嵐の一日と明けた朝
佐智子の額にニキビができたのに佐智子が気づいたのは佐智子が起きて顔を洗う時であった。
中学でも対してニキビに悩まされることのい彼女はその悩みに初めて直結した。
友人達の悩みに入らないことが密かな自慢であったが、この時にその自慢は崩れ去った。
その後、廊下を歩いていた時、上杉と顔を合わせてしまった。
「おはようございます」
囁くような声で言い、上杉には聞こえたのかどうかすら佐智子にはわからなかった。
「ああ」
上杉はそう言ったが、顔は眠そうであり、佐智子の言葉に返事をしたようには思えずにいた。
「眠そうですね」
「明け方まで仕事をしててね。もう寝ます」
上杉はそう言って佐智子の横を通り過ぎて行った。
佐智子の額のニキビには恐らく気づいてないと思われた。佐智子は上杉が眠そうなことに感謝をした。
その後、ニキビに気づかれないよう、外へ出て、散歩をした。
道は人は少ないが、同じように散歩をしている人、犬を連れている人などがいた。
豊饒閣の道を真っ直ぐに進めば、八幡宮へと続く参道に出れる。まだ暑くならないこの時間帯に一度お参りにでも行こうかと思ったが、やめた。
去年辺りの事である。佐智子はお盆の日に長谷に来た際、今日のように夏の朝に早起きをした。試しに道も真っ直ぐ進んで、その後は参道に沿って行けばいけるからと八幡宮に行ってみることにした。だが、まだ昼間のような暑さでなくとも、夏であるので、長谷からも歩くと遠い八幡宮まで歩くのは大変であった。
汗をかきながらなんとか、八幡宮まで行って、早々に戻ってきた佐智子はもう二度とこんな時期にこんな事はしないと決めたのであった。
そんな事があったので、今年は近くを散歩するだけであった。
高徳院の方まで行き、道の外から大仏様でも拝んで行こうと思った。
県道の方に出てそこから北へ進むと緩やかなカーブ沿いに高徳院が見え、そこを更に先に進むと、大仏様が木々の間からそのお顔を覗かせた。
そのお顔をなんとか見ようと右は左へ動きながら、佐智子はうろうろしていると、道の向こう側に、佐智子と同じように大仏様を見ようとしている様子の三人がいた。
家族のようで、佐智子は自分の姿が見られたかと思い、恥ずかしくなり、逃げるように少しずつそこを後にしようとした。
三人を見ながら離れようとした時、その一人に見覚えがあった。
いつもと違い、活動的な服を着ているので最初は気づかなかったが、その顔は友人の真理子であった。
佐智子は車が通らないことを確認して、道路を渡った。
家族水入らずの中、その中に話しかけていくのは勇気がいたが、せっかくではあるので、少しずつ、近づき、真理子に目を合わせようとした。
三人は近づいてくる佐智子に気づき、真理子以外の二人は不審に似た目を向けたが、真理子は佐智子に気がつくと
「さっちゃん」と声を掛けた。
「ああ、真理子ちゃん」
「どうしてこんな所に」
「早起きしたから散歩してたの」
佐智子はそう言うと、真理子の家族に目を向けた。真理子と同じくらいの背丈の女性と、佐智子よりも一頭分くらいある男性がいた。
恐らく、女性は真理子と顔立ちが似ているので母親であると思われた。男性の方はあまり顔は似てないが、真理子の話にも一度か二度出てきたことのある兄であると思われた。
「さっちゃん、母と兄です」
佐智子は二人に頭を下げた。二人も佐智子に笑みを浮かべ、小さく頭を下げた。
「大仏様見てたの?」
「そう、兄が、久し振りに鎌倉に帰って来たから、観光をしたいって朝から言い出して、今の時間だと何も見れないから、とりあえず、八幡宮に行って、その後、外から大仏様を見てたの」
佐智子は真理子の兄は落ち着いてるように見えて、意外と行動的なのだなと思った。
「私も同じことしてたよ。小さな縁起でも貰いたいなって」
「私はむしろ、盗み見るような事だから、バチでも当たるんじゃないかなって」
真理子がそう言うと、母が真理子を叱った。
