はじまり
植竹喜久子は介護施設で仕事していた。
介護の仕事は大変だけどやりがいがあると思っていた。
確かに給料は安いけど、お金以外に得られるものがあると信じて仕事をしてきたのである。
仕事はお世辞にも楽ではなかった。
いつもコールを何度も鳴らす爺さんがいて、どんなに急いで言っても必ずクレームをつけられる。
そして元気で歩けるはずなのに、車いすに乗りたがる。なぜかというと女性に抱きつきたいからだ。彼のセクハラに対して施設は何もしてくれない。
『大丈夫よ。そんなん気にしない』
ユニットの主任でもある50歳近くの女性はそんなことを言っていた。
逆らうことは許されない。
彼女が『大丈夫』と言えば『大丈夫』なのだ。
精神的に不安定な婆さんが突然暴れだして、何度もひどく顔を殴られた若い職員が泣きながら辞表を持ってきたときも彼女は一言『なんでそんなことで辞めるわけ? あんた向いてないわ』だけだった。
おかしい。
何かがおかしい。
そう思っても喜久子には何もできなかった。
なぜ?
だって施設にいるのは問題のある高齢者ばかりじゃないから。
とても立派な高齢者がそのほとんど。
彼らの世話をさせてもらいながら共に過ごす時間は喜久子にとってはかけがえのない財産だった。
それは給料というお金では得られないものだった。
そしてそんな彼らを喜久子は見捨てることはできなかった。
無茶苦茶な人がいてもそれは自分が我慢すればいいことだと思っていた。
『コール、鳴ってるわよ』
『はい』
主任は偉そうなことは言うが問題のある高齢者の介護からは明らかに逃げている。
彼女はあの爺さんに胸を触られたこともないし、あの婆さんに殴られたこともない。
『お待たせしてすみませんね。どうしましたか?』
喜久子は笑顔を作って言った。
『車いすに移動させてほしい』
『ご自身で歩かないと歩けなくなっちゃいますよ』
『いいから言われたことやってくれよ。今日は調子が悪いんだ』
『分かりました』
喜久子は言われた通りにすることにした。
車いすをベッドの近くに寄せて、爺さんを抱えた。
はっきり手が胸に行っているのが分かる。
ああ……
嫌だ。
あたしは何やっているのだろう……
思わずため息が出そうになるのを我慢した。