お転婆娘
学校の帰り道、佐智子は友人の真理子と帰っていた。
真理子の家は、扇ヶ谷に家を構える女の子で、裕福な家柄であるが、佐智子がそのことを知ったのは最近であった。
「夏休みはどこかへ行くの?」
「ええ、軽井沢へ毎年、行ってるけれど。佐智子ちゃんはどこかへ行くの?」
「私は家の手伝いがあるから難しいな。お盆には実家に帰るかもしれないけれど」
「夏休み、一緒に遊びましょうよ。よっちゃんや真砂子ちゃんも誘って」
「いいね。楽しみ」
佐智子は自転車を漕ぎながら、真理子と歩いていたが、家の近くになると、真理子は長谷駅から電車に乗って帰っていった。
佐智子は夏休みのことを思うと楽しみでしょうがなかった。
何も遠いところへ行く必要はなく、鎌倉で海にでも行ければいいのだと思っていた。
家に帰り、裏口から家に入ると、佐智子は茶の間へ行った。
「ああ、さっちゃん」
祖母に声を掛けられた佐智子はその方を向いた。
「今さっき、お客様がいらっしゃってね。しばらく滞在してくださるそうで、うちとしては助かる方が来たからお茶でももてなそうかと思ってたんだけど、さっちゃん、行ってくれないかい?私よりも若い子の方が見てくれも良いから美味しい茶が飲めるんじゃないかな」
「そんなことないよ。私よりもおばあちゃんの方がお茶淹れるのはうまいよ」
佐智子はそうは言ったが、結局は祖母に言われ、客の元に茶を出しに行くことにした。
祖母は円覚寺の茶会にも顔を出していた事もあり、茶道にはそれなりに手ができた。
階段を登り、表の道に面した部屋の扉を叩いた。しばらくして扉を開け
「お茶を淹れに参りました」というとそこにいたのは背の高い、少し不精な男であった。
年齢は伯父や伯母に比べると若いのは明白だが、恐らく三十代と思われた。
ただ、三十前半というと老けて見え、三十後半というと若く見えた。
三十五くらいかしらと佐智子は思いながら、手に持っていた。茶の道具で茶を立てた。
祖母に一通り、教えてもらい、一度は祖母と共に茶会にも顔を出したが、息のつまりそうな空間の中で佐智子は二度と足を踏み入れることはないのだろうと思った。
今はも茶を立てていて、息がつまりそうであった。何分、正座をして、足が痺れていたのである。
それでもなんとか、茶を立て終え、客に出すと、客は茶碗を手に取り、一飲みをし、少し間を空けると全て飲み干した。
何も言わずに茶碗を手元から離したので、佐智子は疑問に思いながらもその茶碗を手に取り、立ち上がった。
痺れる足を我慢し、少しだけ、足を伸ばすと部屋を後にしようとした。
「ちょっと待ちなさい」と客は佐智子を呼び止めた。
佐智子は立ち止まり、客の方を向いた。
客は持っていた荷物の中から徐に何かを取り出そうと手を中に入れていた。
「お茶の礼だよ。受け取りな」
客はそう言って、カステラを佐智子に渡した。
「ありがとうございます」
佐智子はそう言うと、カステラを手に持ちながら部屋を後にした。
・
その夜に、佐智子は伯母から今日から滞在する客に関する話を聞いた。
夜の二十二時を過ぎた頃であった。お風呂掃除を終え、佐智子も風呂を済ました後、茶の間で伯母だけが、本を読んで起きていた。
「伯母さん、まだ起きてたの?」
「さっちゃんがまだ頑張ってたからね。おばあちゃんと伯父さんはもう寝たけどね」
伯母は佐智子に茶を出した。
「ありがとうございます」
「さっちゃんも今日、お客様にお茶をお出ししたんだってね」
「私はおばあちゃん程、うまくは淹れられないけれど、頑張ったよ」
「そうそう、そのお客様ね。どうも物書きらしいの」
「物書き?」
「つまり小説家。秋川勇蔵って名前で本を出しているらしいのよ」
伯母はそう言ったが、佐智子はその名を聞いたことはなかった。
「私はその名前は知らないや」
「私も知らないけれど、小説家がここを利用しているのって凄くないかしら?」
「まあ、そうだね」
佐智子は伯母とそう話していたが、この旅館は長く営業しているので小説家が滞在する事も珍しくはなかった。だが、それでも、話に聞くことはあっても現在、そう言ったことが起こっているのは佐智子にとっては面白いことであった。
・
翌日に旅館の掃除と朝食を祖母と作ると、客の部屋に朝食を持って行った。