佐智子はしばらく談笑し、真理子達が家に帰り別れた後、大仏様はなるべく見ないように努めた。
佐智子は自分を現金なものだと思ったが、これを伯父や伯母や祖母。ましてや上杉には絶対に言えない事だと思った。
佐智子はしょうがないと自分で思ってはいるが、豊饒閣に泊まる客にどうしても子供扱いを受ける事があった。
上杉などもそのような客の一人であり、あまりこのような笑い話になるようなことは客の前では控えるようにしていた。
暑さが強くなり始める前に佐智子は旅館へと戻った。
「お帰りさっちゃん」
祖母はそう言って、朝食を作る準備をした。
「おばあちゃん。私も手伝います」
佐智子はそう言って厨房に入ろうとしたが、祖母に止められた。
「今日は上杉先生だけでしょ?私一人で大丈夫」
祖母にそう言われ、佐智子は言われるがまま祖母の元を後にした。茶の間に行くと、伯父と伯母がおり、伯父は新聞を読んでいた。
「おお、さっちゃんおはよう。散歩行ってたんか?」
「はい、大仏様を外から見ようと」
「あまり見られないでしょ?」
「ええ、まあ」
佐智子は先程思ったことを隠すようにその話題にあまり触れないようにした。
「そういや今日から大阪から牧丘さんが来られるから。さっちゃんのことを紹介しておかなきゃ。人の良いお客様だから、さっちゃんにお小遣いなんかあげるかもしれないな」
伯父がそう言い、佐智子は伯父と伯母の顔をそれぞれ見ながら
「お客さんからお金はもらってもいいんですか?」
「いいよ。お客様が任意であげるから私達は止める権利はないからね。ちょっとしたボーナスみたいなものだね」
伯母の言葉に佐智子は顔を明るくした。
「だけど、あまりあげすぎないように言わないとね。牧丘さんそう言うことにはキリがないから」という伯母の言葉に佐智子は
「伯母さん。そう言うことは言わないでください」
佐智子の言葉に伯母は物事には限度があると軽く叱った。
大阪のお客は昼頃にやってきた。伯父、伯母、祖母は玄関の前に頭を下げに行き、佐智子はその間まで泊まる部屋の掃除をしていた。掃除を終え、廊下に出た辺りで階段を登る音が聞こえ、そこで、部屋を案内する伯父の後ろにそのお客は姿を表した。
「ああ、そうだ。牧丘様、この春からうちで働いている姪の佐智子です。お転婆な所がありますが、元気な子で不快な思いはさせない子です。よろしくお願い致します」
伯父の言葉に続いて、佐智子は頭を下げた。
「電話で言うてた子やな。よろしくお願いします。牧丘と申します。三日間お世話になります」
牧丘は佐智子に言って、笑みを向けた。牧丘のその笑みは嫌味のない優しさに込められたものであった。
茶の間に行くと、伯母が
「さっちゃん、牧丘さんにお会いした?」
「はい、先程」
「良い人だったでしょ?」
「はい、優しそうな人でしたね」
「そのうちお小遣いくれるはずよ。私達にまでくれるんだからね。流石に頂けないけれど、さっちゃんなら少しは貰って行っても良いと思うよ」
佐智子はお茶を出す際に頂けるだろうかと思っていた。
そしてそれは佐智子の予想通りで、お茶を出した際に牧丘からお小遣いをいただいた。
最初はお礼を言って喜んでいた佐智子だが、その日のうちに牧丘がどう言う人物かを知ることになった。
牧丘は佐智子が部屋に入った時でなくとも、廊下ですれ違ったりした際にもお小遣いを渡そうとした。
あまりにもそう言う事が多すぎて、佐智子も流石に遠慮をした。
「さっちゃんのことがかわいいんだろうね」と伯父は笑っていたが、伯父の方からも牧丘にやめていただけるよう言ってみることにした。
午前中は牧丘の事で、慌ただしく、佐智子も休んでいても休んでいる実感がなかった。
午後になると、午前程忙しくはなくなった。それと言うのも、昨日や一昨日のように上杉はこの時間帯に佐智子がいると何か用事を頼む事があるが、今日は午後には豊饒閣の近くにあるK先生のお宅へ挨拶をしに行くとのことで出掛けていた。
まだ数日しか滞在していないはずであるのに上杉がいないというのも寂しく感じた。
