した。
そこで近くを散歩しながら髪をとかすことにした。ただでさえ人通りもない道の更に細い道などを行けばまず人に会うことはない。それに会ったとしても櫛を隠せばいいわけであり、散歩と言い訳もできる。
佐智子は一度、由比ヶ浜まで海風を浴びようと行ったことがあったが、さすがに疲れて帰ってきて、それに懲りて、今は長谷から出ることなく、散歩もとい髪をとかし歩いた。
旅館の前でそんなことをするよりは全然、変ではないのでこれには家族は何も言わなかった。
確かに誰もいないとはいえ、誰も見ていないとは限らない。旅館の前でそんなことをしたら、変な噂が広まるだろうなと佐智子は時々散歩しながら思うのであった。
昨日はあのような嵐のせいで散歩はできなかったので、佐智子にとっては二日ぶりであった。
近所を一回りして、豊饒閣の前に着くと、上の方から声が聞こえ、見上げると上杉が手を振っていた。
「夜の散歩かい?」
「そんなところです」
「もう、今日の仕事は終わったんだろ?K先生の家からお土産貰ったから一緒に食べるかい?」
「はい、いただきます」
佐智子は玄関の扉を開けると、急いで二階へと上がり、上杉の部屋の扉を叩いた。
「お、早いな。女の子は甘いものには目がないんだな」
佐智子は上杉の皮肉のような言葉すら耳につかなかった。
上杉は酒を飲んでおり、顔は少し赤みがかっていた。
「先生が先日、京都に行った時のお土産と、その帰りに寄った箱根のお土産だ。たくさんもらったんだが、僕一人で食べきれないから、助かるよ」
上杉はそう言いながら、佐智子のポケットに櫛が入っているのを見てとった。
「ポケットには何が入ってるんだ?」
敢えて櫛とは言わずにいた。佐智子は狼狽した様子を見せながら、言いたくなさそうにしていた。
「散歩を兼ねて髪をとかしていました。夏は夜風が気持ちいいもので」
佐智子の言葉を上杉は笑わずに聞いていた。笑ってしまいそうであったが、そんなことをしたら佐智子を傷つけるのはわかっていた。
「女の子にしかわからないものだね。僕のようながさつな奴には到底、やりもしないことだ」
佐智子は上杉の言葉がお世辞だということには気づいていた。ただ、笑いもせずに聞いていたことは何よりも嬉しかった。
「なあ、これは決してお世辞じゃないぜ。僕は本当に心の底からそう思っているんだ。お嬢さん、君と、君の友人達を見ていて、清い心をとても感じたよ」
上杉は酒が回っているのか、江戸っ子のような口調になっていた。佐智子はふと、上杉の出身が気になった。
「上杉さんは、東京の生まれなんですか?」
「違う違う。僕は大阪だよ。それも船場という良いところさ」
その言葉が本当かどうか疑うくらいには、上杉には関西人のようなものは感じられなかった。佐智子はその言葉を信じることはなく、全ては酒に酔っているせいだと思った。
「お酌でもしましょうか?」
「いや、悪いよ。僕だってこれは明日に帰る大阪のお客さんから頂いたものだから、お酌されるのはちょっと頭が上がらないや」
そういえばと、佐智子は伯父が、今夜は大阪のお客と酒を飲み交わしているのを思い出した。あの人は上杉にもこんな気前よく、なんでも上がるのかと感心した。
「なあ、清い乙女さんよ。たくさん、お菓子を食べな。食べられなかったから持って帰ってもいいし、家族や友人にあげてもいいさ。今日、僕は君達と少ない時間だけど、一緒にいることができて、清々しくなったよ。ああ、僕もこの空間に混じっても良いのかと不安になるくらいにね」
「はあ」
上杉は段々と饒舌になっていった。それはまるで秋川勇蔵の文章であった。
窓は上杉が佐智子に話し掛けた時から開けっぱなしで、蒸し暑い風が時折、流れていたが、佐智子は気にもしなかった。




