夏の温泉
山奥で道に迷ってしまい、歩き続けていると、温泉を見つけた。
温泉といっても、岩に囲まれて湯船のようになっている窪みに源泉が沸き出しているだけの、天然の温泉だ。
既に3人の先客が湯の中に浸かっていたが、私は汗を流したい気持ちに、迷わず服をすべて脱ぎ捨てると、湯船の中にお邪魔した。
夏の温泉もいいものだ。
3人の先客は私が入ってくるのを見ると緊張したように身をこわばらせた。
私も彼らのことが怖くはあったが、温泉の中では襲ってはくるまいと、気にしないことにした。
先客は2人が猿、1人が大きな熊だった。
私達は適度な距離を取り合って、あまり広くはない湯船の中で黙ってじっとしていた。
湯はぬるめで、吹く風が顔をくすぐり、思わず至福の溜め息が漏れる。
私が顔を洗うため、ばしゃりと湯の音を立てると、熊が怯えるように肩を震わせた。
猿達は寄り添い合い、じっと私と目を合わせないようにしている。
緑色の落ち葉がはらはらと落ちてきて、熊の頭にすとんと乗った。
取ってあげたかったけど、危害を加えられると勘違いした熊が私に何をするかわからなかったので、そのままにした。
盆休み、何をしたらいいのかわからず、こんな山奥まで歩いて来てしまった。
仕事人間の私は、休みの日になると何をしたらいいのかわからない。
有り余る時間を潰すためには歩くしかないと思ったのだ。帰り道もわからなくなるほどの、何もない山の中を。
来てよかったと初めて思えた。
言葉は交わせないし、二度と会うこともないだろうが、友達が3人も出来た。
言葉もなく、ただじっと適度な距離を取って、湯船に肩を並べているだけだが、私は3人と固く友情で結ばれているような気持ちになれたのだ。
大きな鹿が、立派な角を揺らしてやって来た。
私達4人はそれを、力の抜けた表情でぼやっと迎えた。
さすがに彼が入れるスペースはない。
鹿は、私達を警戒しながらも、残念そうにうなだれて、目つきで入りたいのをアピールしている。
一番スペースを占有していた熊が立ち上がり、全身から湯気を立ち昇らせながら、森の中へ消えて行った。葉っぱは頭に乗ったままだった。
それでもまだスペースが足りなかった。
熊の次に大きな私が立ち上がり、湯船を出た。
タオルで身体を拭き、服を着ながら彼らを見ると、猿はのぼせたように、赤い顔をさらに真っ赤にしており、鹿は優美な入浴姿を見せてくれていた。
ここには言葉がない。
それが心地よかった。
一言も発することなく、私は夏の温泉を後にした。
さて、無事に人間のところに帰れるだろうか?
そんな不安も、今のところはすっかりと、心から消し飛んでいた。