K先生と知り合いだという話は前にもしていたが、流石に日本を代表する小説家であるK先生と顔見知りというのはでまかせと思っていたが、まさか本当に知り合いだとは佐智子にとっては驚きであった。
だが、心の奥底では本当はK先生のお宅へ足を運んではいないのではないかとも思っていた。
佐智子がここまでそう思うのは上杉の普段からの佐智子に冗談のようなことを言っているからであり、佐智子自身は本当のようでもあり、嘘のようにも思っていた。
午後の仕事は伯父と伯母と祖母が行ってくれて、佐智子は学校の宿題に手をつけていた。
外の様子も見ずにただひたすらに勉学に向き合っていた結果、時間はすでに十六時を回っていた。
「もうこんな時間」と佐智子は言いながら窓を開けた。
晴れていたはずの空は曇り空に変わっており、雨が今にも降りそうな程であった。
それから数分した頃、窓の外から雨の音が響き渡った。
「雨だ!」
佐智子は急いで窓を閉め、廊下へ飛び出した。
空いている客室の窓を全て閉め、牧丘の部屋にも雨が降ってきたことを伝えた。
階段を行き来し、伯父と伯母の部屋、祖母の部屋にも行き窓を閉めた。
そうしたことで、汗ばみながら、茶の間へと向かった。
その途中の中庭を見ると、庭の草が緑色に冷たく輝いていた。
「さっちゃん、窓閉めてくれたのかい?ありがとう」
「ううん、大丈夫です。なんとか、部屋に雨粒が入り込む前に全て締め切りました」
そしていつの間にか、室内には蒸し暑さが入り込み、蒸し蒸ししたその原因が早く止まないかと佐智子は今か今かと待っていた。
少しして、雨は止みだしたが、祖母がまだ降りそうだと言い、部屋の窓は開けずに置いた。そして祖母の言葉通り、雨は再び降り始め、さらには先程よりも強く打ち付けるような雨へとなっていった。
「こりゃ台風だ」
伯父はそう言いながら、煙草を吸い始めた。煙草の煙は上に小さく上りバラけていった。
雨音が強くなり、屋根へ打ち付ける音は次第に大きくなり、佐智子のみならず、伯母も心配な様子を見せるようになった。伯父は何も言わず、佐智子達を宥めた。祖母は戦争でも生き残ったものでそんなやわじゃないと言っていた。
そのうちに雷までが響くようになった。夏の夕方は十九時になっても、夜のようにならずにいるが、空が雷雨であると、明るさは消え、夕方のように感じらはなかった。
しばらくして、電話が響き、伯父が電話に出た。佐智子はその様子を眺めていたが、伯父が誰と電話をしているのか密かに予想をした。
「上杉先生、今、K先生のお宅にいらっしゃるようだけど、近くにいるとはいえ、この雨や雷じゃとても帰れそうにないから、今夜は戻らないでK先生のお宅へ泊まるそうだ」
佐智子の予想はおおよそ当たりであった。しかし、佐智子は上杉にとってはむしろ喜ぶような状況であろうと思った。塞翁が馬とはこのことである。
果たして、上杉は明日、目の下にクマをつけて帰ってくるのかもしれないと佐智子は心の中で思いながら部屋の方へと向かった。
その途中、伯父と牧丘が廊下で話をしているのを見かけた。
「この雨じゃ、さすがに心配ですな」
「ええ、姪や妻の前では大丈夫などとは言いましたが、これは本当に潰れてしまうかもしれません」
「縁起でもないこと言わんでください。大丈夫ですよ。この雨も夜中には止むでしょう」
「土砂崩れでもなければいいですが」
「鎌倉でそんなことは聞いたことがないですから。それにきっと、大仏様が守ってくださるのではないですか?土砂を堰き止めてくれるんとちゃうですか?」
「それこそ縁起でもない」
「そうですな。でも、きっと大仏様を思っていれば、大丈夫やないでしょうか?長谷の観音様も近くにいらっしゃるから、この場所は心配なさることはありません」
従業員である伯父が客に宥められる様子を佐智子は隠れながら聞いていた。伯父も佐智子の前では落ち着いているが、やはり内心は心配で仕方ないのだなと思った。