「秋川様、朝食の方を持って参りました」
佐智子はそう言って、扉を開け、机の上に朝食を置いた。
客の方を向くと、客は佐智子をじっと見つめていた。
男性に見つめられ、佐智子は何か粗相をしたかと思いながらも、また違う事も考え、顔を赤くした。
「僕は秋川じゃないよ。それは小説家としての名前だから」
佐智子はこの言葉を聞き、顔を真っ青にした。佐智子は秋川を本名だと思っていた。しかし、よく考えれば秋川はペンネームであるはずなのである。客の名前をしっかりと把握していない事に佐智子は自分を責めた。
客の名前を聞いておけばよかったと佐智子は思うと同時に失礼をした事に怯えていた。
「失礼しました。その....」
佐智子は客の名前を言おうと思ったが、本名を知らず、言葉を出せなかった。
「僕は上杉と言います」
「はあ、上杉様。失礼しました。申し訳ございません」
佐智子は慌てた様子で言いながら頭を下げた。
「いえ、僕も時々、自分が秋川だって誤解するから大丈夫だよ」
上杉はそう言って、笑っていた。佐智子はその場を逃げたい気持ちで後にしようと思い、立ち上がったが、足の痺れで少しだけよろけてしまった。転ぶことはなかったが、その様子を見た上杉は小さく笑っていた。
「君は昨日も足が痺れていたよね?」
「....はい」
佐智子は恥ずかしくなり、顔を上げることができなかった。昨日の事も上杉には見破られていたのだ。
「お転婆さんのようで、結構。若い子はそうでなくちゃいけない」
佐智子は何かそれとない事を言ったが、何を言ったか、思い出せない程で、そのまま部屋を出て行った。
上杉に恥ずかしい気持ちも持ったが、それと同時に馬鹿にされているような怒りにも似た気持ちもあった。
・
そんなことがあってか、佐智子はなんとなく上杉を敬遠するようになっていた。
朝食を持って行くのも、躊躇い、他の家族が持って行くようになった。
伯母曰く、上杉は佐智子の事を気に入っており、佐智子の色々な話を聞きたがるそうである。
佐智子はそれが恥ずかしく、他の客の元には行くが、上杉の元には行こうとはしなかった。
だが、狭い旅館であるので、長く滞在する予定の上杉と顔を合わせないことは不可能で、ある時に、佐智子は上杉と鉢合わせをしてしまった。
「あら、お転婆さん」
上杉はそう言い、佐智子に頭を下げた。
「あの、お転婆さんって言って揶揄うの恥ずかしいのでやめてください」
佐智子は感情に任せ、上杉にそう言った。
「揶揄ってなんかないよ。僕にとっては褒め言葉だ。可愛いと言っているのと同じだ」
「女の子にとっては可愛いって言葉も大人から言われるのは揶揄われているのと同じです」
この言葉に上杉は面を喰らったようで、その顔付きは次第に笑みへと変わっていった。
「女の子ってよくわからんな」
「迷路のようって言いたいんですか?」
上杉は佐智子を見つめた。
「良い表現だ」
上杉はそう言って部屋へと戻っていった。佐智子は上杉に不快な思いを持った。
・
その日の十九時頃、祖母から上杉からの呼び出しがあったと言われ、佐智子は浮かない気持ちで上杉の部屋まで歩いていった。
「お呼びでしょうか?」
「ああ、入ってくれたまえ」
上杉のきざな言葉に少しばかりの苛立ちを持ちながら佐智子は扉を開けた。
上杉は机に向かって小説と思われる原稿を書いており、その机には他にお菓子などが置いてあった。
「昼間はすまなかったね。どうも女性とお付き合いが長い事なかったもので、女性の気持ちがわからない時があるんだ。これはお詫びですよ。もらっていってください」
佐智子は警戒心を解かないまでも、上杉の用意したお菓子は手に取った。そして、上杉もわざとやった訳ではない事を知り、許す気持ちを持った。
「はあ、どうも」
佐智子はお菓子を手に持ちながら、上杉の書く、原稿に目をやった。
「これが気になる?」
上杉の言葉に佐智子は頷いた。
「少しくらいなら見てもいいよ。だけど、他言は無用で」
「はい」
佐智子は話の内容もわからないまま読み進めた。文章が難しく、同じ箇所を何度も読み直し、頭の中で光景を構築していきながらなんとか、理解して読んでいた。
