午後
学校は終業式のため、半日で佐智子は帰ってきた。
早く帰って来たはいいが、この時間に佐智子にできる仕事はなく、荷物を部屋に置くと、佐智子は上杉の部屋に行った。
「上杉さん」
「ああ、お嬢さんか」
扉越しに上杉の声が聞こえてきた。
「今、入っても大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
佐智子は扉を開け、上杉に頭を下げた。
「今日は学校は随分と早く終わったんだな」
「もう夏休みですので」
「そうか、てっきり学校から逃げ出したのかと」
「そんな事ないですよ」
佐智子はそう言って笑っていた。上杉も佐智子に釣られて笑い出した。
「夏休みか、僕に取っては一年中夏休みみたいなものだ」
「まあ、冬でも夏休みなんですか?」
「ああ、梅雨の時期に僕は高校をやめたからね。そこからずっと夏休みが死ぬで続くんだろう」
「羨ましいです」
「僕も学生の頃はそんな風に思っていたんだけどね。大人になってみると、お嬢さん達が美しく輝いてるんだよ。儚い日々だよ学生なんて。もう一度戻りたいとはたまには思うんだ」
上杉の目の中には儚い思い出が今でも輝いて見えるのだろうか。
「でも、きっと僕は不良のような人間だったから、再び、学生になっても同じことを繰り返すだろうね」
「私が一緒にいたら、そうはさせないですよ」
「僕とお嬢さんじゃ、住む世界が違うから、同じ学校でも関わることはないだろ?」
「それは....確かにそうかもしれないですね」
二人は黙り込んだ。外の道からの声がよく聞こえる程であった。
安らかな空間とでも言った場所にいるせいか、上杉に対する安堵に似たような感情が佐智子は次第に強くなるのを感じた。
佐智子は上杉の手元に気がつき
「煙草を吸われるんですか?」
「ああ、人並みにね。一日一箱ってところかな」
「そんなに」
佐智子の身近な人で煙草を吸っているのが、伯父のみなので、伯父よりも吸っていることに佐智子は驚いた。
「やめようとは何度も思うんだけれどね。甘い誘惑があるんだよ。僕は自分に甘くて弱い節があるから、つい吸ってしまうんだよ」
「吸ってみるかい?」
「いえ、やめておきます」
「そうした方がいいよ。僕もそう思う。どうも煙草を吸う女性は厳しい人が多くてね。男は逆で弱い人が多い。この世の真理さ。うまくできているんだな」
「はあ」
「お嬢さんが煙草を吸う姿は想像ができないな」
上杉はそう言って笑っていた。
「私も大人になったら吸うかもしれませんよ」
「もし、煙草を吸おうものなら僕は全力で止めるね」
上杉の言葉に佐智子は大人になってもこの縁は続くのかもしれないと思った。
「上杉さんは吸うのに」
「だからだよ。煙草の悪い所を知っているからね。僕のようになってはいけない清く生きなさい」
上杉は窓を開けて、そこから顔を出した。
「ちょいと」
上杉は佐智子を手招きした。佐智子は上杉の横に行き、上杉と同様に窓から顔を出した。
「あそこの寺の紫陽花って僕は見たことがないんだ。どんなものなのかい?」
上杉にそう言われたが、佐智子も長谷寺の紫陽花は思い出せる程見てはいなかった。
「綺麗だったとしか言えませんね。私も随分前に見たっきりなので、昔家族と行った時に何度か」
「そう、見られるとしたら来年か。またここに来ようか」
佐智子の記憶の中では紫色に輝いていた紫陽花があり、白く暗い雨雲を背景に少し暗みのあるその花が光り輝くとまではいかないものの、明るいだけではない輝きを放っていた。そんな朧げな記憶を思うと、紫陽花そのものがまず朧げに思い出してきた。
来年にまた行こうと言う上杉に佐智子はやんわりとした笑顔を向けた。自分が家族と過ごした思い出を共有することはできないが、こうして上杉が無意識のうちに記憶に触れて来ることに安らぎに似たものが込み上げてきていた。
風は午後の風へと変わっていった。二人は窓を閉め、目の前の道を歩く人々を横目にした。
暑い風に髪が靡くと、佐智子はその短い髪をポケットに入れておいたゴムで結んだ。
上杉は机に頬杖をつき、髪を結ぶ様子を眺めていた。
「どうかしました?」
その視線に気づいた佐智子は結び終えると、上杉にそう言った。
「いや、なんというか、神秘的だなと」
上杉は佐智子から女の子らしさを感じたが、その事を言うと、佐智子に失礼を与えてしまうので、会えて抽象的な事を言って誤魔化した。佐智子はその言葉を小説家故の言葉だなと思い感心した。
佐智子は神秘的とはどういうものかと思い考えていた。佐智子の思う神秘的は本当の意味の神秘的ではないのかもしれないと彼女は結論づけた。
しかし、上杉はさすが小説家であると佐智子は感心していた。こうなると上杉の一挙一動が佐智子に取っては意味のある高貴な行動になっていきそうであった。
上杉はそれを悟ると、迂闊なことはできないと思い、佐智子に対して妙な緊張が走るようになった。
佐智子はそんなことも知らずに上杉を見ており、その純粋な瞳はいつか失われていくのかもしれないと上杉は思った。
「お嬢さん。今夜、鰻でも食べに行くかい?」
「いいですね。行きたいです」
「ここの近くには良い鰻屋があってな。昔、仲間と行ったことがあるんだ」
・
夕方十八時頃に、佐智子は玄関にある椅子に座って上杉を待っていた。
白色のワンピースを着て、鞄を持ち、その中には財布と秋川勇蔵の本が入っていた。