その夜は結局、大仏様や観音様が守ってくれたおかげか何事も無く、朝を迎えることができた。日の出とともに佐智子は素早く起きると、家の外を出た。豊饒閣は昨日と全く同じ姿をしており、どこも損傷はしていなかった。道は泥だらけで歩きにくく、水たまりに気をつけながら、佐智子は旅館へと戻っていった。
「おはようございます。伯父さん」
「さっちゃんおはよう」
伯父は昨日、牧丘に見せた姿とは違い、佐智子の前では生き生きとした様子を見せていた。
「外へ出て、建物を見たんですが、特に壊れている場所はありませんでした」
「そりゃそうだよ。だから、安心してって言ったじゃないか」
伯父は笑っていたが、佐智子にはその笑みに不安が隠れているのを知っていた。だが、確かにその笑みからは不安は見えなかった。商売上手な伯父は真面目な太刀であるのだ。
そして午前のうちに豊饒閣に上杉が帰ってきた。
「ただいま戻りました」
「ああ、上杉先生。おかえりで」
「昨夜はすみませんでした。近いのに、あの嵐の中では飛ばされてしまうので」
「いえ、ご無事であるならば。ここらはあまり被害らしい被害は聞かないようで、最も、由比ヶ浜や雪ノ下辺りはまだどんなものかは検討もつかないのですが」
上杉は伯父と話しながら部屋に戻っていった。そしてしばらくして佐智子が恋しくなったのか、部屋を出て、玄関の電話室の前にある椅子に座りながら、一服していた。
玄関からは外が伺え、上杉には気づかずに、皆、長谷寺へ向かう者と帰るものが交差していた。
今思えば、呼び鈴を鳴らせばいいとも思ったが、ただ、我儘に付き合わすのは悪い気がして、偶然を装いたかった。
そこへ、佐智子の祖母が目の前を通っていった。
「上杉先生、どうなされました?」
「いえ、雨も止み帰ってきてゆっくりしていたところです」
「そうですか。さっちゃんでも呼んできましょうか?。今は、茶の間で休んでいますし」
「いや、大丈夫です。彼女をわざわざ呼んで嫌われてしまいたくはないですし」
祖母はそう言うと、そとへ出掛けて言った。
「どこへ行かれるんですか?」
「力餅家へ、お盆になりますし、旅館に泊まられるお客様も増えるので」
上杉は豊饒閣に訪れた時に食べた饅頭のことを思い出した。
「そうですか。暑いので気をつけてください」
祖母は一礼をし、扉を開けて出掛けていった。
扉が開いた瞬間に来た暑い風によって汗をかき、上杉は涼しい場所を求めようと思った。
部屋に戻ろうとした際に、ついにと言うべきか、佐智子と鉢合わせをした。
「お嬢さん」
「上杉さん、帰られたんですね」
「昨夜は皆さんにご迷惑をお掛けしたね。申し訳ない」
「いえ、あの嵐はここも潰れるかと思うくらいでしたから」
「僕もそう思ったよ。K先生のお宅は大正からあるからね」
上杉は佐智子がおめかしをしているのにふと気がついた。
「どこかへ行かれるの?」
「友人と遊びに」
男かと上杉は思ったが、言葉には出さないでおいた。
「楽しんでいらっしゃい」
「はい、ありがとうございます」
佐智子が外へ出掛けてしばらくし、上杉も雪ノ下にいる仲の良い人達に顔を見せに行こうかと思い、出掛けることにした。
雪ノ下には涼しい季節であるならば、歩いて行くのであろうが、暑い季節だと、電車で行った方がいいと思い、江ノ電に乗ることにした。
外へ出掛ける際に、旅館の主人と会い
「これから雪ノ下の方へ行ってきます。今夜は夜には帰って来ますので」
「行ってらっしゃいませ」
玄関へ出ると、どうやら豊饒閣を利用する予定の客がおり、その人達に一つ頭を下げ、主人を呼びに行った。
主人と共に玄関に出ると、客に頭を下げる主人を横目に外へ出た。
観光客達の間をすり抜けながら、長谷駅に向かい、電車の時間がもうすぐなので駆け足で改札を通った。
電車が来て、足を踏み入れた。走り出すと次第に目の前には海岸の景色が見え、そういえば鎌倉に来たのにまともに海を見ていないことに気がつき、少しだけ恥じた。
学生と親子、サラリーマンがおり、自分の存在は異質であるように思えた。