読み終えると、佐智子は一呼吸をして、原稿を机に置いた。
「難しかったろ?」
佐智子は上杉に図星をつかれ、これから上杉に言おうとしていた言葉が頭の中から消えてしまった。
「はい」
小さい声で申し訳なさそうに佐智子は言った。
「いいんだよ。僕だって、何度も何度も頭の中で捻り出した文章表現だからね。読みにくいって言われるのが、小説家としては嬉しいのさ」
佐智子は上杉を変わり者だと思った。だが、それと同時にそう言って笑っている上杉に不思議と嫌悪感は無くなっていた。
「うちにはどのくらい滞在するつもりなんですか?」
「この作品が完成するまでかな。一応、ここの近くの先生達に挨拶もあるから、まだいさせていただくけど。ご迷惑をお掛けします」
「いえ、うちとしてはありがたい限りです」
鎌倉には沢山の小説家がおり、鎌倉文庫などと言う貸本屋を小説家同士で戦時中から戦後まで行っていた事もある。
長谷にもK先生やY先生といった著名な小説家が家を構えており、特にY先生の作品は佐智子も熟読していた事もあり、街中でY先生を見かけると声こそ掛けないものの、いつまでも目で追っていたりしていた。
「ここはK先生の自宅がすぐ近くにあるんだよ。先生は自宅に僕を泊らせようとしたけれど、さすがにそれは迷惑になるから、近くに泊まるところがあればそこで泊らさせて頂こうかなって。ちょうどここが良い場所に立っていたんだ」
「うちも昔はS先生やY先生が長く滞在されていたらしいです」
「へえ、そうなんだ。それは凄いね。僕なんか足元にも及ばないくらいの文豪じゃないか」
そんな事を言う上杉を見て、佐智子はこの人も謙遜をするのだなと感心をしていた。
上杉はふと、窓から外の景色を眺めた。佐智子は上杉の目の先を追った。人々が行き交う景色があり
「風情だね」と上杉は言ったが、佐智子にはその言葉の真意は分かりかねたようで
「はあ」とだけ言うしかできなかった。
やはり小説家というのは普通の人と感性が違うのだと佐智子は思ったが、それがまた佐智子の好奇心をくすぐった。
上杉は佐智子の様子を見て、その場から目を離した。
辺りはまだ明かりがついていないが、部屋の電気は夕方辺りからついていたようである。
そのせいか、外が暗いように思え、夜になったかと佐智子は錯覚してしまった。
「お嬢さん」
佐智子は一瞬、自分のことを言っているとは思わなかった。ただ、お嬢さんが自分のことを言っていると気づいた時、それは嬉しさと恥ずかしさの入り混じった感情に飲み込まれた。
「君が昨日、僕の女の子がわからないということに迷路のようって言った言葉。あれは僕の頭から離れずにいて、随分と気に入ってしまったようなんだ。僕の小説でもその表現を書いてもいいかな?」
「私の許可はいらないのでは?」
「いや、君がオリジナルだ。僕はただの模倣だよ。許可してくれるかい?」
「私は気にしませんけれど」
上杉はそのまま何も言わなかったが、その顔つきは嬉しそうであった。佐智子も佐智子で自分が認められたような心持ちになっていた。
佐智子は自分の表情はだいぶ緩くなっているのを感じていた。その顔はとても上杉には見せることのできないものであったと佐智子は思っていた。
佐智子は上杉の部屋を出ると、その話をすぐに伯父に話した。
「へえ、それは凄いじゃないか。さっちゃんには文学の才能があるのかもしれないね」
伯父はそんな事を言っており、佐智子は伯父の言う事は流石に馬鹿げていると思った。
「偶然だよ。私にそんな才能はない思う」
だが、それでも嬉しかったのは事実であった。
豊饒閣は夕飯は出さないので、佐智子の仕事は客の入浴後の掃除くらいだけであった。
夜はいつもは勉強をしたり本を読んだりしていた。だが、今日はとても本などは読む気になれなかった。
「さっちゃん、外に出てみるかい」
「はい」
佐智子と伯父は伯母と祖母と誘って旅館の前に出てみた。
もうこの時間になると長谷寺も入れないので、人通りは全くなかった。
夏の十九時であるが、まだ冬の十六時のように思えた。
夏の風が吹き、夜はまだ遠くの方でしか顔を出していなかった。
「まだ夕方のようだね」
佐智子はそう言って三人を見た。三人は佐智子を子供のように見ているような気がした。