その本を手に持ち、読み進めていくと、場所と時間を忘れて数十頁程読んでいた。手を止めたのは上杉に声を掛けられてであった。
「お嬢さん。行くよ」
「はい」
上杉は帽子を被り、白いシャツに黒いズボンを着て、いつもとは違う清潔感があり、しっかりとした身なりであった。
「全く、どこでそんな本を買ったんだ?」
「今日の学校の帰りです。古本屋に行きました。雪ノ下の方にあるんです」
「よくあったね。古本屋に出回るような本じゃないけど」
上杉の皮肉に佐智子は気づかなかった。何を言おうか迷っている表情をし、上杉は彼女の真っ直ぐな心を感じ、自分を情けないと思った。
「先生の本、面白いですよ。読みやすくて」
「どうも」
佐智子の言葉は決して皮肉ではなくとも心には引っかかった。だが、むしろ佐智子のような少女から好評なのは誇らしくもあった。自分は純文学を書いているが、いっそのこと、大衆文学へでも転向をしようかと思うほどであった。
旅館を出ると街灯や家々に電気がつき始めていた。
鰻屋は目の前にあり、上杉でなくとも夕飯の出ない豊饒閣の客は鰻屋で夕飯を食べに行くのも珍しくなかった。
鰻屋に入り、席に通されると、上杉はすぐに注文をした。
その間に鰻屋の女将は二人の元に来て
「さっちゃん、この方はどなた?」
「うちのお客様です」
「恋人とか来たのかと思ったわ」
「違いますよ」
女将はそう笑いながらまた別の場所に行った。
「ここの常連なの?」
「いえ、店に入るのは春に初めて行って、それ以来ですね。でも、旅館が目の前なので、顔見知りなんです」
「なるほどね」
旅館周辺の人々はみんな佐智子と顔見知りらしい。佐智子のような女の子はみんな可愛がるのだろうと上杉は思った。
「どうして、急に鰻を食べに行こうって言ったんですか?」
「お嬢さんの言った言葉を小説に使わせてもらっただろ?そのお礼さ」
「それだけで、鰻なんて高級なもの」
「お嬢さんが読んでる本が今までにないくらい売れたんだよ。売れっ子作家にはなれてないけれどね。だから、お金はあるんだよ」
上杉はそう言って水を一口飲んだ。唇は冷たさが伝わった。
「今、書いている小説は運命の別れ道って訳なんですか?」
「そうだね。次のが評価を得ないと僕は一発屋で終わってしまうよ。でも、どうだか、連載をしていて、今の所は良い評価ももらっていれば、悪い評価ももらっているからね。何が正しいのかはわからないよ」
佐智子は上杉の言葉の中に隠しきれない不安を読み取った。それは上杉が今、手にしている煙草を持つ手の震えからも見てとれた。
「煙草吸ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
上杉は煙草を吸うと幾分か落ち着いた様子を見せた。
「つまりだね。僕は今、人生の狭間にいるって訳さ。本当は不安でしょうがないんだけど、だが、いつも通りの生活をしなければ僕はきっと廃人になってしまう。自分を保ちながら作品を作るのは想像よりも大変なんだな。そのことに耐え切れずに死に至った人も知ってる。彼ら彼女らは弱虫ではなく、押し潰されただけだ。待ってるのは死とだけ思ってはいけないんだな」
時折、上杉の額には汗が流れ、その事が上杉の焦りや不安を表しているようだった。
佐智子は上杉の話をその後も聞き入りながら耳に入れていた。
上杉の心の中を聞くだけでなく、人生の話を聞いているようなのであった。
鰻を食べていても佐智子は時に上杉の様子を見ていた。何故だか、上杉は上杉自身が言った死に行く人達に似ているように思えたのだ。
佐智子は自分の勘があたらないように祈っていた。
店を出ると、旅館を目の前にして、二人はふと、長谷寺の方を見た。外はもう暗くなっているが、暑さは夕方からあまり変わらないように思えた。
賑やかさは街中の方へ行き、鰻屋や旅館の光が眩しいくらいに光っていた。
「ここから僕の部屋が見える。電気がついていたら高蘭がよく見えるんだろうな。僕は豊饒閣に来て、まずこの高蘭が目に入ったんだ。それを見て豊饒閣を気に入ってここで滞在する事を決めた。昨日の夜は目が覚めた時に、部屋越しから高蘭をじっと見たりしていたよ」
「私がここに来た時、おばあちゃんが高蘭を自慢していました。ただ私は美しさがよくわからないですが、物珍しさはあるからそれが素晴らしいものなのだろうなとは思いました」
「まだ若い子にはわからないだろうね。僕だって、昔、京都に行った時によく素晴らしさがわからなくて、一緒にいた先生にこの戦前建築の良さを教えてもらったんだ。戦後に残ることの貴重さとそれが醸し出す美しさ。そして目に見て感じる品の良い美だね」
上杉はそう言って、旅館へと戻り、扉を開けた。すぐには入らず先に佐智子を中へ入れた。
中へ入ると玄関についている電話室で伯父が受話器を取っていた。
伯父は二人に気づいた後、しばらくして電話を終えた。
「ああ、上杉先生。お帰りで。さっちゃん明日から少し忙しくなるぞ」
「お客さんですか?」
「そう、毎年、大阪からいらっしゃっている馴染みのお客様が今年も二泊三日で来るそうだ。きっとさっちゃんを見て、娘がいたのかって冗談を言うだろうな」
二人は伯父の嬉しそうな様子を見て、友人に会うかのように思えた。
「忙しくなりそうだね」
「そうですね」
佐智子は上杉の中にある不安な事を少しの間忘れていた。




